等加速度落下 / Sugito Tatsuki
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君がいるから眠れない、と言われた時には、さすがにジョミーもショックを受けた。一体、自分が何かブルーの気に障るようなことでもしただろうかと、激しくうろたえた。思い当たる節はない。ジョミーは大人しく寝台の端に腰かけて、うるさくないように思念も抑制していたから、当然ブルーは気にせず眠るものだと思っていた。
一度意識レベルを降下すると、追跡出来ないまで深く眠りに沈むブルーのことだ、まさか「真っ暗だと眠れない」とか、逆に「明かりがあると眠れない」とか、あるいは静かだと駄目だとか人がいると嫌だとか、入眠時にそんな繊細なこだわりを持っている筈もない――ジョミーは考えるより前に、そうみなしていた。ブルーが眠ると言ったら、それはもう確定事項で、周りは勿論、彼自身の意思であっても、その摂理には抗えないものとばかりに思っていた。自分がいてもいなくてもブルーには関係ない、だからこそ、この場に留まることについて、ジョミーは特に許可を求める必要もないと判断した。すなわち、話は終えたのに、ここにこうして、ブルーの傍らにそのまま居座っていたのだ。
今日も、何ということもない遣り取りを交わした後、ブルーが眠ると言って目を閉じた。違ったことといえば、いつもならばここでジョミーは退室するのだけれど、今回はその場に留まったことくらいだ。通例に反したのは、専らジョミーの抱いたささやかな意思による。今日こそは、ブルーが眠りに落ちるのを、見届けようと思ったのだ。
ジョミーは、ブルーが意識を浮上させてゆっくりと目覚める過程は知っているけれど、彼が眠りに落ちる過程は知らない。より正確に言えば、知らずに済むようにしてきた。ブルーが瞬きのためではなく目を閉じたら、ああもう起きていてはくれないのだなと理解して、ジョミーは寝台を離れる。ブルーの意識が少しずつ奪われていくのを、傍で感じ取ってしまうかも知れないのが、ジョミーは恐いからだ。
はじめから眠っている姿を見守るのはいい。しかし、今まさに意識レベルが下降していく、手が届かなくなる、その過程を実感するのは嫌なのだ。それは自分の安堵出来る居場所が失われていくという、絶えず抱く恐れのかたちとよく似ている。蒼い薄闇の包む、広すぎる空間に、会話が途切れて独り取り残されるなど、あまりに寂しい。だからジョミーは、ブルーが眠りに就くところを、見ないように避けてきた。
しかし、都合の悪いものを見たくないからといって、慌てて背を向けて退散するというのも、それはそれで哀しいものである。あたかも、眠るならもう用済みだとでもいうようで、まるで情緒がない。曖昧な不安に呑まれる臆病な自分が滑稽に思えて、ジョミーは決意した。ブルーが眠りに落ちるところを見届ける。そうして、自分に言い聞かせてやるのだ。大丈夫だったじゃないか、何を恐れることがあったのか、あたかも最期の別れのように構える必要なんてなかっただろう、と。何でもないことなのだと確かめたくて、安堵したくて、その場に残った。
そして、寝台の端に座り、暫し静かなブルーの様子を眺めて、今の覚醒レベルはどれくらいなのだろう、もう眠ったのかも知れない、などと思いを馳せていたら、再び瞼が上がって、おやと思う間もなく鮮烈な瞳が現れるなり、可憐な唇が動いて、先の言である。お前のせいで眠れない――この上なく率直な言葉だ。解釈を挟む余地すらなく簡潔に、完膚無きまでに明瞭に、要するに邪魔だと言われたジョミーは、返す言葉もなかった。とてつもなく悲しく、申し訳ない気持ちで占領された胸がまず痛み、泣きそうになった。
しかし、再び目を開けたくせにそれ以上何も言わず、どうするのかを待つようにこちらに視線を向けるブルーを見ていると、どこからか理不尽な思いが湧いてくる。簡潔なのはいいが少しは相手に配慮した物言いをしろと、今更ブルーに説教するだけ無駄といえ、どうしてこんなひどいことを言われて、危うく泣きかけなくてはならないのか。心が読めるどころか、まるで無神経に過ぎるのではないか。最初のショックが、不服へと移行していく。相変わらず言葉を続けようとしないブルーの、感情を読めないきれいな瞳が、無性に癇に障る。人の気も知らないで――思うと、ジョミーは声に不機嫌が滲むのを抑えられずに言った。
