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転生語『運命』 / Sugito Tatsuki








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「その前に、ひとつ訊きたいことがある」などと言われて、たとえやましいところがなくとも、自ずと心身を緊張させてしまうのは、人として仕方がないことだと思う。それは、質問内容そのものについてに限らず、応答によって何らかの資質や度量が試されているのではないか、というひとつの可能性を思い抱かせるからだ。いったい、その問いかけで、僕の何を測ろうというのか。想定外の問題に直面したときの対処法をみているのか。実はこれは圧迫面接だったのか。「その前」ってどの前だ。
思わず身構えてしまったが、しかし、次にジョミーの口から発せられたのは、「生きものを、飼ったことは?」という言葉だった。
普通の質問だったことに安心して、僕は、「うん。ミトコンドリアを少々ね」などというひねくれた回答で受けを狙うという危険な賭けに出ることは避け、正直に、「ああ。魚を、ずっと」と答えた。ここで嘘を吐く理由はない。
自室の壁の一面を広く使った水槽に飼育している。僕はインドア派なので、たいていの時間、魚たちを視界の隅に入れながら過ごすことになる。これがないと落ち着かないのだ。よく、枕が変わると眠れない、というが、僕の場合、水槽が変わると眠れない。旅行の際には寝室にプロジェクターを運び入れ、壁に魚影を投射しているほどだ。
「何かむかつくなあ、金持ちっぽくて。まあ、アクアリウムは僕も好きだよ。蒼き水の惑星って感じでさ」
「僕は……水槽越しに魚を眺めていると、逆に自分が水槽の中にいるような気になることがある」
「あるある。魚になって自由に泳ぎたい願望。色々溜め込んでる人間にありがちだよね」
「むしろ僕は、水槽の中に入っていたいと思う自分に気付いた。そして、試しにバスタブサイズの水槽を用意し、水を張って全裸で潜ってみた」
「丸見えか。勇気あるね」
「ガラス越しに外界を見た瞬間、僕は悟った」
──このビジョンだ、と。流動する溶液が光を屈折させる、歪曲した視界。泳ぎ回るには不自由な、囲われた世界。規則的に上っていく小さな白い泡。
ずっと昔、僕は水槽の中からいつも外を眺めていた。同じ水槽で、何度も生まれ、何度も死んだ。そんな確信がした。
「あの時は衝撃のあまり、うっかり溺死しそうになった」
「多分、変なプレイ中の変死として処理されるんだろうなあ」
「それ以来、ベッドの代わりに水槽の中で寝ることにしている。残念ながら水は張れないが、そこは妥協した。そんな僕を、親愛を込めて『白雪姫』と呼ぶ人たちもいる」
「うん、じゃあ今度、僕が夜中にこっそり水を注いで永遠の眠りに就かせてあげるから、いつでも呼んでくれよ」
友達甲斐のあることを言ってくれる。さて、そういうジョミーは、何か飼っているのだろうか。
話題を振った以上、まさかペットに関心がないということはあるまい。主観で言わせて貰えば、ウサギかフェレットか、白くてふわふわとした小動物を溺愛していそうなイメージだ。若しくは、肉食獣の目で狙っていそうなイメージだ。むしろ、悠然と百獣を従えていそうだ。怖いなあ。
「僕の場合」
暫しの間を開けて、ジョミーはぽつりと言った。
「ハムスターが、いてさ」
白くてふわふわとした小動物──イメージはだいたい当たっていたようだ。一旦言葉を切ったジョミーは、なかなか続きを話し出そうとしなかった。聞かれなくても喋り通していた先程とは、まるで別人のように、口を噤んで沈黙を守る。爪先で蹴った小石が転がっていく、微かな音が聞こえた。
「ジャンガリアン。ブルーサファイアの。名前は言えない。僕だけが知ってる。僕だけが呼ぶんだ。だって僕のものだから」
