Bright star -1-
およそ戦場においては、身体的な負傷によって離脱する兵士よりも、精神を病んで使い物にならなくなる兵士の数の方が多いといわれる。殺されるという恐怖、それだけではない。それ以上に、自分が人を殺すという恐怖、あるいは、その実体験によってである。戦闘が長期に及び、常にストレスにさらされる状況下においては、実に9割以上の兵士が精神に異常をきたすという。
それでは、そうならない少数派は、何者であるのか。
人を殺すという多大なストレスに晒されても、なおも任務を遂行できる者たちは。
──ここに集ったのは、そんな連中ばかりだ。
■
「へぇ──これは、なかなか」
白い面立ちに伸ばされた男の指は、無造作に顎を掬い、上向かせた。品定めでもするように、顔を寄せる、男の油断なく鋭い眼光は歴戦の兵士のそれを思わせたが、口元には、上等の酒を見つけでもしたときのような愉悦の笑みが刻まれている。戦闘要員を採用するのに、顔立ちを至近距離でじっくりと眺める必要があるとは、俺は寡聞にして知らないが、今後の雇い主となるであろう相手と、その忠実なる部下連中に刃向かったところで、良いことはひとつもないことくらいは分かる。
幸いなことに、それは、あいつにしても、同じであるらしかった。大男に顔を上げさせられながら、佇む態度は平然としたものだった。俺と行動を共にするうちに、とうとう、ここまでついてきてしまったあいつの姿を、俺は傍らで見守った。
一口にPMC──民間軍事会社といっても、その組織規模や提供するサービスの内容および品質は、ピンからキリまである。ヘッドハンティングなどで元特殊部隊の精鋭を集め、圧倒的な軍事力で世界にその名を轟かせる大企業が脚光を浴びる一方、下請けの下請けのそのまた下請けでは、素人に銃を持たせただけといった程度の組織も無数に存在する。
今やあらゆるビジネスにおいて、加速するアウトソーシング化の風潮は免れない──あまり治安が良いとはいえない地域を転々とし、荒事に関わるうちに知り合った元傭兵の男から、俺たちはそのような教示を受けていた。
「俺みたいなフリーの奴が仕事にありつくには、オファーを受けるか、戦友の伝手を頼るか、どちらかだったな。いずれにしても、戦場経験がものを言う。重視されるのは、実績と信頼──どんな仕事にもいえることだがな」
フリーランスの傭兵とはそういうものだと、男は右も左も分からない若造相手に語って聞かせた。憧れや幻想だけで、とにかく戦場に出たいと意気込む若い連中というのを、彼はさんざん見ては辟易してきたというが、どうしたわけか、俺たちのことは気に入ってくれたらしい。
「しかし、軍歴もないお前らじゃあ、その手は使えない。とりあえず、素人歓迎の小さい組織にでも潜り込んで、場数を経験することだ──紹介状を書いてやるよ」
その厚意をありがたく受けて、俺たちは紹介された「会社」の、寂れたビルの一室にある「オフィス」で、直々に「採用面接」を受けているという現状である。決して、間抜けな若造二人が、物騒な連中のアジトに連れ込まれて、何らかの脅迫を受けているという図ではない。ということを、いちいち自分に言い聞かせなくては確信できないくらいに、状況は紙一重であるといえた。
「わざわざ戦場なんぞに行かなくったって、この面なら、街角に立ちでもすれば楽に稼げるだろうに。なあ?」
お世辞にも品が良いとはいえない男どもに無遠慮に眺め回されて、煙草の煙を吐き掛けられても、あいつの落ち着き払った態度が崩れることはなかった。不快感を表情で示すこともせずに、涼しい顔をしている。こんなのは、慣れっこだとでもいうように。
まっすぐに切り揃えられた漆黒の髪を、男は親しげに絡め取り、そのなめらかな指通りを愉しむように弄ぶ。
「彼氏と別れたくなくて、ついてきちまったのか? 健気なことだが、ここはお前みたいなのが来るところじゃ、」
「待ってくれ、紹介状はあるんだ。警備員でも、運転手でもいい、まずは使ってみて、それから判断してくれ」
ようやくここまで辿りついたのだ、門前払いされるわけにはいかないとばかりに、俺は主張した。独断で採否決定権を有すると思われるその男は、まだ半信半疑の様子だったが、俺の態度がどうも虚勢ではないということは、伝わったらしい。面倒そうに、肩を竦める。
「ああ、分かったよ。一応、試験はしてやる」
「──どうぞ、よろしく」
あいつは、ここに至って、初めて、唇に表情を刻んだ。友好的な微笑とは言い難い、挑発的に歪めた唇。光る金色の瞳は、射抜くばかりにまっすぐに、対象を見据える。
一瞬にして、場の空気が変化したことに、どれだけの者が気付いただろうか。戦場経験の長い連中は、もちろん、気付いた。否、強制的に、理解させられたといったほうが正しい。プロフェッショナルであるはずの百戦錬磨の男が、気圧されたように体勢を緊張させるのを、俺は見逃さなかった。
一般に、笑顔というのは、こちらに敵意がないことを示し、友好的関係を築くためのコミュニケーションツールとして用いられるが、場合によって、挑発や侮蔑の意味を含むことは、言うまでもない。だが、こいつの場合、それとも異なる。奴の、この微笑は、コミュニケーションツールですらない。相手に、いかなる意味を伝達するためのものでもない。
それは──純然たる、愉悦。誰に向けてでもなく、ただ己のためだけに、あいつは微笑する。
それが──異形の印象を与える。ヒトならざるものの影を見せる。
得体が知れない。こちらのものさしで、推し量れない。そういったものに直面したとき、人間は竦み、恐怖する。直截的な、分かりやすい危険だけが、恐怖ではない。分からない、という圧倒的事実、そのものが──恐怖である。
などというと、まるで奴が人智を超えた存在であるかのようだが、別にそんなことはなく、あいつは俺と何も変わらない、ごく普通の人間だ。拳が当たれば倒れるし、ナイフで切られれば赤い血が流れる。基本的な戦闘技術を身につけているだけの、どこにでもいる若造だ。
ただ、一点──いかなる場面においても、恐怖という感情を、およそ表出しないことを除いては。
「──そういうことか。確かに、試す価値はある」
どうやら、男はいち早く、あいつの特性に気付いたらしかった。そして、その有用性に思い至るまで、時間はかからなかった。紫煙を吐きつつ、低く呟く。
「恐怖を感じない、か。ただの、馬鹿かも知れないがな」
どれ、と男はあいつの腕を掴み寄せた。片手に収まる細い手首を、逃げられないよう握り込みつつ、もう片手で、袖を無造作に捲り上げる。肘まであらわにさせられた腕は、ほっそりとして、一点の曇りなく白い。手首の内側の皮膚は、ひときわ青白く、薄く血管が透けて見える。男は眼を細め、愛でるように、そこへ視線を這わせた。
