Bright star -3-











Bright star, would I were stedfast as thou art--
Not in lone splendour hung aloft the night
And watching, with eternal lids apart,
Like nature's patient, sleepless Eremite,
The moving waters at their priestlike task
Of pure ablution round earth's human shores,
Or gazing on the new soft-fallen mask
Of snow upon the mountains and the moors
No--yet still stedfast, still unchangeable,
Pillow'd upon my fair love's ripening breast,
To feel for ever its soft fall and swell,
Awake for ever in a sweet unrest,
Still, still to hear her tender-taken breath,
And so live ever--or else swoon to death.

(John Keats)



よく誤解されることではあるが、命を懸けて取り組んできた仕事の割には、傭兵の報酬というのは、そう高いものではない。華々しい経歴を持つ、元特殊部隊の精鋭ともなれば、話は別であるが、俺のような何者とも知れない、少々銃が扱えるだけの若造を雇ってくれるのは、だいたいが、正規軍をまともに組織することもままならない貧乏国ばかりだ。頭数を揃えるための便利な駒扱いといって、間違いではない。
ひと括りに傭兵といったところで、扱う任務の幅が広すぎるから、ごく一部の華々しいイメージばかりが先行し、齟齬を生むことになる。一部の突出した有能なる者たちには破格の待遇が与えられ、その他大勢は名もなき捨て駒扱い──この業界に限らず、そうした構造は、いかなる職業を選択しようと、ついてまわることだ。情勢によって、雇用が安定しないことも鑑みると、祖国で真面目に会社勤めをしていたほうが、よほど金が貯まるだろう。とはいえ、別に俺は、金目当てでこの稼業を選んだわけではないし、扶養すべき家族を背負っているわけでもなく、なにより、ネクタイを締めたまともな社会人としてやっていける自信がこれっぽっちも存在しないので、現状に不満はない。
契約通りに現金で支払われた報酬を手に、当面の生活費を計算して、まあ良いんじゃないか、と俺は結論付けた。仕事が決まりさえすれば、基本的に現地での衣食住の面倒は見て貰えるわけであって、それが戦闘服とレーションと寝袋であることに目を瞑りさえすれば、そう悲観的になることではない。次の任務が決まるまで、二人でささやかな生活を送るには、十分な額だ。
二人──扶養すべき家族を持たない、と言った舌の根も乾かないうちに、何の疑問もなく、自分ともう一名を勘定に入れているとは、妙な話である。もちろん、相手は家族ではなく、俺には扶養の義務も何も存在しない。だいたい、受け取った報酬は、俺一人で稼ぎ出したものではなく、ちゃんと奴の働き分も含まれている。単純に、俺が財布を一元的に管理しているというだけのことだ。どうせ一緒に行動しているのだから、そのほうが面倒がないし、少なくとも俺は、こいつよりは現実的な金銭感覚を持ち合わせているつもりであるということで、そのようになった。はたして、この状況を指して、養っているという表現が適切であるかどうか、俺は判断するすべを知らない。そんな、曖昧なものである──俺と、物好きにも俺についてきている、あいつとの関係は。

