単純接触効果 フラクタル / Sugito Tatsuki
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守られる、という経験は、覚えている限り、初めてなのだとブルーは言った。そんな思いを向ける対象にされるなんて、考えもしなかったという。これまで、ブルーに向けてのばされた手は、いずれも、彼を救い出し、引き上げて、包み守るための手などではなかった。そんなものは一つだってなかった。それどころか――ブルーに触れたのは、虐げ、辱め、損なわせようと、否応なく拘束して弄び、支配して打ちのめす、非情な手ばかりだった。繰り返し、触れる度に汚されていく、ブルーを守ってくれる手はどこにもなかった。許容をはるか超えた薬物投与によって弛緩し、あちこち血管が損傷して鬱血だらけの、その幼い非力な腕では、自分自身すらも守ることは出来ない。ブルーの知る接触は、ただの破壊的な衝動の前戯である以上の意味は持たなかった。
同胞を得て、先頭に立っても、同じことだった。救いを求める人々ののばす手をとって、仲間を守りこそすれ、守られるなど――そんな思いを差し出されることは、結局、なかったのだ。一方的な現状を、ブルーはただ、受け容れていた。
「自分で自分を抱いても、とても寂しいだけだ。悲しくなる、どうしてこの手は、こんなに冷たいのかと」
しばしば痙攣に悩まされる、開いた頼りない手のひらを見つめながら自嘲的に呟かれたブルーの言葉に、ハーレイは改めて、その手をとった。包んでやるように優しく絡めるというよりも、焦燥に囚われてぎこちなく掴んだといった方が適当な、情感に欠ける動作だった。それでも、思い直して丁寧に繋ぎ直すなどという選択肢は存在しない。そのための一瞬でも、接触を途絶えさせたくはないからだ。一度繋げた温もりを、断ち切ってはいけないからだ。
根気よく待っていれば、頑なに強張ったブルーの手が、次第に緊張を解いて、ハーレイに応える。接触を通して流れ込む感覚は、自分の内に元からあったそれと近しく似ていて、けれどどこか違って等しくはならず、共鳴しては離れる繊細な交感に、ハーレイは心を奪われ感嘆した。震える情動を穏やかに鎮めるような、心地良い声が聞こえる。
『波長の重なる感覚を、知っているか? 心臓まで到達して、融け合い、熱の入り混じる感覚だ。個人差はあるけれど、僕の場合はそう感じる。こうして重ねれば、そのまま同調して融けてしまいそうだ。こんな風に、触れるから』
守るために、触れられるのは、初めてだ。優しすぎて、少し怖くすらある。――ブルーの内なる声を受け取って、ハーレイは自ら生起する熱の全身の循環をはっきりと捉えた。意図するより前に動いて、捉えたブルーの両手を引き寄せる。
「自分は、この力のために生まれたのだと思う」
自然と口を衝いて出た言葉だった。忌まわしいものでしかなかった、己の備える能力に初めて向き合ったようで、ハーレイは自身、戸惑い、驚きを覚えた。しかし、間違っていない、新たに見つけた、これが自分の正直な思いであると確信出来る。ブルーは鮮烈な瞳で、内心を推し量るようにハーレイを見つめた。
「――力のために、個を、棄てることはない、抑制することも」
「いい。それでいい。守るために生まれた、それでいい。そういう役目を持つ者でありたい」
自分で望んでいることだ、とハーレイは強調した。ブルーは暫し間を置いた後、小さく頷いた。それはハーレイにとって、唯一無二の指導者から、存在価値を認められ、欲して已まぬそのささやかな支えとなろう役割を許し与えられたかの、一つの典儀といってよかった。力を尽くして、同胞を守ってみせろと、君命を確かに受け取り、ハーレイは敬虔な心持ちでもって、視線を外すことなくブルーの瞳を見つめ返した。
薄闇の中に血流を透かす瞳が、ふと揺らぐ。溜息を吐いたと思うと、ハーレイの腕にもたれて、ブルーは気だるげに呟いた。
「少し、……休んで良いだろうか」
