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等加速度落下 / Sugito Tatsuki








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そもそも初めから、ブルーは、ジョミーの理解を超えたところの存在だった。ジョミーは、この艦(シャングリラ)で初めてブルーと対面した時、恐いくらいに静かな相手だと感じた。その静けさに、思わず圧倒された。こういう人間に接する機会は、ジョミーのこれまでの人生経験の中に、およそ組み込まれていなかったからだ。

連れて来られた船上で出逢った、感情過多という共通特性を持つ人々は、いずれも己の心に素直であるように見えた。中庭で戯れる子どもたちが無邪気なのは勿論、青年たちだって、ジョミーの一挙一動に大げさなほど驚いたり、憤ったり、悲しんだりするから、どこに行っても何をしても、いちいち衝突する羽目になった。こんな集団の中にあっては気力も体力も消耗しきってしまう――それがジョミーの第一に抱いた感想だった。
それでいつになく神経が昂っていた時に、他の誰とも絶対的に違う存在なのだと知れる静けさを纏ったブルーと対面し、ジョミーはその落差に正直、戸惑いを隠せなかった。考えが読めないのは、自分が子どもだからその深慮を理解出来ないのだとして、穏やかな声の向こうにあるべき感情の波までが、全く見出せない。荒々しく呑み込み砕かんとする激情には程遠く、静まりかえって端から浸し、何もかもゆっくりと静寂に沈めていく。蒼い闇に広がり、微動だにしない冷たい水面と同じだ。何からも隔絶し、何に乱されることもない。その少しの間の接触で、ジョミーは、この相手には感情が無いのかも知れないと結論づけた。

それが間違いだったとして訂正するためには、彼の記憶を注ぎ込まれて、全てを賭けた彼の思いを知り、託された者としての己の果たすべき役割を間近で言い聞かせられる必要があった。落下するブルーを追いながら、ジョミーは、その溢れる感情に触れた。存在の実感が儚いと思っていた、ブルーが初めて、ちゃんと生きているのだと、強く確かに感じ取れた。それでジョミーは、静かで冷たいブルーというそれまでの認識を改めたのだが、誤解が解けそれで一件落着、と済ませられるほど、事は単純ではなかった。
ブルーを理解する、言葉としては易しいその仕事は、ともすれば永遠に達成不可能なのではないかというくらい、ジョミーはまた新たに生じた疑問に囚われている。それは、他愛のない感傷的な戯言と言ってしまえばそれまでの、しかしジョミーにとって避けて通れない命題だ。すなわち、ブルーが表出する感情は、いつだって指導者としての望ましいそれであって、彼自身のありのままの思いは、どこにもないのではないかという疑いだ。

感情が無い、という第一印象は、あながち間違いでもなかったのではないかとさえ思える。例えば、彼があたかもこちらに心許したかのように微笑んでも、実際、遮蔽された心の奥は、少しも推し量れない。当然だ、代わりの効かぬ指導者たる彼が、無防備にも誰かに心許すなど、あってはならない。ブルーはそうあるべき望ましい感情だけ、あたかも備えているかのように振る舞う。ヒトが誰しも当たり前に抱く、不合理で、醜悪で、破滅的で、愚かな感情を、ブルーだけは許されない。
そういう意味で、ブルーはもう半分くらい、ヒトではないとみなされている。唯一絶対の存在として負う責務を考えれば、そうあることは必要な前提条件であったのかも知れないけれど、ジョミーは不満に思う。ブルーの根源の部分を否定して、都合良く作り変えて、きれいな偶像として崇め奉る、そんな不健全なことが成立すべきではない。生起する情動を抑圧して封じろなんて、彼に生きるなと言っているも同義だ。
善良で無力な筈の人々が、ブルーを追い詰め、残酷なまでの理想を強いた――あまりにひどい、とジョミーは思う。誰とも分かち合えずに独りきりなのは、悲しいことだ。ブルーだって、きっと寂しいのに決まっている。彼がそんな風に感じているわけがない、などというのは他人の勝手な決め付けだ。たとえ全ての人々がそう思ったとしても、ジョミーは知っている。あの時、眠りに落ちる間際、ブルーは確かにジョミーの手を、恐れから逃れるかのように握った。離れないで欲しいと願った。何の偽りもない、それが、あってはならないこととして否定されなくてはいけないなんて、ひどい話ではないか。