「ああ、それは邪魔してすみません、はいはい今すぐ消えますよ。僕はそんなにうるさいか」
吐き捨てて、勢いよく寝台から立ち上がる。苛立たしい心持ちのままに場を後にしようとした、ジョミーの行動を止めたのは、背に投げかけられた、ブルーの落ち着き払った声だった。
「君の思念は静かだった。うるさいのは僕の神経だ、少しも鎮静しない」
他人ごとのように淡々と言うから、その声は抵抗なくジョミーの内に浸透して、気付いたら振り返ってブルーに相対していた。視線が交錯する。
君がいるから、とブルーは先程と同じ言葉を続けようとして、しかし今回は途中で切った。鮮烈な瞳が、珍しく彷徨う様子を見せて、どうやら適切な表現を探しているらしいことが知れる。ブルーとしても、自分の言葉が足りずにジョミーの気分を害したことは、恐らく理解しているのだろう。理解してくれなくては困る、とジョミーは思った。今更何を言われても衝撃は受けまいが、ブルーが発言をどう訂正するのか、少しばかりの興味でジョミーはその場に留まることにした。
僅かに首を傾げたブルーが、ジョミーを見上げて、今一度唇を動かす頃には、先に感じた苛立ちも既に鎮まりきっていた。視線を逸らさず、ブルーが静かに言葉を継ぐ。
「君が、――いるのが余程、嬉しいらしい」
じゃあもっと嬉しそうに言ったらどうなんだ、と呟くのは心の中だけにして、どっと徒労感に襲われたジョミーは、この上なく深く息を吐いた。初めて対面した時から感じていたことだが、どうしてブルーとの対話はこうもかみ合わないのだろうか。どうも自分ばかりが疲れている気がする。ブルーも平然として己のやり方を通すのでなく、少しは歩み寄りの姿勢を見せてくれてもいいものだ――そんな愚痴めいた思いを抱きつつも、ジョミーはどこか胸の奥から生起する仄かな快さを実感した。
飾らない表現で告げられたブルーの言葉は、ジョミーの心を少なからず高揚させた。嬉しい、ブルーは何でもないことのようにそう言った。シンプルなたった一言は、ともすればごく一般的な表現として気付かず聞き流してしまうかも知れない。だが、ブルーが自身の抱く感情について言及することは、少なくともジョミーの知る限りでは、たいへん珍しい事態であると言っていい。
だから、ジョミーは、もっと聞きたくなった。僕がいて、具体的にどういう風に感じて、どれくらいに嬉しいのか、ブルーの内から言葉を引き出したくなった。今まさに、口を開こうとした時、しかし、その問いかけは半端なところで中断することになった。ブルーが、思い出したように、ああ、と小さく呟いたからだ。
「違う、すまない、間違いだ。嬉しいのとは違う」
――何もそこまで否定しきる必要があるだろうか。一つの発言の中で三回も「違う」と言われ、浮かれていた筈のジョミーの心は、また打ちのめされて沈むに逆戻りする羽目となった。自分の感情を間違えるとは何事だ、ブルーの言語感覚はどういう構造をしているのか、あまり遣い慣れないせいで錆ついているんじゃないか。先の高揚がぬか喜びだったと分かって、ジョミーは全くやるせない気分になった。しかし、乗りかかった船だ。要領を得ない会話を放り出したくなるのを抑えて、ジョミーは一応尋ねてみることにした。
「一体何ですか。付き合っていられない」
刺々しい口調になってしまったことは否めない、半ば事務的な問いかけに、ブルーは沈黙した。そこで黙るのか、と思わずジョミーは呆れてしまう。ブルーの様子は、何も答えを用意していないのか、あるいは――口に出す手前で逡巡しているように見てとれた。いずれにせよ、あまり気の長い方でないと自認しているジョミーとしては、やれやれ、と密かに溜息を吐かずにはいられない。やれやれ、これでは本当に――
「本当に――やっていられない。そう、君の言う通り、同感だ」
不意を打たれて、ジョミーは思わず息を呑んだ。読んだのか(――見れば、苦笑するブルーと目が合って、途端にジョミーは己の頸が熱くなるのを自覚した。自分なりに一応の配慮として、わざわざ気取られないように隠していたのに、勝手に盗み見て、挙句に口に出すなど、何のつもりだ。莫迦にされたと、憤りのままに、頭に血が上るのを堪える術はない。不敬にも寝台に片膝を乗り上げ、乱暴にシーツに手をつくと、ジョミーは正面からブルーに迫って怒鳴った。
