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きれいな水 / Sugito Tatsuki








-2-








あなたの寝台を訪れれば、もうずっと意識を浮上しないままのあなたが、静かに横たわっている。見つめ続けたその幼い表情を、今日もまた、見守るように寝台に腰掛ける。おさまりの悪い髪を梳いて、愛しく頬を撫でる頃には、堪らず半ば寝台に乗り上げるかたちとなった。あなたの白い面に影を落として、傍らにうずくまる。溢れ出る切迫した衝動と、やり場のない焦燥を、堪えることは出来なかった。あなたは拍動を刻んでいるのかすら疑わしいというのに、相反するように僕の呼吸は乱れ、震える声がこぼれ落ちていく。湧き起こるものに耐えて、片手でシーツを握り締める。

とうとう、あなたに向けて、こぼしてしまった。溢れ出る直前、ああ、だめだと思ったけれど、もう止めることは叶わなかった。きれいな水が、やけに緩慢にあなたに落下するのを、どうしようもない思いでぼんやりと、けれど、どこか湧き立つ高揚した思いで、詳細に見つめていた。
あなたの薄く弾力ある滑らかな柔肌の上に、僕の滴が落ちかかる。あなたの柔らかな睫に、一滴が表面張力でもって上手に乗って、きれいに輝き、繊細な影を揺らす。飛び散った生温い液体が伝って頬を汚しても、微動だにせず瞼を下ろす、あなたはとても美しい。まるで空間から切り離されたかの、あなたを乱すことは誰にも不可能であるようだ。その様子は、僕の内に歪な情欲を湧き起こらせる。

あなたの唇を濡らしたかった。出来ることなら、あなたの喉の奥を汚したい。あなたに食べさせてやりたいのだ。あなたに僕を与えたい。あなたの内に這入り込みたい。例えば、あなたの可憐な唇を拓いて、柔らかな口腔に押し込みたい。僕の滴で、喉を潤して欲しい。こうすることでしか、あなたに伝えられない。僕があなたに通じる方法はこれだけだ。今や、それもただの勘違いかも知れない。けれど、求める思いに間違いなどはない。僕を、あなたの中に残したい。

あなたの唇は柔らかく、そっと噛むと心地良い感触の虜になる。押し開いて内に侵入すれば、あなたの仄かな温もりが僕を融かすから、湧き起こって滴る雫は口腔を伝い落ち、僕の舌からあなたの舌へ、そうしてあなたの喉を潤す。あたかも自分自身があなたの内側に這入り込んだようで、ようやく得られた、気だるい達成感に僕は思わず嘆息を漏らす。
あなたの唇は濡れ光り、渇きを覚えた僕は舌先で丁寧に柔肉を拭い、愛しい思いで吸い上げた。空しい自己完結も、あなたの唇を介せば、あたかもあなたから潤いを与えられたような幸せな妄想に酔うことが出来る。

あなたは僕の滴で潤っただろうか。眠るあなたに問う術はない。たとえ起きていたとして、あなたの衰えた感覚器官では、与えられたものの全てを細やかに味わうことは叶わない。けれど、きっと伝わっている筈のものがあれば、それだけでいい。むしろ、余計な情報がないだけ純粋に、あなたは分かっているだろう。僕の一滴に、どれだけのあなたへの思慕が込められていることか。

名残惜しさを感じながら、身体を起こして寝台を下りる。本当は、与えたいのはこんなものではない。一番あなたに呑ませたいのは、きれいな水だ。いつか、あなたが目覚めたならば、その時こそ、僕の差し出したきれいな水を、あなたの喉に流し込む。あなたを思い、切なく求め、焦がれる気持ちだけで出来た、それはあなたのためだけの、とてもきれいな水だ。最も理想的な、思いの表現形態だ。

僕のつくりだしたきれいな水を、そのまま直接、あなたに注ぐのだ。ぎりぎりまで高まった内圧を解放するや、何ら介在しないままに、あなたに呑ませてやるのだ。
至福の瞬間を思い描く。僕の感情が、あなたの内側に這入り込んで、伝い広がり、浸透していくイメージが見える。僕を構成するきれいな水と、あなたを構成するきれいな水が、入り混じってひとつになる。何て素敵なことだろう! 僕とあなたは、そうやって深く交わることが出来るのだ。

かつて僕たちは、そうして潤いと温もりを分かちあっていた。もう一度、あの喜びを味わいたい。

乾いた身体を重ねても痛々しい。
触れあったそばから互いを傷つけるばかりで、動くことも出来ない。
飢えを満たす前に、渇きを癒したい。

沈むなら、穏やかな海がいい。
生まれる前に培養器の中でたゆたっていたように、この身ごと優しく包まれて眠りたい。
喉を潤し、心を満たし、全てを委ねたい。
浮遊感と安らぎの中に、ゆっくりと底まで落ちていきたい。
緩やかにあなたと繋がるために、僕はいつだって、きれいな水を差し出そう。

あなたが望みさえすれば、すぐにでも与えてやれる。どうか求めて欲しい、言い残して、あなたを離れた。



-3-




何度繰り返しても懲りず、また小さな期待を抱いて訪れては、今日も眠るあなたの姿を目にして堪らない。あなたに、きれいな水を呑ませてやれなくなってから、僕は不安をかき立てられる一方だ。あなたの中に、僕の残したきれいな水は、今も変わらずあるのだろうか。応えてくれない、あなたに僕は、傍らから訴え続ける他はない。

あなたに繋がって、あなたの内に注ぎ込んで、刻みたい。
あなたの身体中に行き渡らせたい。
爪の先まで潤したい。
あなたに呑んで欲しい、呑んで欲しいのだ、受け容れてくれ、きれいな水を! 

