転生語『邂逅』 / Sugito Tatsuki
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普段は意識しない、重力の存在を両足に教えながら、僕たちを乗せたリフトは再び、地上へと上昇した。アイスを食べ終えてから、5分と経っていない。早くも、僕たち二人は、青の空間を辞去していた。
隣に立つジョミーを、横目で見遣る。意外に──意外すぎるほどに、あっさり引き揚げたな、と思った。仮にも、彼らは恋人関係である。スプーンを口に運びながらも、熱い視線を交わしては陶然と微笑み、見ている僕としては、もう勝手にしてくれと思うほどにいちゃついていたのだ。あの調子では一晩中、夜明けまで傍に寄り添っていそうなものだったのだが、もう退場とは。
不思議に思う、僕の心を察したかのように、ジョミーは口を開く。
「実のところ、ブルーの出番が少ないのは仕方がない。いつも寝ているんだから。あまり動いて貰っても、逆に困るくらいだ。残念だけれど、大人気を得てメインビジュアルになって延命さえされても、彼は主人公ではないんだよ」
「では誰が主役なんだ」
「主役、ジョミー・マーキス・シン。相手役、ブルー。通行人A、キース・アニアン」
「通行人AのAはアニアンのA!?」
エキストラ扱いだったのか……。自分では助演くらい貰えるんじゃないかと思っていたのに。いつも寝ているような相手に負けるというのも、なかなかに悲しいものがある。
そう──あのような、青いだけで何もない部屋に独りで、何をしているのかと思えば、単純明快なことに、ブルーは「いつも寝ている」ということらしい。僕たちが訪れる前にも眠っていたようだし、また、去った後も同じく──だろう。
ブルーはこれから、眠るから。もう、話せない。ジョミーは呟いた。
日中にも十分に寝ていただろうに、目覚めてアイスを食べて、また眠る、そのサイクルには驚きを禁じえない。殆ど、ハーゲンダッツのために起きただけのようなものではないか。生活習慣は人それぞれとはいえ、僕などから見れば、指導して改善させたくなる暮らしぶりだ。また、それを普通に受け止めているジョミーにも、驚くというか呆れるというか──常識に囚われず、意志を貫く、彼らしい。
特別な相手を、思う気持ちのゆえだろうか。折角逢えたのだ、もっと話したい、傍にいたいと欲しているだろうに、ブルーの事情を優先して身を引く。はたから見て、ブルーは、はっきりと目覚めて身を起こしていたし、例えば暗に眠気を訴えて、帰るよう促すような仕草もなかったから、これはジョミーの経験的推測に基づく判断だったのだろう。
ジョミーには、ブルーが何を求めているか、言葉に表されなくても察することが出来る。そして、それは正しい選択で、きっと今頃、ブルーは再び意識を降下させている。独り、眠りの淵へ。
「本当は、──ブルーともっと話がしたい。伝えたいことがたくさんあって、聴きたい言葉がたくさんあって、とても時間が足りない」
ぽつりと、こぼれたジョミーの本心だった。それは──そうだろうと思う。ましてや今日は、部外者がいて、パシリに出されてと、ただでさえ短い貴重な面会時間が、大幅に削られてしまったのだ。それでも、ジョミーは不平不満の様子を見せなかった。当たり前のように、あっさりと、部屋を後にした。未練など少しもないかの振る舞い──勿論、それは振る舞いであって、本心を覆い隠すための演技に過ぎない。心の中に抱いていた思いは、行動とは正反対だっただろう。
求めて、求めて、奪い尽くしたい、己の衝動を抑え込んで、情動を押し殺して、大事に──大事に、接する。考えるより先に動くタイプのジョミーにとって、それは、少なからず自分をねじ曲げて、無理をして、ようやく達成している在り方のように見える。見ているこちらが、辛くなるほどに。
多少の我が儘や、後先考えぬ勢い任せの言動は、許されて然るべきではないだろうか。自分に、許してもいいのではないか。14歳──まだ、子どもなのだから。普段の横暴な態度は、どこへ行ってしまったのか。
子どものくせに──恐れを、抱いている。大切なものを、失くしてしまう、取り返しのつかない、悔やんでも責めても憤っても嘆いても戻らない、やり直せない、その──絶望を、知っている。ジョミーは、愛しく思う気持ちと同じくらい、あるいはそれ以上に、ブルーを失うことが怖いのだ。
