単純接触効果 フラクタル / Sugito Tatsuki
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核から砕かれた星より逃れた際の混乱――正視に堪えぬ惨状を呈した外界と、同じだけ抉られ蹂躙された精神と――それらは未だ鎮まることを知らないけれど、少なくとも放心状態を脱する程度には、人々の生来備え持った認知機構の勤勉な働きによる適応の兆しの徐々に現れ始めた時期である。かつて絶望を味わい現実を放棄した者が、再び時間軸上の先に己の生を志向するに至る過程は、意外にもヒトというのは頑健な内的システムを持ち、容易くは砕かれぬ実情を雄弁に物語っていた。すなわち『生まれたものは生きるべきである』という命題を体現してみせたといっていい。
しかし、援助を受けて健全なる生命力を取り戻すなどという悠長なプランの実現性は現状において皆無である。
何を行うにも、時間はあまりに切迫していた。
何を行わないにも、時間はあまりに緩慢であった。
惑う人々の先頭に立ち、率先して動き、次々と持ち上がる課題の全てに関わり一身に負ってこなしてきたゆえだろう、元々丈夫でない身体に疲労の色を隠せないブルーを間近で見つめて、ハーレイは堪らない思いに駆られた。
いつだってそうだ。今にも、ほんの些細なきっかけでもって、崩れ折れてしまいはしないだろうかと、そうした不安が拭えない。
せめて、頼ることを覚えて欲しい、とハーレイは願った。事あるごとにハーレイがブルーと行動を共にしているのは、ひとえにその願望のためである。未だラボラトリで己の上に為された無慈悲な仕打ちを忘れることが出来ず、うちひしがれたままに無為なる多くの者たちの中にあって、ハーレイが己を奮い立たせ、ブルーの働きを助け協力を図ったのは、少しでも彼に支えとして自分を用いて欲しいと思ったからだ。
ブルーは決して人々に、弱い自己を見せようとしない。徹底的なまでに己を律し、何によっても砕かれることない強靭な柱たるかの力強さをのみ、縋る対象として周囲に分け与える。
まさしく理想的な指導者たる彼の振る舞いを、人々は疑念も持たず、当然のことのように受け容れる。――理想とは、すなわち、現実には存在し得ず、達成され得ない、非実存の概念たる完全状態を云い表す語句であることを、忘れてしまったのか、それとも目を、逸らしたのか――いずれにせよ、彼らの無言の意を汲んで、ブルーは自らを現実と非現実との境界に置いたということだ。それがいかに彼自身に負荷をかける演技であるかを、ハーレイは分かってしまう。個としてのブルーを抑圧してでも、彼を先頭に立たせねばならない、不甲斐ない自分たちの実情を思い知らされる。そうした無力にも愚かしい在りようについて、ブルーは何も語らない。ブルーは何も評価しない。口にすれば人々の仰ぐ支柱が瓦解すると知っていて、ブルーは沈黙を守る。それが辛い。
果てなく続く深遠なる闇を漂う、小さな船を照らす眩い光はない。陰鬱な空気が自然状態として染み付き沈澱した船内、薄暗い一室は居住区より離れた狭苦しい倉庫で、雑然とあれやこれやの物資が積まれた物入れと表現するのが適切であろう。その内容物らの有効活用について、およそ常人には測り知れぬ思考速度と観点でもって試算を見積もり思慮を巡らせているらしい、ブルーの横顔を、幼い背を、ハーレイは痛ましく見遣った。色素の欠落した身のゆえか、若しくは彼の纏うサイオンの微々たる表出か、薄闇の中にあってその姿は、自ら仄かに光を灯したかのように見える。思索に耽る表情は、常の意志の強い瞳を伏せていることもあって、虚ろで物憂げな様子が窺い知れる。
自身の脳内でだけで行われていた、問題提起と解決案の提示、議論の拡大、修正と再計算といった作業をひとまず収束させたのだろう、ふとブルーの可憐な唇が溜息を吐く。その面持ちは最早、物憂げというよりも、沈痛といったほうが近かった。
ハーレイは既に『様子を窺う』などという言い訳は通用しないまでに、ブルーの僅かな挙動に目を奪われていた。瞠目し、胸の内にある種の情動を生起させ――つまり、驚いたのだ。ブルーが溜息を吐いたことがそれほど衝撃的であった、というわけではない。彼はしかるべき場面でちゃんと疲労をそれと知れるかたちで表出することを知っている。「そんなに働いて、疲れただろう」と問いを向けられれば、「ああ、確かに」と応じて息を吐く、そんな遣り取りは飽きるほど見てきた。