久々に戻って来た一般社会の空気を味わうべく、俺はあいつを連れて、市場へ赴いた。ついこの間まで身を置いていた前線での物資不足具合が嘘のように、そこは食料品から生活雑貨まで、多様な商品を並べた露店が軒を連ね、人も物も活気に溢れていた。喧騒の中、あいつは物珍しそうに、きょろきょろと辺りを見回している。
「何か、買ってやるよ。食い物でも、新しい服でも、お前の欲しいもの、言ってみな」
普段、文句も言わずに俺に付き合ってくれている、こいつを労ってやるつもりで、俺はそう提案した。いつも我慢させている分、少々、奮発するのも構わない。こいつは、いったい、何を欲するのだろう、という純粋な興味もあった。そういえば、こいつの食い物の好みも、俺は知らないのだった。
「何でも良いの?」
あいつは軽く首を傾げて、俺を見上げる。金色の眼には、早くも愉快げな光が宿っていた。どうやら、もう候補は決まっているらしい。予算内ならな、と俺は念のため、釘を刺しておいた。まさかないとは思うが、高価な宝飾品をねだられでもしたら困る。
「じゃあ──あれが良いな」
白い指先が指したのは、露店に並ぶ商品の一つではなかった。その指は、しなやかに上がって、頭より高い位置を指している。まさか、太陽でも欲しがっているのかと、馬鹿げた考えを抱きつつ、その方向を辿った先、賑わいを少し離れた空き地に、一本の果樹があった。好き放題に伸びた枝に、小さな赤い実をいくつもつけている。俺は眼を眇めて、それを見遣った。
「……リンゴか? こっちに、もっといいのが売ってるぞ」
露店に積み上げられた木箱の中に並ぶ、赤や黄、緑と艶やかに実った何品種もの果実を、俺は指して言った。しかし、あいつは、緩く首を振るう。
「あれが欲しいんだ」
稼いだばかりの金を使わせるのが悪いと思って、遠慮しているのかとも疑ったが、どうもそうではないらしい。俺は首を捻ったが、しかし、こいつが珍しく、俺に何かをねだっているのだ。応えてやりたいと思うのは、自然なことだった。
「よし。ちょっと待ってろ」
俺は小走りに果樹に近寄り、周囲の状況を確認した。目標タイムは、30秒といったところか。あまりぐずぐずやっていると、人々に身咎められる危険も大きくなる。やると決めた以上、速やかに遂行するに限る。枝振りと、果実の位置関係を把握した上で、俺は数歩、後ずさった。
軽く助走して地面を蹴り、幹に駆け上がる。同時に、片手を伸ばして、手近な枝を掴んだ。勢いを殺さずに、身体を引き上げ、足場を確保しながら、登っていく。仕事でもないのに、何を真剣にやっているんだ俺は、と頭の片隅であきれつつも、身体は勝手に動いて、最適なルートを確保する。
揺れる葉の間から、こちらを見守るあいつの姿が、ちらと垣間見えた。見てろよ、と胸の内で告げて、俺は頭上へと手を伸ばした。どうせ取るなら、一番高い実が良いと決めていた。俺の手は、狙いを違わず、それを掴んだ。硬く、確かな手応えだった。
手首を捻って、それをもぎ取る。間近で見ると、陽が当たらない部分はまだ十分に赤く色づいてはいないし、鳥がつつきでもしたか、表面の傷も目立つ。これでは売り物にはなるまいが、しかし、たっぷりと陽を浴びて赤く染まった天辺の果皮の色艶は濃く、力強さを感じさせるものであった。
さて、用が済んだら、とっとと撤退だ。戦利品を片手にしっかりと掴んで、俺は地面に飛び降りた。幸い、こちらに注意を向けている人間はいないようだった。30秒は必要なかったな、と任務遂行に要した時間を反射的に振り返ってしまうのは、職業病というやつだろう。
「ほら」
目の前に差し出してやると、あいつはお疲れ様、と言って、嬉しそうに微笑んだ。細い両手で、俺の手ごと、リンゴを包み込む。そして、果実を取り上げる──ものだと、俺は当然のように思ったのだが、それは間違いだった。あいつは、欲しがった果実を、俺の手から取り上げることはしなかった。俺の手に、赤い実を握らせたまま、あいつは静かに、そこへ唇を寄せたのだった。
艶やかな果皮と比べても遜色のない、鮮やかに赤い唇で、口づける。みずみずしい音が、小さく鳴ると同時に、あいつが歯を立てた感触が、手の中に伝わった。その明瞭な感覚に、俺は、反射的に腕を強張らせた。行儀が悪いぞ、と注意してやるのも忘れた。
薄い肩を滑り落ちた黒髪が、俺の指先を掠めてくすぐる。あいつは首を軽く傾げて、また一口を小さく齧る。しゃり、しゃりと、音は骨に軽やかに響く。まるで、俺の指が先端から食われているような、妙な感覚だった。
そういえば、雪のように白い肌をした黒髪の美姫が、毒リンゴを食う童話があったなと、あいつの長く艶やかな髪を眺めながら、俺は雑な連想をした。まあ、こいつに限っては、毒にあたるというのは想像し難い──むしろ、こいつが毒する側だ。リンゴを食わされようと、錘に刺されようと、大人しく眠りに落ちるような玉ではない。
そんな俺の内心の失礼な感想をよそに、あいつは、眼を伏せて、ゆっくりとそれを咀嚼する。
「……どうだ?」
収穫してきた人間として、気になる点を、俺は一応問うた。あいつは、こくりと喉を鳴らして果肉を呑み込むと、唇を小さく綻ばせた。
「おいしいよ──明智君も、食べて」
誘われるままに、俺は、リンゴを口元に引き寄せた。こいつが美味そうに食べる様子や、鼻先をくすぐる爽やかな香りに、実は少々、食欲を刺激されていたところだった。とりあえず、奴の反対側から、俺は果実を齧ってみた。皮は厚めで、なかなかに張りがある。
どれどれ、と奥歯で咀嚼するなり、俺は思わず、眉を顰めた。その味は、正直いって、俺の知るリンゴとは、だいぶ違っていた。食用の品種ではないのだろう、甘みはほとんど感じられず、渋みと酸味が口の中を支配する。水っぽい食感は、喉を潤す役に立ちこそすれ、決して食欲をそそるものではない。爽やかな香りは良いだけに、味との落差がより顕著に感じられる。不味いというほど主張があるわけではないが、だからといって、好きこのんで食べるような代物ではないのは、確かだった。
今からでも、店でちゃんとしたものを買ったほうが良いのではないかと、俺は提案しかけたが、これを美味いと表現した、あいつの満足げな顔を見ると、それも躊躇われた。なにより、市場に並んだ商品ではなく、俺が取ってきた果実を求めた、こいつのささやかな願いを、ほらやっぱり無駄だったじゃないかといって、否定するようなことはしたくなかった。他のなにより、これがいいと、こいつがそう言うのなら、俺はいくらでも、木登りしてやって構わない。
結局、俺たちは適当な石段に腰掛けると、二人でその実を食しきった。最後まで、それは俺の手の中に握られていて、俺は一口齧っては、並んで腰を下ろすあいつに差し出した。あいつは俺の手を大切そうに包んで、眼を伏せ、少しずつ果実に口をつける。しゃり、と実の削れる小気味良い音と、かすかに手の中に伝わる感触を、俺はゆっくりと味わった。
そうしながら自然と、もう片手でもって、あいつの頭を撫でようとしかけている自分に気付いて、俺は苦笑した。いつの間にか、猫に餌をやりでもしているような気分にさせられていたらしい。まあ、当たらずとも遠からずといったところだろうか。一応は、形式上、俺はこいつを養っていることになっている。しかし、保護者、あるいは言い方は悪いが、飼い主といった立場で、何らかの責任を負っているわけではない。こいつは、今はたまたま、俺についてきているだけであって、いつふらりと姿を消そうとも、またひょっこり帰ってこようとも、こちらの関知するところではないと、俺はそのように解釈している。
気まぐれな野良猫に、時折餌を与え、適当に遊んでやったり、柔らかな身体を撫でさせて貰ったりして、無責任に愛玩する感覚に近い。もちろん、こいつは間違っても愛玩動物などという可愛らしいものではないし、遊ばれているのは、むしろ俺なのではないかと思わされることも、多々あるのだが。
リンゴはもう芯を残すばかりとなり、このままでは俺の手まで食われかねないような気がして、俺はあいつに差し出していた手を引き戻した。あいつは少し名残惜しそうな顔をしていたが、小腹が満たせたことには満足したらしく、指先で軽く唇を拭った。
「ごちそうさま」
言って、微笑む、その唇は、今奪ったなら、きっとみずみずしく爽やかで、少しだけ甘い、果実の味がすることだろう。要するに、俺の口の中の現状と同じだ。同じ実を分け合い、口にしたのだと、改めて実感する。なんだか妙な気分になりかけて、俺は頭を振った。
野生のリンゴ1個を仲良く分け合って、生きていけるのであれば、それに越したことはないだろう。しかし、残念ながら、そうはいかない。この世界は、1個しかないリンゴを奪い合って、とめどない争いを繰り返す。分かっている──いやというほどに。
「──明智君?」
どうしたの、とあいつは俺を見上げて問う。何でもねぇよ、と俺は応えて、天を仰いだ。穏やかに晴れた空、一点の陰りも存在しない、遠い蒼に、眼を細める。
分かっている──俺がいるべき場所は、こちら側ではない。俺は、リンゴを分け合える人間ではない。だから、今だけだ。次の仕事が舞い込むまで、暫しの間だけだと言い訳して、この穏やかに流れる時間に、俺は身を委ねた。