そして、何気なく片手を己の背後に回した、次の瞬間、男は抜き放っている──刃渡り20センチメートル強、鈍く黒銀に輝く、無骨なコンバットナイフを。
「な、──」
何を、と間に割って入ろうとしたところで、俺は背後に佇んでいたいかつい野郎どもに羽交い絞めにされた。掴まれた腕が、鈍く軋む。あがく俺に対して、ナイフを握った男は、一瞥をくれた。手にした刃にも劣らぬ、鋭利な視線。黙って見ていろ──言葉で言われなくとも理解させられる、それは警告だった。
邪魔者を黙らせたところで、男は改めて、あいつの手首の内側に刃を沿わせた。ひたりと押し当て、あるいは、ゆっくりと、皮膚を削ぐように前後する。研ぎ澄まされた5ミリメートル厚の刃は、その持ち主の気分次第で、簡単に獲物の肉を裂き、筋を断ち切ってみせるだろう。
いつでも皮膚の下に潜り込む準備ができている、鋭利な先端が、焦らすようにゆっくりと、細い手首の内側に透ける血管を辿る。ごく、と俺は唾を飲み下した。とても、見ていられない──嫌な汗が滲んで、息が詰まる。身じろぎひとつ、許されない。
たとえ、背後から拘束されていなくとも、やはり俺は動けなかっただろう。この場の空気を、少しでも揺らがせれば、男の手元が狂って、あいつを傷つけるかも知れない。あいつの白くなめらかな肌が、俺のせいで──鮮血に染まることになる。
俺に出来るのは、見ていることだけだ。息を殺し、瞬きも忘れて、ただ、あいつのことを。
見ていることしか──できない。忌まわしい過去の残像が、脳裏にちらついて、俺は苦鳴を堪えた。
そんな俺の眼に映る、あいつの態度は、しかし、まるで他人事だった。己の手首に沿わされた、鋭利な輝きを、黄金の瞳で悠然と見下ろす。この状況を楽しむかのように、薄く笑みすら浮かべている。男は、あいつの手首が少しも緊張していないこと、手のひらに汗が滲んでいないことを確かめて、なるほどな、と頷いた。沿わせていたナイフを引き戻し、腰の後ろのホルスターに収める。自由になった片手に、男は代わりに煙草を挟み込み、気だるげに煙を吐き出した。
どうやら、試験終了のようだ。張り詰めていた、場の空気が、僅かに緩む。俺を捕らえていた部下連中も、それを察して、拘束の手を緩めた。ようやく自由の身となって、俺はよろめきかけるのを堪えた。深く息を吐く──俺が緊張してどうする。この責任者兼採用担当者が、いかにサディスティックな趣味であろうと、志願者をむやみに傷つけるわけがない、しょせんは試験なのだからと、今更ながら、冷静に事態を受け容れる。
とにかく、無事でよかったと、俺は顔を上げてあいつを見遣った。あいつの手首は、何故かまだ掴まれたままで、男はそれを、ようやく解放する──その前に、何気なく、咥えていた煙草に手をやった。
どちらのほうが、先だっただろうか。
あいつが初めて、おやと興味を引かれたように、金色の目を瞠ったのが先だったか。
それとも、考えるより早く、反射的に、俺が飛び出したのが先だったか。
ごく自然な動作で男の口元から運ばれた、摂氏700度に達する煙草の火が、あいつの白い腕の内側の、無防備な柔肌を焼き焦がす、その寸前で、俺は男の手ごと、あいつから引き剥がした。火が触れたか、皮膚に鋭い痛みが走ったが、構いはしない。そのまま、握り潰して揉み消す。
「なるほど──なるほど」
何しやがる、と吠える俺の存在など、意に介さぬ様子で、男は満足げにあいつを眺めた。その視線から、あいつを庇うように立つと、俺は急いで、晒されたままの白い手首を掴み寄せた。その肌に、一筋の傷もついていないことを確かめて、まずは安堵の息を吐く。俺の直感的行動というのも、たまには役に立つことがあるようだ。
「ありがとう。また、助けられたね」
あいつはそんなことを言って、先ほどまで刃を突きつけられていたとは思えない、いつも通りの微笑を浮かべる。捲り上げられていた、その袖を、俺は手早く元に戻してやった。ほっそりとした白い腕が、むやみに男の嗜虐心をかきたてないとも知れない。別に俺は、こいつの保護者ではないはずなのだが、と自分自身あきれつつ、袖口を留め直す。
「間に合って良かったが……何で、抵抗しなかった?」
「恐怖心を測られているんだから、抵抗したら駄目じゃないか。それに──きっと、こうなると、思ったから」
「……は、」
「きっと、君は来る──その通りに、なっただろう?」
あいつは俺の手を取り、大切そうに胸元に引き寄せた。ぴり、と小さな痛みが走るのは、先ほど、煙草を握り潰したときの火傷だろう。小さく腫れた、そこにあいつは目を留めると、自然な仕草で、唇を寄せた。止める暇も、俺に与えなかった。
「……っ」
冷たくぬめるものが、押し当てられて、舐められたのだと理解する。振り払おうにも、下手をすれば、こいつの顔や口腔を引っ掻いて傷つけてしまいかねないと思うと、躊躇いが先立つ。結局、あいつの気が済むまで、俺は間抜けにも、黙って突っ立っているほかはなかった。誰か止めてくれよ、と俺は内心で助けを求めたが、周囲のスタッフ連中は、折角の見世物を中止させるつもりは微塵もないらしかった。どういう状況だ──衆人環視のもと、あいつにいいようにされる俺は、さらし者以外の何者でもなかった。
陶然と目を伏せて、あいつは俺の指に口づけ、それから、そっと口に含んだ。柔らかく包み込まれる感覚に、軽く背筋が震える。強張りを解きほぐすように、あいつは先端を舌先でなぞり、緩急をつけて唇で揉み込んだかと思えば、軽く歯を立て、刺激する。爪と肉の境界の敏感な箇所を、ゆっくりとなぞられて、俺は込み上げるものをかろうじて堪えた。見せつけるように、あいつは首を傾げ、真っ赤な舌で、悩ましげに俺の指を追い求める。甘噛みしたかと思うと、気まぐれに吸い上げて、俺を翻弄する。強制的に生起させられる感覚の波に呑まれ、いつしか、火傷の痛みは、どこかへ置き去られていた。
ようやく、俺の手を解放して、あいつは微笑した。
「脈拍が速い。僕の代わりに、緊張してくれていたのかな──それとも、興奮した?」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ」
ついでに言えば、その二つは同じだ。いつでも行動に移れるよう、身体が臨戦態勢に入っている証だ。だからこそ、お前を助けに行くこともできたんだぞと言いたい。
「合格だ。お前ら、二人とも」
祝うように、責任者の男は両手を鳴らした。合格──しかし、そのために、あいつが何をされたかを思うと、素直に喜べない。警戒心を隠しもしない俺に、男は肩を竦めてみせる。