だから、ハーレイが驚いたのは、ブルーが何の先行条件もなしに、自発的に疲労反応を表出した(ことによる。
無意識の行動から、頑なに閉ざされるブルーの内なる部分を垣間見たようで、ハーレイの抱いた驚きは、緩やかに感動へと移行した。ブルーが、感じているものを目に見えるかたちで、他者に期待されたからではなく自ずから、素直に表すことが出来るのだという発見は、これまでどれほど近くに在っても推し量りきれずに隔絶を感じていた彼の一端を捉えたようで、ハーレイの高揚をかき立てるには十分だった。
また、その発見がこの場面で為されたことは、外せない重要な点であった。狭い閉鎖空間に二人である。これがもし、多くの同胞たちを前にしての場面であったら、ハーレイはブルーの行ないに計算された意図――何らかのかたちで人々に望ましい結果を導くための計らい――を透かし見て、何ら感慨を抱かなかっただろう。
薄闇に紛れて、気付かれないと思ったのかも知れないし、作業に没頭するあまり室内の他者の存在を意識の外にやっていたのかも知れない。いずれにせよ、自分は人々の前では見せぬブルーの一面を知ったのだ――ハーレイは快い充足感を覚えた。あたかもブルーが自分に気を許したかのような感覚に酔う。だから、それがただの錯覚なのだと自戒する謙虚さなどは押し退けられて、ハーレイは自然にブルーの後姿へ歩み寄った。
小さな背中だ。か細い身体に圧し掛かる重責はいかばかりだろう――先程の小さな溜息が思い起こされて、ハーレイは胸を締め付けられるかの思いを抱いた。そして、内なる感情の赴くままに、接近に気付きもしないブルーの背後から、腕をのばした。
何気ない行動だった。少なくともハーレイにとって、それはこういう状況においては自然に身体の動く反応の一種で、別段に熟考の末の選択行動ということではなかった。それは本当に、計算などない、あまりに自然すぎる何気ない動きであった。だから、鋭敏な神経で僅かな異変も感じ取る卓越した能力を持つ筈のブルーの意識に働きかけてくることもなく、ハーレイのその行動は何ら阻害されることないまま、簡単に成立してしまった。
労わるようにブルーの肩に置いたハーレイの手が、最初に捉えたのは、か細い身があからさまに、びくりと竦む反応だった。反射的に振り向いた鮮烈な瞳は見開かれていて、射抜くかのまっすぐな視線を向けられたハーレイは、その過剰な反応に思わずたじろいだ。ブルーは背後の者を視認してなお、言葉もなく目を瞠っている。
――不意を衝いて嚇かしてしまっただろうか――ハーレイは己の安易な行動を慌てて謝罪した。
「あ、…すまない、急に、……触れられるなんて、嫌、だったな」
怯えと表現しても差し支えない、その反応を呼び起こすに値するような、何かやましい意図などは決してなかったのだが――ともかく、声もかけずに、自分の判断でだけで唐突に共感的態度をとったのは、思い返せば相当の考えなしだった。一方的に個人空間(を侵犯されれば、不快を表し拒絶して当然だ。気楽に肩を叩き合うような気安い仲間とは違うのだから、とハーレイは遅ればせながら己を戒めた。
しどろもどろの弁明を、ブルーは聞いているのかいないのか、驚いた表情のままに瞠目して、ハーレイを見つめている。少しも揺らがない瞳にいたたまれなくなったハーレイが視線を外して、恐る恐る、腕を下ろして一歩退こうとする段になって、はじめてブルーは、ふと我に返ったように目を瞬いた。それすら忘れていたかの呼吸を継ぐと、狼狽した様子で、いや違う、と口にする。
「驚いただけだ。触れられたのは初めて(だったから、不慣れで、こちらこそすまない」
きまり悪そうに謝罪の意を告げられて、しかしハーレイは、その言葉に違和感を覚えずにはいられなかった。
――『触れられたのは初めて(』?
今や記憶の底深くに沈み込んで掬い上げられない、養育都市の望ましく設定された家庭での暮らしにおいて、健全な生育のために不可欠なアタッチメント形成に、触れあいは必須事項の一つとして数えられていた筈だから、そこは別として――まさしく彼の異端としての『目覚めの日』、以降を指していると考えていいだろう。ラボラトリの閉鎖空間に収容されて後、ブルーはそんなにも、接触と隔絶した場に身を置き続けていたのだろうか? 彼の周囲には、その強大な潜在能力のゆえに、同胞は勿論、実験者すら生身で近づくことなく、隔離されていたとでもいうのだろうか?