ブルーはもっと、正直な思いを言っていい。そうしたらジョミーも嬉しいのだから、ブルーは躊躇う必要もない。互いがそれでいいと思うのなら、他から強要された理想像や禁忌なんて破棄していい筈だ。
少しずつだっていい、あなたをもっと教えて欲しい、ジョミーは訴えた。ブルーは戸惑う様子を見せたが、最終的には頷いて、そして小さく「嬉しい」と言った。今度は間違えたと言って否定することもなかったから、本当に喜んでいるのだろうなと思って、ジョミーの方こそ余程嬉しくなった。



初めは、眠りに落ちる直前の、頑なな抑制の少し弱まった時、表してくれればいい。それだと時間が限られているし、眠りに囚われて忘れてしまうかも知れないから、いずれ、二人でいる時ならいつでも、伝えられるようになればいい。根気よく待つのだ、とジョミーは思った。
情動を認めることに慣れていないブルーが、少しずつ心開けるように、手を貸す。彼が初めて得た、同等の存在たる自分には、何も隠さず吐露していいことを教える。それでブルーが、自分自身を抑圧して抱き留め続けた苦痛を、僅かでも和らげて安らぐことが出来たら、とジョミーは願う。これまで、気の遠くなるほどの時間、ブルーを苦しめてしまった、もっと早くに彼に出逢って苦悩を分かち合うことが出来なかった、自分が今から出来る、これがせめてもの真摯な行為だ。

頂点に立つ指導者たる彼に何かを為してやろうというのは、思えば身の程知らずにも過ぎる意図であろうが、自分にはそれが出来るとジョミーは知っている。自分にしか出来ないし、やらなくてはいけないのだと知っている。受け継ぐ者の役目として周囲に期待される働きだけではなくて、それとは別に、ブルーを支えて助けたい。そうせずにはいられないくらい、彼に惹かれ、彼を好きだと思うからだ。ジョミーはブルーが好きだから、彼のために何かを為して、出来るなら、彼に与えたいと望む。ブルーのために、与えたい。

間違えてはいけないのは、自分のためにブルーが感情を生起しているのではないということだ、とジョミーは己に言い聞かせた。ジョミーの前でのみ表層に浮上するという条件がついただけで、それはブルーの内に、絶えずずっと沈み込んでいるものなのだから。ジョミーは、抑え込まれたそれを解きほぐす、少しの手伝いをしているだけだ。そこを忘れて思い上がってはいけない。
――少しだけだ。ジョミーは思った。少しばかり、そう、譬えて言えば、ずっと張りつめた緊張を解かして泣く者に、胸を貸してやるようなものだ。そのほんの少しの手助けが、ささやかだけれど、きっと代わりの効かない、大事な役割のひとつなのだとジョミーは自認している。

その意味で、ブルーは泣きたがっている。これほどに泣くべきで、許されるべきなのに、それが出来ずにいる人をジョミーは知らない。それこそ字義通り、単純に涙を落とすことをはじめとする、一連の感情発露を自戒したブルーは、真に心を安らげる時も一緒に失くしてしまった。自らの立場にそぐわぬ行動は、許されぬ振る舞いとして抑制し、頑なに情動を表出しない。必要以上とさえいっていい、厚い障壁に覆われて、誰も知る術ないその内心を、推し量ることが出来るのはジョミーだけだ。
抑え込んだ感情を、それでも時に露わにしたいと望まずにはいられない、ブルーの切ない欲求が、ジョミーには分かる。だから、ジョミーはブルーを許してやって、見守ってやるのだ。慰めてやったり一緒に泣いたりと積極的に働きかけるわけでもなく、また、目を背けて耳を塞いで拒絶の態度をとるわけでもない、それは見守るといったところが実に相応しい。

