単純接触効果 セカンダリ / Sugito Tatsuki
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力の入っていないと知れる彼の腕は引かれるがままで、ともすれば滑り落ちてしまうのを支えて、自分のそれと同様に優美な曲線の意匠を凝らした長手袋を外す。万が一痛めてはいけないと、注意を払いつつ握った手首は自分と変わらぬ細さで、"戦士"と呼ぶには似つかわしくない。
直に手をとり、両手を沿わせる。彼の低い体温が感じ取れる──すなわち、触れ合う部分から互いの熱が混じりあい、交換され、やがて等しく一体となるだろう。
何の反応も返らない手を、指を絡ませ握っていた。特別な意図があったわけでもなく、ただ、そうしていたかった。それは安らぎにまどろむというよりも、触れたらもう、離したら駄目なのだと、離したくないと、むしろ切迫した思いに因っていて、不安感は触れる前より増しているようだった。焦燥のやり場が分からず、彼の手に縋る。
まるで無心になって祈るようだ──だが、誰に、何を? 一体自分が何を求めているのかも分からないくせに、どうして祈れるというのか。望む自分を思い描けぬままに、救ってくださいと何故言えるだろうか。
時間経過と共に、熱の移動だけは勝手に進んで、彼の手に冷たさを感じなくなった頃、あまり彼を束縛してはいけないと、自分の思いは子どもの独占欲だと分かっていたから、手を──離した。
──ああ、駄目だ。
その途端に、取り返しのつかない喪失感に襲われる。独りきりの、耐え難い痛みが胸に迫る。
触れれば、安らげると思っていた。
確かな存在を感じて、この不安も焦燥も、思い過ごしでしかなかったのだと、自分の情動に明確な理由をつけて、そうしたらもう、悩まずに済むものと思っていた。
ところが実際はどうだ。
触れても、触れても、足りない。
それどころか、触れるごとに一層、心乱される。
何故なのか──分からない。
どうしたらこの鈍い痛みから解放されるのか──分からない。
"好きにして良い"と彼は言った。だから思うままに、彼に触れた。けれども、それは自分をこの重苦しい思いから解放する手だてではなかった。望んだことの筈なのに、結果は全く望ましくない。
──僕は何がしたいんだ。
彼を、どうしたいのか。
この場へ来て、ベッドサイドに立った時、情動のままに彼の頬に手をのばし、触れかけて、けれど触れなかったのを思い出す。
触れても──良いのだろうか。
意識の無い相手ならば、多少の後ろめたさを覚えつつも、密かに触れてしまっただろう。しかし彼には見通されていると分かったし、まさか単刀直入に「あなたの顔に触れても良いか」などと聞ける程に羞恥心を失ってはいなかったから、先程はとってつけたように、手を、と言ったのだ。
──彼なら多分、手だろうと顔だろうと、同じ言葉を返しただろうけれど。
顔に触れるのは──手とは違う。沈黙を守る彼に、躊躇いつつ手をのばし、頬に触れる。緊張は最大限に達している。ゆっくりと、指をすべらせ──閉じた瞼に触れる。前髪の先が指をくすぐる。そこから輪郭をたどると、補聴器の硬い感触が捉えられ、頤から首筋に通じるラインをなぞり、また唇をかすめて、手のひらで頬を包み込むようにする。
これまでにない感覚が己の内に起こるのを捉える。
戸惑いを覚えるその感覚は、しかし決してネガティブな類のものではない。
自然と、髪に触れた。
記憶が、蘇る。
家族に抱きしめられ、優しく頭を撫でられた、ただ優しく──切ない記憶。二度と持ち得ない、失われた記憶だ。
逆ならまだしも、まるで子どもにするようだと思いつつ、記憶で自分がされていたように、髪をそっと梳く──彼の唇が、微かな空気振動をもたらした気がした。すぐに消えてしまったけれど、一瞬、その感情が揺らぐのを、捉えた気がした。
ふと照明が光量を落とす。
彼が眠りから意識を浮上させ、目を開く直前に行なう操作だ。
色素を持たない透明なその瞳は光刺激に過敏で、調節機能が低下した今ではこの薄闇すら彼の瞳を容赦なく射る痛みとなる。ゆっくりと、段階的に、ある程度の明るさまで順応させなくてはならない。
色彩の判別が難しい程度の闇の中、彼が目を覚まそうとしている。また彼の瞳を見つめることが出来ると、高まる思いを抱いて、その時を待つ。
睫が震え、それから緩慢に瞼が上がる。身体はまだ覚醒しきっておらず、焦点の合わない瞳で何度か瞬きをする。場の全てが藍色の陰に呑まれる中にあって、その瞳の赤だけは、はっきりとその色彩を捉えられる。彼が身体的な覚醒を得るのを、もどかしい思いで待っていると、ようやくこちらへ視線が向けられた。彼は少し眩しそうに目を細めると、口を開く。
「お早う、ジョミー。……眠っていた方が良いかな?」
――どれだけあなたの瞳を見つめたいと願い、けれど長い眠りを必要とするあなたを困らせてはいけないから、起きて欲しいなんて思っては駄目だと、自分に言い聞かせて我慢していたか、きっともう知られている筈なのに、そんなことを言われては、頭を振って盛大に否定しなくてはいけない。
「起きていて欲しいです。起きていてください」
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