等加速度落下 / Sugito Tatsuki
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ブルーをもっと知りたい。どれほど近くなっても、愛しさは募って、もっとずっと知りたくなる。
例えば、我らが指導者に日常的に接することも姿を目にすることもない、数多くの人々が、それでも見たことのないブルーに深い憧憬の念を抱くのは、言うなれば、地球への思慕とよく似ている。それぞれの内に想起する姿かたちは、実像と酷似する必要さえなく、ただ美しい。それは概念としてしか存在し得ない、ゆえに完全なるものとして心を引きつける。
手の届かない憧れに焦がれる思いは、達成されてはならない。叶わぬ対象に向けてこそ、崇拝は成立する。それは都合良い幻想に支えられたところが大きい。情報が少ないほどに、欠落した部分は各人の好きなように補われて、理想のかたちを創り上げる。それが現実と乖離している実情に気付いた時、どれだけの者が己の過誤を認め、受け容れることが出来るだろうか。頑なに抱いて最早信念と化した幻想は、打ち砕かれてなお、棄てることが難しい。
他者と共有されない、細分化した要求に応じる最適の偶像は、どこか探し求めるべき未踏の地などに存在するのではない。答えは初めから知られている。己の欲するところを一番よく知っているのは、いつも自分自身に他ならない。個人の脳の中にしかないものを、それと気付かぬように目を塞ぎ耳を覆って、真摯に崇め奉っているのだ。
自分の思いはそれとは違う、とジョミーは思う。ブルーはジョミーとは全く別個に確立している。曖昧な幻想の上の存在などではない。いくらでも都合良く創り上げることが出来る偶像などではない。ブルーに何ら強要する理想などある筈もない。こうあって欲しいブルーの姿を思い描いて、投影し、いつしか瞳を曇らされて彼を見失う、自分はそんな愚か者ではないことを、ジョミーははっきりと言い切れる。
ブルーに触れる毎に、ジョミーは確認しているのではなく、見出しているからだ。己の内に初めから規定しておいて、本当にそうであるのか疑い、実際に確かめて安堵する、一連の作業などではない。ジョミーは自分がブルーを知らないということを素直に認めている。彼を全て分かっているだなんて思い上がって、勝手な妄想を押しつける行為がいかに愚かであるか、ジョミーは承知している。
ブルーを知らない。だから、予測や想像ではなくて、ブルーを知りたいと望む。ジョミーはブルーをこの上なくよく知って、そのありのままの姿の美しさに心ひかれる。何度でも、触れて、知るごとに、求めて已まない。いくら身体を重ねても、まだ足りず、欲し続ける。
ブルーの頬は冷たいが、こじ開けた口腔は温かく、ぬめる柔らかな感触に絡めとられて融け落ちていきそうだ。何度味わっても飽きぬ感覚に、ジョミーは思った。
落ちていきそうだ(、などと命名をしたものの、これは実のところ、ジョミーのオリジナルの感覚ではない。ブルーを模倣してみたのだ。
ジョミーはブルーを通じてそれを知った。この上なく身体を寄せて、共に昇りつめたとき、遮蔽を弱めたブルーの感覚が、触れあわせた皮膚からジョミーに流れ込んだ。それを味わうかたちで、ジョミーはブルーの言う虚無的な落下を疑似体験した。
奇妙な浮遊感と、危ういところで成り立つ不安定な均衡、上手く掴むことも立脚することも出来ず不安が拭えない、小さな恐れがじりじりと端から焼けるような焦燥。拠って立つ地面がぐらりと傾いで、バランスを失った上体が、それでも何に叩きつけられることもなく揺らいだままの、縋りつくべき物理法則から放り出された、曖昧な状態。熱の高まる身体はこの上なく存在の実感を覚えさせるというのに、何故だか不意に、引き倒されてそのままずっと、掴むものなく落ちていきそうな感覚に襲われる。確かに繋がりあっていても、そんなことは関係なく、手を伸ばす間もなしに、独りで加速的に落下していく。