「──そのとき不思議と、銃声が、まったく聞こえなくなってな。俺は、自分が何発撃ったのかも、覚えちゃいなかった。ところが、確認しに行ってみたら、俺は見事に、全弾を敵の頭と上半身に命中させてた。よくあの状況で、と思うところだが、圧倒的不利なあの状況だからこそ、全神経を総動員して、無意識にやってのけることができた。それができる奴ってのが、生き残っていくわけさ」
その男は、対ゲリラ戦での武勇伝を、得意げに語って聞かせた。酒も入っていることであるし、だいぶ話を盛っていることは間違いないが、情報は仕入れておくに越したことはないという考えで、俺はそいつの自慢話に耳を傾けていた。同じような状況に陥った際、予備知識があるのとないのとでは、その後の行動、ひいては生存率に大きな差異が生じる。
過大なストレスの掛かった、極限の戦闘状態において、選択的感覚抑制──優先度の低い感覚が遮蔽され、生存に関わる重要な感覚の処理にのみ、自動的に能力を割く現象が起こることは、知識としては俺も知っているが、実体験を語って貰うほうが、予行演習としてはより効果的だ。そいつの体験を追体験することで、戦場経験を少しでも積み上げておきたいと願うのは、実績と信頼が重視される、この稼業の人間にとっては当然のことだろう。
今回の作戦から同じ部隊に組み入れられた、その傭兵は、俺が軍歴もなくこの世界に飛び込んできた若造であることを知ると、得意顔で己の経歴を披露し始めたのだった。何事も勉強であるという考えから、俺が大人しく聞いていることで、更に気を良くしたらしく、他の奴らが寝床に引き上げるべく去った後も、こうして俺だけ、付き合わされている次第である。
そろそろ酒も尽き、篝火も小さくなってきた。自慢話がひと段落したら、俺も引き上げさせて貰うとしよう。
そんなことを考えていると、男は、ふと思い出したとでもいうように、そういやあの黒髪のガキ、と、俺の連れであるところのあいつの話題を出した。
「お前ら、いつもつるんでるよな。仲睦まじいことだ」
別に、いつもつるんでいるわけではない。実際、あいつは今夜も、例によって、ふらりとどこかへ行ってしまって、この場にはいない。ただ、気まぐれな散歩で姿を消すとき以外には、ほぼ俺の隣にいるというのは事実なので、はたから見れば、常に行動を共にしていると思われても仕方がないだろう。お互いに、この距離感が当たり前になってしまっていて、心地よいと感じるから、特に改めるつもりもなかった。
「まあ、それなりに長い付き合いなもんで……」
あいつとの馴れ初めや、生い立ちを語る羽目になるのはごめんだったので、俺は適当な返事をしておいた。そうかい、と言って、男はついでとばかりに、付け加える。
「寝床の中でも?」
は、と俺は思わず、聞き返しかけた。それだけ、予想外の問い掛けだった。遅れて、相手が何を言いたいのかを、理解する。理解した瞬間に、溜息が出そうになるのを、かろうじて堪えた。
「……参ったな、そんな風に見えてたのか。俺とあいつは、そんなんじゃねぇよ」
頭を軽くかきながら、俺はそう答えを返した。
ただ一緒にいるというだけで、そういった仲であると短絡的に結び付けたがる思考というのを、俺は好かない。そういう関係だから、というのが、まるで絶対的なオールマイティのカードであるかのごとくに掲げられ、何もかもを勝手に説明付けされるのは、不愉快ですらある。別に、恋愛感情があるから行動を共にしているわけではないという、当たり前のことすら、いちいち表明しなくてはならないものだろうか。
そんなものではなく──それでは、何なのかと、説明しようとして、俺は何も言葉を見つけられなかった。あいつと俺の関係を、何と言って表せば良いのか、咄嗟に、候補となるものが思い浮かばなかった。
友人──ではないと思う。家族のようなもの──でもない。師弟──確実に違う。相棒──間違いではないが、本質とは違う。極めて、親密で、個人的でありながら、致命的に遠い、この距離感を、何と呼ぶのか、俺は知らない。
黙り込む俺に構わず、男は、なるほどと愉悦の表情を浮かべる。
「へぇ。なら、遠慮は要らないよな」
「は?」
話を読めずにいる俺に、男は、察しが悪いと責めでもするように、やれやれと首を振るった。それから、ずいと身を寄せて、声を潜める。
「一晩、拝借しても、構わないってことだ」
「……そんな、物みてぇに……」
ああ、どうやらこいつは、俺の相棒に気があるらしい。それで、まずはこちらに探りを入れようということだな、と俺は理解した。
外見だけで言うなら、むさくるしい野郎どもの中にあって、ちょっと目を引くくらいに整った奴であるから、男女問わず好意を寄せられるのは、そう驚くべき話ではない。ただ、その他に色々と問題のある人間であることも確かだから、言い寄ろうとする物好きは、交流のある傭兵仲間内にはそういない。この男は、そういった情報を得ていないか、あるいは、知った上で、わざわざ手を出そうというのだろう。物好きの鑑である。
別に俺は、あいつの保護者でも何でもない。俺には関係のない話だ、当事者同士で勝手にしろ、と思いつつ、正直なところ、あまり良い気分はしなかった。
男の口ぶりから、相手に対する敬意や親愛の情の類を、少しでも見出すことは出来なかった。あいつに興味を抱いているらしいのだって、物珍しさからであって、一夜の遊びといったニュアンスが強い。何であいつが、そんな遊びに付き合ってやらなきゃならないんだ、と俺は部外者であるにも関わらず、理不尽な心地にさせられた。
一応、あいつに俺なりの倫理観を説教した実績のある身としては、惚れた相手でもない奴と、あいつがそういう──どういうのか、詳しくは知らないが──行為に及ぶという事態に、好意的になれないというのは、当然のことだろう。あいつが、暇つぶしのおもちゃとして消費されるのを、歓迎できるわけがない。
第一、相手はまだ子どもだ。一人前に傭兵をやっているとはいえ、本来ならば、社会的に保護されてしかるべき、未熟な存在だ。人の趣味嗜好に口出しするつもりはないが、そんな相手に、欲望を隠しもせずに向けるのは、いかがなものだろうか。年少者を守り、道を誤ることのないよう導いてやるのは、仮にも人生の先達としての勤めであると、俺は思う。実践できているかと問われると、答えに窮してしまうのだが、少なくとも、そう心がけてはいるつもりだ。目の前にいる野郎とは違う。
もっとも、俺がこんな風に義憤を覚えたところで、あいつは感銘を受けて感謝するどころか、さも傑作の冗談を聞いたとでもいうように、大笑いするに違いない。残念ながら、あいつはそういう奴だ。だから、これは俺の勝手な理想の押し付けであるに過ぎない。俺が、あいつに軽率に、そういう行為に及んで欲しくないだけのことだ。身勝手だとは分かっている、しかし、だからといって、知ってしまった以上、見過ごすことはできなかった。
などと、思考に没頭していたのが、良くなかった。隣の男は、親しげに俺の肩に手を掛けた。いったい何のつもりだ、こいつは。訝しむ俺に、男は近すぎるんじゃないかというくらいに顔を寄せた。よく鍛えられた肉体の密着する感覚が、非常に居心地悪い。俺は身じろいで距離を取ろうとしたが、それを許さないというように、しっかりと肩を抱き込まれる羽目となった。
何なんだこれは、と混乱する俺の耳元に、男は囁きかける。
「なあ──どうだ?」
低く囁かれて、反射的に、背筋が震える。遅れて、その意味を理解するや、じわりと嫌な汗が滲んだ。
「いや、……俺は、そういうのは、ちょっと」
乾いた喉を湿らせて、かろうじて、それだけ口にする。予想外の事態に、まだ頭がついていけない、自分が情けない。どうやら、俺の推理ともいえない思考は、最初の段階から、とんでもなく大きな間違いを犯していたらしい。あいつが手出しされないようにと、心配をしている場合ではなかった。手出しされるのは、まさかの俺のほうだった。何でそうなる、と胸の内で空しく叫んだ。
どうだと訊かれても、考えるまでもない。答えはノーだ。あいつにも説教したことだが、そういうのは、惚れた相手とするものだ。近場から適当に見繕って、するものではない。という俺の考えは、しかしどうやら、ここでは少数派のようだった。
なにしろ不慣れな場面だけに、相手を刺激せず穏便に済ませようと、曖昧な態度を取ったのが、良くなかった。悲しい日本人気質というものだろうか。相手はどうも、これは脈があると判断したらしい。そんなものはない、と一発殴れたら、どんなに良かっただろう。
「なに、遠慮するな。すぐに、その気になるだろうよ」
怖気の走る台詞を吐きつつ、男は俺の腰の辺りに腕を回す。その自信は、いったいどこから来るんだ。おそらく、根拠がないことではないのだろう。想像したくはないが、それなりの実績があるものとみえる。だからといって、それを体験してみたいとは、決して、微塵も思わない。
いい加減にしろと、俺は奴の腕を振り払い、突き放す──ことが、できなかった。相手が民間人であれば、それは容易かっただろう。しかし、ここにいる連中は、誰もが実戦経験豊富な戦闘のプロフェッショナルである。素手であろうと、さりげなくも的確に相手の自由を奪い、制圧する術は、お手のものだ。そんな技術を、こんな場面で活用してくれるな、という俺の心の叫びは、どうやら届かなかったし、残念ながら、俺が奴を凌駕する格闘術の遣い手であるなどという、都合の良い背景は存在しなかった。
これは──まずいんじゃないか。
非常にまずい。
遅まきながら、そろそろ俺が身の危険を覚え始めた、そのときだった。
「──おや。ここにいたんだ、明智君」
澄んだ声が、耳を打った。状況にまるでそぐわない、落ち着き払った声音。それを聞いて、心身を支配していた焦燥が、ふっと遠のくのを感じた。無駄に昂ぶっていた神経が、鎮められていく。清涼な水面に、そっと浸されたように。心地よい冷ややかさが、意識に流れ込む。
顔を巡らせて、確かめるまでもない。闇に紛れるようにして佇む、細い影を、篝火が照らし出す。揺らめく火を、金色の瞳に映して、あいつはまっすぐに、こちらを見据えていた。
絶妙なタイミングで姿を現した、あいつに一瞬、男が注意を奪われるのを、俺は見逃さなかった。一応は仲間なので、顎に拳を叩き込むわけにはいかないという配慮の下、肘打ちで穏便に腕を振り払わせて貰った。
小さな舌打ちが鳴る。意図を妨げられた苛立ちを、男は、隠しもせずにあいつへと向けた。
「見ての通り、取り込み中だ。ガキはとっとと帰んな」
「それは、邪魔をして悪かったね」
少しも申し訳ないと思っていなさそうに応じる、あいつは屈強な男を相手に、およそ気圧された様子がない。踵を返すどころか、逆に、散歩の続きといった風情で、こちらへ歩み寄ってくる。黄金の瞳で、まっすぐに男を見据える、あいつは何も言わなかったが、相手はそれを、生意気な挑戦的態度と受け取ったらしい。荒々しく立ち上がると、頭一つ分高い位置から、あいつを威圧的に見下ろす。
「何か文句でもあるのか? お前、こいつの恋人気取り──」
今にもあいつの薄い肩を掴みかける、男の揶揄は、そこで途切れた。否、塞がれた。物理的に──唇によって。
実戦経験豊富な傭兵をして、対応する暇も与えない、完全な不意打ちといってよかった。散歩の続きといった風情で近付いてきた、あいつは、同じく、その自然な帰結というように、最後の一歩分の距離を詰め、躊躇いなく、男に口付けたのだった。背伸びをして、下から押し付ける。その柔らかく、みずみずしい弾力を、教えてやるように、繰り返し。
男が思わず後ずさりかける、それより先に、伸ばされた白い手が、その頬を包み込んでいる。愛しげに顔を引き寄せ、逃れることを許さない。少し首を傾げた、あいつの髪が、肩をさらりと滑り落ちた。離れかけるとみせて、角度を変えて、いっそうに強く、深く、押し当てる。片腕はなめらかに男の肩を回り、頭を情熱的に抱き寄せる。
はぁ、と悩ましげに息を継ぎながら、あいつは惜しげもなく、真っ白な喉元をさらして仰け反った。男はそれを追い掛け、貪るように食いつく。濡れた唇が、男のそれを受け止め、緩急をつけて重なり合う度、生々しい音が鳴る。上ずった声と、もどかしげな息遣いが、入り混じる。貪欲にうごめく、唇の狭間に、毒々しいほど真っ赤な舌が、垣間見えた。瞬きも忘れて、俺は、それを見ていることしか、許されなかった。
密着させていた唇、そして身体を、あいつがゆっくりと離しても、男は動かなかった。惚けたように、固まってしまっている。そんな男の耳元に、あいつは唇を寄せて、何事かを囁いた。それでようやく、男は我に返ったようだった。ぎこちない足取りで、その場を後にする、そいつがこちらを振り返ることは、最後までなかった。
「……何、やってんだ、お前」
淡々と、片手で口元を拭うあいつに、俺がやっとのことで掛けた声は、情けなく掠れた。自分でも、顔が強張っていることが分かる。よほどひどい顔をしていたのだろう、こちらを向いたあいつは、俺を見て、むしろ気遣わしげに問う。
「大丈夫だった、明智君? 気をつけないと──君は、人気者なんだから」
「そうじゃねぇよ!」
今さっきの行為の余韻を、微塵も伺わせない、いつも通りの態度を見せるあいつに、俺は思わず、怒鳴っていた。窮地を救ってくれた礼を、呑気に述べるつもりはなかった。こんな方法でなら、救われないほうが、まだましだった。
あたかも、出逢ったときの、路地裏での諍いの焼き直しのようで、しかし、状況はよりひどいといえた。今回、事の原因は俺にあり、こいつには何の落ち度もなく、あんなことをしなくてはならない必然性は、どこにもなかった。何より、好きでもない相手とそういうことをすべきではない、という説教を、こいつは一度、俺から受けている。その上で、俺の目の前で、あいつは躊躇いなく行為に及んだ。躊躇いもなければ、後悔も、反省もない。
分からない、と思った。どうして、平然と、そんなことができるのか、こいつが──分からない。
わけの分からないことをする、こいつに対する苛立ちと、こいつにそんなことをさせてしまった、己のふがいなさに対する怒りとが、ないまぜになった感情を、俺はぶつけた。奴は、俺の剣幕に怯むでもなく、首を傾げる。
「うん? ──ああ、大丈夫大丈夫。これは、違うから」
「違う、って、」
「惚れた相手とするやつとは、違うから」
それでもう、何も問題ないだろうとでもいうように、微笑する。俺が声を失っているのを、奴は、納得したものと解釈したらしい。悠然と髪を払うと、あたかも、作戦行動の伝達事項を読み上げるかのような調子で、あいつは続ける。
「とりあえず、彼には、僕で我慢して貰うとしよう。手近な相手なら、誰でも良さそうだから。さっきのも、気に入ってくれたようだし──僕が遊んでおいてやれば、わざわざ、君にちょっかいを掛けることもないだろう」
「お前、……」
何てことない、簡単なことじゃないか、とあいつは平然と言う。眩暈がするようだった。認識が、致命的に、ずれている。どうして、分からない。どうして、伝わらない。どうして、通じない。分からない──分かってくれない。
あいつの胸倉を、俺は衝動のままに掴んだ。意思の疎通を放棄して、勢い任せに、声を荒げずには、いられなかった。
「何、考えてんだ! 何でそこまでする、何のために、お前は、」
「何でかって? ──そんなの、決まっている」
君のためだ。
胸倉を掴まれながら、あいつは相変わらずの静かな眼で、じっと俺を見つめて、答えた。何も特別ではない、当たり前のことのように、淡々と紡ぐ。
「明智君を、助けたい──最初にそう、言ったじゃないか」
なんて──まっすぐな眼で言う。
ずっと、そうであったし、これからも、そうであるように、言い切る。他に、理由なんて、ひとつもないとでもいうように。それさえ叶えば、他の何に構うことも、ないというように。
俺の表情が凍りついていることに気付いてか、奴は、不思議そうに首を傾げる。黒髪が、肩を流れて、滑り落ちる。
「──喜んで、くれないの?」
そこで、俺は、確信させられた。
こいつは、本当に──馬鹿だ。
自分のことを、何だと思っているんだ。
俺なんかのために。俺を守ったって、仕方がないのに。
こいつは、馬鹿みたいに、一途に、純粋に。
そうして尽くされても、俺はこいつに、何を返してやれるわけでもない。こいつも、そんな見返りを求めてはいない。俺のために行為することが、それ自体でもう、喜びであるとばかりに。それで、自分がどうなろうと、知ったことではないとばかりに。
それを、分かってしまったから、もう、怒鳴ることは、出来なかった。これ以上、俺の勝手を、押し付けることは、できなかった。掴んでいた胸倉を、のろのろと解放する。
正しいとか、間違っているとか。
許されるとか、許されないとか。
きれいだとか、汚いとか。
高潔だとか、卑劣だとか。
崇高だとか、低俗だとか。
正常だとか、異常だとか。
真実だとか、虚偽だとか。
善だとか、悪だとか。
こいつには、そんな評価軸は、存在しないのだ。そんなもので、こいつは測れない。こういう奴なんだと、俺は──はじめから、知っていたはずだった。
「どうして──君が、泣くんだ」
あいつの白い指先が、そっと、俺の顔に触れて、伝い落ちるものを拭おうとする。それを、俺は顔を背けて振り払った。触れれば、こいつの指を、濡らしてしまうからだ。こんなもので、汚してしまっては、いけないと思った。それくらいのことしか、出来ない自分が、嫌になった。
情けない姿を晒す俺を、あいつは笑うでもなく、慰めるでもなく、黙って傍にいてくれた。俺が何を泣いているのかは分からなくとも、どうやら自分の行動の何かが原因であるということくらいは、理解しているらしい。
目元を押さえて、一つ息を吐くと、俺は緩く首を振るった。
「お前が、自分をどうでもいいみたいに扱う、そんなのは……駄目だ」
「平気だよ。これくらい、なんでもない」
「俺は平気じゃない」
有無を言わせぬ口調で、俺は短く言った。あいつは口をつぐむと、じっと推し量るように、俺を見つめた。こちらも、視線を逸らさずに告げる。
「そうやって、俺に向ける気持ちと同じくらい、お前は、お前を大事にしろ。お前は、俺を大切だっていうけどな、……俺にとってのお前も、そうなんだってこと、覚えとけ」
どうして、もっと早くに、それを伝えておかなかっただろうか。否、俺自身、これまで明確に意識していなかった。今になって、ようやく気付いたのだから、こいつを責められる立場ではない。
俺には、こいつが──大切なのだ。
この上なく単純な、それが、答えだった。俺は、こいつを必要としている。誰かに奪われたり、傷つけられたりすることは堪え難い。あの日、こいつのか細い手を取り、あの場所から連れ出してやった、そのときから、決まっていた。
こいつは──俺のものだ。
俺は、こいつを守る。
恋人ではないから、友人ではないから、家族ではないから──だからといって、何だというのだ。そんなことは、考えるまでもない。俺たちは、俺たちでしかないし、それ以外の何になるつもりもなかった。
大切だ、という言葉の意味を、あいつがどこまで理解したのかは、分からなかった。そんなことを言われたのは初めてだというように、あいつは難しい顔をして、黙り込んでしまう。あまりに一足飛びだっただろうか──言わなければ分からないだろうと思って、言いはしたが、もっと他にうまい方法があったかもしれない。そんな反省をしつつ、俺はあいつが何か言ってくれるのを待った。
分かった、とあいつは最後に頷いた。
「君が、そう望むなら。僕は──そうなるよ」
それは、いつも通りの、淡々とした声で、何ら特別な感情を含んだものではなかった。ただ、それで、俺には十分だった。お前が大切だ、などと、聞きようによってはかなり重大な告白めいた台詞を吐いてしまったが、別に、それで感激して、泣いて喜んで欲しいと思って、言ったわけではないのだ。分かってくれたのであれば、それでいい。
大切、という意味を、たぶんこいつは、まだよく分かっていないのだろうが、それはおいおい、学んでいけばいいことだ。今のところは、こいつがこれ以上、自分をないがしろにするようなことを、しでかさないでいてくれるのであれば、俺はもう、何も望むことはなかった。
残された問題は、目下のところ、俺に言い寄ってきた、あの男だ。不意打ちの強烈な先制に、魂でも抜かれたか、あの場は立ち去っていったが、間違いなく、次の機会を期待している。こいつが俺の身代わりになるなんて事態だけは、避けなくてはならない。
しかし、あれだけ思わせぶりなことを、そもそも仕掛けてしまったのは、こいつなのであって──どうすりゃいいんだ、と慣れないことに頭を抱える俺をよそに、その原因を作ってくれた当の本人は、涼しい顔である。
「大丈夫。君は何も、心配しなくていいんだ」
「あのな、俺じゃなく、問題はお前の、」
「それも含めて」
何も問題ないよ、とあいつは微笑んだ。