――否、とハーレイは確信した。ブルーの自己申告は、苦しい言い訳にしてもあまりに不合理に過ぎる。どう妥協してみても、筋が通るとは言い難く、認めて信じてやることは出来ない。
むしろ、ハーレイが思うに、ブルーは――隠している、といった方が妥当だ。本当は内心で、触れられることに怯え、接触を嫌悪し避けている、しかし悪気なく領域に踏み込んでしまった同胞を傷つけぬために、内に抱いた嫌悪的情動を隠し通しているのではないか。
ハーレイがそう考えるのには十分な根拠がある。思い返すだけで息苦しく動悸が抑えられない、ラボラトリでは他者との接触は即ち、"実験"及びそれに伴う苦痛の予告でしかなかった。実験者たちの都合に合わせて"ホームケージ"から連れ出される時にも、また精神の限界まで苛むおぞましい試行の後に茫然自失としながら巣に戻される時にも、幾人もの手によって拘束され、加減なく乱雑に扱われた。抵抗も努力も無駄であるという圧倒的な無力感は、実験機器によってというよりもむしろ、生身の人間の手によって植えつけられた。直接的な暴力という、無知な子どもにも一番分かりやすいかたちで自由を奪われる、恐怖の記憶は未だ生々しい。
同胞の中では頑丈な方に分類される、比較的耐久力を備える自分ですらそうなのだ。ハーレイは思う。いくら驚嘆すべき力を内包するといえ、特異なる能力を封じ込められた身体はただの虚弱な子どもでしかない、ブルーにとって、か細い腕を掴まれ、力任せに引き摺られ、拘束される恐怖はきっと、その精神を滅茶苦茶に食い荒らして踏み躙るには十分だっただろう。
まして、――本人が口にしたわけではないのに、こうして推し量るのは無遠慮なことこの上ないのだけれど――華奢な身体に消えず残された痕を見れば、ハーレイは否でも知れる。ブルーにとって他者との接触は、"実験"とはまた別種の、測り知れぬ苦痛と恐怖のトリガーなのだ。
ブルーはラボラトリ構成員らの個人的情動の適当な捌け口として都合良く扱われ、継続的に虐待を受け続けていた。それこそ、場の絶対的支配者の手によって、幼い身体は、醜悪な情動の下に、すみずみまで触れ、探られ、弄ばれた筈だ。
陵辱に怯え、屈辱に震え、恥辱に濡れる記憶は、ブルーの接触に関する認知を歪め、決定的な欠落をもたらしただろう。
――そこまで、予想が出来ていながら、気安く触れてしまった。ハーレイは己の思慮に欠ける行動を激しく悔やんだ。考えなしに、していいことではなかったのに――近づいたつもりになって、打ち解けたつもりになって、自分だけは、触れても構わない筈だと思い上がった、自らの愚かさに憤る。
虐げるような意図など持たなかったといえ、何の弁明にもならない。ブルーが、そう感じたのならば、ハーレイの行為は、そう(だったのだ。かつて彼を力任せに押さえ込んで貶め、泣き叫ぶ抵抗に構わず辱めた、おぞましい手と、重ねて認知してしまうのも道理である。
労わるつもりで、怯えさせた。
守るつもりで、傷つけてしまった。
ブルーの神経は、人々の間で日常生活を滞りなく過ごすには、あまりに鋭敏で細やかだ。いくら遮蔽の術を上達させたところで、その実、防壁の向こうに抱く心は無防備なままで、柔肌に似て突き刺さる痛みを感じやすい。それゆえ彼は、周囲の人々にいちいち無用な心配をかけぬよう、必要以上に注意を払って、自らの感情を隠蔽する。あたかも、感じなかったかのように抑制し、他者に情動を左右されることなどないかのように振る舞う。罪悪であるかのように、禁忌であるかのように、ブルーは、痛みを表出しない。自身の内にだけ抱き留めて、決して外へはこぼさず、――受け容れるばかりだ。
一片も、捉えさせてはくれない。
「僕は随分と信用されていないらしい」
苦笑交じりの声がかかって、ハーレイは我に返った。見遣れば、ブルーは困ったように首を傾げる。
「違う、と言っただろう。不快だったのではない、本当に、初めてだっただけだ。こういう風に、触れられたのは」
だから何も、触れるな近寄るななどと言ってはいない、とブルーは悲観思考のきらいのあるハーレイの憶測を軽く窘めた。
「――『こういう風』、というのは」
理由なく、意図なく自然に触れるということだろうか、とハーレイは思った。少し違う、とブルーは応える。
「もう一度、触れてくれ」
持ち上がったブルーの腕が、ぎこちない動きで広げられ、ハーレイを促す。今度は向かい合ったまま、ハーレイは再び、そっと、ブルーの薄い肩に片手を乗せた。
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