ようやく紡がれた言葉は素気なく、相手に聞かせるというよりは、自ら確認するかの口調であった。口を挟むのも気が引けて、僕は黙って聴く。ジョミーは淡々と語る。俯いた視線は交わらず、言葉は発せられては緩慢に解ける。
「誰も呼んじゃいけない。誰も見てはいけない。誰も触れてはいけない。そうやって、僕はちゃんと、守ってきたよ。丸いベッドを作って、ケージはいつもきれいにして、囲った世界を守ってきた」
語る声に、どこか優しげな響きがこもった。これは知っている。愛しいものを、大事に語って聞かせる声だ。その言葉通り、大切に守ってきたのだろうことが窺い知れる。
過剰とも思える、独占欲もまた──少なくとも、ジョミーにとっては、それが、たった一つのやり方なのだ。その強さだけ、対象に胸の内を占めさせていることを証する。心を囚われた、愚かな己を差し出してみせる。
どこまでも対等に、公正に、率直に、純粋に、あろうとすればこその、代替不可能な愛情表現。そういって差し支えはあるまい。
差し出した代償が、たとえ、返って来なかったとしても。
「……だんだん、眠っているところを見ることが多くなった。前は、近づくとすぐに目を覚ましたのに。莫迦な僕は、警戒心を解いてくれたのかな、なんて思って、寝てるところを呑気に見ていた。可愛いな、気持ち良さそうだな、なんてね。本当に莫迦だよ。こんな莫迦に飼われたハムスターが可哀相だ」
過去形で、語る。その示す意味は一つしかない。
──とても、平静ではいられないことが、あったと言った。
話の筋が見えたので、何か言わなくてはと思った。だが、不器用な僕は、気の利いた言葉も思いつかない。
自分自身を憐れむかのように、微苦笑を浮かべ、ジョミーは緩やかに問うた。
「どうしてかなあ……すぐに、別れることになるって、最初から、分かってるのに、どうして、欲しくなるんだろう? とても、大切なものに、なってしまうんだろう?」
それは、簡単なことだ。その方が大事だから。喪失する未来より、満ち足りる現在の方が、大事だから。
今さえ良ければ──それでいい。
現在が良ければ──それがいい。
とても、正当なことだ。
「うん。だから、決めていたんだ。最後まで、僕が引き受ける。誰にも渡さないって」
それはいい、だけど、とジョミーは視線を落とした。
「学校から帰ったら、もう、終わっていた。部屋が広いと思ったら、ケージがなくなっているんだ。呆気ないほど──何の痕跡も、残っていなかった」

「パパやママが悪いわけじゃないんだ」ジョミーは言う。「これは、僕の、問題だから」
ずっと昔のことだが、ジョミーの家には、犬がいたらしい。幼いころ、その犬を亡くした時、彼は普通ではないくらいにとり乱したという。本人はよく覚えていないそうだが、両親がその時たいへんに困ったという話を、思い出のエピソードとして度々ジョミーに聞かせていた。
なんでも、冷たくなった犬に縋りついて、埋めることを頑なに拒んだとか、剥製にしてくれと泣いてせがんだとか、いっそ××たいと言ったとか、幼少期にして既に逸脱の感が窺える話だ。
そういう前科があるから、今回のハムスターの件に際して、両親はジョミーのいない間に事を済ませようということで合意したのだろう。埋めた場所も教えてくれないそうだ。「掘り返して確認するとでも思われているのかな」とジョミーは自嘲するが──ひとえに、子を思い遣る親心だ。
二人の気持ちも分かるけど、とジョミーは言った。
「さすがに××たいなんて、この年齢になって言わないよ。少し泣いて、埋めて、祈る、それだけだ。僕はただ、そうしてやりたかっただけなのに……でも、もう取り戻せないから」
取り戻せない。
自ら発した言葉に、ジョミーは小さく拳を握った。多分、肩が震えるのを見られたくなかったのだと思う。 そして、ここまで引き摺るようにしながらも、なんとか緩慢に歩み続けていた、重い足取りが、とうとう止まった。