そして、その通りになった。
次の夜を迎える前に、その男は、姿を消すこととなった。逃亡、あるいは戦死といった理由ではない。負傷による戦線離脱である。
自分の銃で自分の足を撃ち抜く馬鹿など、いるわけがないと信じたいのは山々であるが、残念ながら、不注意がそういった事態を招くことは、事実としてある。この小さくも致命的な武器を握る者の心構えとして、たとえ引き金に指が掛かっていなかろうと、たとえ弾が装填されていなかろうと、常に銃口からは銃弾が出ているものと思え、という忘れてはならない鉄則がある。ふざけ半分で誰かに銃を向けるのが言語道断であるのはもちろんのこと、保持したまま移動する際にも、ただ漫然とするのではなく、常にその先がどこを向いているのかに自覚的でなくてはならない。万が一にも、誰かを、あるいは自分を傷つける事態を招いてからでは遅いのだ。
などということは、百も承知であろう男が、仲間たちも見ている前で、「うっかり」自分の足を撃ち抜いたというのだから、やはり、この世に絶対などというものはないのだと実感させられる。人間のやることというのは、実際、そう信用できたものではないのだ。不慮の事故なるものの原因を調べてみると、機械ではなく、それを使う人間に問題があったというケースが過半数を占めていたりする。人はそもそも過ちを犯すものであると、はじめから前提にしておくのが、賢いやりかただろう。
そんな過ちによって、そいつは戦線を離脱することとなった。「どうしてあんな馬鹿なことをしてしまったのか、自分でも分からない」と最後まで悔やんでいたらしいが、ヒューマンエラーとはそういうものだ。俺たちも気をつけような、と残された仲間たちは気を引き締めあった。
それで、この件はもう、片付けられた。一連の流れは、まるで何者かに書かれた脚本であるかのように、滞りなくスムーズであった。俺は小さな違和感を覚えたが、それを深く考えるだけの、時間的、精神的余裕はなかった。去った奴のことを考えて何になる。そう言い聞かせて、目を背けた。
「──これで、心配なくなったね」
あいつは、そう言って笑った。無邪気とさえ感じられる、あいつのそんな顔を見て、俺は何より先に、安堵を覚えてしまった。ああ、良かった。これで、こいつがあの男の欲望の対象にされることはない。ひどい目に遭わせることなく済んだ。
良かったじゃないか──何も、問題ない。金色の瞳を見つめていると、心からそう思えてくる。
小さな違和感は、もう、そのときには、どこかへ紛れて消えていた。



