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Species-フラグメンツ- / Sugito Tatsuki






語られぬ話、
封じられた記憶、
記録されなかった言葉、
表層に浮かんでは深遠へ融ける、
その螺旋に刻み込まれた歴史だけが証で、
拾い集めた断片(フラグメンツ)が形成して
枝葉を伸ばすフラクタルの、
これはささやかな末端だ。



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細い腕が、空間をかいていた。
頼りない、子どもの腕だ。ひどく痩せて細い。色は白色で、ぼんやり発光しているかのように、闇の内にあった。
腕は、何かを探し求めるようだった。あちこちへ脈絡なく伸ばされては、抵抗を得ずに空をかく。指が曲がって、何かを掴もうと求めて投げ出される。 そうかと思えば、まとわりつくものを強く振り払うように空を切る。
がむしゃらに不規則に腕は動いていたが、びくりと痙攣すると、そのまま、くたりと力を失って闇へと沈んでいった。

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深い眠りから意識を浮上したソルジャー・ブルーは、虚ろに開いた目で、柔らかな乳白光を放つ天蓋を見つめた。
緩慢な動作で左腕を掛け布の下から引き出して、目前にかざす。 長手袋に護られて直には見て取れない、その腕は、しかし、それゆえに陽光を忌諱する色素の欠落した皮膚を、今なお、かつてと変わらず備えていることを証しする。
矢張りか細く頼りない、常に何かしらの保護を必要とする己の指を、忌々しげな表情を隠しもせずに見遣ると、ブルーは無造作に腕を投げ出し、そして再び瞼を下ろした。

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「ほら、見ろよ。目を覚ました」

透明の防壁に囲まれた巨大なケースの中で、観察対象はゆっくりとその身体を動かしたところだった。
のろのろと伸ばされた腕が床面に手をつき、力が込められる。 骨格の明瞭に見て取れる腕はあまりに細く、少し重圧をかければ簡単に折れそうだった。 倒れ込んだままにうつ伏せた体勢から、何度目かの試みで、それはようやく重心を移し、やっと身体を起こした。 うなだれた首は頭部を支えるには頼りなく、色素を持たない髪がゆらゆらと揺れ動く。
それが姿勢を動かして、身体を緩く覆っていた白い布が肩から滑り落ち、背部があらわになった。 曲げられた背は肩甲骨と、首から連なる頚椎のかたちのひとつひとつまでがあからさまに見て取れ、 腰はいよいよ細い。 さらけ出された表皮は布と同じくらいに白く、それには色が存在しなかった。

そこは半球のドーム形であって、中心は丁度それが直立して腕を伸ばしても届かぬ程度の高さの頂点から、 仄かな照明が、それを幻影のように映し出していた。 淡く光を纏うかのような、その変異種の象徴たる身体をさらしたまま、 それはゆっくりと頸をもたげた。 動きにあわせて、面を覆い隠していた髪が、皮膚を撫でて流れていく。

それは伏せていた目を上げた。

「……うわ……」

一連の動きに、固唾を呑んで見入っていた男は、夢から覚まされたように我に返ると、 反射的に身を引いた。

「何だ、あれ……」
「そう怯えるなよ、あれは見えちゃいない。視点が固定していないだろ」


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このところ、ひどい夢を見る。
ひどい、悪夢だ。
何者かが、彼の首に手をかける。容赦なく、力を込める。 やめろ、叫んで割り入って彼を助けたいのに、その何者かのすさまじい憎悪の念に囚われた身体は竦んで言う事を聞かない。 それはまるで現実にあった過去を追想しているかのような生々しさで、ともすれば彼の記憶が流れ込んでいるのかも知れないと思った。 このようなこと、あったとすれば、あの忌まわしいラボラトリしか考えられない。
あの腕の 主を、知っているのではないか。 問いかけに、彼は暫く沈黙した後、まっすぐに目を向けて言った。

「ああ、知っている。あれは、僕を縊り殺そうとしたのは、お前だ」

思い出せと、記憶が語りかける。

「お前は僕の死を望んだんだ」


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前触れなく出力を上げた照明の光をまともに浴びて、光刺激に過敏な瞳は、奥底まで刺し貫かれるかの鋭い痛みを生起した。 それは両腕で目をかばい、顔を伏せ、苦鳴をもらしつつうずくまった。肩が小刻みに震えている。 その腕が掴まれ、目元に押し当てられた手のひらが強引に引き剥がされると、最初の痛みが尾を引くのか、 きつく閉じた瞼を通して入る光すら強すぎるのか、涙が伝い落ちていた。


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「分からないか? では、こうしてみれば思い出すかも知れない」

言うと、彼は腕をとって、しなやかな動作でその首もとへ導いた。包み込むには片手で足りそうな細い頸部へ、指を沿わせるよう促す。 そして離れぬように被さった彼の手が、自分の手を彼の首へ巻きつけたままに、しっかりと固定する。