かつて、何を失って、自分を責めて、そういう思考に至ったのか。圧倒的な喪失感が、今度こそ間違えまいとする独占欲の根拠となり、力を尽くして心を砕いて縛って囲って護って独り占めする。そうして──それでも、失ってしまったとしたら。独占しようと、力を注いだ分だけ、時間だけ、より一層の空虚を味わうことになる。そして、思うだろう──まだ、足りなかったのだと。次はもっと、強くしなければいけないと。繰り返しで、ひどくなるだけの悪循環。
──囚われている。ブルーに、あるいは、自分自身に。それか、もっと大きなものに。
「せめて、起きている間は、傍にいたいよ。ブルーには、僕がいないと駄目だ。僕が護ってやらないと」
それが最上の使命であるかのように、ジョミーは言う。思い詰めた、その様子は、客観的に見て、──危うい、といえるものだった。他人の事情に口を挟む権利はないといえ、思わず疑問を呈してしまう。
「本当に──生活の全てが、君任せなのか」
ジョミーの気持ちはいい。痛いほどに一途な思いを向けていることが分かる。では、ブルーの方は、どうなのだろう。
彼の気持ちは──正直なところ、分からない。
掴めない。
推し量れない。
分からない、というのは、実際のところ、無いというのと似ている。伝わらなければ、無いのと同じだ。すなわち、無礼を承知で言えば、ブルーは──疑わしい。
愛していると言いながら、都合良く利用する。本当に大切なら、コンビニに買い出しに遣ったりするだろうか。いいように、使い走りをさせられているだけではないか。そんな卑劣な人間ではないだろうことは、先の少しの交流からも分かることだが、しかし──心配だ。
考えていることが、だいたい分かるようになってきた、親しい仲間として、どうしてもジョミーの側に感情移入して考えてしまうという理由もあるだろう。対して、ブルーと呼ばれる、彼は、測り知れない。何を考えていても、企んでいても、分からない。多少ひねくれているが、本来的に純粋で幼いところがあるジョミーなど、──騙すのに、そう手間は要らない。
そこまで考えたら、もう見て見ぬ振りは出来なかった。心酔しきっている本人は、邪魔をするなと憤るかも知れないが、どうしても、放ってはおけないのだ。
僕は、ジョミーの友達だから。
「……言い難いことだが。君の、それは、あまりに、」
「違う。いいんだ。ブルーは、それでいい」
僕がまだ何も切り出さないうちに、ジョミーは、強い口調で断言した。違う、と言って、現状を肯定した。激昂するでもない、静かな、しかし、有無を言わせぬ重みを持った言葉。頑なになって忠告を否定する、狂信者のそれではなく、──僕が何を言いたいかも、よく理解した上での発言のように感じられた。
「ブルーは、あれでいい」
確かめるように、もう一度、同じ言葉を繰り返す。
「彼に僕しかいないのは、本当のことだ──それが、良いことか悪いことかは、分からないけれど」
自明のことを告げる、淡々とした口調で、ジョミーは言った。ブルーが、「あれでいい」、その理由を。
「……あの部屋から、出られないんだ。それは、物理的な面で言っているのではなくて、彼の中で、そういうことに決まっている。心の問題、なんだって」
彼自身が、望んでそうしたわけでもなく。誰かが、強いてそうしたわけでもなく。そうなるのが、自然で当たり前であるかのように、そうなった──という。14歳の頃から、ということらしい。僕たちと、同じ歳で──外界から、隔絶された。在ってはならないものが、隠蔽され排除されるのと同じ過程で、地上から離れた。
てっきり、自らの理想郷を築いて、ひきこもっているのかと思っていたが──とんでもないことだった。楽園どころか、彼にとっては、地上の楽園を追放された牢獄ではないか。せめて青い水底を模した、偽装郷。どんな気分で、冷たい部屋に独り、昼も夜もなく横たわるのか──想像も及ばない。
「全部、青くしてしまった。青くないのは、自分だけで十分だ、と言って。……僕は、青い檻に、青い鳥を閉じ込めて愛でている。青じゃなくなったら、多分、もう要らないんだ」
ジョミーは言って──また、その表情をする。
心の底から、呆れ果てたような、骨の髄から、疲れきったような、これ以上ないほどに、愉快な気分とはかけ離れた、微笑だった。
僕には、触れることの出来ない領域。それでも、ひとつ分かったことがある。ジョミーの過剰なまでの独占欲の背景にあるものが、ブルーに対する不信ではない、ということだ。裏切られるのを、捨てられるのを恐れて、縛っているわけではない。ジョミーはブルーを、何の前提条件もなく、信じきっている。そこには、どんな疑念も入る余地はない。
二人は、互いを失うことを望まない。どちらかの意図によって、ジョミーがブルーを失くす事態は、まず起こり得ない。だから、ジョミーの不安の元凶は、ブルーにあるのではなくて──彼らを取り巻く、この世界にある。
