Bright star -2-











「閃光音響手榴弾を、一部屋ごとに投げ込んで、標的をあぶり出していくのは、あまり利口なやりかたじゃない」
「ああ、相手が慣れて、効かなくなっちまうから──だろ」
市街地における対ゲリラCQBを想定して、俺たちは装備を整えつつあった。閃光音響手榴弾は、その名の通り、起爆すると凄まじい爆音と閃光を撒き散らす、非殺傷型兵器だ。その性質上、閉鎖空間で多大な威力を発揮する。突入前、室内に潜む敵の視覚と聴覚を一時的に奪って無力化できる、便利な代物だ。こいつをまともにくらえば、少なくとも5秒間は、目も耳も使い物にならないし、身体も反射的に竦んでしまって動けない。それは、こちらが敵を制圧するには、十分な時間だ。
その物騒な円筒状の手榴弾を、あいつは白い手の中に弄びつつ、淡々と紡ぐ。
「あの強烈な閃光も、轟音も、衝撃波も、予期しない不意打ちで初めて体験するからこそ、最大の効果を発揮する。だんだん近付いてきて、確実に訪れることが分かっているのだったら、それなりの心身の準備ができてしまうからね」
それでは、奇襲の意味がない。己の手の内を、親切にも晒してやることになるのでは、折角の優位をふいにするようなものだ。こちらとしては、厄介なことであるが、かくも生物の危機的状況に対する適応力、あるいは学習力というのは、驚異的なものであると言わざるを得ない。同じ感想を抱いているのだろう、あいつは続ける。
「ヒトは、刺激に慣れるものだから──それが、いかなる刺激であっても。繰り返して、当たり前になれば、何も感じなくなる」
刺激とは総じて、そういうものだ。その内容が、快であろうと不快であろうと、大差はない。大金や強大な権力を手にした人間が、あらゆる快楽を追い求める例は、いくらでも見受けられる。また、客観的にみて、悲惨な状況下にある人間が、しかし、当人としてはその状況に無自覚であることがある。どちらも、同じことだ。
慣れて、当たり前になって、感じなくなる。
刺激が、刺激でなくなる。
それは俺自身、思い出したくもない過去の経験から教訓を得ている。一方的な暴力に対して、俺は抵抗したり、逃げ出すことよりも、堪えて、鈍磨することを選んだ。繰り返される苦痛は、次第に慣れて、当たり前のものとなっていった。相変わらず、痛覚だけは鮮明だったが、それに伴う感情の働きというのは、回数を重ねるごとに磨り減って、悲しいとも悔しいとも思わなくなるのも、時間の問題だった──思い返しても、おそろしいことである。
つまらないことを思い出してしまった。重く圧し掛かってくるものを振り払うように、俺はあえて軽口を叩いた。
「俺はお前を見慣れてるから、何も感じねぇけど、初めてお前を見た奴が皆、惚けたようになっちまうのと同じことだな」
「何も感じない、か──ひどいな、明智君」
人形めいて整った面立ちに苦笑を浮かべて、あいつはそんなことを言う。じゃあ何か感じて欲しいのかよ、と俺は思ったが、深く追及すると面倒な話になりそうなので、口に出すのはやめておいた。代わりに、どうやら足りなかったらしい言葉を付け加える。
「いや、何も感じないってのは、その無駄にきれいな外面についての話だからな。お前が毎度、やらかしてくれることについては、もちろん、その限りじゃない」
俺を退屈させない、こいつの予測不能な行動は、いつだって刺激的であるということを、俺は伝えようとした。はたして、フォローになっていたかどうか──それは良かった、とあいつは淡々と応じたが、どうも反応が冷たい気がするのは、俺の気のせいだろうか。気のせいだと思うことにする。
「明智君は、そういう人だよ」
ぽつりと呟かれた言葉に、俺は一瞬、無神経な奴だと責められているのかと思った。何かまずいことを言っただろうか。俺は己の言動を振り返ったが、しかし、あいつは別に、拗ねているわけではないらしかった。澄んだ声は、歌うように続ける。
「次々に、新しい刺激が欲しくて堪らない──だから、君は、ここを選んだんだろう?」
黄金色の眼が、俺をじっと見つめて、そう問い掛ける。子どものくせに、こいつはこうやって、分かったようなことを言ってくれる。否、分かったようなこと、ではない──正しく、理解(わか)っているのだ。俺という奴が、どういう人間であるのかを。
俺が嫌う、退屈というやつは、平穏と同義だ。そして、世間一般的には、平穏であってこその日常である。毎日、何が起こるか分からない、変化と刺激に満ちた暮らしなんて、大半の人間は歓迎しないだろう。そんなものを求める愚か者が、まともに社会参画できるはずもなく、いずれ行き着くべきところへ行き着く──俺のように。
一つ息を吐いて、俺は肩を竦めた。
「だいたいの奴らが、そうだろ。こんなところまで来ちまった連中、ってのは」
行動を共にする傭兵連中の中には、もともとは、祖国で軍籍にあったという経歴の奴も多い。そうした奴らが、この道を選んだ理由はといえば、「決まりきった訓練の繰り返しは、性分に合わない」だったりする。もちろん、国家として、正規軍の兵士のレベルを高い水準で均質に保つためには、それは必要な枠組みであり、正しい姿だ。ただ、そこからはみ出る奴ら──逸脱した奴らというのが出るのは避けられないわけで、そうした連中がこの稼業に転ずるというのは、理解できる話だ。
なにしろここには、型どおりの退屈な訓練なんてものはなく、あるのは本物の、それも最前線の戦闘だけだ。その戦闘にしたって、一度だって同じ状況はない。あらゆる手を使って、駆け引きし、威嚇し、攻撃し、制圧する。次から次へと、慣れる間もなく、新たな刺激が、向こうからやってきてくれるのだ。
それを、どうして──求めずにいられるだろうか。
「言っておくがな、俺に付き合ってるお前も、その一員だぞ」
傍観者の態度で、愉快げにこちらを見つめるあいつに、俺は釘を刺しておいた。いつ命を奪われるとも知れない戦場に身を置きながら、こいつが臆するでもなく、平然として、楽しんですらいるように見えるのは、子どもらしい無知や無邪気さといったことでは、片付けられない。己の状況を理解した上で、こいつは楽しんでいる──本人の言葉を借りれば、遊んでいる、ということになる。
まったく、今からこの調子では、少々、将来が心配になることである。などと、いつの間にか保護者めいた懸念を抱いている自分に気付いて、俺は苦笑した。俺の内心など、すべて見通しているかのように、あいつも黙って微笑した。
さて、他愛のないおしゃべりをしている間に、準備は整った──もう一度、手早く装備を確認する。
「じゃあ、行くか」
あいつを伴って、俺は歩き出す──新たな刺激を、求めて。



戦闘中というのは、人体のあらゆる機能が、目の前の状況を切り抜けるために総動員されることになる。交感神経優位となった肉体では、戦闘に関係しない機能は一時的に抑制される一方で、神経は研ぎ澄まされ、感覚は鋭敏に状況を捉え、筋肉はいつでも行動に移る準備が出来ている。戦闘のためだけの肉体へと、切り替わるといっていい。
圧倒的な緊張、高揚、興奮。
闘争反応の産物であるアドレナリンを、ちょうど使い切るかどうかというところで蹴りがつけば、それに越したことはない。戦闘が長引き、心身が疲弊し、闘争反応を保っていられなくなったとき、襲うのは、副交感神経の強烈な揺り戻しだ。何事にも、必ず清算というのはつきものだ。戦闘中に抑制されていたものが、埋め合わせを求めるかのごとく蘇り、抗い難い眠りへと突き落とす。たとえそれが、戦地のただ中であろうとも。
逆に、早々に決着がついてしまった場合、引き起こされた闘争反応は、いわば肩透かしを食らった格好となる。その場合、寝床に入っても、心身の興奮は抜けず、なかなか寝付けずに悩むことになる。
たいていは、酒の力を借りて、安易にそれに対処する。それか、黙々とランニングでもすることで、暴れたがる心身の欲求に応え、満足させてやる。つくづく、ヒトの仕組みというのは、自分自身すら、思い通りにならない。厄介なものだと、思い知らされるばかりだ。
ただ、俺と同じテントで眠る、こいつは、そんな悩みとは無縁のようだった。もっとも、こいつが何事か悩みを抱えている様子というのは、見たことがない。いつだって涼しい顔である──起きていようと、寝ていようと。

