等加速度落下 / Sugito Tatsuki
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ブルーが触れていたいというのなら、いつまででも手を繋いでいていい。同じように、今度は、触れて欲しいとブルーが望むから、ジョミーはそれを叶えてやったということだ。これも手助けの一環だと、少なくとも最初の内、ジョミーはそうみなしていた。成程、ブルーがいくらジョミーの腕を掴んだところで、ジョミーがそれに応えなければ、安堵を得る助けにはなるまい。さあ心を開けと言って待つのではなく、ブルーを認める姿勢を、まずこちらから実践的な行動として提示することも必要なのではないか。それでブルーが頑なな遮蔽を解けるのならば、実に望ましいことだ。
例えば、何らかの行動を生起するだけで己の存在を確信出来るほど、ヒトは単純に出来ていない。自分の行動に対して、外界から何らかの反応、見返り、評価を得て、初めてそこに意味が生じる。何に働きかけることも出来ないのならば、それはここにいないのと同じことだ。
手の届かない天窓に向かって、いつまで背伸びを続けるだろうか。誰もいない閉鎖空間で、いつまで壁に向かって叫び続けるだろうか。働きかける一方で何も返って来ない、無意味な行動はヒトの存在意義を根底から揺るがし、精神に多大な負荷をかけることは言うまでもない。かつて異端種として囚われ、およそ他者との接触を断たれた者たちの多くが、健常な精神の活動に支障をきたした事実も、それを証明している。いくら意志を強く持とうと、ここに繋ぎとめられていない、何とも関係していない、何も変えられない――不安からは、誰も逃れる術はない。
だから、ブルーがジョミーを確かめるように縋るのであれば、ジョミーはそれに相応しい反応を返すのが当たり前で、正しく為すべきことなのだ。ジョミーは確信した。ブルーが心を解いて開示するのをただ愚鈍に待っているなんて、人形にだって出来る。自分が今、為さねばならないのは、もっと踏み込んだ行動なのではないか。思うと、ジョミーは初めて、自ら進んで手を伸ばした。
一線を越えた働きかけを行なっていることについて、特にやましい思いも持たず、ジョミーは愛しくブルーの髪を撫でた。穏やかな情動の波が伝い知れて、ジョミーは素直に喜びを感じた。
ただブルーを支えてやるだけでは、いつしかジョミーは物足りなくなっていた。ブルーが心安らげていくのを、じっと根気よく待っているのは、もどかしい。もっと強く、彼を導いてやるのが自分の役目だ。ジョミーは思った。
ブルーの感情を表出させるのに自分の手が加わって、自分のためにブルーを感じさせたいと、目的が移り変わりつつあることも、ジョミーは自然の流れとして受け止めていた。気の遠くなる年月をかけてブルーの内に積み重なり、凝固したものを、少しずつ溶かしていく作業は、成果が分かり難く、中途半端な達成感しか残らない。ブルーに情動を呼び起こしたところで、それはかつてのブルーのものであって、ジョミーとは関係がない。一方で、今この時に、自分の手によってブルーが素直な感情を生起し表出する、それはシンプルで分かりやすく、ジョミーの求める充足感をもたらしてくれる、望ましいかたちだった。
分かりやすくて、互いに満足出来るかたちが、きっと一番良い。ブルーだって、過去の辛いことを掘り起こすより、今ここで新しい喜びを知った方が、きっと嬉しい筈だ。ジョミーは思うのだった。
ジョミーの働きかけを受けながら、ブルーは言う。
「君が欲しい。君を捉えておけることが、嬉しくて、触れられることが、幸せで堪らないんだ」
君の手に、触れて貰える、自分は何て幸福だろうと、ブルーは本当に嬉しそうに、穏やかに目を伏せるのだ。頬を撫でて、あるいは髪を梳いてやると、くすぐったそうに身じろいで、満ち足りた吐息をこぼす。いつになく心を開いてみせた、こういう時のブルーはまるで幼子のようだと、ジョミーはいつも不思議な感覚を得る。そして、こんな無防備なブルーを独り占め出来ることが、どこか心地良い。こうすることで、ブルーが嬉しいと感じるのなら、もっと触れて、もっと感じさせたいとジョミーは欲した。何度だって「嬉しい」という言葉を聞きたい。いつでも喜ばせたくて、また触れる、それがきっと、ブルーにとって良いことなのだと、ジョミーは疑うことなく、そう信じていた。
最初に唇を重ねたのはジョミーの方からだったけれど、そうさせたのはブルーだから、別段にどちらが先走ったと決めつけることはないのだ、とジョミーは思う。むやみに迫ったわけでもなくて、ただ、どちらともなく引かれあったとしか言いようがない。あえて言えば、きっかけを作ったのはブルーだった。
緩慢にのばされたブルーの繊細な指が、愛おしげにジョミーの頬を撫でる。何となく、ジョミーは姿勢を前傾した。そうした方が疲れなくて良いだろうなと思ったので、ブルーに顔を寄せた。殆ど覆いかぶさるかたちとなって、なおブルーはジョミーを引き寄せようとした――少なくともジョミーはそう感じた――だから、疑問も感じず、静かに唇を触れあわせていた。初めて知る感覚に、ジョミーは胸の内で感嘆した。