ジョミーは、世界を、信用していない。
あるいは、嫌悪している。
抵抗している。
誰も望んでいないのに、大事なものを失ってしまうのは、非情な世界のせいだ──大切なものは、そこから護ってやらなくてはいけないと。いつ襲い来るか分からない、「誰か」に奪われないように、壊されないように、閉じ込めて、隠して、護らなくては、いけないと。
──「世界」なんて、「運命」並みに曖昧で都合良い言葉には、広い意味で「ジョミー」も「ブルー」も含まれていて、結局、自分もまた、世界を構成して動かす一員なのだということも、理解している。「誰か」なんていなくて、辿れば自分に原因があることも、痛いほどに知っている。それでも──ジョミーは、自分の力ではどうにもならなかった、自分のせいでより悪くなってしまった、めちゃくちゃな展開をして大切なものをよりによって一番ひどいかたちで奪った挙句破綻した、世界というものを、好きにはなれなかったのだろう。
赦すことは、出来なかったのだろう。
好きにはなれなくて、だから、折り合いをつけようと、今まさに努力している。渋々といった風情でも、僕とブルーを引き合わせたのは、その表れといっていい。
ほら、大丈夫じゃないか、と。
疑わなくても、怯えなくても、頑なに閉じこもっていなくても、大丈夫だ──世界は、そう悪いものではないと、確かめるために。
「今は、二人して檻の中だけれど。いつか、乗り越えられたら──一緒に外に出て、サッカーも出来るかも知れない」
乗り越える──ブルーが、閉じた世界の外へ足を踏み出すことか、それとも、ジョミーが、世界への不信を拭い去ることか。いずれにせよ、そのとき、彼らは本当の青を目にするだろう。生き難い、歪んでいると、自覚する彼らが、それぞれに負わされたものを、乗り越えることが出来たら──彼らと近しい、僕もまた、そう願わずにはいられない。
「……そう、か。出来るといいな」
「野外プレイも出来るかも知れない」
「いきなりハードだなあ!」
「実は、夢があるんだ。宇宙空間で、この惑星を見下ろしながらの無重力プレイ。二人で夜明けの地平を眺めたい。ブルー・ホライズン。正に愛の惑星(」
「素晴らしい。きっと叶うよ。応援する」
また一つ──友人のことを、理解出来た気がする。少し重くて、けれど、悪くない──そんな思いによく似合う、心地の良い夕方の風だ。
と、ここで、僕は普通に周囲の景色を眺めている自分に気付いた。そういえば、あれから何気なくリフトに乗って、下りて、何かの建物を出て、道を歩いて──
「……ところで、帰り道は、箱男にならなくていいのか」
「──! しまった、そうだった!」
どうやら、本気で忘れていたらしい。ジョミーは狼狽した声を上げた。普段は自分独りで往復しているのだろうから、無理もないことだ。もう見覚えのある風景に出てしまったから、これでは往路にわざわざ視界を奪って遠回りをした意味も無に帰す。
「こうなったら仕方ない……ここまで見たもの、全て忘れろ! 記憶を手放せ!」
物騒な台詞とともに、苛烈な拳が下方から側頭部に襲いかかる。そう来ることは分かっていたので、腕を上げてガードしつつ、衝撃を横あいへと流す。まともに食らっていたら間違いなく昏倒していた。手加減なし。つくづく危険な奴だ。
一撃目が不発に終わったといえ、攻撃はこれで収まらない。
「削除、開始!」
ジョミーは素早く重心を落として姿勢を安定すると、体重を乗せた一撃で、今度は腹部を狙う。それを言うなら消去だ、などと突っ込んでいる余裕はない。既に負傷している箇所を突くとは、本当に容赦なしだ。限界まで緊張させた掌で受け止めるが、勢いは殺しきれない。腹を衝く痛みに息が詰まる。さすがに一日に二発はきつい。
それでも、引き戻されかけた拳を掴んで、意地でも離さなかったのは、褒められてもいいくらいだ。片手を封じられては、ジョミーが拳に威力を乗せるために不可欠な、全身の体重移動が妨げられる。彼の攻撃は勢い任せで、踏み込みのモーションが大きすぎるのだ。ここまで接近した状態では、満足な反動を得られない。威力も半減だ。
こちらの意図を見て取るや、ジョミーは攻撃を切り換えた。正面に突き出された掌底を払い、反射的に手首を掴んで──ここで、僕はこれがフェイントであったことを知覚したが、既に遅い。ジョミーは両手を拘束されたが、同時に、僕の両手を封じることに成功した。条件は同じ──ではない。抵抗する相手の手首を、離さないように(、しっかりと力を込めて握ってしまった(、僕の方が──不利だ!