昼間の戦闘が物足りなかったのか、例によって、俺は寝つけずに、横になりながら漫然と無駄な時間を過ごしていた。こんなことならば、軽く運動でもしておくべきだったと後悔するが、今更、外へ走りに行くというのも億劫である。やることもないので、隣で寝ているあいつに、なんとなく目を向けた。
寝袋を布団のようにして包まる、あいつの寝顔は安らかなもので、俺は暫し、それを眺めた。
触れたらひやりと冷たそうな白い顔に、漆黒の睫が、繊細な陰影を落としていた。いつも一つに纏めている、艶やかな長い髪は、今は解かれていて、少し乱れて頬に落ちかかるのもそのままに、静かに横たわる。あいつの姿は、もう少しで完成するという前夜の、職人の作業台に寝かされた人形か何かのようだった。何もかも見通すような、あの愉快げに光る金色の瞳も、挑発的な微笑を刻む薄い唇も、今は閉ざされているからか、こちらが戸惑うほどに、生気が感じられない。ひっそりと、呼吸が止まっていたとしても、不思議ではないほどに。
こいつは──生きているのだろうか。
途端に俺は、得体の知れない不安に駆られた。馬鹿げた考えだと、自分でも分かっている。この夜の静寂が、おかしな気分にさせているだけなのだ。しかし、その考えは、俺の頭にしつこく貼り付いて、振り払えない。
少し手を伸ばせば──確かめられる。この不安を、溶かして、安堵できる。何も難しいことはないし、躊躇う必要も、どこにもない。
俺は音を立てないよう、あいつの枕元に忍び寄った。潜入任務にあたるときより、心身はよほど緊張していた。鼓動が速まっていることを自覚する。戦闘によって引き起こされた興奮の残滓は、どうやら、まだ抜け切っていないらしい。
あいつの寝顔を、真上から見下ろす位置に、だいぶ時間をかけて辿りつく。近くで見ても、つくりものめいた印象は、変わらずそのままだった。呼吸の気配も、ここからは感じ取れない。息を止めると、俺はそろそろと、姿勢を低くした。俺の影の中、無防備な姿を晒す、あいつに覆いかぶさり、触れるばかりに顔を近寄せる。軽く閉ざされた唇に、触れるか触れないかのところまで顔を寄せて、俺は息を潜めた。
微かに聞こえるのは、規則的に繰り返される呼吸音。その息遣いを、寄せた頬で感じ取る。暫し、そうして、俺は止めていた息をゆっくりと吐いた。安堵が身体を支配していくのを感じる。いったい俺は、何を恐れていたのだろうか。思い返してみれば、ばかばかしいことだった。夜というのは、人間の頭ををおかしくさせる。ただでさえ、戦闘の影響が精神に及んでいる、俺のような者にとっては、なおのことである。
ともかく、これで思い残すことなく、俺も眠れるだろう。いつまでも、こいつに覆いかぶさっている理由はない。俺は、さっさと身体を起こそうとした。しかし、その試みは、あえなく失敗することとなった。

数秒後、俺は身を起こすどころか、仰向けに転がることとなっていた。完全に油断していたところに、突然に組み付かれて、あっけなくバランスを崩し、もつれあいながら押し倒されるという、馬鹿みたいな顛末だった。これが戦闘であったなら、間違いなく、腎臓辺りを一突きされて、一巻の終わりである。
そんな不意打ちを仕掛けてきた奴というのは、言うまでもなく、俺の胸から腹に折り重なって、身体を密着させることで自由を封じている、こいつである。確かに、今さっきまで眠りに落ちていたはずなのに、驚くべき行動力であると言わざるを得ない。よほど神経が鋭敏なのだろう、敵の気配を察知して、即座に覚醒したらしい。別に、俺は敵ではないのだが、そんな判別をする間もない、身に染み付いた条件反射のようなものなのだろう。頼もしいことである。
ただ、妙なことに、あいつは俺の胸にもたれたまま、動こうとしなかった。これでは、敵を制圧したことにはならない。むしろ、反撃の隙を与えていることになり、かえって危険だ。どうするのだろうという興味だけで、大人しく見守っていると、あいつは緩慢に身じろいで、俺の胸元に、そっと頬を擦り寄せた。
おい、と俺は思わず、心の声で突っ込んでいた。何だ、その行動は──こんな、猫が甘えでもするような特殊な戦法を、俺は知らない。
あいつの伏せた顔には、長い黒髪が落ちかかって、表情を伺えない。反応に困っていると、白い手が、俺の腹から胸、肩へと、焦らすように伝い上がってくる。それにともなって、くすぐったい感覚が、背骨を這い上がるのを感じた。
あいつの指が、首を伝い上がり、手探りで、俺の頬を包み込む。そして、あいつは、伏せていた顔を、のろのろと起こした。至近距離で、俺の顔を見上げる、あいつの金の眼は、寝起きだからか何だか知らないが、普段、強い光を宿したそれとは趣きが異なっていた。俺のほうへと向けられていながら、俺を見ていない──何も映していない。乱れた黒髪の下、半ば瞼の閉じかかった表情はけだるげで、少し傾げた首も、薄く開きかける唇も、およそ脅威には見えない。無防備に晒されている──奪ってくれと、誘うように。
あいつの白い指が、確かめるように俺の頬を辿る。俺は、動けない。身を起こして、こいつを振り払うのは、きっと簡単だ。未成熟な細い身体は、押しのけるのに、たとえ片手であっても、何の苦労もない。
しかし、今、少しでも動けば、こいつを壊してしまうような気がした。普段であれば、決してそんなことは思わないというのに、そのときの俺は、本気でそう感じた。
ぐ、と身を乗り出すようにして、あいつは、動かない俺の顔を覗き込む。長い黒髪が、奴の肩を流れ落ちて、俺の頬を冷たく撫でる。ゆっくりと、あいつは顔を寄せてくる。
その唇が、薄く開いて──
「──おや。明智君だ」
紡がれたのは、そんな場違いに呑気な台詞だった。もう一度、瞬きをすると、あいつの眼は、既に見慣れた金色の光を宿している。いつもの微笑を浮かべて、やあ、などと親しげに挨拶までしてくれる。それは、他人を押し倒して圧し掛かりながらする挨拶ではない、と俺は胸の内で苦言を申し立てた。口に出さなかったのは、別にあいつへの思い遣りでも何でもなく、喉がからからに渇いていたからだ。ごくり、と唾を飲み下して、ひとまず平静を装う。
「やあ、じゃねぇだろ。寝惚けて、人に襲い掛かっておいて」
俺の苦言に対して、ごめんごめん、とあいつは言葉の上だけで謝ってみせた。ちっとも反省していないことは、顔を見れば明らかだ。まあ、寝惚けてやらかしたことを、どう反省しようもないというのは、もっともなことなのだが。
あいつは俺の上から身体をどかすと、乱れて肩に落ち掛かる黒髪を払った。
「寝惚けて、というわけではないんだけれど。覆い被さられるのを感じたから──こういうことを、したい相手なのかと思って」
「……いや、そこは抵抗しろよ」
身を起こしながら、俺は小さく異議を申し立てた。何故、寝込みを襲うような卑劣な輩の欲望に応えてやることが前提となっているのか。冗談にしても、悪趣味だ。俺の苦言を、あいつは気に留めた様子もなく、黙って微笑する。きっとまた、俺はこいつにとって、的外れなことを言っているのだろう。初めて逢ったとき、大笑いをされたように。
先ほどのあいつは、まるで何も意識せずとも、身体が勝手に動いているようだった。頬を擦り寄せるのも、細い手で愛撫するように身体を辿る手つきも、なめらかで、慣れたものだった。
慣れるほどに繰り返した行為──身に染み付いた条件反射。
その意味するところを考えて、俺は胸の底が重くなるのを覚えた。黒髪を梳きつつ、平然としている、あいつの細く未成熟な身体に、刻み込まれてきたものを、いやでも思い知らされる。覆い被さってくる相手に対して、ああして積極的に応じてやることは、おそらくは、こいつにとって、最も傷が浅く済む正解だったのだろう。あいつは経験上、それを知っていて、考えるまでもなく、今も身体が覚えている。刻み込まれたものは根深く、容易には、消し去れない。あいつ自身が、きっと、一番よく分かっている。それを、思い知らされたかたちだった。
それでも、俺は、こいつに意見するのをやめるつもりはなかった。まるで、抵抗するだけ無駄だと諦めて、そうまでして守るものなど何もないとでもいうような、こいつの態度を、見過ごすわけにはいかなかった。出逢ったときに、説教したのと同じように、いくら笑われても良いから、こいつに伝えたかった──もっと、自分を大事にしてやれ、と。
俺の意図が伝わったのかどうかは不明であるが、あいつは、ふと思い出したという風情で、首を傾げる。
「それで、明智君は、眠っている僕に、何の用だったのかな」
しまった──と、俺は己の浅薄さを悔いた。その言い訳を考えることを忘れていた。寝惚けていたのならば、何とでもごまかせるだろうが、こいつは覆い被さられる気配を感じたと言っているのだから、あの時点でかなり覚醒していたのだろう。俺が、寝ている人間の顔を覗き込んでいた事実は、どうやら隠せない。
言いよどむ俺の様子を、あいつは金色の眼を細めて、愉快げに鑑賞する。唇に浮かぶのは、例の微笑だ。眠っているときこそ、人形のようだなどと感想を抱いたが、とんでもない勘違いだった。こんなに活き活きとした表情を浮かべる人形はない。
一つ咳払いをして、俺は心を固めた。
「俺は……お前が、ちゃんと寝れてるか、気になっただけだ」
苦しい言い訳であると、我ながら思う。しかし、寝込みを襲おうとしていたなどという、不名誉な誤解を招くよりは、ずっとましだ。
精確に言うならば、俺が気になったのは、奴が眠れているか否か、ではない。生きているか、否か。確かめたかったのは、そちらのほうだった。もちろん、そんなことを本人に言えるわけがない。そんな、苦し紛れの言い逃れだった。
「大丈夫。よく眠れているよ」
お気遣いありがとう、とあいつは微笑む。俺の答えに、納得したのかどうかは知らないが、それ以上の追及はなかった。代わりに、あいつは、こちらをじっと見つめて問う。
「明智君のほうこそ、寝付けずにいたんじゃない?」
すっかりお見通しである。否、他人の寝顔を覗き込むような暇なことをやらかすのは、眠れずにいる人間であるに決まっている。こんなのは、推理でも何でもない。
そんな俺に、あいつは軽く首を傾げてみせた。白い手が、自然な仕草で、俺の膝に掛かる。何だろうかと思っていると、かすかな衣擦れと共に、あいつはしなやかに、こちらへと身を寄せた。長く艶めく黒髪が、白い頬に落ちかかるのもそのままに、意味ありげな眼で、俺を見上げる。
「良かったら──一緒に、寝ようか」
「今だって一緒じゃねぇか」
今更、何を言っているのだろう、こいつはと、俺は首を捻りつつ応じた。あいつは、暫し眼を瞬いた後、そういうことじゃなくて、と苦笑した。それでは、どういうことなのだろうか。まあ、こいつがよく分からない言動をするのは、俺としても、もう慣れっこだ。特に気にすることはあるまい。
あいつは、まだ何か言いたそうにしていたが、俺もようやく、眠気が襲ってきた。込み上げる欠伸を噛み殺す。これを逃してはならないと、俺はさっさと寝床に戻ることにした。
「じゃあ、また明日な。おやすみ」
「──おやすみ」
あいつと軽い運動をしたのが良かったのか、眼を閉じると間もなく、意識が落ちていくのを感じた。