「ちゃんと……埋めてやりたかった。どうせ、なくなってしまうのだから、同じことだと思われるかも知れないけれど、とても認めることは出来なかった。自己満足だよ。動かなくなった、かたちが、きれいに残っていたら、ちゃんと別れられる……お休みなさいと、言えるんだ。苦痛の中で身体を失って、今もまだ、苦しみ続けているんじゃないかと、心配しなくていい。だから、ちゃんと、別れること。看取れたらもっと良い。それが、最初からあった願いだった」
知らないうちに、息絶え。
知らないところで、埋められ。
その程度の、繋がりだったのだと、ジョミーは言う。
「2年と3か月、だけ。楽しかった時間は、全部でそれだけだ。あとは、もう触れられない。もう逢えない。何も関与出来ない」
それなのに──それなのに。堪えるように目を瞑って、ジョミーは言った。繰り返す、その言葉の狭間に、烈しい葛藤が見てとれた。
「僕の中で、生き続けているんだ。それは感傷的な定型句としてではない。何も残らなかったからこそ、いなくなったことを実感できない。僕は彼と、区切りをつけきれていない。ある日突然、中断されて、一時停止してしまったようなものだ。ちゃんと、別れることが、出来なかったから」
ここで不意に口を閉ざし、言葉を切ったのは、これ以上続けたら嗚咽混じりになる、一歩手前だったからかも知れない。感情を昂らせて、今にも溢れ出すのではないかと思えた。声の限りに、情動をぶつけるのではないかと思えた。少年の許容を超えてしまいそうな、その烈しい感情を向けられた時、いったい、僕は何が言える──何が出来る。
だが、その心配は必要なかった。情動をぶつけるどころか、ジョミーは立ち尽くして、そのまま、一切の言葉を発さなかったからだ。言葉も、嗚咽も、感情すらも。
押し殺している──ようには見えない。堪えている──というのとも違う。先程まで、溢れんばかりだったものが、唐突に、波が引くようにして、空になってしまった、というのが正しい。黙祷を捧げるかに、首を垂れた、空虚な背中。両肩は小刻みに震えることもなく、既に拳は解けて、力ない指先が微かに揺れる。意図的に心を隠蔽したというよりは、そっくり奪われてしまったという方が適当な姿。
──その瞼が、ゆっくりと、上がる。がらんどうの、これが瞳というものなのだろう。無を知り、虚を抱え、より澄みゆく。おもむろに、呼ばれでもしたかのように、面を上げて、宙を見遣り、そして息を吐くような自然さで呟く──
「あの時、泣けたら、良かったのになあ」
声は、ひどく静かだった。他人ごとのように言う、あの時、というのが、何故か──その小動物を亡くした時、だとは思えなかった。もっと、根源的に、それこそ、生まれながらの致命傷であるように、どこか放心した様子のジョミーの声は、聞こえた。
禍々しいほど鮮烈な紅に染まる景色を、瞳に映して、いったい、何を見つめている。
誰を──想っている。
ふと、ジョミーは思い出したようにこちらに向き直った。
「……だから、今日は少し躁状態。迷惑かけたかな。悪かったね、ごめん」
ジョミーは素直に頭を下げた。覇気のないその姿に、僕の胸が小さく痛む。
「いや、その……元気、出して…じゃないか、躁なんだから、落ち付いて…も違うな、今度は鬱状態だ……何と言うか、」
上手い言葉が見つからない。僕は言葉を操るのが不得手だ。政治家には向かないだろう。大衆に向けた演説などもってのほかだ。
僕の将来の進路についてはともかく。経験上、上手いことを言おうとするから上手くいかないのだな、ということは何となく理解している。それなので、もう上手い言葉を探す努力は放棄することにした。思えば別に上手いことを言う必要もあるまい。既に見下されている身だ。どうにでもなるがいい。
「つまり、その、良いんだ。迷惑、じゃない。今日は、楽しくて、」
一瞬、躊躇ってから、僕は正直な感想を口にした。
「……良かった。会えて、良かった」
「そっか。僕は全然会いたくなかったんだけど」
つれない返事であった。急に調子が戻っている。予測不能だ。