ブルーが感じているのは、こんな風に落ちる感覚だ。幸か不幸か、そういう感覚を、ジョミーは自発的に覚えたことがない。ただ何とはなしに、落ちていくなら多分、自分ではなくてブルーなのだろうなという気はする。単なるイメージの話だ。力強く、かつ優美に飛翔するブルーは、いずれその身に傷を受けて落ちゆくだろう。落下するブルーを、この手が強く引き寄せて繋ぎとめるだなんて、正に自分たちのありようを的確に表しているといっていい、ジョミーは思うのだった。
落下することを、ブルーは言語化されない原初的な恐れとして、常に意識の底の方に抱いているようだ。ジョミーにそれが分かるのは、時にブルーが「落ちる」と口に出して言うことがあるからだ。普段の彼はそんな不用意な発言はしないし、落ち着き払った態度からは何の不安要素も感じさせない。ただ、本人も意識していないだろうところで、それはふと表出して知れる。ぎりぎりまで追い詰められると、ブルーはいつも、うわ言のように、落ちる、落ちてしまうと言って息喘ぐのだ。殆ど自分自身も何を言っているのか分からないだろう状態の、ブルーの瞳は熱に浮かされて焦点を結ばない。
その反応の仕方にはもうジョミーも慣れて、今はブルーが感じていることの一つの指標のようにみなしている。ああ、また言ったと、その度に小さく心が躍る。寝台に背を預けているのだから、物理的には特に危険も心配もない、などと無粋な口を挟む気は、ジョミーには端からない。せめて薄い肩をシーツに押さえ込んで、ここにちゃんと固定されている安心感を与えてやろうとするけれど、それでもきっと心身の安定には程遠いだろう。異を唱える余地はない。ブルーが落ちると言うのだから、そうなのだ。今この時に、正しくブルーの感じているものが、そのまま言葉に紡がれている。どう表現したらいいのか、他に方法を知らず、拙い言葉を綴る、懸命な様子が愛おしい。覆い隠すものない、露わになったブルーの中心に直接、触れている気がして、ジョミーはささやかな充足を知る。
ブルーにそれを言わせることが出来るというのが、自分の手柄のようで、ジョミーは嬉しく思う。正直な思いを、感覚を、言って欲しい、もっと伝えて欲しいと、欲すれば自然に気が急いてしまう。
落ちる、もう一度ブルーが小さく悲痛な声を上げるから、ジョミーの心臓は得体の知れない後ろめたさで締めつけられる。落ちてしまうのは、幸せなことだろうか、最後に行き着いたその先には、満ち足りて溢れる至福の境地があるのだろうか。それとも、それは途方もなく孤独で恐ろしいことなのだろうか。ジョミーは抽象的な思考を馳せた。
少なくとも、ブルーは落ちていきたくはないらしい。ブルーは、離れてしまうのを恐れるように、か細い腕を上げてジョミーの肩を掴む。けれど、震えて力の入らない指先は、激しい上体の動きについていくのが難しく、すぐに外れてしまって、ブルーは焦燥のままに何度も掴み直す。少しの間でも、手を離せば落ちてしまうというように、肩に、あるいは腕に、何度も手を伸ばす。
その懸命さは、庇護者に縋りつきたいのに、振り払われて、拒絶を受けた子どものようだ。拒まれても、他に頼るものを知らず、安堵を得られる術を知らず、健気にも傷ついた小さな手を差し出して、触れることを許して欲しがる。しがみつくことを許して欲しがる。出来ることなら、抱き締めて欲しがる。
安心させて欲しい、大丈夫なように、背中を支えて欲しい、恐れなくていいように――落ちない、ように。
殆ど反射といっていい程の勢いで腕をのばし、ジョミーはブルーを力任せに抱き寄せた。少しばかり辛い体勢で筋が軋んだけれど構わない。どうしたらいいのか、どうして欲しいのか、少しも分からずに、けれど溢れる情動は間違ってなどいない。何がブルーにとって良いことなのかではない、自分がそうしたいからするのだ。ジョミーは己の思いだけに意識を任せた。
あなたを離さない。あなたを繋ぎとめるのだ。
あなたの後ろには、果てない深淵が口を開けている。そんなところへ、あなたが呑まれてしまってはいけない。落ちていってはいけない。
あなたは僕にしっかりと縋りついて、僕はあなたを固く抱き締める。渡すものか、渡さない、あなたを決して、僕から離さない。
ブルーの儚い背に腕を回して、支えながら、意思なのか衝動なのかもう分からないままに、ジョミーはひたすら心で叫んだ。