あいつは俺と違って、最前線に乗り込み敵と激しく銃火を交えるような戦闘行為には参加しなかったが──より精確にいえば、俺が参加させなかった──しかし、仮にも傭兵部隊の一員として行動する以上、もちろん、必要とされるだけの知識と技術は身につけていた。基礎戦術、近接格闘術、射撃、斥候、通信、救命、そして、雇用主から支給される、あらゆる銃火器の取り扱いである。
机上に広げた古布の上で、分解した自動小銃のバレルを丁寧に清掃する、あいつの白い指先を、俺は何をするでもなく眺めた。ほっそりとした白い手は、銃を構えて引き金を引くよりも、そうして細かな整備作業をするか、黙々と作戦用地図や図面の書類整理をしているほうが、よく似合う。血生臭い戦闘行為はこちらに任せて、こいつはこういう仕事だけ、やっていてくれれば良いと思う。
手伝いもせずに、見ているだけの俺の態度を責めるでもなく、あいつは淡々と作業を進める。他人の視線を、居心地悪く感じるような繊細な奴ではないのだ。アサルトライフルの分解と清掃、そして組み立ての手順にしても、もう手慣れたものであって、俺があれこれ口出ししたり、手出しをしたりする必要はない。
細長いクリーニングロッドを摘み上げる、あいつの指先の様子を眼で追って、ああ、まただ、と俺は胸の内で呟いた。ふとしたときに、あいつの指は、関節とは逆方向に反らされる。その仕草は、目を瞠るほどではないにしても、微かに意識に引っ掛かり、妙に興味を引きつけるものがある。
あいつの細い手は、テーブルに手のひらを押し付けた状態から、指先を45度程度の角度まで上げることができた。なお、注釈しておくと、それは、最大で45度という意味ではない。45度というのは、俺が平常心で眺めていられた限界で、それを超えそうになった段階で、頼むからやめろやめてくれうわ痛い痛い見ているこっちが痛い、といって中止させたという経緯がある。情けない記憶なので、あまり思い出したくはないのだが、俺はそのとき、涙目になりながら、あいつの細い手を両手でしっかりと握り締めていたらしい。仕方ないだろう、確実にやめさせるには、それが一番間違いのない方法なのだから。
だから、もしかすると、それ以上、反らせることも平気でできるのかも知れなかった。それを確かめる勇気は、俺にはない。人体構造上の可動範囲を無視したようなことを平然とされると、見ているこちらのほうが、痛くてかなわない。あいつもそれを分かっているのか、日常生活でそれを見せ付けてくるような、悪趣味なことはしない。俺の涙目の懇願が効いたのだろう──不本意ながら。

手だけではなく、あいつは身体も柔軟だった。近接戦闘の訓練では、普通ならもうどこかが折れているのではないかというような体勢で、攻撃をかわして、得意の蹴り技を繰り出すし、潜入任務では、思いもしない物陰にうまく身を潜め、銃を構える。
俺もストレッチの一環として柔軟運動を続けてはいるが、まるで次元が違う。こちらが呻きながら筋を伸ばしている隣で、180度開脚した上、上半身をべったりと伏せた姿勢で、ぱらぱらと雑誌を眺めるような真似を易々とされると、一気にやる気が削がれること、この上ない。何も特別な訓練をしてはいないというから、先天的なものなのだろう。お前はこの稼業から足を洗っても、その顔と身体で十分に食っていけそうだなと、よく仲間から軽口を叩かれていた。
柔軟性と、細身である利点を生かして、曲芸めいた動きをされると、分かってはいても、虚を衝かれ、意識を引かれてしまう。あるいは──幻惑される、と言うべきか。
何気ない仕草のひとつひとつが、それ自体は何の変哲もないものであるはずなのに、僅かにずれている。見慣れたものと違う、予期したものと違う、それだけで、ヒトは無意識の内にも、注意を引かれて、印象を刻み付けられてしまうものだ。異質なものに過敏に反応する能力というのは、おそらくは、人類の発展において必要不可欠の防衛策として、受け継がれてきたのだろう。
あいつから目を離せないのは、そういうことだ。
こいつは──「違う」と。
ありふれた、退屈なものとは、違う。
俺をかき乱し、刺激を与える。
それは、一面では警戒すべき脅威であり、また一面では、抗い難い、甘美な誘惑なのだった。