「サッカーボールぶつけられて、楽しくて良かったなんて言っちゃうんだから、被虐嗜好が身に浸み渡っている証拠だね。よかったら今度は石を投げてあげるよ。別に僕が君の趣味に合わせて悦ばせてやる道理はない、とはいえね」
ジョミーは不敵に笑って言った。
「まあ、会っちゃったんだから。仕方ないか」
それは、僕も思わず頷いて同意するほどの真理だった。

「そう、だな……どうも、遠い昔、君とは友達じゃなかったみたいだ」
「敵同士だったかも?」
「否。そうでもない、と思う」
「恋人同士だったかも?」
「もっとないわ!」
目を伏せると、ジョミーは申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめん、僕、年上専門なんだ……培養液臭いヒヨコに興味はない。だから君の気持ちには応えられない」
「だから違うと!」
「思えば人生は別れの連続だね。それはもう仕方がない。難点としては、今のパートナーも年上ってことかな。『僕より長生きして…』って言いたい気分」
パートナーときたか。恋人とかいるんだ……。いろいろな意味ですごい奴だと思う。
「たいへん聞き難いんだが、その、相手はやはり人妻なのか?」
「いいや。黒髪でもなければセミロングでもなく、人妻でもなければエプロンが似合うわけでもない。強いて言えば補聴器と包帯とシーツが似合う綾波系」
「マニアックだなあ!」
そして傾向が大違いだ。こいつの好みに一貫性はないのか? 僕の若干引き気味の視線をどう勘違いしたか、ジョミーは、「僕たちの性生活に興味があるんだね。いや、言わなくても分かる、聞きたくて堪らないといった顔だ。よし、特別に惚気話を聞かせてやろう。喜び羨むがいい」と勝手にまとめると、活き活きとして語りだした。
「一言で表せば、僕の愛人は……」
「また不道徳な方向に走っているぞ」
「言い間違えた。恋人ね。何もやましいところはない」
「本当かなあ!」
間違いにもめげず、「ふふふ」と小さく笑うジョミー。嬉しそうだ。浮かれた電波を辺り構わず撒き散らしている感じだ。正直いって、生身の人間には有害な気がするので、抑え目にして欲しいのだが、本人には控えるつもりは毛頭ないらしい。また語るんだろうなあ……オフサイドの悲劇、再び。僕はうなずきんに逆戻りだ。
「青いバラのような人……とでも言おうかな。ふふふ」
「それはまた……儚げでロマンチックというか、某飲料メーカーを想起せずにはいられない人工物というか、妙に親しみを覚えたりしつつも、それが開発されたことで一つの詩的な表現が死語になったことを思うに、夢ってなんだったっけという気がするわけだが、いずれにせよ宣伝向きな印象だな」
「より直截的に言うと薔薇族かな」
「一気にピンク色の印象に!」
「彼はとても情熱的に僕の若い肉体を求めるよ」
「14歳の台詞としては犯罪的だと思います!」
と、流しかけてしまったが、ナチュラルに「彼」? ……ああ、そうか、そういうことなのか。いろいろな意味ですごい奴だ。本日二回目。
「なんだ、『彼』じゃいけない? 人称代名詞じゃ不満? でも名前は教えてやらないよ。ハムスターと同じだ」
「自己紹介の時といい、ずいぶん秘密主義なんだな」
「信用ならない初対面の人間には名前を教えない主義でね」
「一見さんお断りか!」
これもまた、強烈な独占欲の表れだ。しかし、両方とも内緒というのは漠然とし過ぎている。エア彼氏を疑ってしまうのは穿ちすぎというものだろうか。いや、エア・ハムスターなのかも知れないが……こいつの場合、どちらも同じくらいあり得そうな話だ。
「それなら、せめてハムスターの方の名前を教えてくれ」
「駄目だよ。『彼』もハムスターも、同じなんだから」
「だから、せめて片方くらい……」
「同じなんだから、片方も何もないだろ」
ここで僕は、双方の話に小さな行き違いがあることに気付いた。
「……ああ、もしかして、『同じ』というのは、『秘密であること』が同じという意味ではなくて、」
「『名前が同じ』なんだよ。だから片方でも教えるわけにはいかない。察しが悪いなあ」