「そう怒るなよ、ただのテストだろ。腕を切っちまったら、雇うにしろ、任務に支障が出る。はったりだってのは、考えりゃ分かることだ。だが──」
最後だけは、本気だった、と男は唇を歪めてみせた。新しい煙草を取り出し、火をつける。
「これなら、ちょっと皮膚が焦げるだけのことだ。やっちまっても、たいしたことじゃない。これを押し当てたときこそ、どんな反応をしてくれるものか──その人形みてぇな面が、歪むのを。なりふり構わず、あがくのを。悲鳴を堪えきれずに、息喘ぐのを。何本目で、もうやめてくれと、懇願するのかを。見たかったんだがな」
どうも、それは無理そうだ、と首を振るう。紫煙を吐き出しながら、男は言った。
「最後の最後まで、そいつの脈拍は、変わらなかった──きっと、そのままだろうよ。殺される瞬間、までもな」
結局、あいつがしたことといえば、笑ってみせたことくらいなのであるが、晴れて俺と共に、雇用契約成立となった。笑顔で試験をパスした奴なんて前代未聞だと、後々まで話の種になったものである。俺は笑顔では済まなかったのだが、という注釈は、残念ながら、誰も聞いてはくれなかった。
■
俺たちが配属された部隊は、どうやら気の良い連中ばかりのようで、わざわざ歓迎会を催してくれた。たとえそれが、酒を呑み騒ぐための口実だったとしても、ありがたいことに変わりはない。俺たちそっちのけで盛り上がる古株たちの姿に、あいつは少々不満げであったが、可もなく不可もなく迎え入れて貰えただけでも、御の字というべきだろう。
だから、新入りの腕試しとばかりに、拳銃を渡された俺は、すすんでその余興を演じることにした。
銃を握るのは、残念ながら、初めてではない。やるべきことは、分かっている。二度ほど、俺は深呼吸をして、意識的に心拍数を適切なレベルへと落とすよう試みた。視界は明瞭だ。呼吸を止め──指先に、力を込める。
狙いは違わず、空き缶を宙へ跳ね飛ばした。ひゅう、と口笛が鳴り、ぱらぱらと拍手が打ち鳴らされる。詰めていた息を、俺は吐いて、銃を下ろした。
僅か数メートル程度の距離で、動かない標的を狙うのに、何の苦労もない。出来るじゃないか──そうだ、二度と、あんな失敗は犯さない。
「そら、次はお前だ」
男の声に、意識を引き戻される。見れば、あいつが半ば強制的に、腕を掴まれて立たされているところだった。俺のときとは、また違った意味合いを含んだ視線で、男どもはにやつきながら、新入りの片割れを眺め回した。俺の拳銃が取り上げられ、あいつの白い手に握らされる。
「かわい子ちゃんには、そいつは重すぎるか?」
古参兵の軽口に、あいつは煽られるでもなく、素直に射撃地点に足を向けた。ほっそりとした手に、無骨な鉄の塊は、確かに似つかわしくないが、本人は携帯端末でも持つような自然な態度でそれを提げ、特に緊張した様子はない。もっとも、いざ目の前に構えるとなれば、また違ってくるのだろうが、と俺は数歩下がって、あいつがどんな余興を演じてくれることか、見守ることにした。
見物人のひとりが、ちょうど飲み終えた酒の空き缶を持って、怪しい足取りで、例の木杭へと歩み寄る。もう片手で、男は挑発的に、手招きをした。
「もっと近付いてもいいぜ、お嬢ちゃん。あさっての方向に撃たれちゃ、たまらな──」
それは、一瞬のことだった。
せせら笑う男の台詞をかき消して、重い破裂音が、空気を切り裂くのと。
木杭に据えられようとしていた空き缶が、そいつの手から、消え失せるのと。
まさかと視線を走らせた先、いつの間にか、非の打ち所のない安定した射撃姿勢で、油断なく第二射に備えて銃口を固定している、あいつの姿を見なければ──否、たとえ一部始終を目の当たりにしたとしても、咄嗟に、二つの事象を結びつけることはできなかっただろう。一番近くで、あいつを見ていた俺すら、我が目を疑った。
空き缶に注目が集まった、あの一瞬、何の躊躇もなく、一挙動で銃口を視線の高さへ上げると、ほぼ同時に引き金を引いた、あいつの銃弾は、精確に、男の手中の標的を捉え、跳ね飛ばしていた。息をするように自然に、誰に気取られるより先に、あいつは、それをやってのけた。薄い微笑を、浮かべながら。
「な──何しやがる、てめぇ」
危うく、その手で銃弾を受け止める羽目になりかけた男が発した声は、ようやく振り絞ったように、掠れた。先ほどまでの酔いは、一気に醒めたとみえる。しかし、それを指摘して笑える奴は、この場には誰もいなかった。誰もが、思いを同じくしていた。彼らとしては、いかにも荒事には向かなそうなこいつが、慣れない手つきで銃を構え、その重さに手首を震わせながら、苦労して狙いをつけ、引き金を引き、その反動によろめく、もちろん弾は大きく外れる──そんな一連の見世物を期待していたはずだ。それは、見事に裏切られたことになる。
ふと、あいつの銃口が動き、誰もが反射的に身構えた。しかし、あいつは何事もなかったかのように銃を下ろすと、これでもう用は済んだとばかりに、席に戻った。テーブルに銃を置く、ごとりと鈍い音が、妙にはっきりと聞こえた。
それをきっかけに、凍り付いていた場の空気が動き出す。ウィリアム・テル気取りの芸当に、一瞬でも、呑まれてしまった──恐怖してしまった事実を、打ち消さんばかりに、男どもは怒気を撒き散らす。これはまずい。あいつが袋叩きに遭う前に、なんとかとりなさなくてはと、俺は急いで間に割って入った。誰より先に、怒鳴りつける。
「なんてことすんだ、この馬鹿! もし外れてたら、」
「外れないよ。あの距離で、外すほうが難しい」
ちゃんと照準は合わせたんだから、と主張する、こいつの言い分は、あながち的外れではない。それこそ、文字通り、的を射ている──だから、性質が悪いのだ。
確かに、こいつは闇雲に撃ったわけではない。空き缶を跳ね飛ばしたのは、偶然の幸運ではなく、当然の帰結である。こいつは、きちんと、俺が教え込んだ通りの手順に則って、射撃姿勢をとり、銃を正面に構え、照準を合わせ、引き金を引き、標的に命中させた。個別の事象だけを見れば、なかなかに上出来だといって拍手を受けても良いくらいのものだ。
ただ、それがおよそ、周囲の状況を無視して、最悪のタイミングで実行されたことが問題なのだ。どうすれば、こいつにそれを理解させられるだろうか。もどかしい思いで、俺は言葉を継ぐ。
「だからって、やっていいことと悪いことが──」
「実際、外さなかったんだから。何も、問題ないじゃないか」
あいつは、あくまでも淡々とした態度を通す。絶望的な気分、というのを、俺は久々に、味わわされることとなった。
いったい誰が、標的が場に置かれる前に撃つ? それも、仲間の手の内にあるのを狙う?