身体を離して、それぞれ徒労感のままに休めばいいのに、ジョミーはなおもブルーを抱いて離そうとしなかった。ブルーは何も言わないけれど、たとえ離せと言われたところで、ジョミーは従うつもりもなかった。気が済むまで肌を密着させていたくて、ジョミーはブルーの背中に回した腕に力を込めた。
初めて、身勝手をしてみたのだという実感がある。ブルーが落ちていってしまうことが、ジョミーは恐くて、不安で、嫌で堪らなかったのだ。ブルーが落下に恐れを持っているのならば、ジョミーは憎しみを抱いているといっていい。もどかしい思いのままに抱き締めた。ブルーの気持ちは分からないままに、彼を思う余裕もないままに、身体は勝手に動いた。その時、ジョミーは己の内に抱いた欲求の本質に、とうとう向き合わざるを得なかった。
少しだけだなんて、制限していられる筈もなかったのだ。ジョミーは内省した。ブルーに身体を寄せたかったのは自分の方だ。ブルーの情動をあらわにしたかったのは自分の方だ。何の見返りも求めずに、助け、支えたかったのではない。そんな高尚な精神ではなかった。ブルーに与える一方で、それ以上に、ブルーから欲していた。引き込まれ、浸され、加速する欲求を、留める術はなかった。気付かずにいたことが、明瞭なかたちで認識させられていく。
――ああ、そうだったのか。ジョミーはようやく知った。
手を貸してやるなんて、辛い心情を吐露して安らげるようにしてやるなんて、喜ばせたいなんて、どれも歪んだきれいごとに過ぎない。本質はそれとは違う。そうではなかったのだ。ありのままのブルーを認め、何の欲求も押し付けずに愛する、そんな崇高な態度を、せめて表面だけでも保っていることすら出来なかった。当たり前だ。むしろ、よく今まで言い訳を立て続けられたものだと、ジョミーは自分自身に感心すら覚えた。
ブルーを喜ばせたかったのではない。
彼を、従えたかったのだ。意のままにしたかった、望むようにしたかった。ただの身勝手以外の何ものでもない。彼に指導者としての理想像を強要した人々の行為と何が違うだろう。それどころか一層に酷いではないか。彼に偶像を重ねて見るのではなくて、彼の方を望ましいかたちに変えようとした。彼に求め、欲し、奪ってやろうとした。少しずつ暴き、引き摺り出して、喰らおうとした。その全てを知って、刺激と反応の連合関係を把握して、自分のことのように思い通りに出来たなら、同一のものになれると思ったのだ。受け容れる振りをして、抑圧した無意識の下で、いつも強烈な独占欲が、熱を抱いて横たわっていた。
ブルーの抑圧した情動を許して、安堵させてやりたいというジョミーの意図は、ただそれだけを目的として終わるものではない。それは真に求めるところに至るための通過点であって、ただの手段に過ぎない。あたかも彼のためを装って、実際には、自ら進んでブルーから望ましい言葉を引き出していた己を、ジョミーは否応なく自認させられた。
ジョミーが知りたかったのは、ブルーの本当の感情で、その中でも、専らジョミーへの思いだけを聞きたくて、他はどうだってよかった。ブルーにひたむきに求められることが、ジョミーは嬉しくてならなかった。ブルーには自分しかいないのだと、実感し、安堵した。そして、ジョミーはブルーがずっと自分だけを、最後まで、すなわち落ちるまで、求めてくれることを欲した。どんなに自制して、自分を戒めたところで、切なく募る誘惑には抗えない。ブルーの思いが、もっと欲しい、ただ自分のためだけに感じて欲しいと、際限なく求めてしまう。
ジョミーは、これまでブルーに何度も何度も繰り返し尋ねてきた。その度ブルーは、呆れることもなくいつも、答えを返してくれた。
「嬉しい?」決まってジョミーはこう尋ねる。「嬉しい」と、ブルーは必ずそう応える。初めてその言葉を紡いだ時と同じように、まっすぐにジョミーに応えてくれる。決まりきった遣り取りは、傍から見れば滑稽かも知れない。ジョミーは確かめるように、ブルーに何度もその答えをせがむ。焦燥に駆られて、縋りつくように迫る、ジョミーにブルーは、いつまでも付き合ってくれる。面倒がらず、何度だって、嬉しいと言ってくれる。だからジョミーはようやく安心出来るのだ。