何をするわけでもないけれど、ただそこにいて、ブルーが安堵出来るようにする。ほんの少しばかりの自由を保障する。それは多分、ただ一人の同じ存在として、誰より彼に近しくて、その思いを分かっている、自分だから出来ることだとジョミーは知っている。ジョミーにはブルーしかいない、というのは誰しもの同意するところだろうけれど、同じように、ブルーにもジョミーしかいないのだ。ただブルーが日常、他者に頼ったり縋ったりするのとは程遠いところに位置しているから、傍目にはそれと分からないだけだ。

多分、ジョミーが思うに、ブルーは自分の衝動を誰かにぶつけるなんてことは、意図することすらないのだろう。ブルーは自分のために他人を傷つけない。情動さえ、既に表出の仕方を忘れてしまった。ブルー自身、どうしたらいいのか分からないのだ。触れて欲しい、認めて欲しいと求める思いが募っても、戸惑うことしか出来ない。だから、自分が助けてやるのだ、とジョミーは思う。彼に見出された異端の中の異端たる自分が、彼のためだけに、教えてやるのだ。
それは、探って暴いていく、というのとは異なる。拒むブルーを強引に押し拓いていく、そんな一方的な行為とは根本から違っている。主導はあくまでブルーの欲求であって、ジョミーはそれに上手く己を沿わせていく。
それでいいのだとジョミーは思う。ブルーが望むようにしてやれることが、彼のために役立っている確信を得られて、心は充足を知る。

気恥ずかしいのか、ブルーが躊躇いがちに「触れていたい」と告げて、それでも自分から腕を上げることはなく、答えが与えられるのを待つ。その度に、「許可を求める必要なんてない」とジョミーが応える。ぎこちない遣り取りを幾度か交わして、ようやくブルーは己の望むところを行動に表せるようになった。
ブルーが焦燥のままにジョミーの腕を掴んで縋れば、ジョミーは決してそれを振り払わない。困惑しないし、憐れみもしない。ただ、彼が疲れないように、身を寄せる。あなたを受け容れているのだ、泣いたって良いのだと、無言の内に伝えている。

あなたの全てをさらして良い。
あなたが許されないところなんて一つもない。
僕は、あなたを独りにしない。

ジョミーは心で語りかけ続けるのだった。

そこには二人の無言の対話が成立している。ブルーが自分の欠落をさらけ出して、ジョミーに問いかける。ジョミーはゆっくり頷いて、認めるのだ。痛々しく欠落だらけで、誰にも隠して、誰から認められることもなかった、ブルーを見つめて、認める。そんなジョミーの素直な接触が、どれだけブルーの救いになったのか、それは分からない。だいぶ感情の表出を思い出したといえ、ブルーは助けてくれとは言わないし、時々ジョミーがブルーにするような理不尽な訴えも口にしない。溢れる生々しい情動を、勢い任せにぶつけるなんてこともない。涙を落とす時さえ、ブルーは静かだ。

けれど、ブルーはジョミーを求めた。もっと奥まで触れて欲しいと望んだ。常ならば隠し通さなくてはならない、見るに堪えない愚かな情動の、ありのままを、ジョミーにだけ、開示してみせた。拒まれれば修復し難い傷を刻むと知って、しかし、差し出してみせたのだ。
確信が得られずとも、そうして決意してくれた、何より自分を信じてくれたのだと思うと、ジョミーはそれだけで嬉しかった。精一杯に応えようと思った。とはいえ、ジョミーに出来ることは、自ら線引きをした通り、ほんの少しばかりだ。ブルーを認めて、見つめて、奥底まで見つめて、触れて、それと知る。抑圧された衝動を、上手く表現出来るように支え、手を貸してやる。そんな、かたちのない受容的態度だけでは、ジョミーの内にあるブルーへのもどかしい思いは募る一方で、いずれ我慢出来なくなるのも時間の問題だった。

だから、それが次第に、ただの手助けだとか胸を貸すだとかの譬えに表す精神論だけに終わらなくなって、とうとう行き着くところまで行ってしまったのも、別段に道を誤っただとか踏み外しただとかのゆえではなく、根底においては変わらずちゃんと最初からの延長線上にあるのだとジョミーは思う。ただ、触れる対象がかたちを持っただけのことだ。躊躇う必要などなくて、むしろこれは望ましいことなのだ――薄れていく、かつて自分の引いた境界線を、ジョミーはそうして自ら破棄し、踏み越えた。












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