そんなあいつを眺めて、俺はふと、ひとりごちる。
「お前は、いつもきれいだな」
黙々と作業をしていた、あいつの手が止まる。突然、何を言い出すのかと、あいつは訝しげに眼を眇めた。分解されたボルトキャリア片手に、生徒の文法ミスを淡々と指摘する教師の顔で言う。
「明智君。残念だけど、そういう口説き文句は、君にはまったく似合わない」
「口説いてねぇし」
誤解である。そんな風に受け止められては困る。いくら俺でも、意中の相手に捧げるならば、せめてもう少しは気の利いた台詞を用意するというものだ。そもそも、こいつを口説いたとして、俺に何かメリットがあるだろうか。否、そんな利点も理由も、一切、思い当たらない。皆無である。そんな方法で退屈しのぎをする趣味は、俺にはない。
にもかかわらず、誤解をするこいつのほうこそ、少々自意識過剰というか、被害妄想のきらいがあるのではなかろうか。まあ、それを責めてやるのは可哀想だ。たいていの人間の興味を惹きつけずにはいられない、その整った容姿のために、こいつが厄介ごとに巻き込まれるのは、珍しいことではないからだ──巻き込まれるというべきか、引き起こすというべきか。
自衛のために、自意識過剰気味にもなるというものだ。そのくらいのほうが、一応の相棒としては、安心ではある。いかがわしい輩に口説かれて、ほいほいついていくようなことでは困る。まあ、こいつに限って、そんなことはあるまいが──俺みたいなふらふらした野郎に、ほいほいついてきているじゃねぇかという事実は、この際、脇に措いておくことにする。
などと、俺が他愛のない思考を馳せている間にも、あいつは不可解げに首を捻っている。
「今の発言を、それ以外にどう解釈したらいいか、あいにく僕には分かりかねるんだけれど」
「だから、他意はないって。解釈してくれなくていいから」
そう言ってやると、あいつは変な物でも見るような眼を、俺に向けてくるのだった。そんな不審げな表情も、人形めいて硬質に整った面立ちには似合いであるのだが、別に俺は、こいつの容姿を褒め讃えたいわけではない。口説いていないのと同じくらい、賛美していない。初対面のときこそ、きれいな顔をしているものだなと平凡な感想を抱いたが、見慣れてしまって久しい今、改めて何を感じることもない。他意はない、と宣言したとおりである。他意はない──本意さえも、もしかしたら、そんなものはないのかも知れないが。
要領を得ない態度を取る俺を、無視することにしたらしいあいつは、銃口に顔を寄せて、フラッシュハイダーを回す。そんなあいつの姿を、俺は、だらしなく頬杖をついた格好で眺めた。無骨な戦闘服に包まれた細い身体、その輪郭を、上から下まで、ゆっくりと辿る。そして、俺は確信する。
ああ──やっぱり、そうなのだ。こいつは──
「いつも、白くて──汚れひとつない」
眼を眇めて、己が見たそのままを、俺は口にした。見たままの、しかし、それは外見のみを指しているのではない。それでいえば、着古した野戦服は、泥だの汗だのが染み込んで汚れているし、いくら近接戦闘行為に参加しないとはいえ、こいつだって前線に赴けば、砂埃まみれにも汚濁まみれにもなる。決して、己の手を血で汚さないことを、皮肉っているわけでもない。
だから、これは、俺の勝手な印象の問題だ。誰に訊いても同じ、納得のいく客観的評価でないことは、もとより承知している。
傷を負った者、汚れた者、あるいは──悪に染まった者というのは、見ればなんとなく分かる。詳しい事情や背景は何も分からなくとも、結果として、こういう人間に形成されたのだということが伺える。歪みながら、汚れながら、染まりながら、ここへ至ったのだという、過去が醸し出す陰影は、特に同類の目には、はっきりと見て取れてしまうものだ。
それを、醜いとは思わない。当然のことだからだ。誰も、何にも染まらずに生きていくことはできない。そんな奴を、俺は見たことがない──目の前にいる、こいつを除いては。
こいつを、きれいだと思うのは、だから、そういうわけだ。傷も、汚れも、悪も、どころか、善すらも、こいつからは、見つけ出すことができない。奴の内に刻まれたものを、背負ったものを、抱いているものを、何も感じさせない。表に出さないという、それだけではなく、内に隠しているものがあるとさえ、思えない。
どこまでも、白くて──きれいなのだ。

そんな俺の正直な感想を聞いて、奴はあろうことか、可笑しそうに声を上げて、笑いやがったのだった。今の話の、どこに笑う要素があったのか、俺には分からない。否、こいつが意味の分からない反応をするのは、今に始まったことではない。笑うなよ、とせめて苦言を呈するのが、俺にできる精々のことだった。
ようやく笑いが治まってきたところで、あいつは、緩く頭を振った。
「僕に言わせれば。そういう君のほうこそ、よほど純粋だよ。純粋で、純心で、純然として──」
喋りながらも、手元では迷いなく順調に、銃が組み立てられていく。ボルトキャリアとリコイルスプリング一式を、滑り入れるようになめらかな手際で収め、レシーバーカバーを嵌め込む。無骨な小銃を両手で浮かせて支え持つ仕草は、優雅ですらあって、3キログラム強という重量をおよそ感じさせることがない。慣れ親しんだパズルを解くように、細い手が翻る度に、あるべきパーツが、あるべき場所に、ぴたりと納まっていく様子は、見ていて小気味が良い。仕上げに、硬質な音を立てて、弾倉が装着された。
いつでも実戦に投入できる準備の完了したアサルトライフルを、そこで置くと、あいつは確かめるように、こちらを覗き込む。整った──それこそ白く、汚れひとつない、きれいな面立ちが、触れるほどに近い。黄金の眼が、じっと俺を見据える。
「そんな眼で──僕を見るのは、君だけだ」
言って、小さく笑う、それは俺には、自嘲の表情に見えた。それだけ言い残して、奴は満足したらしい。最後にスリングを通すと、整備を終えた小銃を提げて、さっさと行ってしまった。
どんな眼だよ、と俺は額に手をやって独りごちる。鏡でも覗いてみるか──否、それも気色悪い。自分の鏡像を見つめたところで、あいつを見るときの眼と同じにはなるまい。俺も知らない、俺。結局、それを観察できるのは、俺に見つめられている対象である、あいつしかいないのだ。あいつの眼の中にだけ、存在する俺というものがいると思うと、妙な心地がした。
ただ、俺がどんな眼をしているのかは知らないが、俺以外の奴がどんな眼であいつを見てきたかは、だいたい分かっているつもりだ。これだけ行動を共にしていれば、嫌でも分からされる。
俺と出逢う以前のあいつが、自分に浴びせられる視線として知っていたのは、およそ、ろくでもない種類のものでしかなかったらしい。そんな、汚れた眼に、己を売り渡しながら、あいつは生きてきた。そんな世界しか、知らずにいた。
それでも、あいつは、汚濁に染まりはしなかった。汚されようと。犯されようと。貶められようと。
それによって、あいつに何かが刻まれることはなく、何かが奪われることもなく──何かが変えられることもなく。
きれいなままで、ずっと。

ちなみに後日、仲間と談笑中に、あいつについてどう思うかと訊かれたので、きれいな奴だと思う、と正直に口にしたところ、一気に引かれた。距離を置かれる音が、確かに聞こえるくらいに、見事な引きっぷりだった。なお、引かなかった一部の連中はといえば、腹を抱えて笑い転げていた。いずれにしても、想定外の反応である。
「惚気やがって」「臆面なく言うことではない」「気持ちは分かる」「このロリコン野郎」などの温かなコメントを、俺は一身に浴びることとなった。今のは、そんなにおかしな発言だったのか、と俺はこのときになって初めて実感したのだった。対して、あいつの反応が、いかに抑制的であったか、引き比べてみるとよく分かる。内心では引いていたかも知れないが、少なくとも、俺にそれを察知させることはなかった。
ともかく、さんざんからかわれた挙句、どうやらこれは思っても言わないほうが良いことらしい、と俺はようやく学習したのだった。だから、それからは、本人にも誰にも、言ってはいない。言わないが、思ってはいる。
思い続けている──決定的に、道を違えた、今となっても。
あいつは、いつも──いつまでも、きれいだと。

あいつを、誰も、汚せない。
たとえ、汚濁に塗れても。血の雨に降られても。あいつは、何にも染められない。
水のように透き通って、月のように白く──あいつは、佇む。
あいつを、誰も、測れない。
あいつを、誰も、裁けない。
審判するのは、あいつだ。断罪の剣も、魂の天秤も。あいつのものだ。

そんなあいつが、傍にいてくれることで、あの頃の俺は、まるで自分まで、赦されるような気がしていた。
審判を下す神の存在を、信じていたわけではない。ただ、何かに赦されたいという、焦燥だけがあった。赦されることで──逃げ出したかった。
血に染まった両手も。陰鬱に沈み込む過去も。あいつが、洗い流してくれるのだと。あいつが笑って、俺についてきてくれる限り、大丈夫なのだと。
俺は間違っていない、これで良いのだという保証を、あいつが与えてくれる。それが、いつまでも続くのだと、愚かにも、信じて疑わなかった。あいつが俺を離れないと確信した上で、俺の勝手に、あいつを巻き込み、付き合わせた。