ということは、こいつはハムスターに恋人と同じ名前をつけたということか。それは果たしてどうなのだろう、愛が深いというべきか、軽いというべきか、そうされた側にしてみれば微妙過ぎるというか……するとジョミーは、「違う違う」と首を振った。
「ハムスターの方が先。で、同じ名前で彼を呼んでる」
「ますます愛の程度が測定不能だ!」
「だって本名、教えてくれないから。一番大事なものを、一番好きな名前で呼ぶのは当たり前じゃないか」
「せめて逆ならまだ分かるんだが……ちなみに、その君にとっての特別な思い入れのある名前というのは、どうしても内緒なのか」
「うん。悔しかったら当ててみろ」
余裕たっぷりに、子どもっぽい物言いをするジョミー。あからさまな挑発に、僕は乗ることにした。別に悔しいわけではないけれど、当ててやろうじゃないか。こういうのには燃える人間だ。
「面白い、受けて立とう。20の扉形式でいいか?」
「OK。どんと来い」
「ではイエスかノーで。第1の扉。彼、およびハムスターの名前はブルーですか?」
「何いきなり当ててるんだよ! 空気読め! 20の扉の意味ないじゃん!」
「イエスかノーで」
「くっ、卑劣な……! ああそうだよイエスイエス、これで満足か!」
ああ。20も回りくどい質問を考えるのは正直いって面倒だ。一度で済めばそれが最良。ちなみに何故、当てることが出来たかというと、実は僕がエスパーであったから、などという面白い話では、残念ながらない。種明かしをすれば、心が読めなくとも、行動を観察することは出来ると、そういうことだ。
ヒントはいくつか示されていた。一つに、ジョミーが自信満々であったこと。絶対当てられない自信がある、イコール、人名として珍しいという前提が立つ。また一つに、会話の端々。意識している単語というのは、つい多用してしまうものらしい。ハムスターの毛色まで、あえてブルーサファイアと言ったり、殊更に青という表現を用いたり。その時、まるで強調するかのように、僅かに発音が変わったことを見逃す僕ではない。確か二つ名にも、なんとかブルーというのがあったし。そして最終的な決定打としては、名前を仮定してみたとき、「それがしっくりきたから」という極めて主観的な判断であった。
振り返ってみれば、さほど自信があったわけではないのだ。それで当てたのだから、あれ、もしかして自覚がないだけで、僕もエスパーの資質があるのだろうか? サイオン伝染した? 
一方、目論見が外れ、面白くないらしいジョミーは恨みがましく呟く。
「名前を当てたからっていい気になるなよ。会わせないからな。絶対会わせないからな。消えろ、失せろ、立ち去れ、この間男予備軍! 寄るな下劣な菌が感染る!」
「じゃあどうやって君にコンタクトを取ればいい」
「電波か手紙、好きな方を選べ」
「じゃあニュータイプじゃない僕としては手紙かな! ……ところで手紙といえば、『ひぐらしのなく頃に〜』という時候の挨拶は最早、使用不可能だな」
「むしろ、あえて使ってみて相手の反応を窺うって楽しみがあるんじゃないかな」
「嫌な楽しみ方だ! そしてどう反応しろというんだ!」
「……ああ、気付けば」
唐突なジョミーの言葉に応じて見れば、いつの間にか並木道は終わり、公園の出口はもうすぐそこであった。二人で歩き出して最初のうちこそ、絶望的なまでに長い道のりだと思ったが、振り返ってみれば、あっという間であったようにも感じる。夕暮れ時の、僅かな時間だった。
主に軽く、時に重く、交わした言葉の余韻に耽っていると、同じ思いなのだろう、ジョミーが切なげに言った。
「僕たちは、この並木道の間だけ、束の間一緒になった、この場限りの関係……後には引き摺らず、きれいに別れよう」
「全面的に同意だけど言い回しが嫌だなあ!」
それでも一応儀礼的に、差し出された片手をとって別れの挨拶を交わすのが大人の態度というものだ。しかし、どうもこうしていると、14歳同士が無邪気に友情を育んでいるというよりは、報道陣の前で和平条約を締結してカメラに笑顔を向けている二カ国の代表めいた心持ちになってしまうのはどうしたわけだろう。