いくら外さない自信があろうと、たとえ百発百中の名手だろうと、人間は機械ではないのだ、万が一ということもある。普通の精神では、あえてそんなリスクを冒そうとは思うまい。
普通の──否、こいつにそれを求めること自体、間違っている。やっていいことと、悪いことの、区別を求めること自体、空しい徒労にほかならない。
木箱に腰掛けて、まったく反省の色がない、こいつの態度が、別に反抗的精神の表れでないことを、長い付き合いの俺は理解している。男どもに揶揄された仕返しに、際どい嫌がらせをしてやったかのような、先ほどの行為にしても、実際には、こいつにそんな意図はなかったはずだ。ひと泡吹かせてやろう、などという矮小な企みはなく、ただ、撃てと言われて、撃てるから撃った。それだけのことだ。
本当に、こいつは、自分が何も悪いことをしたと思っていない。その辺りの感覚が、一般的なそれより、少し──否、だいぶ、ずれている。
こいつはそういう奴だと、不本意ながら、何度かの刺激的な経験を通して、俺は学び、受け容れることにしたのだった。すっかり慣れたとまでは、まだ言えないのだが、だいたいの思考回路を解釈することはできる。今が、まさにそうであるように。
しかし、何の予備知識もない、大多数の連中にとって、今のこいつの態度は、非常によろしくない。甚だ非友好的、反抗的、挑発的態度と取られても、文句は言えない。何が楽しいのか、こいつが微笑を浮かべているのも、また火に油を注ぐことになる。場面が場面であれば、男女を問わず魅了してやまないであろう、整った面立ちに浮かべる悠然とした微笑は、しかし、今この場においては、挑発の意図以外の何も感じさせない。
せめて形だけでも、しおらしく出来ないものか──そんな期待をするだけ、無駄というものだと、既に諦めている自分が悲しい。
屈強な男どもが、生意気な新入りに、ここでのルールをどう教え込んでやろうかと、眼をぎらつかせ腕を捲る、そんな一触即発の空気を、破ったのは、豪快な笑声だった。
「──はは、面白い奴だな! こいつは頼もしい。だろう、なあ?」
酒を片手に、髭面の大男は陽気に笑うと、周囲の仲間に同意を求めた。腰を浮かせかけていた男たちは、出鼻を挫かれた格好となり、互いに顔を見合わせる。ああ、そうだな、と誰かが追従すると、後は早かった。先ほどまで、いきり立っていた連中も、一転して、この肝の据わった新入りを称え始める。あっという間に、猥雑な宴の雰囲気が、再び、場を支配する。
助かった──俺は安堵の息を吐いた。崩れるように、テーブルに縋ってへたり込む。寿命が縮む思いをした、こちらとは違って、あいつはまるで、はじめから、こうなるのを分かっていたかのように、平然としたものだった。頬杖をついて、こちらを面白そうに眺めている。
「なかなか、楽しい歓迎会になったね。明智君」
「おかげさまでな。ったく、本当にお前って奴は──」
本当に──退屈させない。
小言を言ってやるつもりだったのに、愉快げに光る金色の眼に見つめられると、そんな気勢は削がれてしまった。この浮き立つ気持ちは、何だろうか。一瞬でも、絶望的な気分を味わわされたというのに、それももう、許してしまいそうになっている、俺はこいつ以上の馬鹿なのかも知れなかった。
揺らめく篝火を、その瞳に反射して、あいつは満足げに微笑する。
「君が、楽しんでくれて──良かった」
楽しんでねぇし、と呟いてやるのが、俺は精々だった。
■
この印象的な一件をはじめとして、俺が近くで見てきた、あるいは直截に巻き込まれた数々の経験を勘案するに、危機感や、恐怖心といった、ヒトが生き延びる上で不可欠な要素を、あいつは欠如しているようだった。何事も危うげなくこなす、よくできた器用な奴のくせに、時折、こちらの肝を冷やすような大胆なことをしてくれる。危ないだろう、死んだらどうする──そんな叱責は、こいつには効かない。慌てるこちらに対して、あいつは、何がいけないのか分からないといったように、目を瞬いている。
「だって、大丈夫だったじゃないか」
それが、決まって毎度、奴の言い分だ。馬鹿じゃないのかこいつ、と俺は思う。俺だけじゃない、仲間の誰に聞いたって、返ってくる感想は同じだ。子どもだって、もっとましな言い訳をする。
それはただの結果論だ。これまで、たまたま大丈夫だったからといって、それは、これから先の何を保証してくれるわけでもない。どうして俺は、こんな当たり前のことを懇々と説明しているのだろうかと、悲しくさえなってくるほどだ。
「そうだね。何の保証もないよ。奪われるときは、奪われる。失うときは、失う。突然に。それは、あがいたところで、どうしようもない。いくら慎重に、息を潜めて、隠れていても。見逃しては、貰えない」
見逃しては貰えない──それは、俺もよく知っている。いくら祈っても、願っても、縋っても、眼を瞑り耳を塞いでも、どうしようもなく、逃れようのないものが、存在するということを。
それなら、と奴は笑う。
「楽しいほうが、僕は良い」
結局、最後まで、奴のその考えとは相容れなかった。俺には、それは、あまりに刹那的で、命を粗末にしているようにしか捉えられなかったのだ。
古株が面白がって、あいつに度胸試しのようなことをさせたがるから、俺の役目は、それをできる限り阻止することだった。お遊びのようなもので留まっている内は良い。ただ、あいつには加減というものがないから、きっと、行為はどこまでもエスカレートしていく。一応の保護者としては、むざむざ危険に晒すわけにはいかない。
思えば、笑い話のようである。
まるで死に場所を求めるように、戦場に身を置き、死に限りなく近接する、そんな刺激を追い求めていた俺に、命を、自分を大事にしろなどと説教されても、まるで説得力がなかっただろう。矛盾していることは、自分でも分かっていた。
恐怖心がない、というのは、特に戦場においては、強力な武器となり得る。人類の歴史に争いは絶えないが、そもそも人間は、基本的に、人間を殺せないようにできている。自分が人殺しになるという事実は、ときに、自分が殺されること以上の恐怖として感じられるものだ。だから、兵士養成の第一段階は、いかにしてその抵抗感を取り除くか、という入念な矯正に始まる。
拒絶反応を抑え、リミッターを外し、感情を殺す。古くは薬物や洗脳、現在においては、条件付けの理論に基づいて綿密に計画された訓練課程により、恐怖心を克服した戦士を、人類は生み出し、重用し続けてきた。
しかし一方で、恐怖は、危機的状況から自分自身を守るための、極めて重要な反応だ。恐怖心を持たない個体は、危険を避けられず、あっさりと命を落とす。結果、恐怖を知る者のみが生き永らえ、その特性を子孫に受け継いできた。