あいつは──俺のものなのだから。
どこにも、行くはずが、ないのだと。

そんな風に、俺があいつを見ていたことを、あいつは──きっと、知っていた。



前線での任務がひと段落し、拠点へ戻ったところで、傭兵どもは例によって、街へ繰り出した。普段は酒の席に付き合わないあいつも、今回ばかりは、俺の後に静かに続いている。それを除いては、いつもの調子と、何も変わらない。前線で我慢させられ続けた鬱憤を晴らすように、男たちは大声でふざけあい、酒だ女だと馬鹿みたいに連呼して、笑い続ける。ただ、そこに、いつもならば必ず活き活きと先陣をきっていた、仲間の一名の姿はなかった。
俺たちは酒場に集い、同じテーブルを囲んだ。用意されたグラスは、人数分より一つ多い。その空席を見つめながら、俺たちは、いつもそうするように、ここにはいない仲間に乾杯を上げた。口々に、その栄光を讃えた。

帰ってくることができなかった一名は、気の良い奴で、やや騒々しいところもあったが、誰にも分け隔てなく接することで、皆から親しまれている男だった。正規軍を除隊後、一度は一般社会に馴染もうとしたものの、それができずに、己の能力を最も活かせる場所、すなわち戦場へ舞い戻ってきたという、よくあるパターンだった。
そういう、自信と誇りに裏打ちされた合理的な判断を聞くと、逃げ出すようにしてここまで来てしまった自分が、情けなくなってくる。ただ、そこにいかなる背景があろうと、敵の銃弾は等しく、俺たちに襲い掛かる。生命を寄越せと、牙を剥く。
そいつが銃弾を浴びて斃れるところを、俺は視界の端に捉えていた。しかし、どうしてやることもできなかった。自分の身を守ること、それが俺たちにとって、戦闘中の第一の心がけである。結局、遺体を回収することも、状況が許さなかった。
助けられなかった──置き去りにした。
見殺しにしたのは、お前だと、どこからか、声は響いて、俺を責め立てる。それを振り払うために、俺は次々に酒を煽った。周りの仲間たちも、似たり寄ったりで、沈黙を、静寂をおそれ、強迫的とさえいえる態度で、面白くもない冗談を言い合い、乾いた笑いを上げる。今夜は珍しく、あいつが参加していることもあって、話題には事欠かないのが救いだった。その喧騒に、俺は積極的に、意識を沈み込ませた。

「──呑みすぎだよ、明智君」
至近距離で、鼓膜を叩く声に、俺は朦朧としていた意識を引き戻された。まだうまく働かない頭にも明瞭に響く、聞き慣れた声。野郎どもの野太い声とは違う、澄んで落ち着き払った水面を思わせる声だった。
酒場のざわめきは聞こえない。重い瞼を上げて、辺りを見回す。立ち並ぶのは、いかにも安普請の白いバラック、それから、闇に紛れる軍用車両。街中とは明らかに異なり、より見覚えのある、身近な景色だった。どうやら俺は、あいつの肩を借りて、かろうじて拠点まで戻ってきたらしい。
ここまでの道程の記憶がおぼろげになるほど、呑んでしまうとは、はっきり言って失態である。珍しくこいつが参加した酒の席で、このような醜態を晒すことは、できれば避けたかった──それとも、こいつがいるからという、どこか安堵があって、俺は正体を失ってしまったのだろうか。だとしたら、自分で自分の面倒も見られない、とんだクズ野郎である。
あいつの細い身体にほとんど預けてしまっていた自重を、俺は遅まきながら、己の両脚に戻した。
「悪い、面倒掛けちまって……あいつらは?」
「皆、添い寝の相手を探しにいったよ。今夜は、戻ってこないんじゃないかな」
だろうな、と俺は深く息を吐いた。前線を離れた、僅かの休暇に、兵士はまず、戦場にはないものを求める。戦場で死力を尽くすならば、俗世間の悦びも全力で味わい尽くさんとする。そうすることで、うまく両者のバランスを取っているといってもいい。
俺の溜息をどう捉えたか、あいつは俺の背中にそっと片手を添えながら、耳元に唇を寄せる。
「──僕と添い寝する?」
「……そうだな」
俺を励まそうというのだろう、その冗談に、俺は小さく笑って応じた。要らねぇよ、と普段ならば返ってくるところを、意外な反応であったのか、あいつは金色の眼を瞬いた。しかし、それ以上、何も言うことはなかった。お互いに無言のまま、重い足を引き摺るようにして、宿舎へと向かった。

急ごしらえの建物内に這入るなり、俺はその場にくず折れた。冷ややかな床が、火照った身体に心地よい。
「駄目だよ、明智君。こんなところで──」
支え起こそうとして、膝をついたあいつの腕を、俺は無造作に掴んだ。立ち上がるためではなく、引き倒すために。
添い寝をしてやると、言い出したのはこいつだ。普段は出ない酒の席にも出たのだから、こちらに付き合うつもりがあるということだ。なら、付き合って貰おう──この、やるせない空しさに、惨めさに、わだかまる鬱屈に。
そんな身勝手にもほどがある理由付けで、俺は自分の行為の正当性を確保しようとした。否、そんなものを確保する必要もなかったかもしれない。後先のことなど、関係がなかった。俺は闇雲で、無計画で、衝動的だった。もうどうでもいい、というのが、偽りのない俺の本音だった。どうでもいいから、こいつを俺に付き合わせて、ひとときでも、空しさを埋め合わせることだけが、目的だった。こいつに、俺を──理解って欲しかった。こいつになら、それを望んでも許されるはずだと、俺は身勝手にも、そう決めつけた。
あっけなく倒れ込んだ、薄い身体に、圧し掛かる。相手に抵抗の様子はなく、意図を達成するのは容易い仕事であることを伺わせた。安っぽい床に、あいつのきれいな黒髪が、流れるように広がる。俺に組み敷かれたあいつは、文句を言うでもなく、ただ、静かにこちらを見上げていた。汚れひとつない白い頬も、柔らかそうな唇も、ほっそりとした首も、俺の下に、無防備に晒されている。俺のために、差し出されている。
確かめるように、その頬に指先を触れる。なめらかな肌を、ゆっくりと辿っていると、あいつはくすぐったそうに身じろぎ、静かに眼を閉じた。代わりに、唇が、何かを求めるように、薄く開きかける。俺は自分が何をすべきか、考えなくとも分かった。差し出されたものに、食らいついて奪うべく、俺は姿勢を沈め──そして、そのまま、床に沈んだ。
痛みは感じなかった。ただ、鈍い音と、衝撃だけを、額に感じた。視界が真っ暗になる。何が起こったのか、まだ分からずにいると、溜息混じりの声が、耳を打つ。
「だから──呑みすぎだって、言ったじゃないか。無理はいけないよ、明智君」
「う、ぅ……」
身体に力が入らない。妙な浮遊感があって、眩暈がひどい。どうやら、急に姿勢を動かしたのが、良くなかったらしい。自滅した俺の下から、あいつが器用に抜け出す気配がある。大丈夫かと問いながら、あいつは腑抜けた俺を抱き起こしてくれる。
よくもまあ、愛想を尽かすこともなく、こんな奴の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれるものだな、と俺は他人事めいた感想を抱いた。俺ならば、自業自得とばかりに、その辺に放置しておくところだ。一応、通行の邪魔にならないよう、隅のほうに蹴り転がすくらいの気遣いは、するかもしれない。いくら命を預けあう仲間内の結束は固いとはいえ、そこまで面倒を見てやる義理はないのだ。
しかし、こいつはよほどの物好きらしく、俺に肩を貸して、上体が壁にもたれるよう座らせてくれた上、案ずるように、隣に寄り添ってくれた。白い手が、持ち上がって、俺の肩に触れようとしかけて、下ろされる。不意に触れられるのは嫌いだと、俺がかつて言ったことを、思い出したのだろう。
その手を、俺は掴み寄せると、有無を言わせず、肩に置かせた。今ばかりは、そうして触れていてほしかった。あいつもそれを分かって、ゆっくりと、肩から背中を撫でさすってくれる。そうされていると、頭にわだかまる気だるい重さが、和らいでいく気がした。どっぷりとアルコールに浸かった心身が、清涼な水に、洗われていく心地がした。優しく撫でてくれる手だけではない、こいつが、俺に分け与えてくれるものを、もっと欲しいと思った。

