単純接触効果 プライマリ / Sugito Tatsuki
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「……ですから、動かないで下さいと言っているでしょう」
少しでも触れると堪えきれずに振り払おうとして上がる彼の手首を片手で拘束すれば、それでも逃げようと身を捻る。まるで手負いの獣だ。薄い肩を掴み、思わず強い口調でたしなめる。言ってから、ああ彼は今聞こえていないのだったと思い出すが、意図は通じたようで、彼は仕方がないだろうと言わんばかりに忌々しげに舌打ちをした。
『それなら僕をベッドに縛り付けるなりすれば良い』
――どうしてこの人は、こうも無自覚に他人の情動を乱すようなことを口にしてしまうのか。あまつさえ、そのまま上体を後方に倒し、寝台に身を投げ出しさえする。ふてくされたように目は閉じられ、おさまりの悪い髪がシーツに広がる。その態度に、全く、本当に子供っぽい人だと呆れ、しかし同時に、そんな姿をさらされて好ましく思う自分を認める。
『それでは出来ませんよ、起きて下さい』
手を差し出して告げると、彼は渋々といった様子で目を開け、一つ息を吐くと、差し出された手を掴んだ。腕を引き、上体が僅かに寝台から浮いたところでもう片手を差し入れ、背を支えて抱き起こす。指先には背骨の硬い感触が直に伝わる。これ以上彼の機嫌を損ねるのは望ましくないと、沸き起こる思いは押し留め、体勢を整えると黙々と手順に入る。これだけ触れられて、身体も動かしたのだから、血行は促進している筈だ──冷えた末端からは、充分な採血が叶わない。
耳朶からの血液採取は、彼の健康管理の一環として定期的に行なう。
彼は己の身体のことは己が一番知っていると主張するタイプではないし、高水準の専門教育を受けた医療セクションを何より信頼している。昔、まだ我々が組織だってもおらず、試行錯誤を重ねて生き延びる道を探っていたあの頃、彼はたびたび無理を重ねては倒れていたから――彼は身体の疲労が限界に達して休息を求めるシグナルが発せられようと、強い精神力ゆえにそれをなかったこと(にして、正に気力だけで動くような真似が出来てしまうのだ――自己管理能力を当てにしていない。
彼の耳にかかる髪をピンで留め、露出した耳朶をアルコール綿で拭い消毒する。濡れた綿が触れると、彼は僅かに眉を寄せたがそれだけで、身体は微動だにせず大人しくしていた。矢張り先の過剰反応は、その強い感受性ゆえに無意識下で彼に対する自分の情動に感応したためだったのだろう。つまり個人的感情をつとめて抑え、冷静を保ち、機械的な作業への意識集中に徹すれば、この程度の手順、1分もあれば終わってしまう。だがそう効率重視というのは、こう言って適切ではないかも知れないが、純粋医療従事者でない自分の素直な思いとしては、あまりに――勿体ない。
彼の肩、耳の下辺りの位置にガーゼをかけ置く。過去にはこれが2枚、真っ赤に染まってもまだ止まらない程に多量の出血を起こしてしまったこともあったので油断ならない。
片手に穿刺針(を構え、片手で耳朶を掴む。彼が覚悟を決めたように目を閉じた。多分、1回で上手くいくようにと願っているのだろう。いつかは3回目にしてようやく十分な量の血液を得られたという酷いこともあった。慎重に位置と角度を目測し、耳朶に針の先端を沿わせる。息を詰めると、その柔肌を、――躊躇わず刺し貫いた。彼の唇から、小さな苦鳴が漏れる。
僅かに刃を動かして肉を裂くと、手早く針を抜き、採取の段階に入る。小さな傷口から溢れた血は表面張力によって、流れ落ちずにその場に留まっている。その最初の血液は拭い取り、創口からやや離れた部位を圧迫して新たに湧き上がる血液を採取する。今回は事が順調に進み、血液の出が悪いことも逆に多すぎて衣服を汚すこともなく、採取はスムーズに行なわれた。傷口も3、4分すれば問題なく凝固することだろう。
『終了です、お疲れ様でした』
血液サンプルを医療セクションに引き渡すためにケースに収納しつつ声をかける。彼は目を開き、嘆息した。