その意味で、恐怖心を欠落しているこいつが、自分自身というものに価値を見出していないのは、当然のことなのだろう。
価値がないから、それを失う恐怖を感じないのか。
それとも、恐怖を感じられないから、価値があると思えないのか。
いずれにしても、だからこいつは、進むことしかできない。退いて、己の身を守るということができない。どこまでも、歯止めが利かず、限界まで加速する。極端で、苛烈で、危うい。
この上なく──刺激的な、奴なのだ。
■
──落ち着け。
自分自身に言い聞かせ、俺はうるさく鳴る心臓を鎮めるよう試みた。新入りだからといって、失敗は許されない──目の前の「捕虜」に、油断なく小銃を突きつける。妙な動きをすれば、見逃さない。こちらも即座に、行動にうってでるつもりであることを、視線で強く教えてやる。
今のところ、相手は丸腰でおとなしく座しており、反抗的態度は伺えない。しかし、気を抜いてはならない。こいつを相手取るのは、俺ひとりである。一瞬でも隙を見せれば、銃を奪われ、突きつけられるのは、今度は俺のほうである。もちろん、相手もそれを分かっている。涼しい顔をしてはいるが、こちらが隙を見せる一瞬を、虎視眈々と狙っていやがるのだ。
「……っ」
奴が、わずかに身じろいだ気がして、俺は反射的に、銃を構える腕を緊張させた。しかし、それは俺の思い過ごしであったらしい。相手は何食わぬ顔である。くそ、翻弄されてたまるか。何故、優位に立っているはずのこちらが、びくびくと怯えなくてはならないのだ。
嫌な時間だ──汗が滲む。
その不快感を紛らわせるように、俺は音を立てて銃を構え直した。相手にプレッシャーを与えるという意味もある。しかし、奴は気圧されるでもなく、じっとこちらを見つめている。観察されているようで、良い気分はしない。もちろん、これも向こうの手なのだろう。同情心でもかきたてて、油断を誘うつもりか。そうはいかない。俺には一切、こいつに同情する余地はないのだ。そうでなければ、こうして銃を握ってはいない。
かき乱されるものか──あのときのようには、決して。
照準を確認する。構えた銃口は、微動だにしない。それを確かめて、俺は僅かに安堵した。己の務めを果たせていることに、満足した。
──ただ、それだけのことだったのだ。
安堵の息を吐いたわけではない。
表情を緩めたわけではない。
銃口を逸らしたわけではない。
それは、ただ俺の脳内でだけ、処理された、一瞬の感情の変化にすぎなかった──そのはずだった。
それを、しかし、奴は見逃さなかった。
「……!」
反応したときには、既に遅い。迷いなく、こちらの懐に飛び込んでくる、そいつに銃弾を叩き込んでやるより先に、伸ばされた奴の手は銃身を捉え、狙いを大きく外される。なまじ、引き金に指を掛けているだけに、俺の片手の自由は大幅に奪われている。咄嗟に対応を取れずにいるうちに、あっさり手首を捻られ、銃を取り上げられてしまう。
数秒前まで、奴に突きつけていたはずの銃口が翻って、今度は俺の眉間を狙う。正確無比な照準。指先はいつでも、引き金を引く準備ができている。
俺は深々と溜息を吐き、両手を上げた。
「降参だ。まったく、お前には敵わねぇな」
降参宣言を受けて、相手は何の未練もなく、銃口を下ろした。勝利を誇るでもなく、「捕虜」は──否、あいつは、静かに微笑する。
「余所見をするからだよ──明智君」
してねぇだろうが、と胸中で毒づく。俺は一瞬たりとも、こいつから眼を離さなかったはずだ。だからこそ、この結果を不本意に思う。
今回も俺の完敗であったが、次こそは、と決意を新たにする。こんな訓練も、実戦でいつ役立つことになるか分からない。訓練──すなわち、二人一組で、捕虜役と見張り役となり、捕虜は銃の奪取を目的に、見張りはその阻止を目的に、対峙する。互いを観察しながら、いかに相手の出方を読むか、そして、いかに自分の意図を読ませないか、その技術を磨く訓練である。
一瞬でも、余所見をすれば、文字通りの命取りとなる──もちろん、こいつが言っているのは、本当に対象から眼を離したなどという軽率な行為ではなく、意識をほかに向けた、ということを指している。図星だった。思考というのは、自分自身、制御するのが難しいものだ。考えまいとするほどに、それが頭に思い浮かぶ、というのは、誰しも経験があるだろう。余計なことを考えるな、目の前に集中しろと、そう考えている時点で、集中は途切れているといっていい。
「僕で頭いっぱいにすれば、余所見したくてもできないのに」
「色恋沙汰みたいに言うな」
恋は決闘、余所見をすれば敗北だ──と、作中で名言を述べさせたのは、ロマン・ロランだったか。ならば、あながち、的外れなコメントではないのかも知れない。いくつかの格言いわく、恋愛と戦争は、似たもの同士なのだという。たぶん、そうなのだろう。残念ながら、俺は片方だけで手一杯で、その真偽を確かめられる立場ではない。
色恋沙汰は措いておくとして、この駆け引きで、俺はどうしても、あいつに勝つことができなかった。どんなに注意していても、ふとした隙を見事について、あいつは手品のように鮮やかに、銃を奪い去る。その手口は分かっているのに、俺は何度も、同じ失敗を繰り返した。学習能力がない、と笑われても仕方ないだろう。
いくら隙を作るまいと気を張っていても、人間のすることだ、限界というものがある。息を継ぐのを、瞬きをするのを、思考を巡らせるのを、止めようと思って止められるものではない。その、僅かな揺らぎを、あいつは決して、見逃さない。気付いたときには、形勢が逆転している。銃を突きつけて、抜かりなく、あいつを見張っていたのは、こちらのほうだったはずなのに、逆に、あいつの冷静な眼に、観察されていたことに、ようやく気付くのだ。
人間の行動には、必ず前兆が伴う。行動には、意図が先行するからだ。そして、だいたい人間の思考にはパターンというものがある。慣れれば、観察によって、相手の意図を読み、行動にいち早く対応することが可能となる。だからこそ、こうした訓練で、「読む」技術、同時に「読ませない」技術を磨く必要が求められる。
その点で、あいつは実に優れた才能を発揮した。あいつは、相手の行動を完全に読み通したし、自分の行動は、決して読ませなかった。まったく予備動作なしに、前兆なく、どうしてあんな俊敏な動きができるのか、理解に苦しむほどだ。俺が真正面にいるパターンならまだ分かるが、いったいどうやって、真後ろから後頭部に銃を突きつけている俺の隙を、こいつは見事についてくれるのだろうか。
