近似統制条件 / Sugito Tatsuki
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性急に重ねた唇を離して、もどかしげに衣服をはだけようと留金にかかるジョミーの手元は、予定ではスムーズにその意図を達成する筈であった。中断を余儀なくされたのは、優雅とさえいえる動きで持ち上がった、ブルーの腕のせいだ。ジョミーの指の上に、静かに、しかし抗い難い絶対の力を備えて、窘めるようにブルーの手が重なる。未練がましくもその襟元に指をかけたまま、ジョミーは、予期せぬブルーの行動に、一体何だというのかと多少の面倒な思いを抱いた。いつも通りだ、互いに問題のないことは既に確認した。ブルーだって、ついさっき承諾の意思表示をしたのだから、後は大人しくしていれば良いのだ。
まさか今更、気が変わったとでも言うのかと、ジョミーの脳裏には幾度かの「眠くなったから」というあまりに悲しい理由で途中棄権された苦い記憶が過ぎった。勢いを削がれて不服な内心を隠しもせずに、正に今から働き出そうとしていた手を渋々と引き戻しながら、ジョミーは組み敷いたブルーの様子を見遣った。どうせまた眠いとでも言うのだろう――しかし、その予想に反して、視線の先は、真正面からまっすぐに向けられた鮮烈な瞳にぶつかった。心構えをしていなかったジョミーは、奥底まで見透かすかの瞳にまともに相対するはめになり、思わず小さく息を呑んだ。
感情の動きを窺わせぬ瞳で、じっとジョミーを見据えてから、ブルーの唇が動く。紡がれた言葉は、拒絶の意を宿したものではなかった。――その前に、一つ頼みがあると、ブルーは改まった様子でジョミーにそう告げたのだ。何だろうか、と首を捻ったジョミーに、僅かな躊躇いの後ブルーが口にした頼みは、あまりに不可解だった。
「僕の腕を、押さえつけているか、あるいは縛っておいてくれないか」
いつもジョミーに助言を与えてやる時と同じ、淡々とした調子だった。言葉自体は明瞭で理解するに易しいが、ジョミーは自分の何らかの聞き間違いを疑うほどに、まるでその意味が分からなかった。どうしてそんなことになるのか、論理の筋立てが迷走しきっている。ジョミーは戸惑いを覚える他なかった。発言者たるブルーは、それ以上何らかの言葉を付け足すこともなく、当然に理解を得ているだろうといった様子で、返答を待つようにジョミーを見つめている。視線が交錯して、気まずい沈黙が場を覆う。
ブルーについて、敢えて好ましくないところを挙げよと言われたら、第一の候補は、ジョミーの理解を超越した彼の思考回路ということになるだろう。重ねた年月の差は、時に二人の相互理解を破滅的なまでに妨害する。
加えて、ジョミーにしてみれば、ブルーはいつも発言に説明不足の傾向がある。彼がさも当然のように、唐突に結論から口にするから、ジョミーは当初、それに戸惑いを覚える自分こそ、物事の理解力を欠落しているのだろうかと、己の先行きの不安に悩まされたものだ。人々がブルーと接する様子を見ていても、彼らはこれといって言葉の意味を問い直すことなく、ブルーの発言を受け容れているようだった。矢張り自分だけが分かっていないのだ、とジョミーはショックを受けたのだが、次第にそうでもないらしいことに気付くことになる。すなわち、人々がブルーに問い直さないのは、ある意味で彼の思考を理解する努力を放棄しているためである。集団の突出した頂点たるブルーの言葉だ、疑いようなく、きっと望ましいものに違いないと、前提として認識されているのだ。
疑問を挟むことを不敬とし、ブルーをあたかも人智を超えた者のように扱って絶対視している風潮を、ジョミーはこの船の中に見出した。それはどこか納得がいかなかった。きっとブルー自身は、人々にそんな風に崇めて信仰されることを望んでなどいないのに、と思った。ジョミーはもどかしい思いに駆られると同時に、人々がそうやってブルーを甘やかすから、どんどん彼の言葉は削られ不親切になっていったのだと、八つ当たりじみた考えを抱いた。
思念を共有する術を持つといえ、言わなくても分かる、というのが当然のように礼賛される状況は不幸だとジョミーは感じた。分からないことを分からないと、説明してくれと言って貰えずに、伝わった振りをされているブルーはかわいそうだと思った。本当は理解を諦められているのに、自分の言いたいことが一から十まで伝わっていると信じているブルーがかわいそうだ。そんなことは対話になっていないとジョミーは思った。互いの情報をやりとりして重ね、共通の認識を得る努力は、相手がブルーだからといって畏縮する必要もなく、むしろ活発に行うべきだ。
そうして確信したジョミーが、ある機会にブルーに相対し、意味の掴めなかった言葉に質問を投げかけてみると、ブルーはそんなことは自分で考えろと言って呆れることもなく、ちゃんと応えてくれたので、正直ジョミーは拍子抜けした。ブルーは丁寧に無駄なく論理を展開し、ジョミーが理解するまで根気よくつきあってくれた。その過程はジョミーに新たな知見をもたらす有益なものであったのは勿論、どこかそれだけでは説明出来ない心地良さを喚起するのだった。時間をかけて、ブルーの辿った思考を追って理解していく。それは、覆うものない彼の本質を探って、深くまで交わっていくようで、ジョミーは知らず甘美な心地に囚われた。