普段、親しく触れあっても、ブルーはあまりはっきりと個人的な感情や思いを表現してくれない。また、改めて問いかけるというのも気恥ずかしいようにジョミーには感じられて、なかなかその本当の思いを知る術がない。だから、こんな風に、身体と一緒に、互いの心が少し近づく気がする時は、いつも押さえ込んでいた欲求が堰をきって溢れ出す。焦燥を抑える術はなく、あらゆるかたちで、確かな証を欲して迫る。
僕が必要なのか。
僕がいて、あなたは嬉しいのか。
僕を、あなたはどれくらい、求めていて、思っていて、愛しているのか。
そんな一つ一つの叫びを、ジョミーはどうして表現したらいいか分からない。ただ、ブルーが一言「嬉しい」と言ってくれることで得られる安堵だけは知っている。それが欲しくて、不安を解消したくて、ジョミーは問うのだった。自分は間違っていないと、ブルーによって確証を得ようとした。
ジョミーは、ブルーが本当は自分のことを何とも思っていないのではないか、何も感じていないのではないかと、不安で堪らない。ブルーから認められなければ、ジョミーは独りになってしまう。心の底の本当の思いなんて、どうあっても知ることは叶わないのだから、思い悩むのは無意味だと、分かっていても心を囚われてしまう。独りになるのは、それだけ、とてつもなく恐いことだ。だから、ジョミーは証を求める。ジョミーにとって、ブルーとの遣り取りは、ただひとつの信じられる証だ。ブルーが自分を見ている、感じている、それが互いを繋ぎとめているという証だ。ブルーに「嬉しい」と言わせることが出来る自分を、ジョミーはそうして確認し、ブルーに映る自分に安堵する。甘く優しいその術を知ってしまって、最早、ジョミーはブルーを離すことが出来ない。
ブルーが独りで落ちていくのを、ジョミーは許せなかったのだ。彼自身がどう捉えているか、何を思っているか、そんなことは問題ではない。強い衝動の理由はそんなところにはない。ただ純粋に、ジョミーは許せなかった。ブルーが独りになることを、すなわち自分を置き去りに、独りにすることを、ジョミーはどうしても、許すわけにはいかなかったのだ。
僕がいて、嬉しいと感じるのなら、あなたは決して僕を離れてはいけない。
あえて辛いところへなんて、落ちていかなくていい、喜びのあるところに、ずっと留まっていればいい。
ブルーの背を支えながら、ジョミーは、この腕が彼を縛りつけたまま外れなければいいのにと願った。ブルーはいつか、本当に落ちていってしまう気がする。そうして決定的に断絶してしまうのだ。嫌だ、切り離すものかと、ジョミーは結末を否定する。
ブルーを繋ぎとめることで、ジョミーは自分自身を繋ぎとめていた。欠落を負わずに済むよう、もがいていた。ジョミーはブルーを失うわけにはいかない。決して、失うことは、出来ない。
あなたは僕と同じなのだ。ジョミーは思う。ブルーの痛みはジョミーの痛み、ブルーの苦しみはジョミーの苦しみだ。二人は同じものを分かち合わねばならない。
あなたが落ちていってしまえば、きっとあなたは苦しいのだろうけれど、あなたを失くした僕の方が、ずっと痛いのに決まっている。思いが募る毎に、ジョミーは確信するのだ。
もしかしたら、ブルーを引き戻したのではなくて、逆に、落ちゆく彼に引き寄せられたのかも知れない。ブルーを繋ぎとめるために、彼を追って、共に落ちていったのかも知れない。
どちらにしても、それはどうでもいいことだ。ジョミーは思う。
一体、どこの地平に立っていようと、果てない宙を漂っていようと、何の違いがあるだろう。座標の絶対位置を規定する原点などは実存しない。どこだって同じだ。
あなたさえいれば、どこでも同じことだ。
ブルーが落ちていくなら、ジョミーは彼を引き留める。それで無理なら、ブルーと共に落ちていく。
落ちるなら、自分よりブルーという気がする。しかし、ブルーの後は、きっと自分なのだとジョミーは思う。
僕とあなたは同じなのだから。
僕もいずれ、地の底へ落ちる。
その先まで、落ちゆくだろう。
End.
ブルーに対する受容と共感のつもりが、いつしか自分のことしか考えられずに逆転移に至るジョミというイメージでした。でも矢張り強引行動派でこそのジョミだと思う。
2008.05.08-06.03