『暫くはこのままか』
補聴器を早く定位置に戻したいらしい。静寂の世界に包まれる不安感が、思念に僅かににじんでいる。
物憂げに目を閉じ、そして開け、こちらを向くと、彼は言った。
『何か、喋ってくれないか?』
喋る――何を。
彼の唐突な言葉に戸惑う――などと、それはポーズに過ぎない。心では、考えるより前に、既に判っている。思い詰めたように言われるより前から、密かに持っていた。今、彼に応えるために、口にしたい、伝えたい言葉を。
これまで緩やかに繋げられていた双方の心が、遮蔽される。
自分は口を開く。そしてゆっくりと言葉を発する。今の彼が適正に捉えられる音域はごく僅かに限られている。小さな音は拾えないし、かといって大きな音も聴神経にダメージを与えるだけだ。
彼は耳をそばだてる、けれど――表情から憂いが晴れない。そうだろう、確かに目の前で口を動かしている相手がいるのに、声が届かない、透明な壁の存在を思い知らされるだけだ。
同じ言葉を、何度も繰り返す。そうしていれば、いつか伝わるなどと、都合の良いことがある筈もない、解っている、しかし繰り返すことを止めてはならない。彼は、喋ってくれ、と言った。彼は無意味なことは言わない、その言葉には全て必然性がある。彼の言葉は最善を尽くして叶える、それが自分の掟だ。彼に捉えられない限り、彼に伝わらない限り、何よりの優先事項であるその頼みを、自分は聞いたことにはならないのだ。そのようなことは、たとえ彼は意に介さぬとして、自分が赦さない。
無自覚に身を寄せてくる彼との距離は次第に詰まる。
けれど――ああ、伝わらない、
間に空気のある限り、彼には伝わらない、
この距離が邪魔だ、
遠い、
あまりに――遠すぎる!
衝動的に、彼の手をとった。驚いた表情を見せる彼に構わず、その手を自分の首に押し当てる。彼が目を見開く。――聞こえる筈だ。自分の声帯の振動が、彼の冷たい指先に捉えられる。確かな声の感覚が、直接に彼に響くだろう。
彼の指が、ぴくりと震える。
彼は――少し困ったような、けれど確かな喜びを表して――微笑した。
伝わった――繋がった。
『ありがとう』
それは、頼みを聞いたことについてなのか、それとも、ずっと自分が繰り返していた言葉の内容についての返事なのかは分からなかったけれど、彼が、笑った。今日、初めての笑顔だった。久しく見ることの無かった、その表情だけで、十分だ。
彼の手が、当てていた首から上がって、頬を撫でた。優しすぎる感覚に、心が酔わされるのを止める術はない。
『お前は本当に良い子だ』
全く主観に過ぎず、自惚れと呆れられるかも知れないが、その時、彼の自分への眼差しには、慈しみが満ちていた。
思念波が扱えるのだから、常に誤解を生む恐れの内在する言葉を用いたコミュニケーションなど必要ないと考える者は、若い世代に特にみられる。実際、我々は、言語化の困難な、様々な要素の絡み合った複雑な感情も、何を介在させる必要もなく直接に共有することが出来る。
それであっても、自分は――己の思いを分析し、それを表すに見合う言葉を探し、組み合わせ、伝えようとする、手間のかかる上に正確さに欠けるそんな手段を、廃れたものとはしたくない。あるいはそれは、失われつつある聴力をサイオンによってではなく外的働きかけによって補う手法を採っている彼がその理由として挙げる、会話する能力を失ってはならないという信念と同じことであろう。
人間の方法を知るためであるとか、人間と同じフィールドに歩み寄って対話するためであるとか、そうした目的ゆえの関心事ではない。言葉を忘れないようにするのは、少なくとも自分にとっては――それが、自己の証明であると信じるからだ。
ソルジャーが感覚をそれとした様に、どうにも我々初代ミュウには、捨てきれぬある種の人間じみた(情感があるらしい。
End.
ちょっと活動的で感情的な昔ブルーで。今やすっかり抜け殻のようですがっ。
とりあえずハーレイがどんどんフェチ的になっていっていたたまれない。
2007.05.24-05.25