ぐ、と両手が引き下げられる感覚。違う、懸垂の要領で、ジョミーが自らの身体を引き上げたのだ。離さないように(、しっかりと力を込めて握ってしまった(、僕の両手は硬直して、支えとするのに丁度いい。
「……これなら!」
ジョミーは側方から思いきり、脚を振り上げた。下肢のひねりを活かして反動をつけるとともに、軸足ではなく掴まれた両手首を支点とすることで、重心を移動。上体を後方へ倒して、更に加速する。不自由な体勢を克服して、十分な重さと速さを乗せた、有効な一撃。避けられるわけがない、これで決まりだと確信しての、最後の攻撃。後方へ半回転するような体勢のため、ヒット後は勢い余って自らも地面に背を打ちつけるだろうが、全く躊躇がない。
確かに、決定的だった。ジョミーの両手を掴んでしまった以上、一連の流れには対応する暇もなく、無防備な横あいから蹴りを喰らうことは避けられない。まず間違いなく、ジョミーの勝利だった筈だ──その行動が、読まれていなかったならば。
「──笑止!」
「なっ……!?」
焦燥の声。優勢であった筈のジョミーの瞳が、驚愕に見開かれる。一瞬にして、形勢が逆転したのだ。
僕がしたことは、打撃ともいえない、ほんの小さな動作だった。渾身の力で握り締めていた、ジョミーの両手を、即座に手放したのだ。空中で支点を失って、逃げ場がないのは、今度はジョミーの方になる。ついでに片手で、軽く肩を突いてやった。もう片腕を上げて、攻撃に備えることも忘れない。その必要は、あまりなかったけれど。支点を失ったジョミーは、重力に従ってバランスを崩し、折角の蹴りは、すっかり威力を失ってしまったからだ。
それでも、受け身をとることよりも、最後の意地で攻撃を優先したことは、素直に称賛したい。空中で無理やり角度を変えて、再度勢いをつけた蹴りが、ガードの腕に入る。備えていたといえ、思わぬ衝撃に、僕はよろめいた。次の瞬間には、無理な体勢をしたジョミーは背中から地面に叩きつけられている。押し殺した呻きが聞こえた。
ひとまず──休戦だ。出来れば永久に終戦であって欲しい。
振り返ってみれば、我ながら、よくもこう適切な対応が出来たものだと思う。あの状況で、固く拘束した両手をすぐさま手放すべきだとは、頭で分かっていても、実行するのは難しい。離すものかと、一度何かを掴んだら、更に力を加えることはあっても、抜くことはない。筋肉を緊張させ、硬直した腕は、簡単に弛緩するものではない。
一瞬の攻防の最中で、僕がそれを実行出来たのは、次に何が起こるのか、分かっていたからだ。スローモーションの映像を見るように、動作と意図が分かったから、余裕をもって対処出来た。
僕が特別、喧嘩慣れしているわけではない。そういう諍いは、むしろ避けて通るタイプだ。ただ、強いて言えば、相性が良かった──ジョミーにしてみれば、最悪だったと言うべきか。近接戦闘で、彼がどういう思考と判断と反射で動くか、僕は知っていた。それに、いかにして対処するべきかも、考えるまでもなく、身体が勝手に動いた。
地面に倒した後は、速やかに馬乗りになり、膝で胸部を押さえて制圧した上で、ゆっくりと刃を突きつける──そこまでの流れを、鮮明な映像でシミュレートしたところで、我に返った。もしかして、僕の前世って傭兵?