なだらかな牧草地帯は、遠く農場の影が見えるばかりで、頭上には無数の星々が瞬く。こうしてのどかな風景を眺めていると、血生臭い前線など、悪い夢だったのではないかとさえ感じられる。のんびりと、夜の散歩としゃれこみたいところだ──この肩に、物騒な小銃を提げてさえいなければ。
例によって、俺たちは二人一組で、夜の哨戒にあたっていた。前線は遠く、敵が這入り込んでくることはまず考え難い、こちらの支配地域であるとはいえ、漫然と陣取っているだけでは、賃金分の働きをしているとはいえない。地味ではあるが、これも仕事の内である。時折、微風が木々を揺らす音だけが遠く聞こえる、静かな夜だった。
珍しいこともあるものだな、と思った。あいつが、何か小さく鼻歌を歌っていたからだ。
「どうしたんだ、それ」
「昼間の作業中、ラジオが掛かっていてね。印象的だったから」
印象的──それはそうだろう。こいつは初めて聴いたのかも知れないが、その曲が誰の、何という作品であるか、俺は知っている。鼻歌だけでも、間違えようがない。今なお色褪せることなく人々を魅了し、賞賛を集め続ける、クラシックの名曲。音楽を愛でる趣味のない俺でも知っている、フレデリック・ショパンの夜想曲だ。
手元では、きなくさい作業をしながら、こんな音楽に耳を傾けるというのは、まるでそぐわないかも知れない。しかし、そんなまっとうな感覚を抱くには、俺たちはもう、この生活に慣れすぎていた。
「歌詞もついていたよ」
クラシックコンサートではなかったらしい。ジャズアレンジか何かか、確かに、奴が紡いでいた旋律は、ノクターンらしからぬ軽快なものであった。といって、もちろん、ピアノ曲を譜面どおりにハミングされても困るが──それはもはや、鼻歌とは言わない。
こんな風に、とあいつは一旦、言葉を切った。すうと息を吸い込み、そして、唇が、空気を震わせる。
「Bright star──(輝く星よ──)」
その第一声を聞いて、俺はまたひとつ、こいつに対する認識を改める必要があると実感した。
常に落ち着き払った態度で、喜怒哀楽の温度変化の少ない奴だから、歌なんて歌えないだろうと思っていた。それは、どうやら間違いであったらしい。奴が紡ぎ出した旋律は、甘やかに、そして切なく、繊細に空気を震わせた。変声前ならではの高音は柔らかく、低音は密やかに、少しも危うげなく、なめらかに音と音を繋ぐ。音階は、俺の識別できる限り、この上なく精確だった。
「──would I were stedfast as thou art──(あなたのように不変でありたい──)」
そして、歌い上げる歌詞、これは──と、俺は脳内で文献リストを検索する。あの人の下で過ごし、貪るように知識を吸収していた、短い時間の中で、確かに目にした覚えのある詩だった。そう、ジョン・キーツ──ショパンと同時代を生きた詩人のソネットだ。
普段の硬質な声音とは違う、気だるげですらある声は、決して張り上げているわけではないのに、よく通って、耳に心地よく響いた。詩の内容につられて、俺は空を見上げる。
夜空にあって、変わらぬ姿で輝き続ける星、そこからは何が見える。星が見つめ続ける、海原の、あるいは山々の景色を、澄んだ声が紡いでいく。あたかも、自分が見てきたかのように。永い、永い時間、その眼を瞠って、ずっと。
「No──yet still stedfast, still unchangeable(否──ずっと確かに、変わることなしに)」
抑制の利いた前半から、後半は一転して、伸びやかに、情感を込めて歌い上げる。視点は、雄大な地平の高みから、愛するただひとりへと収束する。愛する者に寄り添い、その存在を、傍らで感じ続けたいという、切なる望み。夭折の詩人が最期に残した、心からの悲痛な叫び。
「And so live ever──or else swoon to death(そうして永遠に生きていたい──それか、恍惚の死を)」
十四行詩を歌い上げて、あいつは溜息と共に、肩の力を抜いた。ロマン派の偉大なる作曲家と詩人の作品が見事に調和した、贅沢な一曲だった。良いものを聴かせて貰ったと、素直な称賛を込めて、俺は両手を叩いた。
「良い詩だ。共感は、残念ながら俺にはできねぇけど」
「僕は、分かる気がするよ」
へぇ、と俺は生返事をした。こいつが、つまらない冗談を言うからだ。お前は間違っても、こんな壮大にして官能的な、身を焦がすばかりの熱烈な恋に苦悩する柄じゃねぇだろうが、と言いたい。こんな子どもに、澄まし顔で、分かると言われたキーツが泣くだろう。
「じゃあ、お前も、このまま時が止まれば良いのに、なんて思ったりするわけか」
からかってやるつもりで、俺は軽口を叩いた。安っぽいドラマではあるまいし、およそ考え難いシチュエーションではある。
「止まってほしいとは、思わないけど」
案の定、あいつは生真面目にそう応じた。そうだろうな、と思う。むしろ、こいつは止まってはいられない奴だ。次々に追い求める──新奇なものを、変化を、刺激を、己のものとして取り入れてしまう。だから、こうして俺のような奴に付き合ってもいられる。
あいつは更に、言葉を続けた。
「変化でしか、相対でしか、落差でしか、人間は物事を認識できないから。永遠に不変であれば、それを感じることも出来ない。感じ続けるために、僕は、変わり続けたい」
そうでなければ──楽しくない。
言って、あいつは頭上の星々を振り仰いだ。遠い、無数の煌きに、黄金の眼を眇める。
「終わることなく、永遠に。そうして、続けていたい──そう思うことは、あるよ」
誰に聞かせるでもなく、独りごちるように、あいつは呟いた。そうして、眼を閉じる、あいつの月明かりに照らされた白い顔を眺めて、俺は、こいつならそうするだろう、と思った。何に囚われることもない、こいつが時折、誰より貪欲に見えることがある。こいつは、欲するものを、きっと手に入れるだろうと思わせる。あの微笑を刻みながら、しなやかなその手で、鮮やかに、奪い去るのだ。
「──君も、そうなんじゃない?」
見れば、いつの間にか、あいつの金の眼が、こちらに向けられていた。愉快げに笑んで、問い掛ける、あいつに俺は肩を竦めてみせた。
「俺は、ごめんだね。永遠に続くなんて、たまったもんじゃねぇよ」
そんなのは、悪い冗談でしかない。輝く星に焦がれるのは、俺の役どころではない。そんな俺を見つめて、あいつは黙って、笑っていた。