あなたに僕を暴露したい。醜く愚かな僕の全てを晒したい。あなたの穢れなき美しさと対比したい。
あなたを濡らし、汚してやろうと働きかけて、それでも染まらず、汚されない、冷たいままの、愛しいあなたを所有したい。最も愚劣で、最も崇高な、濁りきった、きれいな水を、あなたに擦りつけたい。呑ませてやることは出来なくてもいい、溢れそうな、あなたへ捧げるきれいな水を、あなたの傍らで吐き出したい。あなたと繋がっている幻想を抱いて、ひとときの充足に溺れたい。

手をとって、大好きなあなたの繊細な指先を、僕の指と組ませる。あなたは最早、かつてのように握り返して応じてはくれない。絡めた指は、力ない腕を支えていてやらなければ、呆気なく外れてしまう。手のひらを、ずっと重ねて繋いでいようと思っても、少し力を緩めればすぐに離れてしまう。
あなたと手を繋ぐのに使えるのは片手だけだ。これでは埒が明かないから、あなたの手を持ち上げるのは止めにして、寝台に沈むあなたの腕に僕の手を重ねて、シーツに押さえつけるかたちで妥協する。

あなたの華奢な手首を片手で掴み、加減なく掴み直し、手のひらを探り、指を辿って、焦燥のままに無理やり絡めて、強く握り締める。自分に触れている方の片手と連動して、繋いだ手を幾度か前後に揺すり、寝台を軋ませる。
汗ばんだ手に一層力を込めて押さえ込み、そうして、僕は解放を得た。ふと、震えた指先から力が抜けて、あなたの手を離してしまう。息を吐いて、僕のきれいな水を受け止めた筈のもう片手を開く。



手の中に吐き出されたそれは、生温い不快な液体だった。



きれいな水なんて存在しなかったのだ。そんなものは都合の良い妄想に過ぎない。これが、きれいなもののわけがない。見苦しく、汚れた自分から湧き出るものが、きれいなものの筈もないじゃないか。 これは腐敗するだけの有機物だ。ただの濁った醜い情動の表現体でしかない。 吐き気がするほどに汚らわしい、撒き散らされた、そんなものは、あなたに捧げるに全く分不相応だ。

あなたがいなければ、あなたと繋がれなければ、きれいな水なんて意味はない。静かなあなたに覆いかぶさって、眠るあなたを見つめながら、募る衝動を処理して、あなたの上に吐き出したって、何の役にも立たない。あなたが応えてくれないならば、あなたを満たせない水は無為にこぼれて、きれいなあなたを汚すだけだ。

あなたを汚すことしか出来ない。僕の汚濁で、あなたを汚す。こんなに原初的な方法でしか、あなたを独占して所有することが出来ない。あなたの言葉を得られない今、確かな証はこれだけだ。けれど、どんなに注ごうとしたところで、あなたには浸透せずに、流れ落ちてしまうのだ。僕はあなたの中に残れない。

あなたは僕を置いて行く。熱、潤い、思い、僕の差し出す何をも拒絶し受け容れず、僕から何も奪わない。この上なく繋がって完全になる筈の僕たちは、けれど、決してひとつになることはなく、簡単に外れて断ち切られてしまう。たとえ互いの粘つく体液が入り混じってぬかるみ、汚濁に塗れた全身をいくら擦りあわせたとしても、僕とあなたは交わらない。

分かっている、そんなことは分かりきっている、あなたは独りで眠るのだから。あなたを眠りの中まで支配出来る筈もない。僕は眠ることを許されない。

四肢を弛緩させられて、意識を少しずつ取り除かれていって、途絶えて落ちる。それはまるで夢に犯されるようだ。 僕はあなたが深い眠りに囚われ陵辱される様子を逐一見せつけられて、それでも何も為す術を持たない。あなたを潤す、きれいな水なんてものはなく、汚れたこの手は、水底に沈んでいくあなたのために差し出すことも叶わない。

あなたの姿は揺らいで、滲んで、輪郭から融けていく。






深い緑柱石の瞳が揺れると、溢れ出る涙が睫に絡んで、それから滑らかに頬を伝って落ちた。
ジョミーは初めて、ブルーの上に涙を落とした。
それは、限りなく透明で、きらめく、澄みきった雫だった。
光のように美しく、少し悲しい、きれいな水だった。




End.




















身勝手・勘違いジョミを書く筈がセンチメンタルに傾きました。湿っぽい。


2008.04.25-04.28


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