「何がしたいんだ、あなたは! まるで時間稼ぎみたいに、さっきから! いい加減に、」
勢いのままに詰め寄るジョミーを、ブルーはさして驚いた様子もなく見つめる。更に続けようとした言葉を、ジョミーが途中で切ったのは、間近に迫って捉えたブルーの瞳に、どことなく違和感を覚えたからだった。何だろうか――憤りもよそに、判然としない感覚の正体を求めて、透明な瞳を覗き込む。何か言いたげにブルーの唇が薄く開いて、けれど声は発せられない。
ジョミーは仔細にブルーを見つめた。対して、ブルーの目は、ジョミーの気のせいと言ってしまえばそれまでだが、相対しているジョミーを捉えていないような気がする。上方より注ぐ光線の加減だろうか。いつもは、視線を向けられるだけで射抜かれて、何もかも見通されてしまいそうな、崇高なまでの力に満ちた鮮烈な瞳が、ジョミーの胸の内まで迫るように感じるのだが、今はまるで、それに捉えられているという感覚がない。瞳の奥に、映っていないのではないか、そんな不安さえかき立てる。
そう思って見れば、鮮血を透かす瞳はどこか力なく虚ろで、焦点を結ばず、ただ開いているだけといったようにも見てとれる。まるで丁度、混濁した曖昧な意識がそのまま透かし見えるかのような――ジョミーが息を詰めて観察しているうちに、ふとその睫が震える。翳った瞳が揺れて、瞼が緩慢に下りていく。静かな動きは、途中で少しだけ留まったけれど、抗うことは叶わず、やがて双眸は完全に閉ざされた。代わりに、持ち上がったブルーの腕が、寝台についたジョミーの手の方にのびて、軽く手のひらが重ねられる。吐息をこぼすと、ブルーは小さく呟いた。
「時間稼ぎ、かも知れない……君が、いる…から、」
途切れがちに紡がれる、掠れた声を聞いて、ジョミーは今更ながら、先にブルーが眠ると言っていたことを思い出した。そう言って一度は目を閉じたブルーと、今まで普通に会話を交わしていたので、すっかり失念していた。ブルーを襲う眠りは、ある程度、意志の力で先延ばしにするくらいの少しばかりの抵抗は出来ても、矢張り根底において不可避なのだ。
時間稼ぎ――ブルーが強制的に意識を奪われて、いずれ手放す、眠りに就くまでのことだろうかとジョミーは思った。ぎりぎりまで起きて、会話して引き留めた、その意図は何なのか、尋ねる前に、ブルーが重ねたジョミーの手を握る。それで機会を逸してしまい、結局ジョミーは疑問を口にすることが出来なかった。ブルーもそれ以上は言葉を紡ぐことなく、やがてジョミーの手を掴んでいた手が力なく外れて、彼が眠りに落ちたことを教えた。
ああ、落ちた(――こうしてジョミーは、思っていたのとは多少違うかたちではあったが、ブルーが眠る瞬間を知ったのだった。ずっと避けてきた、それは、何ということもなかった(。何ら衝撃を受けるようなこともなかった。あまりに自然で、あっけなく、ただ静かだった。特筆すべきこともなく、それでもあえて言うならば――何でもなさすぎた。
こんなものなのか、とジョミーは思った。ブルーが、いつ覚めるとも知れぬ眠りに囚われる、それはジョミーにとって堪え難く、恐ろしくさえある一大事だ。それが、こんなにも簡単なことだと知って、ジョミーは無性に悲しくなった。何でもないことを確かめたくて、だからそれは望ましいことであった筈なのに、その手応えの無さが、悔しくて堪らない。胸を占める得体の知れぬ虚脱感、どうしようもない己の無力に、ジョミーは思わず寝台に顔を埋め、やり場のない叫びを堪えた。
後日、ジョミーは改めて、あの時ブルーが何を言おうとしたのかを尋ねた。嬉しいのとは違う、ならば、傍らに僕がいて、どうだというのか。ブルーが意識を沈ませている間ずっと、ジョミーは次に彼の目が覚めたら、一番にそれを聞きたくて仕方がなかった。いわば睡魔に囚われてのうわ言めいた言葉だったことを思うと、もしかしたら記憶にないと言われるかも知れないとも考えられたが、どうやらブルーは覚えていたらしい。あれは、と言って、少し間を置いた後、ブルーはジョミーに説明してくれた。
「君がいるから、眠れない。嬉しいからだ。嬉しくて――恐い」