双方共に息が荒い。ジョミーは地に仰向けたままだ。僕も腹と、防御に使った腕が熱く痺れている。痛み分けといったところか。そもそも事の発端を思うに、僕は理不尽な理由で一方的に襲われ、正当に防衛をしただけなのだが。どうして喧嘩両成敗みたいになっているのだろう。
身を起こしながら、ジョミーは荒い呼吸とともに吐き捨てる。
「くっ……なんてザマだ。サイオンが使えれば、こんな奴、一撃でミンチ、もしくはペーストなのに……!」
「グロい発言はやめてくれ……」
すっかり疲弊して、突っ込む元気もない。サイオンって何だっけ……まあいいや……。
そんな投げやりな僕に対して、ジョミーの方は元気一杯だった。
「悔しい悔しい悔しい、一発殴ってやらないと治まらない…!」
握り締めた拳を震わせるジョミー。戦士の血とやらが滾りきっているようだ。直情的だなあ。
人を殴るなんて、僕にはとても考えつかないことだ。たとえ挑発を受けて、かっとなったからといって、手を出したらヒトとして終わりだと思う。僕はきっとそんなことはしない。断じてしない。変な記憶が蘇りそうなのでここで終了。
頭に血が上ったジョミーを前に、このままだと、気が済むまで喧嘩に付き合ってやらなくてはならない流れになりかねないと判断した僕は、説得を試みることにした。
「僕も殴られるのは御免だ。ともかく、精神を落ち着けて……そう、何か青い景色でも思い出してみるといい。安らぐだろう」
話し合いに持ち込めるか、やや心許なかったが、ジョミーは素直に頷いた。拳を緩めて、瞼を閉じる。
「……ブルー……」
先程まで過ごした部屋を、思い出しているらしかった。肩に入っていた力が、次第に抜けていく。どうやら効果はあったようだ。良かった良かった。
暫しの沈黙の後、ジョミーはぽつりと呟く。
「青い光は、肌を美しく見せる」
「そうなのか?」
「嬉しいじゃないか。つまり、ブルーは、一番きれいな姿で僕に逢いたいと思ってくれているわけだ。僕の愛を得るために。ああブルーいいよブルー。なんていじらしいんだ。ベッド、包帯、薄闇、最高だ。横たわるブルー。シーツ剥きたい。包帯解きたい。キスしたい。舐めたい。撫でたい。我慢出来ない。胸が苦しいよ。腹が熱いよ。息が荒いよ」
「落ちつけ!」
しまった。こいつに青の鎮静効果は効かないのだった。むしろ興奮している。攻撃衝動が別の欲望に転化してくれるのなら、僕としては標的から外されて助かるが、公共の場で淫らな妄想をしている奴と肩を並べるのも嫌だ。僕は急いで作戦を切り換えた。
「青が駄目なら……雪国でも思い出して、頭を冷やすのはどうだ」
「雪国ね。やはりロシアになるだろうな。君、何かロシア語を知っているか?」
「……ペレストロイカ?」
「うん、多分そんなところだろうと思ったよ。そこで僕が素晴らしい一言を教えてやろう。これさえあればノー・プロブレム、国際交流を深める魔法の一言だ。僕は他のロシア語を知らないが、この一言だけでやっていける自信がある」
「ほう、それは? スパシーバ?」
「チーハ!」
「よりによって『黙れ!』!?」
何ていう暴言!
むしろ暴君だ!
国際交流を真っ向から否定している!