「……何か、言ってくれよ」
沈黙が堪え難く、俺はそんな身勝手を言った。内容は、何でも良かった。ただ、沈黙を、静寂を、暗闇を、ひとときでも追い払ってくれるものならば、何でも良かった。そうでなければ、やっていられなかった。こいつの澄んだ声を聞くと、俺はいつでも、それに意識を集中させることができた。否、勝手に意識を引き寄せられてしまう、というべきだろうか。どちらでも、構わない。こいつの声を、聞きたかった。
唇が、薄く開いて──こいつが紡いでくれる言葉を、俺は期待した。
お前は悪くない、という慰めではない。
お前が、あいつを讃えてやればいい、という正論ではない。
そのとき、俺が一番、欲しかった言葉は──
「僕は、死なないよ」
あいつは、冗談めかした様子も、思い詰めた様子もなく、天気の話でもするように平然と、そんなことを言った。その言葉が、俺の内に浸透するのを見届けるように、金色の瞳は、俺をじっと見つめる。ややあって、俺はようやく、口を開いた。
「……すげぇ自信」
俺の反応が、半ばあきれたようなものになってしまったのも、仕方ないだろう。相当に酔っているらしい頭でも、意外と常識的な反応ができるものである。それとも、こいつの言葉で、少しは酔いが醒めたということだろうか。
死なない、か──胸の内で、俺はひとりごちた。
まあ、それくらいの自負がなければ、こんな稼業はやっていられないだろう。自分自身も顧みて、俺は思う。戦場の兵士の、半数以上が、「自分は平均より優れた兵士である」という意識でいるという、愉快な調査結果を見た覚えがある。むざむざ殺されるつもりで戦場に立つ奴はいない。たとえ仲間が殺られても、自分だけは、その不幸を避けられると、誰もが信じている。
戦場にいるのは、そんな奴らばかりだ。まともな神経の奴が来るところではない。
その意味で、やはりこいつにも適性はあったようだ。無理をして俺に付き合っているのかと、最初こそ疑ったものだが、今となっては、ここ以外の場所に──俺の隣以外の場所に、こいつがいることを想像すらできない。
それでは。
俺は、どうなのだろう。
俺が、いるべき場所は、どこなのだろう。
などと、青臭い悩みを今更、抱えることはないが、僅かに、ふっと、頭を過ぎることは、ないといったら嘘になる。
いつもそうだった。
かつて、あの暗く閉ざされた空間で、気まぐれに襲い来る嵐に耐えることが、自分の役目で、ここが自分の居場所だと思っていた。出て行きたければ、出て行けと、あの男に嘲笑されてなお、外へと続く扉に、手を掛けることができなかった。膝を抱えて、蹲るだけの、無力な子どもだった。
そんな子どもを、あの人は外へ連れ出してくれた。
あの人の右腕となって働き、あの人を支え助けられるようになることを夢見た。これが自分の役目で、ここが自分の居場所だと思っていた。そんな子どもは、しかし、己の弱さのために、その温かな居場所を失った。
それで、また次の居場所を求めて、とりあえず落ち着いた、ここが確かに俺の居場所であると、どうして確信を持って言えるだろう。どうせまた、同じなのだ。同じことを、俺は繰り返す。それを、自分でなんとなく、分かっている。
その居場所に身を置いている間には、本気で、俺にはこれしかないと思っている。他の場所など、見えはしない。その場を動こうなどと、思いもしない。その居場所が、致命的に、破壊されるまでは。そうして、どうしようもなくなったところで、俺はようやく、他に目を向けることができる。
俺は次に、どこに居場所を求めるのだろうか。否、それ以前に、そんな悩みを持てるのも、ここが俺の死に場所にならなければの話であることを忘れてはならない。俺の次の居場所が、冷たい土の下ではないとは、言い切れないのだから。
昨日まで、隣にいた奴が死に、俺が生きている。そこに、確固たる理由などはない。戦場に身を置き続けていれば、いずれ命を落とすことになる。誰に、いつ、それが訪れるのか、誰にも分かりはしない。それが、瞬きをした次の瞬間ではないと、どうして言い切れるだろうか。
「それでも、お前は、……死なないって、言えるのか」
「言えるさ」
あいつの声は、揺るがない。見てきたかのように、決定事項であるかのように、悠然と告げる。
「僕は死なない──殺されない」
君には、決して、殺されない。
一語ずつを、はっきりと区切って、奴はそう言ったのだった。

あいつが何を考えて、そんなことを言ったのか、それは分からない。ただの気まぐれの、戯言だったのかも知れない。ただ、そのとき、俺は──救済の声を聞いた。それを、信じたいと、心から望んだ。
こいつをこんなところまで付き合わせてしまったのは、俺の責任だ。こいつが殺られれば、それは、俺が殺したも同然といえる。だから──というだけが、理由ではない。そんな間接的な理由ではない。
もっと、直截的に、この手で。
俺は、こいつを──殺してしまうのではないかと、どこかで、おそれていた。
俺が、次に殺すのは、こいつなのではないか。そんな考えが、頭から拭い去れずにいた。
自分自身のほかには何も、血の繋がった親も、かけがえのない大切な人すらも、守れずに、ぶち壊しにしながら、ここまでやってきてしまった俺だ。この手は、何も守れない。誰も救えない。何も変えられない。銃の引き金から離れたこの手は、驚くほどに無力で、ただ物事を悪いようにしかできないのだと、繰り返し、思い知らされる。忘れるなと、糾弾するように。
何もかもを、俺は、きっと台無しにしてしまう。同じことを、もしもまた、繰り返してしまったならばと考えて、身が竦むのを、止められない。
そんな暗闇の中で、こいつは、俺がようやく見つけた、いわば──光だった。
俺は、こいつを殺すわけにはいかなかった。今度こそ、手にしたものを壊してはならなかった。
それを、こいつも分かっている。分かった上で、こうして寄り添い、一緒にいてくれる。俺の傍で、笑っていてくれる。それが、喜びのようにさえ感じられるのだった。
明智君、と甘く囁く、あいつの腕が、俺の背中に回って、軽く身を寄せてくる。胸にもたれる重み、それが、何より安堵をもたらしてくれる。その細い身体に、俺はぎこちなく、腕を回そうと──
「やぁやぁ、お相手に恵まれなかった哀れなる諸君! せめて互いに、その悲しみを分かち合──なんだ、お楽しみ中か。こいつは失礼」
酒瓶を片手に、騒々しく這入ってきた男は、俺たちの姿を見るや、そんなことを言っておどけてみせた。俺は、壁を支えに、ゆっくりと立ち上がる──眩暈はもう、治まっていた。
「いや──いいよ、付き合うぜ」
いい加減にしなよと窘めるあいつも、無理やりに引き込んで、俺たちは朝まで騒いだ。それが、俺たちにとっては、必要な儀式だった。まだ、生きている──生き続ける、俺たちにとっては。

──結局。
あいつの言った通りだった。あいつは、俺に殺されることはなかった。
殺されなかった、代わりに、壊された。
俺が、この手で、あいつを壊した。
あいつは、最後まで、俺の傍で笑っていた。
笑っていたから、大丈夫だと、俺はそんな風に考えて、だから、気付けなかった。
笑いながらでも、壊れていけるなんて──知らなかった。

どちらのほうが、ましだっただろう。
壊されるのと、殺されるのと。
お前は、どちらのほうが、良かったんだと、訊けるものなら訊いてみたい。
きっと、あいつは笑って答えるだろう。