あの歌を聴いたのは、その一度きりだったというのに、奴のことを思い出すと、脳裏に鮮明に蘇る。散り舞う黄色い花弁の向こうで、いつまでも、擦り切れることなく、古びることなく、俺の内に残響し続ける。
あのとき、奴は何を思って、歌っていたのか。そんな、詮無い思考を馳せかけて、俺は緩く首を振った。無意味だ──意味なんてない。およそ、あいつに関して、そんなものは、一欠片も。
だから俺は、再生する記憶の中で紡がれる旋律に、大人しく耳を傾ける。俺と奴との関係は、こんなことになってしまったが、純粋に歌だけを切り出して俎上に載せるのならば、あのときと、評価は変わらない。素直な賞賛の意でもって、手を叩いてやるのも、やぶさかではない。
ただ一度だけ聴いた、あいつの歌声が、俺は好きだった。それは、今でも変わらない。あのとき、俺が感じたものを、偽物だったといって破り捨てることは、できなかった。捨て去るどころか、こうして幾度となく、懐かしむかのように思い出しているのだから、我ながら趣味の悪いことだ。
Bright star──当時の俺の教養では、知る由もなかったが、ここで言う、輝く星とは、北極星、もしくは金星という解釈で良いらしい。詩人は手紙の中で、恋人を金星にたとえ、讃えていたそうだ。
金星──ひときわ美しく、天に輝く明星。それは、ときに美を司る女神の象徴であり──ときに、崇高なる大天使の象徴でもある。後に神に背き、悪に下った、堕天使の長。その名は、「光をもたらす者」を意味する。
そして、全世界で最も人々に読まれているとされる聖なる書物には、こう警告する一節がある──すなわち、悪魔でさえも、自身を光の御使いに偽装するものである、と。