「失礼だね。僕は異文化交流には情熱を傾けるタイプだよ」
「そうかなあ」
「例えば、ロシア楽器。あれは良いものだ。僕も少々、嗜んでいる」
「どのような?」
「エア・テルミン」
「エアなんだ……」
ちょっとでも期待してしまった僕が莫迦だった。でも、元々がエアっぽいあの楽器で、それをやって、果たして楽しいのだろうか。あの指先の動き、下手をしたら謎の超能力者だ。
そんなことを思っていると、ジョミーは、こちらをまじまじと見つめた。
「今回の件で確信したけれど、君は僕に的確な突っ込みを入れるね。まるで、僕の手によって演奏されるマトリョミンのようだ。これから君は、うなずきんからマトリョミンに昇格だよ。さあ喜べ」
「わあ、嬉しい……くない!」
こうして、僕の中でジョミーは「サッカー仲間」から「友人」に微量昇格し、ジョミーの中で僕は「クズ」から「マトリョミン」に大幅昇格したのだった。果たしてこれは対等な関係といえるのか、それはよく分からない。
分からないが、互いに感じている距離感は、きっと同じなのだ。親しい、というのは、こういうことだと思う。そう表現されることに、はじめは抵抗があったものだが、今ならば、自然に受け容れられる。そして、認めることが出来る。
僕は、こういう風に、なりたかったのだと。
そして、翌日。宣言通りの事態が僕を待っていた。
「やあ、キース先輩ごきげんよう。昨日の箱男体験はいかがでした? 箱を被っていようとも、一目見ただけで先輩と分かりましたよ。頭隠してなんとやら、ですね。全く、まさかあんな公開羞恥プレイのために、先輩が下校を急いでいらっしゃるとは……僕には到底、考えも及びませんでした。ドMという噂は本当だったのですね。先輩も人の子、ということでしょうか。こうして少しずつ汚れて、大人になっていくくらいなら、僕は永遠のニートでいたいですよ」
「うん、やはりお前のキャラはこうじゃないとな!」
思わず苛立ってしまうほど挑発的な台詞を吐く後輩の姿は、何故か心に懐かしかった。
「勘違いしないでくださいね。僕は別に、先輩を悦ばせて差し上げるために、意地悪を言うわけではないのです。むしろ逆といえます。僕はようやく、自分が何を求めていたのかを悟りました。先輩を完膚無きまでに打ちのめし、二度と立ち上がれないように叩き潰し、恥辱の中で蹲って涙を流させた時こそ、僕は高き歓喜に達することでしょう」
「ツンデレの定型句に則ってはいるが、お前の場合、ただの本心だろうな」
後輩は不敵な笑みを浮かべる。
「ですから、羞恥プレイが好みという指摘は、的を射ていたといえます。しかし、僕が辱める側で、先輩が辱められる側として、というのは、我ながら想定外でしたが。人間、分からないものですね。いっそ、お互いに辱めあう関係というのはいかがでしょうか」
何だか変なことを言い出している。それでいいのかお前。
「先輩を辱めるためならば、僕はどんな恥ずかしいことでもしてみせます」
「屈折しているなあ!」
楽しい。何気なくて、とても楽しい。思いが表情に出ていたらしく、後輩に怪訝そうな顔をされた。
「何が可笑しいんですか。これだからMは嫌ですね。いくら虐げても、悦んでしまって、気持ち悪い。僕は先輩を苛めているのですよ。もっと嫌がって、さっさと怒って、かっとなって拳を上げて、一発殴って僕の心を満たしてください」
「やっぱりMなんじゃないか!」
昨日までと何も変わっていない。やはり個人の嗜好は根深く、根源のところは、そう簡単に変わらないということか。いや、そう冷静に分析する場面ではないけれど。
「思えば、僕の溢れんばかりのM特性を見抜けなかった体制側のぬるさこそ、今回の悲劇の元凶なのです。僕も先輩も、哀れな運命の犠牲者です。仲良くやりましょう」
「さて、そろそろサッカー練習に向かうとするかな」
こちらに向けて両腕を広げ、抱き合おうとでも言わんばかりの後輩を軽くスルー。くるりと背を向けて、僕は歩き出した。昨日の失態を返上すべく、今日はより一層に励まなくてはならない。幸い、現時点で悩み事は何もない。ラジオ体操その他を経て、身体もほぐしてある。準備は万端だ。今回は主に、スルーパスのタイミング合わせを強化することにしよう。オフサイドは警戒しないといけないな。戦略を練りつつ、グラウンドへ向かう背中にぶつけられる、後輩の喚き声。
「逃げるのか卑怯者!」
「ありがとう、その台詞が聞きたかったよ!」
こちらの期待に律儀に応えてくれる、よく出来た後輩だ。やたらに絡まれて面倒に思っていることは事実だが、同時に、こういう後輩を持てたことを、誇りにも思う。僕の人間関係は、多少の厄介はあろうとも、出会えて良かったと思うことばかりだ。
友人たちと。その大切な人と。後輩と。
彼らがいて──僕がいる。この、驚くほどの偶然と、強く結ばれた必然を、僕は幸いに思う。同じようには、二度と組み立てられない、ただ一度の──僕だけの時間。今は、全力でサッカーに励んで、青春を思いきり満喫するとしよう。空は青。心も晴れ渡っている。この分なら、きっと名誉は回復出来ることだろう。
グラウンドで待つ、仲間たちのもとへと、走り出した。
End.
皆に愛されるキース少年。青春なのかいかがわしいのか。
2009.03.28-04.25