受け取るよ──君からの贈り物なら、なんだって、と。



──ふと、呼ばれたような気がして、俺は顔を上げた。目の前には、当然のようにして、あいつが座して相対している。中央には白い簡易テーブル。その上には、蓋をした携帯用カップが2つあって、俺はその中身が、あいつのお気に入りのレモネードであることを知っている。いつものように、俺が奢ったものだ。
ここは、どこだっただろうか──うまく記憶が繋がらない。
ああ、そうだ。俺は昼飯を食いながら、こいつに、あの人の話をしていたのだった。俺を救ってくれた人。俺に名前をくれた人。俺を作ってくれた人。あの人の話を、しなくてはならない。
あの人は今でも、俺の真ん中にいてくれる。これからも、ずっとそうだ──そんなことを、俺はあいつに語った。この話をするのは初めてのはずだが、俺の口はなめらかに言葉を紡いだ。まるで、何度となく、繰り返してきたかのように。
「──羨ましいな」
話を聞き終えたところで、あいつはぽつりと呟いた。いつものように柔和な表情で、こちらの思い出話を聞いてくれるものと思ったが、その声は、どこか寂しげだった。遅れて、俺は、こいつにこんな話をすべきではなかったかもしれない、と小さな後悔を覚えた。あるいは、罪悪感といってもよかった。
同じように、帰るべき場所も何も持たない者同士とはいえ、俺には、あの人という、確かで大きな存在がある。対して、こいつはどうだろうか。こいつには、辛いとき、思い出して勇気付けられるような、迷ったとき、指針に出来るような、胸の内で敬愛し、慕い続けられるような、そんな相手が、いるのだろうか。
少なくとも、俺の知る限り、こいつにそんな過去はない。否、俺は、こいつの過去を何も知らない。こいつは、何も語らない。思い出話をしたがる俺とは違って、ただ、こちらの話を静かに聞いて、興味深そうにしたり、面白がったり、痛ましげにしたり──羨ましがったりと、反応してみせるだけだ。
語りたい過去がない──それだけで、何も訊かずとも、察することが出来る。
実の父に虐げられ、恩人を為すすべなく殺され、こんなところまでやってきてしまった俺の過去というのは、客観的にいって、恵まれたものではない。だからこそ、あの人の下で過ごした日々、そのひとつひとつの記憶は、かけがえのないものとして感じられる。これさえあれば、俺は俺でいられる。他の何も、要らないほどに。
目の前にいる、こいつには、それがない。拠り所となるものを持たない。
過去がない──それでは、何によって、こいつは、かたちづくられるのだろう。
羨ましい、とあいつは言った。そういう存在を、こいつ自身も求めているという証だ。身寄りのないこいつにとって、一番近く、親しい相手というなら、俺ということになる──しかし、俺がその役目を担ってやると、請け負うことは、できなかった。俺は、そんなことができるほどの男ではない。あの人のようになるには、ほど遠い、未熟で、いい加減で、弱く、愚かな人間だ。とても、こいつに道を示し、手本となってやれるような器ではない。
だから、俺にできるのは、お前だっていつか、そういう特別な相手に出逢って、そんな風になれるさ、という、どこまでも当たり障りのない、他人事めいた励ましを与えることだけだった。こんなのは、姑息なその場しのぎにすぎないという、内なる声には、気付かない振りを装った。
「ああ。なりたいものだね──本当に」
手元に落としていた視線を、あいつは上げる。金色の眼が、まっすぐに俺を射抜く。そんなはずもないのに、俺は、まるで糾弾されているかのような心地がした。糾弾──いったい、何を、こいつが、俺に。
あいつは、ゆっくりと口を開く。
「でも、幸せな思い出は、辛い記憶と表裏一体だ」
こいつの言うとおりだった。俺は、忌まわしい過去との対比によって、ますますあの人の存在の大きさを実感し、際立たせ、理想化し、崇拝する。輝かしいものを存分に愛でるためには、よりいっそうの、深い闇が必要だ。
「過去を思い出してばかりいるのは──辛いんじゃないかい」
それは──と、声を紡ごうとして、俺は、うまく喉が動かないことに気付いた。声の出し方を、ふっと忘れてしまった。
否、そもそも俺は、ここまで、この喉を使って、何かを喋っていただろうか。妙だ、感覚が混乱している。ひとまず、喉を潤すべく、テーブルの上のレモネードに手を伸ばす。しかし、そこにはカップも、どころか、テーブルすらも存在しなかった。あるのは、ただ闇と、互いに向き合う俺たちだけだった。

あいつは、畳み掛けるように続ける。
「今、この現在に意識を向けていない限り、君は過去に引き戻されてしまう」
「ここから、いなくなってしまう」
「僕の傍から、いなくなってしまう」
「一緒にいたいのに」
「一番近くに、いたいのに」
「君の中に常に存在するために、僕はどうしたらいい?」
「どうしたら、君を──」
あいつの声が、鼓膜を通さずに、俺の内に直に響く。それで、俺はようやく、状況を理解した。同時に、すべてを思い出した。あいつはもう、いない──俺が知っている、あいつは。
ああ、これは幻覚だ。あいつは俺の前から去った後も、こうして現れては、俺を翻弄する。
忘れるなと、糾弾するように。
俺の思考を、支配しようとする──否。
俺の脳が、あいつを蘇らせるのだ。たとえ、こんなかたちでも良いから、あいつの姿を見たいし、声を聞きたいと、どうやら俺は、欲しているらしい。馬鹿なことだと、自分でも思うが、どうしようもない。
考えまいとするほどに、意識してしまう。思い出すまいとするほどに、蘇らせてしまう。見るまいとするほどに、直視してしまう。聞くまいとするほどに、耳を傾けてしまう。近付くまいとするほどに、俺は自ら、足を踏み出してしまう。
これから、あいつが何を語るのか、知っている。俺はそれを、ただ受け容れることしかできない。贖罪などという、きれいなものではない。こんなのは、ただの空しい自慰で、自罰で、自己満足だ。救いようがなく──終わることもない。
なすすべなく、ただ見ていることしかできない、俺の前で、あいつは悠然と脚を組み替え、頬杖をついた。
「死ねば、誰でも、永遠になれる」
「君に殺されてみようか? でも、それじゃあ駄目だ」
「君はもう、殺しすぎている。彼らと、同じになってしまっては、意味がない」
「何をもってすれば、僕は勝利できる? 君が今なお囚われている牢獄から解き放ち、僕の城に招待できる?」
「なりたいよ──明智君。そんなにも君の頭を一杯にする、君という人間に深く刻み込まれた傷痕、それを凌駕するものに、僕はなりたい」
あいつが、羨ましがって、欲したのは、俺にとってのあの人のような、大きな精神的支柱を持つこと、ではなかった。あいつには、そんなものは必要がなかった。
そうではなく、あいつが求めたのは、あの人に代わって、俺を占有することだった。俺の、すべてになることだった。俺の頭を、一杯にしたいのだと、あいつは最後に、そう言って、俺のもとを去ったのだ。
「君を助けたいから」
「君が大好きだから」
「もっと強い刺激が、君には必要だ」
「何もかもを忘れられるくらい、強烈な」
「僕をもってしか、与えられない」
刺激を──そう言って、お前は。
お前は俺を、弄んで、おもちゃに──
「それは、君のほうだろう」
声にならない、俺の声を拾い上げて、あいつは当然のことのように、そう言った。金色の眼で、じっと俺を見据えて、もう一度、はっきりと繰り返す。
「君が、僕をおもちゃにしたんだ」
「悪人である──君が」
告げる声は、内容に反して、淡々と落ち着き払っていて、いかなる憎悪も、憤怒も、非難も感じさせるものではない。俺を悪と断じながら、あいつは俺に、罰を下さない。償いを求めない。救いを与えない。
そんなものでは──済まされないと、教えるように。