俺はあのとき、確かに、あいつに光を見た。
あいつは俺の光だった。俺に寄り添い、道を照らし、導く、小さくも輝かしい星だった。その存在に、あの頃の俺が、どれだけの救いを感じていたか知れない。
闇が深まるほどに、美しく輝く星──しかしその光は、苛烈な炎と同じであって、いずれすべてを焼き尽くすことになるとも、知らずに。



あいつがどこまで、本気だったのか。どこから、遊びだったのか。どこまで、真実だったのか。どこから、虚偽だったのか。
そんなことは、考えるだけ無意味だ。あいつにとって、どちらであろうと、違いはないのだから。同じことだ──あいつにとっては、等しく、何もかも。

今ならば、あいつが俺に何をしたのかが、よく分かる。逆に言えば、今になるまで、俺はそんなことに気付きもしなかった。
あいつは、最も効果的に自分を演出する方法を熟知していて、相手から思い通りの反応を、いとも容易く引き出すのだった。どのようにして、技術を学んだとも思えない。それは、生まれながらにして備え持った、特異な能力というほかには、説明出来ないだろう。あいつという人間の、それは、パーソナリティそのものである。
一流のぺてん師(トリックスター)というものは、最後まで、自分が騙されていたということをターゲットに気付かせないまま、仕事を完了する。言うなれば、あいつに関わった者は、全員がそれと知らぬまま、奴の舞台に上げられ、奴の手のひらで踊らされることになる。踊り続ける、倒れるまで──壊れるまで。あの、白くしなやかに整った指先から伸びる、無数の糸の一本は、きっと今も、俺に繋がり、この心臓に絡みついている。
あの特異な才覚を、もっと他に活かす道は、いくらでもあったはずだ。それこそ、何者にでもなれただろう──あいつ自身が、己をそう描写したように。
しかし、俗世間の物差しで言うところの成功者などに、奴が僅かでも価値を見出すわけもない。
あいつは、己のすべてでもって、ただ、俺に向かうことだけを選んだ。

奴は巧妙に、俺が喜びそうなフレーズを、設定を、俺たちの関係に盛り込み、己の理想とする舞台を創り上げていった。
「命の恩人」という言葉を、奴の口から聞くようになったのは、思い返せば、俺がその言葉を使った後からだった。あの人について語るとき、俺は一度、その言葉を使って描写したことがある。奴は、その単語が俺にもたらす効果を、よく知っていた。
奴は意図的に、俺が奴に昔の自分を重ねるよう、仕向けていた節がある。境遇の類似を匂わせ、俺が勝手に親近感を抱くようにした。
黄金の眼で、観察し。
真紅の舌で、絡め取る。
それが、奴のやり口だと、当時の未熟な俺が、見抜けるはずもなかった。
俺は、誰とも関わることのないようにと、近しい人間を作らずに済むようにと、この世界に飛び込んだはずだったのに、こいつだけは、例外だと思ってしまった。俺には、こいつが必要だと思った。その判断を、おかしいとも思わなかった。
あいつは、病的な戯言吐きだった。奴の紡ぎ出した膨大な言葉の砂山に、幾許の真実が含まれていたかを探すより、そんなものは一欠片も存在しなかったと結論付けたほうが利口だろう。
あいつの操る言葉に、深い意味なんてものはない。吹けば飛ぶような、表層的な空言ばかりだ。ただ、あいつはそれを、相手にもっとも効果的に流し込み、いかにも深遠な意味を付与するすべを知っていた。哀れな標的は、静かに、しかし着実に、流し込まれるものに気付く間もなく、呑み込まれ、押し潰され、窒息することになる──俺が、そうして、自ら深みにはまっていったように。

あいつは、俺を酔わせる天才だった。
水のように、静かに、着実に、侵され、沈められて。
あいつという甘美な、致死性の毒に、俺は溺れた。

だから、その酔いのただなかにあった俺の記憶というのは、きっと、大きく歪んでいるのだろうし、客観的にいって、信用ならないものだろう。人は、己の見たいものを見て、聞きたいものを聞き、都合よく世界を認識するものだ。あいつという存在に酔いしれていた俺が、まともな判断力を有していたとは言い難い。俺は、あいつを過剰に美化し、理想化し、偶像化して愛でていると、指摘されれば、返す言葉もない。
加えて、酔いから醒めた今ならば、冷静に奴との関係に向き合えるのかといえば、必ずしもそうではないというのだから、我ながら厄介なことだ。あいつの妙な力と、魂胆が分かったところで、俺は奴と関わった過去のすべてを、忌まわしい嘘偽りだったとして、切り捨てるべきだったのかもしれない。そうして、断ち切ることができていれば、現状もまた、違ったものとなったことだろう。
それが、しかし、俺にはできなかった。
今なお、あいつに囚われている──あるいは、俺のほうが、未練がましく、縋りついているとでもいうべきか。何と謗られようとも、構わない。今更、あれこれ言ったところで、どうせ俺は、こうなるしかなかった。俺という人間を構成する要素として、あいつの存在を抜きには語れない。過去とは、記憶とは、関係とは、捨てようとして、簡単に捨てられるものではない。二人の父親、そしてあいつと、断絶し、喪失することを繰り返す中で、俺は最終的に、そう結論付けるに至った。

捨てようとは、忘れようとは、逃げようとは、若造の頃のようには、もう思わない。別に、悲壮な決意でもなんでもなく、それが当然のことだからだ。あの頃の俺が、あいつに対して感じたことは、ただの錯覚で、抱いた思いも、どうしようもない間違いだったかもしれないが、しかし、嘘偽りなどではなかった。いかに滑稽であろうとも、そのときの俺には、紛れもない、本物だった。悪あがきし、みっともなくもがき、自分と他人の血に塗れながら、かろうじて踏み止まる、そのぎりぎりの境界で、伸ばした手に掴んだものだった。だから、手放すつもりなどはない。
忘れることはない──あの満月の夜とて、その例外ではない。
夢や幻だったのではないか、俺が創り上げた都合の良い妄想なのではないかと、幾度となく疑いながら、結局、思い返すほどに、鮮明に蘇っては、深く刻み込まれていく。あの一夜が、俺とあいつを、今なお繋ぎ続けている。
その糸が、断ち切れることのないように。
決して、忘れることは──ないだろう。



