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こうしたかった。
こうすることを、ずっと、望んでいたのだ。
愛しく触れて、穏やかに抱き締めたかった。
ただ、ブルーは、こうなるのを恐れていた。
己に禁じていた。
ブルーは躊躇った。この手を触れさせてはならない。血塗れの兇刃に似て、僅かにも清いところのない、汚れきったこの手を、どうして差し延べられよう。護るといって、人々の目を覆い、耳を塞いで、知覚も記憶も奪う、醜悪な、この手を。
僕を憎んでくれ、首を絞めてやりたい程に。お前はそうすべきなのだから。
僕はひどく醜悪だ。だから憎まれなくてはならない。それはもう既に、あの日に定められたことだ。
僕は罰せられるためにこそある。
僕はお前を滅茶苦茶にした。取り返しようもなく、強制して支配し、受容させて、都合良く扱った。
お前は本当は、望んではいない。僕を憎んでいる筈だ、そうでなくてはいけない。
否定するのは、目を曇らされているからで、本当は違う。
本心に気付けないまでに、そういう風にお前を作り上げてしまった、僕の罪は償いようがない。
――違う、違うのだ。
ブルーの内奥の悔恨を受け取って、ハーレイは、強く思った。
ハーレイはブルーの手の限りない優しさと温もりを知っている。その手は大きく広げられ、迷い子に差し出される。この手に頼れと、力強く、差し延べられる。そこにあるのは純然たる慈愛に満ちた情であって、彼は常に、そうして我々を抱擁している。
どうして、あなたの方こそ、頑なに目を閉ざす。そうして決めつける。ありのままを受け容れない。恐れるように耳を塞いで、心からの声を、聴こうとしないのだ。
ずっと、伝えているのに。
あなたを、愛していると。
いつだってそうだった。一瞬もこぼさず、あなたを愛した。それが、自分にとっての、確かな真実だ。
いつも、同じものを見ていなかった。
いつか、分かち合えると思っていた。
あなたの心をあらわにして、欠落を埋めて、そうしたら、受け容れて貰えるのだと思った。
あなたは、自分自身が不合理な信念に囚われていることに、気付けない。最早、形づくられてしまった、その歪んだ自己概念を、修正する術を持たない。
他者の本当のありようなど、その本質など、真実など、決して知り得ない。それは思念を共有し合う者同士にあっても同様だ。いかなる能力によっても超えられることない、それが確固たる理だ。
誰も、個を規定し得ない。
己すら、定められない。
理解は全てにおいて儚い影にすぎないと、知りつつも我々は、それを世界として生きなければならない。
ブルーもよく分かっている筈だった。
ソルジャー・ブルーこそが、自らの異端たる力に惑う人々に、その用い方を、倫理を、思想を、もたらし授けたのだ。
その彼が言う。
本当は、お前はそうではないのだと。頑なに、否定をし続ける。
憎いのだろう、僕を憎んでいる筈だ、そうでないといけない、だから、首を!
お前のその情動は間違いだ、「愛している」なんてわけがない、お前は本当は、そうではないのだから!
それは全く、不合理な信念だ。そして、彼にいくらその誤謬を説いたところで、どうしても変えさせることは出来ない。
根底にあるのは、ブルーの自尊感情の欠如だからだ。その長きにわたる生のほんの最初の時期に加えられた非道な仕打ちのゆえに、ブルーは自らの尊厳や価値、自己効力感の一切に欠落を抱える。
彼は決して認めない。
こんなにも嫌悪すべき自分が、罰ではなく、抱擁を受けるなど――認められない。
ブルーの認知する世界は既に決定されていて、暴虐のうちに踏み躙られ陵辱に屈する中で烈しい自己嫌悪に苛まれながら書き上げられた人生脚本は最早、いかなる変更も受け付けない。
――己を尊重することを知らず、あなたにとってのあなたはいつも、同胞を導く者でしかなかった。
誰にも気付かれぬままに、自分自身すら気付かぬうちに、あなたは、自らの存在価値の確信を加速的に失っていった。
残ったのは、崇高なる指導者のきれいな偶像だけで、あなたはもう、自分を捉えていられなくなった。
美しい偶像を守るために、あなたは自分自身を傷つける方法しか知らなかった。
あなたは偶像ではないのに、そうであろうとして、そして同時にそれを拒もうとして、矛盾に引き裂かれた。
あなたの自己同一性は崩壊して、繋ぎとめることは出来なくなってしまった。
残された感覚は、その存在を実感するのにはどうしても必要だったけれど、その度にあなたは封じ込めた記憶を呼び起されて、おぞましい感触に犯された。
耐えるためには、あなたは自分自身を苛んで、もっと烈しい蹂躙に身を晒す他なかった。
それでも、こうなるしかなかったのだ。生きるべきであると、彼に定められた第一命令を全うするためには、これしかなかった。
それは感傷でもなく、戯言でもなく、すべての基幹として、疑われることのない前提だった。
だから、彼も、彼に従う者も、等しく、
――生きるべきであったのだ。
ブルーの指に力がこもって、ハーレイの手を強く握り締める。ハーレイは、ブルーが「助けて」と言うのではないかと思った。心情を吐露して、今にも崩れ落ちるのではないかと思った。今や、ブルーの内奥の切なる叫びは、まざまざとハーレイに突きつけられていた。
ブルーは胸の内で叫ぶ。
呼んでくれ、もっと、もっと!