あいつは、ふっと表情を緩めた。親しげな微笑を浮かべて、問い掛ける。
「僕は、良いおもちゃだっただろう?」
違う。おもちゃなんかじゃない。俺にとって、お前は、そんなものじゃない。
懸命な弁明は、しかし、あいつには届かない。
「良いんだよ。僕は、君のものなんだから。君の好きにして良いんだ。それで、君が楽しんで遊んでくれるなら、僕も嬉しい」
ねえ、明智君、とあいつは、何度繰り返したか分からない、その名を呼んだ。甘やかで、心地良い、その声の響きは、今となっては、俺を抉るものでしかない。
「過去を捨てて、環境を捨てて、自分を捨てるために、ここまでやってきたのに。どうして僕に、その名前を名乗ったの? どうして、ご丁寧にも、過去を語って聞かせたの? 矛盾しているじゃないか」
「捨てるつもりなんて、本当は、なかったんだろう?」
「君は、おもちゃに向かって話しかけて、満足していたんだ。鏡の中の自分と、お喋りするようにね。僕は──良いおもちゃだっただろう? がらんどうで、白くて、汚れひとつない、君いわく『きれいな』僕は、さぞかし、都合の良い投影をするのに、勝手が良かっただろう? 僕は、それに、うまく応えただろう? 君を愉しませて、満足させただろう?」
やめてくれ──俺の罪を糾弾するのは、構わない。ただ、お前が自分自身を、そんな風に言うのは、堪え難い──やめてくれ。
俺の叫びも空しく、あいつは緩く首を振った。
「けれど、それもそろそろ、飽きてくる頃だ」
分からない、どうして、そんなことを言う。
ようやく、お前のことが、分かり始めてきていたのに。俺たちは、理解り合えていると、そう信じていたのに。
そんな俺の哀れな訴えに応えて、あいつは、物分かりの悪い生徒を窘めるように、優しげに言って聞かせる。
「理解られてしまったら──君を、もう、楽しませられないじゃないか」
「後はもう、飽きられるだけじゃないか」
ヒトは、刺激に慣れるものだ──あいつは、かつて、そう言った。どんな刺激も、繰り返して、慣れて、当たり前になって、感じなくなっていく。存在しないのと、同じになる。刺激であり続けるためには、変わり続けるしか、ないのだと。
「飽きたおもちゃは、捨てられる。その前に」
──ああ。
やめてくれと、叫びたいのに、喉が動かない。耳を塞ぎたいのに、腕が上がらない。決定的な、その瞬間が、近付きつつあるのを、止められない。俺は無力に、膝を折って蹲る。
知っている。
そうやって、あいつがどういう結論に達したのか、知っている。
やめてくれ、もうたくさんだ。いったい、何度、繰り返せば良い。どれほど、見せつけられ、思い知らされれば良い。
あいつを、失うのは──もうたくさんだ。
「だから、僕は、明智君から僕を奪うよ。君はいつも、失って、傷ついて、その埋め合わせに、刺激を求めて、気を紛らわせる。僕を失って、君は、僕を求めることになる──狂おしいほどに」
膝をつく俺を前に、あいつは静かに席を立った。一歩を踏み出し、悠然と俺を見下ろして告げる。
「僕という刺激なくしては、君はもう、生きられない」
そうやって──そのために、お前は。
俺のためになら、どんなこともすると、そう言っていた、お前は。
「何をもって、君は僕を規定する? この姿、この顔、この眼、この唇、この声、この指、この髪──」
ひとつずつ挙げながら、あいつはしなやかな手で、愛撫するように己を辿る。細い指先を反らして、煽るように、ゆっくりと見せつける。その薄い肩を抱き、首をなぞり上げ、愛しげに頬を包む。扇情的に唇を辿り、髪を解き、胸を撫で下ろして、感じ入った吐息をもらす。
「ねえ──明智君」
気だるげに首を傾げると、肩を滑り落ちる黒髪を、あいつは指先に絡めた。黄金の瞳が、俺を見据える。何もかもを、見透かす眼が。その眼から、俺は──逃げられない。
「──そうか」
小さく頷いて、あいつは呟く。
「じゃあ、それを奪おう」
何気ない仕草で持ち上がった、あいつの手の中には、細身のタクティカルナイフが、硬質の輝きを放っている。白銀の刃を、あいつは躊躇いなく、自らの頸部に沿わせる。あたかも弦楽器に弓を滑らせるかのような、優雅ですらある手つきで刃が引かれ、その薄い皮膚が切り裂かれ、精確に頚動脈を断ち切り、白い顔が染め上げられる──そんな光景が、容易に眼前に浮かぶ。
しかし、あいつは小さく笑ってみせた。
「違うよ、明智君。刃物は、斬るのではなく、刺し貫くもの──もっとも、それは人殺しのための技術だから、僕には関係ないことだけれど」
僕は、絶対に、人は殺さない──そう言って、あいつは手首を返した。触れるばかりに近寄せられていたナイフが、あいつの頸部を離れる。あいつは、長く艶やかな黒髪を、もう片手で梳くと、毎朝そうして身支度するときと何も変わらない、慣れた所作で、まとめて掴んだ。違うのは、そこで奴の唇が、禍々しい微笑を刻んだことだった。
驚くほど無造作に、ぐ、とあいつは掴んだ黒髪を引く。白い喉元が大きく反らされ、そして、刃が振り翳された。

──繊維の切り裂かれる音。
白い指先が、ゆっくりと開いて、滑り落ちる、断ち切られた、しなやかな長い髪が──音もなく。
水のように──あるいは、血のように、滴り落ちる。根本から断ち切られた、あいつの自慢の黒髪は、もはや、あの見事な色艶を失って、足元にわだかまる。風に千切れ、地に舞い落ち、朽ち果てるばかりの花弁を思わせた。
「──良い顔だね。明智君」
愉悦を含んだ声に、俺はのろのろと視線を上げる。俺の知らないあいつが、そこにいた。
しなやかな肢体を包む、深緋に白蛇を染め抜いた裾の長い衣装。長髪を断ち切り、晒された細い頸部は、いよいよ白く、落ち掛かる髪もまた、見事に色素が抜けきっていた。悠然とした態度で俺を見下ろす、あいつはきれいに指先を反らした片手で、仮面のように目元を覆い隠し、黄金の瞳を読ませない。その唇が、美しく歪められていることだけが分かった。
あいつの顔が──分からない。
こいつは──誰だ。
俺の知らない、そいつは──俺の知らない姿で佇み、俺の知らない声で、俺の知らない台詞を紡ぎ出す。
「僕は、君のおもちゃにはならない」
「僕は、君の救い主にはならない」
「僕は、君の下僕にはならない」
「僕は、悪にはならない」
「僕は、善にはならない」
「僕は、『あの人』にはならない」
「僕は、『君』にはならない」
「僕は、『僕』にはならない」
「僕は、──何者にも、ならない」
「だから、ねえ」
音もなく膝をついた、奴の白い手が、俺の頬を優しく包み、上向かせる。色素の欠落した髪の下、金色に光る瞳が、一瞬にして、俺を絡め取る。およそこの世のものとは思われない、白皙の美貌を前に、ぞくりと戦慄が背筋を走るのを感じた。愉悦のかたちに美しく唇を歪めて、そいつは首を傾げてみせた。肩をしなやかに滑り落ちる、長い黒髪を幻視する。
そんな俺に、奴は慈愛さえ感じさせる微笑を浮かべて、耳朶を含むばかりに顔を寄せる。研ぎ澄まされた歯牙が──突き立てられる。甘い毒が──流し込まれる。
「──楽しく、やろうじゃないか。明智君」

──悪夢。
いったい、何度、見せつける。
何度も、繰り返し、俺からあいつを奪い続ける。
醒めることを、終わることを、許さない。
過去を捨て去ることなど──結局のところ、決して、できないのだと。
あいつは、自分自身の存在でもって、俺にそれを教えた。

あいつを、誰も、救えない。
あいつを、誰も、満たせない。
白く、きれいで、がらんどうの。
あいつは、いったい、何によって満たされる。
あいつがいるだけで、俺は満足だった。
しかし、あいつは、それでは満足できなかった。
俺は、奴を満足させてやることができなかった。

あの頃より、あいつが少しでも、満たされたようには思えない。
あいつは、まるで──変わらない。
何を得ることも、何を失うこともなく。
白く、きれいで、がらんどうのまま。
恐怖も。憎悪も。悲哀も。
狂気さえも、きっと、あいつは知らない。
知らないから──純粋に、飽くなき渇望で、愉悦を追い求める。

俺を追い続けるのは──それが、唯一の可能性だから、なのか。
あいつの世界を、変えてやれるのではないか。
あのときのように。
あるいは──終わらせてやることが、今度こそ。

変えられないのならば、終わらせるしかない。そんな救いのない結論は、できることならば、出したくはなかった。
だが、もう、分かってしまっている。救いなんてものは、存在しない。少なくとも、俺の手の内には。
あいつを、捉えておけなかった──この手には。

暗闇に蹲るとき、目の前に差し出された手は、光に縁取られて、とても強く、優しく見えるものだ。しかし、そんなものに、縋るべきではない。
俺も、あいつも。
そんなものに、縋っては──いけなかったのだ。

あいつを温かく包み守ってやれる手を、俺は差し出すことができなかった。
かわりに、俺は、振り下ろした。
幼子の痩せた背中に、打ち下ろされる、冷たく重いガラスの灰皿。骨が砕けるかという、その痛みを、俺は身をもって知っていたはずなのに。
傷つけられた分だけ、誰かを救えるはずだと、あの人は言ってくれたのに。
俺は、あいつを救えずに。
あいつを、壊した。




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