身体的接触が、安堵と信頼、ひいては心の開示をもたらす効果のほどは知っていた。寝台に腰掛け、ブルーの傍らにいるという同じ条件でも、触れると触れないとでは、ジョミーがブルーの心の内を推し量って捉える精度に雲泥の差が生じる。更には、行為そのものは同じであっても、「触れる」「触れられる」という一方通行の関係に留まらず、互いに「触れあわせる」意識を持った時、効果はより実感される。物理的距離を縮めていった後は、皮膚が接触することで、最後の心的距離を超えるのだなとジョミーは理解した。接触を介して、両者が同等に自己を開示し、さらけ出されたものを受け容れる。
指先を絡めるだけで、感覚神経の集中したその部分から、互いの細やかな感情の動きまでが伝い知れる。微弱な電流が伝い走るのに似た、その痺れを初めて指先に捉えた時、ジョミーは思わずのばした手を引っ込めるほどに驚いた。こんなに明瞭に伝わってしまって、良いのだろうかと、戸惑いさえ覚えた。それでも恐る恐る、もう一度ぎこちなく、ブルーと指を絡ませた。たちまち広がる圧倒的な充足感に、眩暈がしそうで、自然と目を閉じて身を委ねる。分かる、伝わっている――ブルーと重なる感覚を、少しも逃すまいと捉える。指先だけでは足りず、しっかりと手を繋げば、もっとブルーの心に近づけると分かった時、ジョミーは喜びに満ちた。
その交感を覚え、そして今、ジョミーはまだ見ぬその先があることを教えられた。これで終わりではない、もっと強く、細やかに、伝わる術がある。指先と同じように、この身体の最も敏感な箇所のひとつを触れあわせれば、また一段階、近づくことが出来る。
柔らかな唇から伝わるものは、どうして指先では感じ取れなかったのだろうとジョミーは思った。気分の問題かも知れないが、指先と手のひらと唇とは、互いの同じところに、同じように触れたとしても、決して同じようには感じない。異なるところでは、いつだって、異なるものが交わされている。多分、器官の役割として与えられた領分が厳密に決まっていて、感覚神経が分化しているのと同じことで、どこでどんな情動を感じるかは、身体各部それぞれに違っているのだろう。
だったら、唇で感じるのは何だろうか――繊細な感覚でブルーの柔肉の弾力を味わいながら、ぼんやりと浮かんだ問いに、ジョミーは、それは熱じゃないかと自答した。ただ押し当てているだけなのに、確かに身体の奥から湧き起こる熱が高まっていく。頬が火照るのを自覚したら、加速的に早まる鼓動に苦しくなって、耐えられず身を離した。あっけなく息が上がって、どうしてか目が潤んでいる。熱い、とジョミーは思った。熱くて、心苦しい。これはブルーの感じているものか、違うのか、最早ジョミーは分からなかった。乱れたジョミーの心中を察してか、ブルーが唇を開く。
「眠れない、このままでは、だから、もっと、――欲しい」
落ちるまで、と、小さくブルーは呟いた。
声を受け取るや、ジョミーはもどかしくブルーに口づけた。受け容れるように薄く開いた唇を、躊躇いがちに舌先でなぞる。濡れた唇はなめらかに滑って擦れあい、小さな水音を立てる度、痛いくらいに心臓が高鳴る。触れあわせる程に、ますます苦しくて、離れるのが悲しくて堪らなくなるのに、止めることは出来ない。柔肉から伝い広がる穏やかな温もりが優しすぎて、とうとう涙がこぼれてしまう。
こんな風にブルーが遮蔽を解いて、鮮やかな感情を許し与え、分かちあってくれる、喜びと、同じだけの切なさが募る。それを紛らわせるように、唇で、あるいは舌先で味わう感覚に意識を向かわせるけれど、幸せな心地だけに浸ることは叶わない。我慢出来ないくらい嬉しいと同時に、とても恐い。感覚を研ぎ澄ませるほどに、己の抱く焦燥を目の当たりにして、小さな怯えをどうしても否定出来ない。
いつかブルーの言っていたことが、今になってジョミーの胸に迫る。一度でも喜びを知ってしまえば、失くすのが嫌で、ずっと感じていたくなる。ひととき満たされたとしても、少しでも離れれば、すぐさま喪失感が支配して、物足りないと、渇望が広がるばかりなのだ。焦がれ求め続ける、そんな辛い思いをしないためには、余計なことを忘れて、分かちあい高まる感覚だけに心身を委ねるほかない。
ただブルーによってだけ、己の全てを満たしたい。ジョミーは欲した。近づきたい、もっと触れたい、一番敏感なところで、全ての感覚で、隙間なく、互いだけを味わいたい。もっと触れあわせたら、まだ知らぬブルーを、もっと引き出していくことが、出来るのではないだろうか。未だ知らぬ深いところに息づく情動に、手が届くのではないだろうか。
もう一度、今度ははっきりと分かるかたちで、ブルーの腕がジョミーを引き寄せる。
そして、ジョミーはブルーを知った。
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