ジョミーが傍らにいるということを実感するのが、ブルーは嬉しい。堪らなく嬉しい。それは確かだ。出来ることなら、ずっとその存在を感じていたいと欲する。しかし、強制的な眠りがそれを許さない。手が触れるほど近くにジョミーがいて、嬉しくて堪らないのに、それを振り払って、独りで落ちていかなくてはならない。近ければ近いほどに、嬉しいほどに、離れゆくのが惜しく、辛く、恐い。
それを聞いて、ジョミーは正直なところ、驚いた。ブルーが眠りに落ちる、それが恐いことだと感じるのは、自分の方ばかりであると思っていたからだ。超越者たるブルーは、何に心乱されることもなく、緩慢な死さえも穏やかに受け容れるように、ジョミーには見てとれた。だから、ブルー自身もまた、恐れを抱いているかも知れないということまで、考えが至らなかった。知らぬ間に、二人して、同じものに背を向けて、見て見ぬ振りを装っていた。ジョミーがずっと、ブルーの眠る瞬間を避けてきたことは、ジョミーだけではなく互いにとって、恐れを直視しないで済ませる働きを持っていたのだ。ジョミーは辛い場面を見なくて済むし、ブルーは、ジョミーが傍らを離れていくことによって、余計な未練を持たずに諦めて、静かに入眠することが出来る。間合いを保ち、あえて踏み込まないことで、うまくやってこられた。それでも、結局こうなったのは、互いに心のどこかで求めていたからなのだろう。
ジョミーが立ち去らなかったあの日、ブルーは、ジョミーがそうして傍にいてくれたことが、とても嬉しかった。恐れに立ち向かわんと、ささやかな決意をしてくれたジョミーが、頼もしく、とても愛しかった。心穏やかなひとときに、ゆっくりと浸る間もなく眠らなくてはいけないのが悲しかったが、独り闇に落ちるまでの間、愛しい子の手を握っていることが許されて、少し安堵した。だから、君がいてくれるなら眠るのも悪くないのだけれど、嬉しいのに眠らなくてはいけないのがとても惜しいのだ、とブルーは言った。
時間稼ぎと言ったのは、意識が途切れる瞬間まで出来るだけ長く会話して、接していたかったということなのだなとジョミーは理解した。ブルーがそれほどにジョミーの存在を気にして、心持ちを左右させているということを、ジョミーは初めて知った。船の中にいる限り、どこにいたって同じことだから、ブルーは特に気にしていないだろうと思っていたけれど、矢張りブルーも、ジョミーが他の場所にいるよりは青の間に、そして寝台の傍らにいる方が良いと思っているのだ。近ければ近いほど嬉しく感じる、ブルーも自分と同じなのだと分かって、ジョミーは新たな発見に心を躍らせた。
今まで知らなかったのは、そんな思いの一切を、ブルーが完璧なまでに隠していたからだ。眠る直前、ジョミーの手を握った、あんなことは、常のブルーならばまずしないだろうと断言出来る。傍にいて欲しいなどと、ジョミーを縛るような身勝手は決して口にしないだろうし、個人的な感情は全く見せようとしない。だから、あの時は特別だったのだ。じわりじわりと迫る眠りの予兆に、抱く不安とほんの少しの情動の乱れが、ブルーの精神状態を通常より感傷的なそれに傾けて、ふと表出した正直な思いが、ジョミーにも垣間見えたということだ。それでも、睡魔に囚われながらだというのに、まだブルーの心は固く閉ざされて、殆どジョミーに開示されなかった。知ることが出来たのは、ほんの僅かばかりだ。身勝手をしたと、ブルーは気にしているようだけれど、あの程度、我儘というにはあまりに慎ましやかで、むしろ可愛らしいほどだ。
ブルーは、指導者としての使命のためなら、いっそ強引とさえいえるほどに躊躇いなく、率先して動くというのに、自分自身の思いや感情については、滅多なことでは発露しないよう、過剰なまでに封じ込めようとする。別段に、一見してブルーが冷徹で無感動な人となりであるということではない。彼は苛烈でこそないが、ちゃんと場に適した表情を備えている。ただ、ブルーが表出してみせる感情と、ブルー個人の抱く感情が、必ずしも等しくはないということに、遅まきながらジョミーが気付いたのは、新たな環境に順応してだいぶ経ってからだった。
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