そうしたわけで、ジョミーはブルーの意図を掴みあぐねる時いつもそうするように、彼の不可解な頼みごとに問い返した。「それはどうして」という、情緒も何もない問いかけだった。とりあえず疑問を口にしてみたものの、しかし場面が場面であるし、もしかすれば彼の嗜好に関わる繊細な提案であった可能性を思うと、説明を求めるなど、極めて無粋なことをしている気分になる。案の定、ブルーは迷うように口ごもった。その珍しく困った様子を見て、ジョミーは、ああ矢張り黙って言う通りにしてやれば良かった、彼に「そうされるのが好きだから」とでも言わせてどうなる、自分は何て莫迦なんだと大いに後悔した。
取り繕うとした言葉は、しかし、発せられる前に呑み込まれた。ブルーの唇が小さく動くと、思いもしない言葉が紡がれたからだ。
――君を、傷つけたくない。
ブルーは確かにそう言った。正確には、声はよく聞こえなくて、補助的に伝わった思念が、こう言語化するに相応しかった。疑問を解消する筈の応答は、一層にジョミーの混乱を煽った。傷つけたくないから腕を押さえていろ? それではまるで猛獣扱いではないか。どう考えても全く場違いだ。とても優しいブルーの腕が、自分を傷つけることなどあるだろうか? 納得のいかないジョミーに対し、ブルーは更に説明を加えた。
話を聞いていくにつれて、ジョミーの胸の内は、戸惑いと言うべきか、呆れたと言うべきか、どう反応したら良いのか何とも判然としない気分で一杯になった。どうやら、ブルーは行為の最中、情動が高まって抑制が利かなくなると、勝手に腕が上がって、ジョミーの腕を掴んだり背中に爪を立てて引っ掻いてしまうことを気にかけているらしい。憂いに沈んだ表情で、どんな重大事かといった風情で告白されたジョミーは、ブルーがそんなことを考えて悩んでいたということに大層驚いた。
血が滲むでもない、すぐに消えてしまうような、傷と呼ぶまでもない痕さえ、ジョミーに為すことを嫌う、ブルーのジョミーに注ぐ慈愛は常識の程度を超えている。彼に大事にされることは嬉しくはあるものの、徹底した品質管理とでも形容した方が相応しそうなその保護の仕方は、ちょっと異常じゃないかとジョミーは不謹慎な感想を抱いた。ブルーは別に個人的な理由で自分に無償の愛を注いでいるわけではないということをジョミーはよく分かっているから、どうしても時には彼の思考をひねくれて捉えてしまう。
「ただの身勝手な頼みだと承知している、けれど、この手で君を損ねてしまうことは、悲しい」
目を伏せたブルーの言葉に、ジョミーは深い溜息を吐いた。本当にこの人は――そんな風に辛そうに、そんなに正直に、告げられてしまったら――拒めないに決まっているではないか。思うところはあれこれと散ってまとまらなかったが、ジョミーは自由意思を放棄して、ブルーの望むようにしてやることにした。
包み護るものなくさらされた、か細い手首をそっと握り、寝台に押しつける。痛めていないだろうか、大丈夫だろうかと気を払いながら、少しずつ負荷をかけて確かめる。ブルーが小さく頷いて、ジョミーは握ったブルーの両手首を寝台に沈み込ませた。
ブルーの腕を縛める枷は己の手でもあったから、ジョミーは少々不自由さを覚えながら行為を進めた。いつもは軽く口づけるだけのところを、指の代わりに舌先でもって執拗に探り立てる。情動を喚起して過敏になった肌の上をかすめる髪の一本一本の先にまで刺激を受けているのか、ブルーは度々、堪えるように身を竦めて息を詰めた。
捉えた腕が強張る反応も、ジョミーは手のひらから明瞭に伝い知ることが出来た。拘束を振り払おうと一瞬だけ力がこもって、けれどすぐに自制してまた大人しくなる。ブルーの内奥で情欲と理性のせめぎあう様子が表れているようで、面白いなとジョミーは思った。抵抗を許さずに押さえ込んで、自由を奪ってやるのは、合意の上といえ、どことなく倒錯的な興奮を呼ぶことは否定出来ないと、小さな発見もした。それは、確かにこの手に繋ぎとめているという実感である。あるいは――縛っている、と言った方が正しいかも知れない、とジョミーは改めてブルーのか細い手首を握りながら思った。
衝動が高まってくると、ジョミーは両手を塞がれたままでは物足りなくなってきた。ブルーのしなやかな腕を掴んでいて、細やかな反応も伝い感じられるというのは大きな魅力ではあるものの、実際のところの物理的な難儀には敵わない。それでは、代わりに布なり配線ケーブルなりで縛ればいいかといえば、事はそう単純ではない。もしかしたらブルーはそれで良いと言うかも知れないけれど、ジョミーは認めるわけにはいかないのだ。自分の手以外の何も、ブルーを支配することは許さない。それが、子どもじみていると笑われても仕方ないくらいの、ブルーに対する独占欲に満ちた、ジョミーの譲れない意思だ。
付け加えれば、あまり好きな人間もいないだろうが、ジョミーは拘束具を連想するものは嫌いだ。それはどうしたって、異端者として追われ、捕縛され、一切の自由を剥奪されるイメージを呼び起こして認知される。自分でさえそうなのだから、ブルーにおいては言うまでもない。かつての彼の上に為された非情な行いの記憶は、追体験を思い返すのも辛いものである。たとえ本人が平然としていたとしても、ジョミーは二度と、どんなかたちであっても、ブルーが拘束を受けるところなんて、見たくないのだ。
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