僕の手をしっかりと握って、ジョミーは溌剌と言った。
「ともかく、僕も今日は楽しかったよ、キートス」
「ああ、自己紹介に始まるここまでの交流の意味を最後の最後に台無しにする素晴らしい発言だな」
人の名前を爽やかに間違えないで欲しい。まあモノローグでジョミージョミーと繰り返している僕と違って、彼はあまり相手の名前を反芻しないタイプなのかも知れない。しかしそう妙な間違いをしなくてもよさそうなものだ。むしろお前の名前の方がややこしいじゃないかと言いたい。
「………………いやいやいや。知らないのか? 『キートス』ってのはフィンランド語で、『ありがとう』の意味だよ。やれやれ、これだから教養のない奴は困るね。エスプリを効かせたユーモアのひとつも解せないとは嘆かわしい」
「ではその長い三点リーダーは何だ」
僕の指摘も意に介さず、参ったね、という風にジョミーは肩を竦めた。
「僕の記憶力をなめてかかると痛い目に遭うよ、トーマス」
「より遠くなっているぞ!」
「何せ前世の30年プラス受け継いだ300年ほどの記憶があるもので、重要度の低いクズみたいな対象にこれ以上貴重な脳の容量を割けないのだよ。記憶力がいいのも考えものだね。これから君をクズと呼ぶことにすれば万事解決なんだけど。そうだ、君、たった今からクズと改名したらどうだい。名は体を表す。ぴったりじゃないか、きっとよく似合うよ」
「どんな言い訳だ! それは断じて記憶力がいいとは言わない!」
「あれっ、今なんだか断片的に蘇った記憶によると、君は宇宙の果てまで執拗に僕を追い続けた挙句、星を二つほど破壊し、最終的には触手プレイで僕を辱めた上で無理心中を!?」
「そこが最終なのか! そんな記憶は棄ててしまえ! 僕こそ君に公衆の面前で緊縛&脱衣ショー的羞恥プレイを強いられた気がする!」
ジョミーは頭を抱え、「ううーん」と唸りだした。何とか記憶を探っているという様子だ。てっきり演技だと思っていたのだが、まさか本当に、握手まで交わした相手の名前を失念しているのか。それで平気なのか。だとしたら、クズ扱いされて落ち込むというか、そういう段階を過ぎてむしろ、こいつの社会生活への適応とか今後の処世術とかが心配なのだが……。
指導者、とか言っていた。
じゃあ、人の名前は覚えようよ。
「えーと、本気でなんだっけ、確かチーズケーキが好きそうな名前だったような……!」
「君こそ金と銀のプリンが好きそうな名前だね!」
「じゃあ今度一緒に後輩の家でブラウニーでも食べようか、なんてね!」
「有機トマトも良いと思うんだ!」
「気が合うね! じゃあメアド交換しちゃおうか!」
「よーし、赤外線スタンバイ! 発射!」
ノリノリだった。何故だろう、照準を合わせ誤差を修正し、いよいよ送信の瞬間、こうも胸がときめくのは? どうも僕は、いわゆる赤いボタンというやつを押してみたくて堪らなくなるタイプの人間らしい。何か前世で大がかりな破壊活動でもやらかしていたのだろうか。
データを受信した携帯端末の画面を見つめて、ジョミーは合点がいったように「ああ!」と呟いた。顔を上げ、妙に晴れやかな笑顔を向ける。
「それじゃ、また連絡するよキース。主にサッカーの人数合わせがどうしても上手くいかない時に仕方なく呼ぶよキース。そっちからはつまらないことでメールするなよキース」
「名前確認したかっただけか! 非常にわざとらしい!」
恥を忍んで直截に訊き直せばいいものを、回りくどいことをしたのはやはり、意地とかプライドのためだろうか。そういう意志の強さには素直に感服するが、しかし、メアド交換をひとつの重大な儀式と捉えている僕としては、いいように弄ばれたようで心に大ダメージだ。
おかしいと思ったんだ、こいつが僕の連絡先を求める理由なんてないじゃないか。そして、先程から受信準備を整えて待っているのに、どうやら、向こうから送信する気はないようだし。交換になっていない。一方的な搾取だ……。