本人によれば、「どれもやることは同じ」とのことで、まったく参考にならない。もう、これは一種の超感覚ということで、深く考えずに片付けてしまうのが良いのかもしれない。
思考が、行動が、見通され、操られ、しかもそのことに、気付かない──そんなことが、本当にあり得るのだとしたら、たまったものではない。そんなことが、あって良いはずが、ないのだから。
■
俺たちは、どこへ行くにも何をするにも、行動を共にしていたので、周囲からはすっかり、二人一組のように扱われていた。信頼の置ける仲間いわく、あいつと組むとき、俺は最も高いパフォーマンスを発揮しているという。それも当然のことだろう。あいつを誰より理解しているのは俺だし、俺を誰より理解しているのはあいつだった。少なくとも、俺はそのように感じていた。
あいつには、俺が直々に戦闘技術を仕込んでやっているということもあるが、何も言わなくとも、俺がそこにいて欲しいと思うところにいてくれるし、今だと思うタイミングで仕掛けてくれるし、こちらの意図を先読みして動いてくれるものだから、実にやりやすい。
まるで、俺の考えをすべて、見通しているかのような、あいつのそういうところを、俺は好ましく思う。あまり、それに甘えてしまってはいけないと、自戒してはいるものの、切羽詰まったときには、つい、あいつに期待してしまう。そして、あいつは一度も、俺の期待を裏切らなかった。
■
与えられたバラックの一室に戻り、タクティカルベストを脱ぐと、一つに結んでいた髪を、あいつはするりと解いた。音もなく背中に広がる黒髪は、濡れたように見事な色艶を誇る。肩にかかる一束を、奴は軽く払った。そんな何気ない仕草すら、こいつにかかると、なかなかの絵になってしまうのだから、たいしたものである。
感心するような、あきれるような気分で、俺は寝床を整えているあいつの後姿を眺めた。
「お前、ずっと長いままだな。邪魔じゃねぇのか?」
「慣れてるから。これが一番、落ち着く」
あいつは首を傾げ、落ち掛かる黒髪を静かに梳いてみせた。そう、俺たちが初めて出逢ったときも、こいつは長く艶やかな髪を下ろしていて、それが遠目にも、俺の気を引いたことを覚えている。悪漢に絡まれる、かよわい美少女の危機を救うべく、俺は奮闘したのであるが、実際には、こいつはかよわい美少女なんてものではなかったし、どちらかというと悪漢に近い、したたかな奴だった。
変わらないな、と、闇色の髪を眺めて、ぼんやりと思う。あれから数年で、俺はこんなむさくるしい野郎になってしまったが、こいつは背丈が伸びて多少大人びたとはいえ、ほとんどあの頃と印象が変わらない。せいぜい、美少女が美女に成長したくらいのものだ。まあ、結構なことではある。
などと思っていると、あいつはふと、視線を上げて、己の前髪を摘んだ。
「ああ、でも確かに、少し長いかな。目に入りそうだ」
「切ってやろうか」
「いいよ。自分でできる」
そりゃそうか、と俺は苦笑した。相手は子どもではない。刃物の扱いに長けているし、俺より器用だ。もっとも、勘の鋭いあいつのことだから、俺が無意識に何を重ねていたことか、気付いたのかも知れない。
今でこそ、自分の髪は自分で切るし、それすら面倒がった挙句、野趣に溢れる長髪野郎と化している俺であるが、昔からそうだったわけではない。思い出すのは、今なお俺の中で大きな精神的支柱として在り続ける、あの人の鋏捌きだ。その小気味の良い音と、髪を梳かれ、頭を撫でられる優しい感触は、今でも、明瞭に思い出すことができる。
あの人に髪を切って貰うのは、俺にとって、特別な時間だった。あの頃の俺は、父親から受けた仕打ちを引き摺ったままで、誰であろうと、一定以上の距離に近付かれることを極度に恐れていた。大丈夫だ、何も危害を加えられるわけがないと、頭では分かっていて、必死に自分に言い聞かせるのだが、身体は勝手に竦むし、手足の先は震えるし、喉は乾いて、声を奪われる。心臓の音がうるさく鳴り響き、押し潰されてしまうようで、一刻も早く逃げ出さなくては、どうにかなってしまう、という恐怖に覆い尽くされる。
そんな調子であったから、切れ味の良さそうな、よく研がれた鋏を手にした大人に、無防備に首を預けることなど、とうてい無理な相談だった。俺がパニックを起こさずに触れ合える、唯一の例外が、あの人であって、必然的に、彼が俺専属の散髪担当となってくれた。あの名探偵に手ずから髪を整えて貰うとは、なんとも贅沢なことである。
癖のある髪に鋏を入れられて、指で梳かれるのは、くすぐったかったが、それ以上に、気持ちが良かった。触れられるほどに、安堵できるということを、初めて知った。あの人をとても近くに感じることができて、嬉しかった。あの人の大きな手に、そうして、守られていることを実感できたから、俺は刻み込まれた恐怖を少しずつ、克服していけたのだと思う。
そんな感傷に、俺が浸っている間に、あいつはといえば、さっさと細身の鋏を取り出すと、まずは前髪に刃を沿わせていた。鏡も見ずに、淡々と鋏を動かす度、微かに擦れ合う金属音とともに、ぱらぱらとカットされた髪が落ちていく。意外に大胆で、迷いなく作業をこなしていく様子は、銃を持たせたときと同じで、あいつらしいやりかただと感じさせた。
それから、奴は長く伸ばした髪を左右に分けて、片側ずつ手に取り、いくらか毛先を整えることを丁寧に行なった。髪型へのこだわりというよりは、何事にも精確で几帳面な性質がそうさせるのだろう、生真面目な仕事ぶりだった。あいつの白い指が、漆黒の髪に分け入り、なめらかに梳き、指に絡める、一連の仕草を、俺は見つめた。まるで、あいつの指と髪が、それぞれに意思を持って睦み合うようで、見ていて飽きなかった。
「どうかな」
鋏を置くと、あいつは緩く頭を振り、髪を梳いてみせた。
おう、と俺はあいつの澄ました顔を、遠慮なく眺めまわさせて貰った。正直いって、どうかなと言われても、いつもと同じじゃねぇかというのが素直な感想なのであるが、そんなことを口にして、わざわざ自分が美的センスに欠ける人間であることを表明する意義はない。
何かコメントできる部分はなかろうかと探して、ためつすがめつする俺の無遠慮な視線に、普通の人間であれば、気分を害したかも知れないが、こいつに限ってそれはないと、俺は知っている。他人から、いかなる視線を浴びせられようと、それでこいつが態度を変えたり、萎縮したり、気を悪くしたりといった反応をするところを、俺は一度も見たことがない。そんなものは、まるで、こいつには届かない。
