単純接触効果 セカンダリ / Sugito Tatsuki
-1-
何をやっているのだろう、僕は。
その場に在る者の精神を鎮め、深い眠りへといざなう効果を計算し尽くして設計された、薄闇と青みがかった照明が幻想的な空気を醸し出すソルジャー・ブルーの寝室で、しかし、ジョミーはまるで場違いな情動にとらわれていた。
何なんだ、この、ちっとも落ち着かない気分は。
場の主たる彼は静かにそこに身を横たえているだけというのに――そう、静かだ、空気に揺らぎというものが無い。相反するように自分の心臓はうるさい程にその働き振りを主張する。
深く意識を沈め精神を休めていても、彼は自分のこの思念を感じ取るだろうか。だとしたら、眠りを妨げてしまって申し訳ないのだけれど――こんな状態の自分に対し、どんな思いを抱くのだろうか。不可解な情動に理解を示し、助言を与えてくれるだろうか。
いや、相変わらず微動だにしないその様は、いっそ残酷なまでに平静そのもので、こちらはこんなにも心かき乱されているのにと思うと全くやるせなく、ますますつのる感情に手がつけられなくなる。
どうしたら良いんだ。
これは不敬にあたるのだろうか、などという考えは行為への意思を抑制し得ず――そんなことを言い出したら自分はもう既に彼に対し数え切れない程の非礼を働いている――寝台の傍らに立つと、非現実的な淡い光に抱かれた横顔に、引き寄せられる様に手をのばす。
差し出した自分の手のひらが長手袋に覆われていることに気付くと、最初こそこんな大仰な格好、と思ったけれど、この船で日々を過ごすうちに次第に慣れて、嵌めているのが自然になっていたそれを外した。彼の身体事情に基づいて他の部屋より低く設定されている室内温度を指先に感じる。
ちょっと冷やし過ぎじゃないか、と思いつつ、改めて彼に手を遣る。その頬に触れるか触れないかというところで――己の奥底から打ち寄せる情動の波に呑み込まれた。
限りなく純粋であって、触れることで汚してしまうのを躊躇わせる白いシーツに皺が寄るのにも構わず、寝台に片膝を乗り上げると、彼の両肩際に捕らえる様に手をついて覆いかぶさり――至近距離で正面から、その無防備な寝姿に向き合う形をとった。
鳥のさえずりに耳を澄ませようと目を閉じた、あるいは心奪われる情景にゆっくりと瞬きをする、その一瞬に時を止めた様な彼の静けさに、どうしようもなく不安と焦燥が掻き立てられる。
姿勢を倒して重心を移し、顔を寄せる――沈み込む寝台の動きに合わせての光源との角度と距離のずれが、彼に落ちる陰影を変化させる。次の瞬間にはもう失われる、その一瞬一瞬の滑らかな表情の移ろいは、いずれも崇高な芸術作品の様で、逃さず捉えてこの目に焼きつけたくなる。
眺めていたい――いや、眺めるだけでは足りない、もっと、彼の全てを、捉えたい――
少し身体を動かす度、衣服の擦れ合う僅かな音がする。
彼の長い睫が震えた気がした。
喉はもう、奥まで乾ききっている。
『すまない、この部屋は不便なことに給水機も無いんだ』
「うわぁ」
唐突に頭に響いた、彼の普段通りに極めて落ち着き払った"声"に情けない反応を返し、身を引いたらバランスを失って寝台から転げ落ちた。脈絡なく伝わる思念波には未だ慣れきってはいない。
『水差しを頼むといい』
「……いらない」
体勢を立て直すと、既に情動の波は引いていた。こうして"会話"をしていると、先程までと変わりない筈の彼の姿が、逆に心安らかな気分をもたらす様に見えるから不思議だ。今は静けさよりも――暖かさを覚える。
そもそもここへ来る要因となったあの感覚は一体、何だったのだろう。聞けば、教えてくれるだろうか。あえて触れないけれど、彼にはきっと、自分がさっき何を思い何をしようとしたか、知れている。
あのタイミングで"声"をかけたのは、つまり自分が彼に相談を持ち掛けるなら応えるつもりでいたけれど、自問自答ばかりで(これについては、寝ているのに悪いという、彼への思いやりがあってのことだと言い訳をしたい)、ついに勝手な行動に出ようとしたところで制止したと、そういうことだ。
言わなくても伝わるから良い、という考え方が当たり前にならない様、留意しなくてはいけないというのが彼の信念の一つだ。それでも、こうして船の中ばかりで長い年月を過ごしていると、どうしても言葉少なになってしまうのだけれど、とも言っていた。
確かに、彼と初めて精神世界でなく実体で対面した時、その発する短い言葉は随分と唐突で、本来は互いに思考の過程を確認しつつ進めるべき会話の形態が成立していない様に感じられた。ここに来て間もない頃、彼ら特有のコミュニケーションの手法に戸惑い、訳も分からず周囲に反発していた自分はいわば自暴自棄に、「どうせ僕が何を考えているかなんて分かっているんだろう」と一言も口を利かず、勿論思念に言葉を紡ぎもせずに自分自身の内に閉じこもって一日を終えることもあった。
彼はいつも、「どうしたいのか」を聞く。自分の行動への意思、それが自己を確立するのだと、人々が認識を持てる様に、言語化を促す。
だから、彼は、優しいけれど――厳しい。
「ソルジャー、あなたと話したい」
『分かった――何だいジョミー』
自分自身よく分からない感情の動きを言葉で言い表すのは骨が折れるけれど、先の自分を正直に表現するに努めた。
「僕は、おかしいんだろうか、……変だ、あなたに、こんな、」
拙いながらも知る限りの表現を尽くして己の客観視と内観報告を試みた最後、結論――どうしたいのか――を述べようとして、そこに見出した言葉はあまりにあからさま過ぎて、躊躇いから暫し口をつぐむ。
だが彼は問うのだ。
『どうしたい?』
答えは既に音声化されるのを待つのみだが、例えばここで偽りの言葉を告げて逃げたとしても――彼は、そうしたいのなら、それで良いと、己の本心に正直であるか否かには区別を置かず受容するだろう。嘘をつくという行動には、何らかの理由あって本心を偽りたいという意思が正に存在するからだ。それは非難されることばかりではないと彼は言う。
最早彼に何を隠すこともなかろうと、ここは正直に告げることにする――呆れられるとしても構わないけれど、出来れば見限られはしないようにと短く祈る。
今は閉じた瞼の奥に透明な瞳のイメージを想起し、視線を合わせた心持ちで口を開く。
「あなたに――触れたい」
何故なのかは解らないけれど、そうしたい。
それが叶えばきっと、あの妙な胸騒ぎに似た嫌な感覚が去るということなのではないかと思った。
『そうか』
この上なく短い返事はあまりに簡素だった。
彼がそれ以上言葉を続けようとしないので、まさかこれで会話を打ち切るわけにいかず、こちらから働きかけるしかない。
「あなたの――例えば手に、触れたいと思うのは、おかしいんだろうか」
ああおかしい、と言われたところで、思いをとどめる術は無いのだ。
『そうしたいと思うなら、それが正しい。
――好きにして良い、僕は構わない。起き上がることも叶わない、こんな身で良いのなら』
今度こそ、彼は言葉を続けなかったし、自分ももう何も言うことが無かったから、会話はそれで閉じられた。
|
|