口にしたそばから既に、華奢な肢体は自立の努力を放棄している。何もこんな所で、とハーレイは躊躇いを隠せなかったが、少しの間だけだという言葉と、何より身を任せきったブルーの偽りない疲弊を表出した様子に、異論を唱えることは出来ず、せめて心地良いようにと姿勢を動かす。
「眠る時は、いつも独りだ」
こぼしてから、それがあまりに感傷的すぎる言葉であったことに気付いて、ブルーは気恥ずかしげに俯くと、どうにも自制が効かなくて困る、こんな風に触れるから、と弁明するように再度付け足した。それから、緩慢に瞼が下りて、柔らかな睫が薄い肌の上に静かにかかる。
間もなく穏やかな寝息が聞こえて、その眠りにあることを教える。独りだ、と言った声が耳に残って消えず、ハーレイは、力なく投げ出されたブルーのか細い手をとると、そっと、しかし確かに繋がりを示してやるように手を重ね、握った。伝わるだろうか、独りではないと、冷えきった腕に温もりが、受け容れられるだろうか――祈りに似た気持ちで、ハーレイもまた、目を閉じた。
ブルーは我々の最も強き剣、最も堅き盾、そして最も美しき翼、彼はその全てでもって、人々を庇護下に置く。重責を、代わってやる力は自分にはない、けれどせめて、あなたを支えて皆を守りたい。そして、口にしなかった本心で、願わくば――あなたこそを、守りたいのだ。
あなたが震える時、抱くことが出来る。
あなたに刃が突きつけられた時、庇うことが出来る。
あなたに銃口が向けられた時、防ぐことが出来る。
到底必要だとも思えない、そんなささやかな力にしかなれないことがもどかしいけれど、もしも――万が一、そのような場面に至ったならば、あなたが求めるならば、必ず、間違いなく、あなたを守りたい。あなたの盾として役割を果たしたい。あなたを守れるのならば、ただそれだけで、自分がこの力を持って生まれた理由にしていい。
伝えたい、しかし伝えてはならないと、ハーレイは葛藤しながら、眠るブルーの手をとって語りかけ続けた。
――そうだ、あの時から、もうずっと、思っていたのだ。
すっかり記憶の奥底へ沈んだ、長きにわたる己の生のまだほんの最初の頃にあった懐かしい場面を、ハーレイは鮮明に再生した。こんな時に、いや、こんな時だからこそ、微笑ましいその記憶が、意識の全てを優しく包み込む。
抱いた思いを悟られぬよう、胸の内に秘めてきた。気付かれれば、ブルーのことだ、そんな風に思う必要はない、こんなつまらない者のためになど、と言って穏やかに窘めるに違いない。だから隠してきたけれど、今なら分かる――ブルーは知っていたのだ。何も言われないから、気付かれていないと、勝手に思い込んでいただけで、実際には、ブルーは知っていた筈だ。彼は不要なことは言わないし、必要なことすら口にしないでいることがままあるから、黙っていただけで本当は知っていたなどということは十分にあり得る。
いつまでも、いくら年月を重ねても、まるで子ども扱いだったようだ。密かに立てた無垢なる誓いを、現実場面で行動に表すことが出来たらと、不謹慎な夢想を働かせていたことも見通されていたらしい。もし彼がそのような場面――敵陣における危機的状況にあることを知れば、責任ある立場を放り棄てて、助けに向かってしまいかねないとでも、危惧されていたのだろう。別れの直前にあのような、やや強引とさえいえる、またそれが彼らしい、かつて彼が求めた接触の術でもって、念押しをするまでに。思うと、彼が実にずっと――最期まで、自分を含めた同胞に対する慈愛を注ぎ続けたことを知って、やり場なく溢れる情動に囚われる。
眠る時は独りだと、言った彼はその言葉通り、独りで最後に目を閉じた。
それは多分、こんな気分だったのだろうと、彩りを欠いた世界の滲む輪郭を捉えながら、自分もまた、最後に目を閉じる。
流れて失われていく熱が、彼の元にまで拡散するのなら、味気ない物理法則にいくら感謝を捧げても足りないくらいだ。
眠りに落ちよう。勿論、独りで。
End.
矢張り過去話は思いの向かうところです。そしてハーレイはいつだってセンチメンタルでした。
2008.01.15-01.29