面白いことに、こいつは他人の視線には動揺しないが、むしろ、こいつの視線は、容易に他人を動揺させる。こいつが、金色の眼で相手を見据えるとき、決して、先に視線を逸らすことがない。相手がいたたまれなくなって、視線を外すまで、じっと見つめ続ける。
それを、居心地が悪いといって嫌がる連中がいることも確かだが、俺個人としては、気にはならない。別に、こいつに悪意があるわけではないと分かっているし、もう、慣れてしまったというのもあるのだろう。
まっすぐに向けられた視線は、こいつがそれだけ、相手に真摯に向き合い、理解しようとしている証だと思う。居心地が悪くなる連中というのは、何か見透かされるとやましいことでも抱えているのではないだろうか。俺としては、そんなものはないので、関係のない懸念だ。
だから、こちらも、同じように向き合う。あいつを見つめて、理解したいと思う。ヘアスタイルの評価という、こんな場面でも、それは変わらない。
それにしても──あきれるくらい、整った奴だと思う。
人間の顔や身体というのは、厳密には左右対称ではなく、生まれつき、あるいは生活習慣などによって、歪みやずれが生じているのが当たり前だ。鏡の中の自分と、写真に映った自分とを見比べて、違和感があるのはそのためだ。ヒトの顔面識別能力というのは実に繊細なもので、左右反転させた顔は、もう、元の顔とは別物として捉えられる。
その意味で、こいつは俺がこれまでに見てきた、どの人間よりも、完璧に整っていた。理知的な印象の細い眉。黄金色に光る、大きな瞳。品格さえ感じる鼻梁。挑発的な笑みを浮かべる、薄い唇。それらが、これ以上ないというバランスで配置された、兵士には似つかわしくない生白い面立ちは、限りなく左右対称に近い。
それに加えて、およそ表情豊かとはいえない奴であるからして、「お人形ちゃん」と言って、からかう連中がいるのも、無理はない。もっとも、そういった輩は、こいつの有能な働きぶりを目の当たりにして、すぐに態度を改めるから、いちいち気にすることではない。というか、こいつ自身は、まったく気にしていないらしい。俺が勝手に、内心で苛ついたり、それみたことか、ざまあみろと思ったりしているだけだ。
つくりものめいた印象を強くしているのは、そのまっすぐに切り揃えられた、見事な長髪のせいというのもあるだろう。特別に手入れをしているわけでもないのに、しなやかな髪はいつも濡れたように艶やかで、青みを帯びて見える漆黒が、奴の白い肌をいっそうに際立たせる。それに、伸びるがままうねるがまま自然に任せている俺とは違い、几帳面に切り揃えた前髪は、ただでさえ印象的な金色の瞳を、更に強調する役割を果たす。特に今は、散髪したてであるから、なおのことである。
などと、人相分析をしてしまうのは、人探しだの変装だの、探偵業務上の必要から、知識と技術を教え込まれた者としての性分である。何もかもを捨てて、俺は故郷を後にしたつもりだったが、肝心のところは捨てられないらしいと、内心で苦笑した。
「明智君?」
黙り込んでしまった俺に、あいつは少しばかり首を傾げて呼び掛ける。漆黒の髪が揺れ、音もなく、頬を撫でる。手に取れば、きっと、抵抗なく指の間をすり抜けて、なめらかに滑り落ちるのだろう──冷ややかな感触だけを、手のひらに残して。
こちらをじっと見つめる大きな眼に、引き寄せられるように、俺は、白い面立ちに手を伸ばし──気付いたときには、その頭に手を載せて、くしゃくしゃとかき混ぜていた。奴は、あっけにとられたように、目を瞠ってこちらを見上げている。そこで俺は、こいつが他人に触れられることを嫌がる奴だったと思い出した。自分から、他人のパーソナルスペースを侵害して這入り込み、近すぎる距離で接触することについては、躊躇いのない奴だから、うっかり忘れていた。こいつにとって、受動態と能動態では、行為の性質がまったく異なるのだった。
ましてや、子どもでもないのに、頭部というデリケートな箇所にいきなり触られて、決して良い気はしないだろうと、遅ればせながら思い至る。文化圏にもよるが、髪に触れるというのは、それなりに親密な間柄でのみ許される行為だ。これまで、あいつは幾度か、その外見に心惑わされた男どもから、無遠慮に髪を撫でられるようなことがあって、俺はそれを目にしては、実害はないとはいえ、あまり愉快な気分はしなかった。ともすれば、身体に触れられているのを目撃する以上に、気になったかもしれない。あいつも、態度に出しこそしないが、内心で嫌悪感を堪えているのだろうと思うと、ますますいたたまれなかった。
それでいながら、この手で同じようなことをしてしまったというのは、愚行以外の何ものでもなかった。すぐさま、手を引き戻す。
「あ……悪い、嫌だったよな」
何をやっているんだ俺は、と苦い思いで謝罪する。きっと、あきれ顔で、苦言の一つでも言われることだろうと、俺は覚悟を固めたが、しかし、あいつはなかなか、口を開こうとはしなかった。金の瞳で俺を見上げる、その表情は、困惑──戸惑いとでもいうべきだろうか。そんな顔をされても、こちらが困ってしまうのだが、と思っていると、あいつは、ふと眼を伏せた。
「──嫌じゃ、ないよ」
奴は珍しく、俯いたまま、小声で答えた。細い指先が、黒髪を梳いて、繰り返し弄う──どうやら、照れているということらしい。こいつでも、こんな顔をすることがあるのか、と俺は新たな発見をした気になった。
先ほど、戸惑う様子を見せたのは、奴自身、これをどう受け止めたら良いか、分からなかったのだろう。誰かに頭を撫でられるという経験が、こいつには、これまでなかったのかもしれない。生い立ちを考えれば、あり得る話だった。その第一号が俺であって良いのかどうかの議論はともかくとして、少なくとも、嫌ではなかったらしいと分かって、俺は安堵を覚えた。
あいつは視線を上げ、眩しそうに俺を見つめる。
「明智君に、触られるのは、嫌じゃない──僕は、君になら、何をされても良いんだ」
いちいち、言うことが大げさな奴である。嫌われていないというのは何よりだが、あまり素直に喜べない。何をされても良いといって、いったい、俺が何をするというのだ。まるで、こいつをおもちゃにして、いいように弄び、無体を強いる極悪人のようにさえ聞こえてくる。あまり、余所では言って欲しくない、なかなかに際どい台詞である。
そりゃどうも、と応じつつ、俺は念のため、釘を刺しておいた。
「でも、そういうことは、軽々しく言うもんじゃない。それこそ、」
「惚れた奴に言え──だろう?」