こんな奴に個人情報をほいほい渡してしまった、一分前の自分を殴り倒したいところだ。データを取り戻したいが、送信してしまった以上、手も足も出ない。ジョミーはしげしげと僕のプロフィールを読んでいる。やめてくれ。それこそ羞恥プレイだ。
「真面目だね、全項目埋めてあるじゃん。へえ、誕生日まで入ってる。無言のアピールにお応えして、今からサプライズなプレゼントを考えておこうかな。君、何か苦手なものや嫌いなものは?」
「好きなもの聞くんじゃないのか! 嫌がらせする気満々だろうそれ!」
「キース君。人の厚意を無下にするものではないよ」
「諭すように言うな!」
それは厚意ではなくて悪意だ。
ジョミーは「ふむ」と言って腕を組むと、首を傾げて何やら考え込み始めた。今から嫌がらせの計画だろうか。ぶつぶつと言っているのに耳をそばだてると、どうも「キース……12月…」などと聞こえる。
「キースがスキーでスキスキキッス……」
「感慨深そうに何を呟く!」
「名前を誕生日ごと覚えてやろうとしているんじゃないか。何の興味も関心もなく無意味で無価値な対象をどうしても暗記しなくてはならない事態に迫られ、何故こんなどうだっていいことを覚えなくてはいけないんだ、時間と記憶容量とブドウ糖の無駄な消費だと嘆くとき、語呂合わせというのは僅かながらのゆとり、小さな遊び心として慰めとなり得る」
そこまでして覚えて欲しくはないなあ! 
ホワイトボードに向かう予備校教師の風情で、ジョミーは続ける。
「ヴィジュアル化するのも記憶に有効だといわれる。この場合、12月からの連想で、雪山を背景にキースがスキーで……」
「映像化しないでくれ! 頼むからやめてくれ! 名誉棄損だ!」
いったい僕は何を必死に懇願しているのだろう。情けない。けれど、どこかこの状況を楽しんでいる自分がいることも確かだ。別れるのが惜しいくらいに、心が高揚する。とても楽しい。
こういうのも──たまには、あっていいのだろうと思う。
こういうのを──どこかで、求めていたのだろうと思う。
「あ。──ほら」
言って、ジョミーは紅から濃紺に広がる天空を指した。促され、その先を目で追う。仰ぎ見た延長線上に、指し示されたものを見出して、僕は知らず嘆息していた。
「──ああ、……」
ともすれば見逃してしまいそうな、小さな星が一つ、誇らしげに瞬いていた。それを認めたとき、僕は納得した。宇宙の広さとか、星々の数とか、無限のロマンを語るつもりはないが、これくらいなら許されるだろう。すなわち、友人でも敵同士でもない、けれど必然として出会う、そういう誰かが、このちっぽけな自分にも確かに運命づけられているという、実感。こういう関係が、あっていい、どころではない。それでは収まりきらない。正しく言えば──
こういう風に、出会えて良かった。
それは、ずっと昔から、切に望んでいたことのような気がするから。叶わずに散った痛みを、覚えているから。
今、同じ光を見ることに、胸の内で、密かに感動していた。友達でなくとも構わない。できれば敵にはなりたくない。ただ、刻まれた記憶で繋がってさえいればいい。代わりのきかない、僕たちの──証。ただ一度の存在は、一度きりの生命で、二度と繰り返されない。複製されたとしても、同じものにはならない。やり直しでもなければ、救済でもなければ、贖罪でもない。今ならば分かる。
最後まで、独りなんてことは、ないのだ。
「サッカー、今度は決着つけようぜ」
「勿論。望むところだ」
サッカーに始まり、サッカーに終わる、奇妙な縁。図らずも、僕は自分と世界との関わりを、この交流を通じて学んだのだった。




End.




















趣味に走って好き勝手をした者にも後悔はない。掛け合いさせて楽しい二人でした。


2009.02.14-02.24


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