繰り返して、強く!
名前を、
僕の名を、
飽きるほどに、
堪え難くなるまで、
幾度も!
呼んで、
求めてくれ、
『ブルー』と!
けれど、ブルーは頑ななまでに、一言もその訴えを発しなかった。たとえ本心で望んでいたとしても、口に出せる筈もない。
全ての人を庇護して立つ彼が、その立場を忘れて何かに縋るなど、あってはならない。
だから、ハーレイは、何も言葉を交わさないままに、か細い手を握り返した。
助けることは出来ない。
けれど、必要ならば、使って欲しい。
それは罪悪感だとか、贖罪だとか、義務や義理によるのではなくて、そうではなくて、今度こそ、ブルーに、与えたかった。
愛しさゆえに、ブルーに己を与えることが出来たら、それ以上の喜びはない、とハーレイは思った。
受け容れてくれ、
あなたに与えたい。
頼ってくれ、
あなたを支えたい。
あなたに触れさせて欲しい、
――初めて、
あなたを呼ばせて欲しい。
どれだけ、同じことを繰り返しただろう。勝手な幻想を抱いて、押しつけて、そうでないと知るや、途端に手のひらを返し、裏切ったと言って罵る。
何度繰り返したか知れない。
彼を愛するのではなくて、そこに自分にとって都合良い偶像を重ねて愛した。だから、受け容れてなどいなかったのだ。はじめから、僅かにも。
思い込んだ、『本当のブルー』を、頑なに信じ込んだ。正しいと思っていた。曇りない目で、ありのままの彼を見つめ、受け入れ、愛していると思った。
そうではなかった。
与える振りをして、彼から、奪う一方だったのだ。
何度も同じ過ちを繰り返す。
繰り返しても、何も変わらず、何も進まない。
どこまでも、決して、交わることはない。
――けれど、それでも、幾度間違っても、離れられないのは、
彼を愛しているからだ。
繰り返したら、繰り返し続けたら、いつかは――分かりあえるのだろうか。
触れることが――出来るのだろうか。
触れあえるまで、何度も、繰り返せば、叶うのだろうか。
だから、触れられるまで、幾度だって、繰り返す。
――初めて、あなたの欠落に触れた。
長い年月をかけて、ようやく、あなたに触れられたのだと思う。
「生きるべきである」――それは、ブルーを苛み続けた、第一の絶対命令だ。そのシンプルな命題のゆえに、彼は心を休める間もなく、苦悩と煩悶に囚われた。
この命令がなければ、彼は安らかでいられただろうか。こんなことにならずに済んだのだろうか。
――否、とハーレイは思う。
それは必要だった。我々が生き抜くために、欠けてはならなかった。
彼も、また我々も、その命題の下に、生きたのだ。
ブルーは、間違いなく、生きるべきだった。
ひどく身勝手な物言いかも知れない。ブルーに堪え難い苦痛を負わせても、自分が生きたいがためだけの、利己的な考えといってしまえばそれまでだ。
――ただ、そうして生きたブルーだから、自分は、心を奪われたのだ。
ハーレイにとって、ブルーは生きるべき存在だ。その不在が己にもたらすだろう致命的な欠落を想像するだけで、思いは乱れて、決してそのような不吉な未来の訪れぬよう、彼を護らなくてはならないと誓う。
これほどに心を占める、ブルーという一個の奇跡的な存在を、形成し得たのが、その命題のゆえならば――それは、望ましいものだったのだ。
何ゆえに、誰がためになど、いちいち数え上げられる筈もない。理由づけなど、出来るわけがない。ただの断片で、いくらかき集めても、いつになっても、唯一の正答なんて幻想には行きつかない。
ハーレイが出来るのは、ブルーに伝えることだけだ。
ブルーが生きていて、嬉しいと。
拙くも、確かなものはそれだけだ。ブルーに理由を与えられるのはそれだけだ。
だから、ハーレイは強く思う。ブルーに伝えるために。
伝わればいい。
あなたの名を呼べることが喜びだ。
あなたに触れることが、
あなたと繋がれることが、
あなたが在ることが、
――喜びなのだ。
そこには偽りも、思惑も、算段も、意識すらない。
湧き起こる温もりで、心の満ちる、その純然たる感覚だけだ。
己の感じるものが、全て世界であって、回帰して辿り着く原点である。
決して、外から規定を受けるものではない。
己の存在を認めるならば、認識する世界は、いつも正しい。
世界は明かされず、解かれず、示されず、しかし確かに存在する。
fragment――
これはささやかな末端だ。
枝葉を伸ばすフラクタルの、
拾い集めた断片が形成して
その螺旋に刻み込まれた歴史だけが証で、
表層に浮かんでは深遠へ融ける、
記録されなかった言葉、
封じられた記憶、
語られぬ話、
――Species.
話があちこち飛んで読み難いことこの上ない! とかハレ氏がセンチメンタル過ぎる! とかもう色々な気分ですが、自分のハレブル観の根底のいきさつを描けてとても楽しかったです。