俺の台詞を引き継いで、あいつは不敵に笑った。よく分かっているじゃないか──俺の教育も、だいぶ効果を上げているとみえる。
しかし、惚れた奴を相手に言うにしても、これは少々、重すぎる台詞ではなかろうか、というまっとうな疑問は、ひとまず、見て見ぬ振りをしておいた。
■
「ねえ、明智君。遊ぼうよ」
あいつはときどき、そんな子どもみたいなことを言って、俺を誘うのだった。その遊びというのも、本当に、ありふれた平凡なものだった。トランプゲーム、チェス、サッカー。あるいは、近接戦闘や射撃の訓練も、あいつにとっては、「遊び」の範疇に含まれるらしかった。
そんなものに、付き合ってやると、奴は楽しくてたまらないようだった。いつになく、明るく笑って、無邪気な顔を見せてくれる。ああ、こいつは、まだ子どもなんだ。そんな風に思って、俺も微笑ましいような心地にさせられる。
あいつが相手に選ぶのは、いつも決まって、俺だった。俺と、二人きりで遊びたがった。別に、人見知りというわけではなく、他の仲間ともそれなりに良好な関係を築いているというのに、他の奴では駄目だという。
「明智君のためだよ」
あるとき、どうしてそんなに俺と遊びたがるのか問うと、奴はそんなことを言った。
「遊んでいるときの君は、楽しそうだから」
言って、小さく笑う。お前のほうが、よっぽど楽しそうだというのに。
「それに、撃つときの君も。走るときの君も。息を潜めているときの君も。地に伏せているときの君も」
金色の瞳が、見据える。何もかもを、見透かすように。
「過去に囚われている暇もない。全身で、全神経で、刺激を感じているときの明智君は──楽しそうだ」
こいつがそう言うのなら、きっと、そうなのだろう。退屈は嫌いだ。ならば、それを紛らわせることのできる、刺激が──俺は、好きなのだろう。
「君には、いつも、そうあって欲しい。つらくないように。寂しくないように」
だから、とあいつは誘う。
「遊ぼうか──明智君」
■
あいつは、酒も薬も煙草もやらなかった。コーヒーは、俺に付き合って飲みはしたが、特にすすんで摂取するわけではなかった。好んだのは、紅茶とレモネード。こうして並べてみると、特に精神に作用し、依存性のある嗜好品を避けていることが分かる。
「僕には、酔う必要はないから」
そんなことを言って、あいつは仲間からの誘いを辞退するのだった。必要がない、という理由で、酒を断る奴を、俺は初めて見た。信仰の関係だとか、体質が合わないとでも、適当に理由をつけておけばいいのに、妙なところで正直な奴だから、個性派揃いの傭兵連中の中にあっても、周囲からは変わり者扱いされていた。まあ、あいつの奇行は今に始まったことではないので、それだけが理由ではないのだろうが。
ほとんどの連中は、前線を離れて数日間の休暇となれば、まずは浴びるように酒を飲む。脳内物質のバランスを物理的に変化させる、そういった嗜好品の力を借りて、人間というのは一時的に、夢を見る。酔い、昂揚し、鈍磨し、あるいは過覚醒する。そのひとときだけ、変わる世界を堪能する。ささやかであれ、強烈であれ、その誘惑は、たいていの人間にとって、抗い難い。そう言う俺とて、もちろん、例外ではない。やっていられないという気分を、現実逃避によってごまかすからこそ、ヒトは生きていけるものだ。
忘れたい記憶。胸糞の悪い気分。不安。恐怖。それから、圧倒的な、喪失感。
まともでいたら、とても許容できない、それらと、うまく折り合いをつけるために。うまく付き合って、この世界で、生き続けるために。
たとえ、一時のまやかしであろうと、何であろうと、それは必要だ。少なくとも、そうして空虚を埋めてくれるものを追い求めるあまり、ここまでやってきてしまった、俺のような輩にとっては。
だから、不要だと言い切れるあいつは、強い奴なのだと思った。何に酔わなくとも、素面で、この現実を生きていける。みっともなく、あがき、もがく連中には目もくれずに、まっすぐに、颯爽と、迷うことなく歩いていく。俺にはとても真似できない、そんな姿を、眩しくさえ思うのだった。
逃げ隠れしている俺は、まるで駄目な野郎だと、思い知らされるようで、それが少々、悔しかった。お前も大人になりゃ色々あるんだよなどと、先輩風を吹かしてみたりしたものだ。そのときは、一緒に飲んでやるからな、などと、軽口を叩いて。そんな機会は、結局、訪れることはなかったのだが。
だから、俺は、勘違いをしていた。
あいつが、何に酔う必要もなかったのは、いかなる過酷な状況にも挫けぬ、強い精神力の賜物──などではない。俺が勝手に、そう解釈していたというだけで、その解釈は、そもそもの前提からして、間違いだった。
あいつにとって、現実は、過酷なものなどではなかった。
忘れたい記憶も。胸糞の悪い気分も。不安も。恐怖も。それから、圧倒的な、喪失感も。
あいつには、無縁のものだった。はじめから、ただの一つも、関係がなかった。あいつの世界には、そんなものは、存在しなかった。
あいつは、あいつの世界のすべてを愛していた。酔って正気を失っている間も、惜しまれるほどに。あいつは、己のすべてで、世界を愛し、堪能し、味わいつくそうとした。
言うなれば、奴にとって、世界こそ極上の、永遠の、夢であり、酔うべきものだった。それは、たぶん、今も醒めずに続いている。
そして、あいつにそんな世界を、与えたのは──俺だった。
■
俺の責任だ。
あいつを責める資格は、俺にはない。己の責任を棚に上げて、そんな都合の良いことは──赦されない。
あいつ自身、知らなかった、誰からも与えられなかったものを、俺が与えてしまったから。あいつは、知ってしまった。それを欲することを、いったい、誰が咎められる。あいつの望みを、間違いだといって、いったい、誰が糾弾できる。
殺してやれば、良かったのか。
もっと、早くに。俺が、あいつを、失う前に。手を伸ばせば、まだ、そこにいるうちに。
交戦中に、狙い撃って。
眠っている間に、首を絞めて。
談笑しながら、薬を飲ませて。
抱き寄せた手で、ナイフを突き立てて。
殺してやれば──良かったのか。
あいつにとって、俺にとって、それが──一番。
想像の中で、何度も試した。
どこで間違えたのか、どうすれば良かったのか、シミュレーションを、繰り返し。
しかし、結末はいつも、一緒だ。
ただ一つの破滅へ、収束していく。
俺が、俺である限り。
あいつが、あいつである限り。
変わることなく。
交わることなく。
──終わることなく。
俺は、あいつを殺せなかった。
想像の中でさえも。
俺を、命の恩人だと言って、微笑む、あいつを。
殺してやることが、できなかった。