近似統制条件 / Sugito Tatsuki
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高潔にして柔和なる我らが指導者の情動の波を一瞬でも乱したいならば、その手首を掴んでやることだ。若しくは足首でもいいし、状況が許すなら、その頼りなく細い首筋でもいい。足首や首に手をかけられればたいていの人間は取り乱すだろうが、ブルーの場合は、一般に親密性を示す手首の接触まで同じ範疇に含まれているのだから異質である。
ブルーは、手首、足首、及び頸部といった関節部分をさらすことに対して、生得的反応と説明づけるだけでは足りない程の恐怖を覚えるのだった。動脈や腱を損傷することを恐れるのは生物として当然の自衛機能である。だが、ブルーのそれは後天的に条件づけられた反応なのだ。そうでなければ、何故彼が常に全身を包み護る衣装を纏い、頑ななまでに長手袋を外さぬことの説明がつけられよう。
ブルーは恐れている。他者との直接の接触を恐れている。彼の自制は、むきだしの華奢な手首を悪意ない誰かに掴まれただけで瓦解してしまう。あたかも肉を抉られて、直接に内部を撫でられるかのおぞましい感覚に襲われた彼の脳裏には、弾力ある腱も動脈も抵抗なくきれいに裂けて、ぱっくりと開いた口から肉を晒す己の手首の映像が明瞭に過ぎる。まるで滑稽で現実味がない、しかし妄想を形成するのは間違いなくリアルな事象である。
種明かしはこうだ。すなわち彼にとって、束縛されることは、ラボラトリでさらされた苦痛の記憶と密接に繋がっている。首に巡らされた拘束具は、有事の際、すぐさま内部に仕込まれた針が無防備な肌を刺し貫いて、あらゆる活動を停止させる機構を備えていたし、手足は一番無力な体勢をとらされた上で容赦なく固定され、恐怖を煽った。実験者の気紛れ一つで、拘束具に固定された手首と足首は無惨にも肉を焼き切られるということは、ラボラトリに収容されるなり第一に教え込まれる基本事項だ。
そうしたわけで、ブルーはそれらの箇所が掴まれるなり絞められるなりして圧迫されることは勿論、そっと触れられることすら、あたかも鋭利な刃物が沿わされたかの如く、極度に嫌がる。彼が全身に密着する衣装を纏うのは、何にも接触出来ないようにして、精神の乱れから己を護るためである。鋭敏過ぎる神経を意図的に不活化して、社会的適応を試みる点、用途は心理防壁と同種であるといえよう。
拘束を嫌悪しながら、自らの意思で身体を縛る。長手袋を嵌めた腕は、何に触れるにも感覚を制限されるけれど、直接に外界の異質に触れられる恐れもない。頑丈な繊維で手首を絞めつけておけば、兇刃をもってしても肉を裂かれることはない。ブルーがその衣装に拘束されている限り、誰もブルーを縛って傷つけることは出来ないのである。矛盾した方法が、唯一にして最善の解決策で、ブルーの健常な精神活動を危ういところで支えているのだ。
ジョミーはブルーの抱いている恐怖を具体的に知っているわけではない。彼は他者が自分について不安要素を抱くことのないよう、十分すぎるほどに慎重に気を払うからだ。だからジョミーは、詳しくはよく分からないけれど、ブルーが手首を掴まれるのをあまり好きではないらしいということだけは知っている。記憶は共有しているから、多分、ラボラトリでのことがあっての条件反応なのだろうということも推測出来た。だから、何気ない接触であっても、それがブルーを傷つける行為になり得るのだという意識を持っている。
ジョミーの拘束の手が緩んだことに気付いて、ブルーは揺れる瞳を上げる。ジョミーはあえて無感情に告げた。
「もう、押さえつけていられない。シーツでも握っていてください」
まるで物流の指示をするかの淡々とした調子であったのは、ジョミーの内なる不満のささやかな表出といえる。確かに新たな趣向は煽情的な一面もあったものの、ジョミーは決して、喜んでブルーの腕を押さえ込んでいたわけではない。本当ならばそんな不自然なことは望まないけれど、彼が言うから、流されて従ってしまったということだ。ブルーの手首を掴み直す度に、ジョミーは自分の心臓が圧迫されるかの息苦しさを堪えていたのだ。
ジョミーの不機嫌をどことなく感じ取って、それでもブルーは、面倒なことを頼んだからだと考えて、実のところの理由までは分からないのだろうと思うと、ジョミーはやるせなくなった。ブルーは酷い人だと思う。心を読まれたくない時に限って何もかも見通してしまうのに、とても簡単な感情の理屈にも気付かずにいる。頼みを聞き入れはしたが納得はしていない、ジョミーが内に抱く不満を、どうして察することが出来ないのだろう。ブルーがジョミーを傷つけたくないというように、ジョミーだってブルーを傷つけたくないと思っているかも知れないという可能性に、どうして思い至らないのだろう。それがジョミーの不機嫌の主要な構成要素である。