混乱しつつも、抗うことが出来ない。
手の中の感覚、これを得たのは初めてではない。
彼に手をかけたのは、一度目ではない。
それだけが確かに分かった。
自分は、彼に何を為したというのか。
分からない、確かに知っているのに、掴み取れない。
記憶はあまりに暗く、根底までは到達し得ず、もどかしいばかりだ。

「……もっと、強かった」

彼が、更に首を圧迫するように、上から手を押しつける。 気道はまだ確保されていて、それでも彼は、より密着した手のひらに感じ入ったように喉元を晒すと、目を閉じ、切ない息をもらした。 ああ、と掠れた声が混じって、手の中に振動が伝わる。

何だ、これは、一体何なのだ。
本当に、自分は彼を、こうして――殺したのか(.....)
自ら手応えを得て、殺してやりたいと、憎悪の念を、向けたというのか。

何故、覚えていない。

彼が嘘を言う筈もない。
あったのだ、確かに、信じ難いそれは、あったのだ。
この胸中の、途方もない罪の意識、これこそが証拠だ。
ディティールは未だ記憶の奥底に沈み、ただ罪悪感だけがある。



教えてくれ、と懇願した自分に、彼はしかし、静かに首を振って拒んだ。

辛い記憶だ。
持たない方が良い。
思い出そうというならせめて、僕が死んでからが良い。

過去の自分は、彼に頼んで記憶を封じて貰ったのだろうか。
分からない。
まだ何も思い出していないのに、この痛みは既に息苦しく己を苛む。
何があった。
それほどまでの、抱えて生きるには耐えられないまでの、何が一体、あったのか。

中途半端のままに放置されて、一層にやるせなく、焦燥が募る。 自分のことを自分が知らず、彼によって取り上げられているという不安と、僅かな恐怖。 彼は決して、記憶を取り戻させようとしない。 思い出させてやる気もないのに、彼は時々、別段に何ということもないといった様子で、 首に手をかけるよう命じる。

「――触れるだけか」

小さくこぼすと、彼は腕を振り払い、それきり関心を失ったように視線を外す。 その度に自分は、どうにかしたい思いに駆られて、けれど結局どうすることも出来ない。

今の自分にとって重要なのは、かつて自分が、どんな理由があったにせよ、 意志をもって彼を手にかけたというその事実、ただそれだけだ。 そのことを思うだけで、精神に及ぶ影響は許容の臨界を超えて、己の立脚点が揺らぎ、存在意義が危うくなる。



償えるとは思っていない。
だから、せめて、彼の言葉には絶対に――従う。
罪責の苦悩を、抱えたままに。


-++-



「だから、僕は赦されない行いを為した。
皆の記憶を操作して、そっくり封じてしまった。
そうする他なかった、皆が生きるためには。
彼らが生き延びるためには、それはどうしても、あってはいけなかった。
彼らには指導者が必要だった。
傷ひとつない、強く、正しい、絶対的な象徴、心の拠り所、
僕は己を偽り、皆を欺いて、あたかも自分がそんな者であるかのように振舞った。
皆に生きて欲しかった。
そのためには、あの記憶は、あんな自分は、――不要だった」


-+++



あれが悪い。
みんな、あれのせいだ。
あれがいなければ、こんなことにならなかった。
憎い、あれが憎い。

死んでしまえば良いのに。


+---



虚弱体質ゆえの折れそうに細い身体、色素の欠落した、未だ踏み荒らされることを逃れた汚れなき白と、 何よりその中にあって輝く、血を映した瞳のとりあわせは、希少価値も手伝って所有欲をかき立て、 ある種の加虐心をそそるらしく、データ収集期の狭間の待機時――まさにただ生かされ、飼われている間―― 彼がどのような欲求を満たす行為に供せられていたか、今となっては知る由もない。
時に彼の心を読もうと、誘惑に負けて試みてしまっても、堅く閉ざされたその内は測りかねて、 ただ具体性を伴わぬ、深い悲しみに似た感覚に、こちらの方が呑まれそうになる。

彼は憎しみを知らない。
最初の存在であり、それゆえに光の届かぬ場所で、永遠に続くとも知れぬ非道な―― 当然に情なきものに対しての、あるいはそれ以下の――扱いを受けた。 憎しみを抱くべきだ。 復讐を誓うべきだ。 己の受けた苦痛を、屈辱を、絶望を、ひとつひとつ見せつけ、味わわせ、
――それなのに、 彼にあるのは、悲しみだけだ。 生まれてしまった悲しみ、目覚めさせられてしまった悲しみ、――人間でない、悲しみ、 決して叶わぬと知りながら、願わずにいられない、切なる望みを持つ、悲しみだ。

「あなたには悲しみしかない」
「何を言うんだ、悲しむことなどない」
「あなたの心に絶えず抱く、それを悲しみと我々は呼びます」
「そう受け取れるならそうなのだろう。けれど僕は悲しくなどない」


+--+

















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