もしブルーが、僕を殴ってくれなどと願い出れば、どんなに懇願されても、ジョミーは断固として拒絶するだろう。同様に、腕を押さえつけることだって、出来ればしたくないに決まっているのだ。加減を誤って筋を痛めてしまうかも知れないし、何よりブルーの自由を奪い、怯えを纏った緊張にさらしているという実感は、たとえ本人の申し出たこととはいえ後ろめたさを拭えず、心苦しいものである。ブルーの強情と身勝手は今に始まったことではないが、その意思を尊重して、頼みを聞いてやりたいという思いと、強い抵抗感とが衝突する葛藤にジョミーを陥れるのは、あまりに無慈悲だと言わざるを得ない。あなたは僕を傷つけたくないと言っているそばから、僕を烈しい苦悩の渦に叩き落としているのだと、はっきりブルーに言ってやりたいものだとジョミーは恨みがましく思った。
そうした背景があったので、やや乱暴な言い方になってしまったことは否めない。だが、別にジョミーは後悔しなかったし、ブルーもまた、黙って従った。久々に解放された細い腕がぎこちなくのばされて、シーツを握る。それを確認したジョミーは、改めて自由な両手でもって愛しくブルーに触れた。シーツに絡んだブルーの指は、びくりと強張っては強く力が入り、また耐えてやり過ごすようにのびては、焦燥のままに布を手繰り寄せて掴む。離すまいと必死に縋っている様子が見てとれた。冷静にそれを観察しつつ、ジョミーは、どうしたらこの頑なな理性の箍を外して暴いてやれるだろうかと思考を巡らせた。
ブルーは、息喘ぐ合間に、ジョミーの名を呼んだ。意味ある言葉をそれ以外失ってしまったように、繰り返して呼んだ。それに合わせて、布を掴んだ震える両手を強く握り締める。自分自身の欲求を戒め、罰するかの如く、頑なに力を込める。許容を超えるのも時間の問題だとジョミーは見てとった。呼応するように、とうとう持ち上がったブルーの腕は、しかしジョミーに向けてのばされることはなかった。焦燥に囚われた腕は、それでも自制を保って、自分自身を抱くように交差して片手は強張った肩を掴み、もう片手は乱れた呼吸を継ぐ口元を覆った。余程力が込められているのだろう、肩を掴んだ指先は小刻みに震えている。骨が軋む音が聞こえそうだ。
あくまで自分の内に留めて、外に出さず完結するつもりなのかとジョミーは思った。向けられた相手を傷つけるかも知れないほどの烈しい情動を、決してぶつけまいと抑制する。それはブルーを崇高なものへ構成する。だが、ジョミーは不服に思った。現実味のない、きれいで冷たいブルーが欲しいのではない。ブルーの情動を隠さずぶつけて貰えるのならば、傷なんて全く構いはしないのだ。むしろ、痕が残るくらいに強く、掴んで、縋って、必要として欲しい。
上ずった声で、なお名前を呼ばれて、最早ジョミーは堪えられなかった。そんなに求めているのに、どうして正直な欲求に逆らおうとするのだ。まるでひとり遊びだ。一方的で、少しも通じ合うことがない。互いにとって鬱屈が募るばかりだ。手をのばしさえすればすぐに達成されるというのに、そしてジョミーもそれを望んでいるというのに――目の前でブルーが強く掴んでいるのが、どうしてこの腕ではないのかと、思った瞬間、ジョミーは衝動のままに動いた。
外界を拒絶するように頑なに自らを抱く、ブルーの両腕を、手首を掴んで強引に引き剥がす。そのまま、支えを失って中空をきるブルーの指に、ジョミーは己の腕を押し当てて掴ませた。自分の触れさせられたものを知って、ブルーのしなやかな指が一瞬、躊躇いに震える。いけない、境界を越えてしまう恐れに、手が、接触を拒絶して離れかける。再び自分自身を拘束しようと、閉鎖した自己完結へと向かう動作は、しかし、達成されなかった。逡巡を見せた後、ブルーは、今度は自らの意思をもって手をのばし、掴み直すと、確かめるようにジョミーの腕を辿って、縋りついたのだ。
その時、歓喜に満ちたのは、ブルーの方なのか、自分の方なのか、ジョミーは区別出来なかったが、思わず感嘆の息を吐いた。ああ、これなのだ。ブルーの手に掴まれて、爪を立てるほどに縋られて、背中に回ったブルーの腕に強く抱き締められたい。そうして、ブルーに拘束されたい。こんなに必要とされていることを、シンプルなかたちで分からせて欲しい。焦燥のままで、衝動任せで構わない、正直な思いを教えて欲しいのだ。
ブルーの両手が、ぎこちなくジョミーの肩にかかる。引き寄せたいという求めに応じて、ジョミーは体勢を低くした。ブルーの腕は、近くなったジョミーの背中に回って、離すまいとその身を抱き締めた。腕の中に拘束される感覚に、ジョミーは、もっと強くと願った。もっと強く、身を寄せあえば、限りなく一つになれるのだ。耳元のブルーの呼吸と、自分の呼吸が重なっていく。鼓動は高まり、繋がった心臓が融け合うようだ。同じ温度、同じ速度で、同じ情動を、分かちあいたい。烈しい熱の中で、ジョミーは、上ずった声で呼ばれる自分の名が端から蕩けて零れていくかの陶酔に溺れた。
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