「君は、命の恩人だ」
その声は、直截に俺の頭の中に響いて聞こえたかのようだった。思わず、顔を上げたのは、信じてもいない神の降臨を期待してのことではなかったし、実際、崇高なる天の威光が俺に射すことはなかった。眼前には、巨大な怪物の死骸を思わせる廃墟が横たわり、青白い月光が陰影を刻む。その中でも、ひときわ高く重なった、瓦礫の山。振り仰いだ先、誰もいないはずの、そこに──あいつは、立っていた。
捨ててきた過去に想いを馳せながら、感傷的に散歩する俺の後ろに、あいつは、黙ってついてきていたはずだった。それが、実は俺の勘違いであったと言われても、驚くまい。それほどまでに、あいつが佇む舞台は、あいつのためだけに、完璧に整えられていた。まるで、ずっと前から、この瞬間のために、そこで俺を待っていたかのように。すべてを静寂へと誘う、闇にあって、あいつの黄金の眼は、まっすぐに俺を見据える。
「決して、退屈させないから」
お前はまた、そんなところに登って、危ないだろうという小言を口にすることも、忘れた。苛烈な戦闘の爪痕もそのままの、野晒しの瓦礫の山さえ、青白い月光は、荘厳な神殿を幻視させる。その上に立つ、淡い光に照らされたあいつは、この場のすべてを従え、しんと鎮め、無数の星々と夜を支配する王、欠けたるところのない、白い天体そのものだった。
ざあ、と風が鳴る。昔観た反戦映画を彷彿とさせる、地平一面の向日葵、その花弁が舞い上がり、非現実的に夜を彩る。儚く散る有限の生命と、永久に輝ける不変の星が──交錯する。
「僕が、君の刺激になるよ」
しなやかな黒髪を夜風に遊ばせて、あいつは慈愛さえ感じさせる面持ちで、微笑みながら、そう言った。
ああ、そうだった。こいつと一緒にいる時間、俺はおよそ、退屈するということがなかった。いつも、こいつが刺激を与えてくれていた。俺を、いつだって、夢中にさせた。
お前、そんなところに登ったのも、俺を退屈させないためなのか、と胸の内で問うた。だとしたら、大成功だ。こんなの、俺は見たことがない。こんなにも、白く──美しいものは。
「──君も、おいでよ」
差し出された手に、誘われるように、俺はあいつのもとへと、一歩ずつ歩み寄った。瓦礫の上で、俺を引き上げるために待つ、あいつに片手を伸ばす。あいつの白い手が、それに重なり、握り締める──その前に、俺は素早く、奴の手首を掴んだ。片手に収まるそれを、きつく掴んで、無造作に引き寄せる。あ、と上がった微かな声は、風に流された。
バランスを崩し、滑り落ちてきたあいつを、俺は両腕で受け止めた。さすがに、衝撃を逃がしきれずに、二人して地面に倒れ込む。打ち付けた背中が痛い。その痛みが、重みが、土の匂いが、これを確かに現実であると教えていた。あいつが、確かに、ここにいると教えていた。
俺が、連れ戻したのだ。どこかへ行ってしまいそうな、あいつをこの手で、繋ぎとめたのだと思った。掴んだ白い手は、出逢った頃と同じように、細く、しなやかで、少し冷たかった。
何をやっているんだ、君は、とあきれたような声が、腕の中から聞こえた。俺が身を呈して庇った甲斐あって、どこも痛めてはいないらしい。それに安堵しつつ、俺は突飛な行動の言い訳を紡ぐ。
「だって、危ないだろ」
「こっちの台詞だよ」
たぶん、お互いに、思ってもいないことを口にした。どちらともなく、笑みがこぼれる。さっさと身を起こして、土埃を払えば良いのに、俺もあいつも、そうはしなかった。倒れ込んだ格好のまま、黙って、身を寄せ合っていた。ざあ、と時折、夜風が運んでくるさざめきに、耳を澄ませた。

どれほどの時間、そうしていただろうか。
「遊ぼうか──明智君」
いつもの台詞を、あいつは俺の耳元に囁いた。台詞はいつもと同じだが、しかし、そこに込められた意味は、これまでとは違うものを感じさせた。
どうしてやれば良いのか、分からずに戸惑う俺の手に、あいつはそっと、白い手を重ねた。愛おしげに、俺の手を支えて、頬を擦り寄せる。親指の先が、その唇を掠めた。柔らかな弾力を、指先に捉えて、思わず、息を呑んだ。それに気付いて、奴はふっと微笑むと、俺の手のひらに口づけを落とした。指の付け根に、それから、手首の内側にも。そんな、芝居がかった振る舞いも、奴にかかると、何か神聖な儀式めいたものに見えてくるのだった。
「──触って」
気だるげに囁く、声は吐息に溶けた。触れられるのは、好きではないと言っていた、その口で、俺にねだる。俺の手を抱いて、奴は陶然と瞼を閉じた。
「君の手。僕に、差し伸べてくれた手。新しい世界へ、連れ出してくれた手。その手で──触れて欲しい」
奴の指先が、几帳面に上まで留められていた襟元の釦を、一つずつ外し、開いていくのを、俺はぼんやりと見つめていた。白い喉元から、なだらかな胸までがあらわになり、奴はその首の付け根へと、俺の手を導いた。
片手で握り込めそうな、細い頸部。冷たそうな見た目に反して、そこは温かかった。手のひらを沿わせていると、規則正しい脈拍が、呼吸が、薄い皮膚を通して伝い感じられる。そっと手のひらを上下して撫でてやると、奴はくすぐったそうに首を竦めた。猫か何かを、あやしている気分にさせられる。
気まぐれに、あいつが腕をすりぬけて、どこかへ行ってしまうような気がした。手を伸ばしても、届かない、どこかへ。思うと、俺は上体を起こし、片腕で、あいつを抱き寄せていた。細い腰を、離れないよう引き寄せると、ようやく安心できた。しなやかな肢体は、この腕の中にちょうど良く収まる。あいつもまた、安堵しきったように、俺の腕にすっかり身を任せる。
「もっと──欲しいな」
あいつは心地良さそうに眼を細め、首を傾ける。黒髪が流れ落ちて、細い首から鎖骨にかけて、白い肌が無防備に晒される。それは、俺だけのために差し出されたものだった。触れてくれと、ねだるあいつのために、俺は、そっと手を沿わせた。
鎖骨を辿り、シャツの下へと、手を滑り込ませる。感嘆するほど、しっとりとなめらかな触感を味わいながら、手探りで、薄い身体を確かめる。触れるほどに、この手の内に、あいつを留めておけるような気がした。浮き上がる硬い骨格を指先でなぞり、なだらかな胸元を撫で下ろす。
「ぁ、──」
ふるりと、あいつは肩を震わせ、上ずった声をもらした。俺の聞いたことのない声。切なげに眉を寄せて、何かを堪えるような、そんな表情も、初めて見るものだった。何かが、腹の底で、小さく疼く感覚を覚えた。
はっと我に返って、俺は手を引き戻した。こんなのは──知らない。心臓が早鐘を打つのは、警告だ。この先へ、進んでは、ならない。それなのに、何故か身体は動かなかった。進むことも、戻ることも出来ずに、固まってしまった俺を、あいつはゆっくりと見上げた。ほつれた黒髪の下、濡れ光る金の瞳が、揺れる。どうしてやめてしまうのかとでもいうように、俺に訴える。俺を──欲する。
堪らずに、俺はあいつから、顔を背けようとした。そうしなければ、自分自身、何をしてしまうか、分からなかった。しかし、それより先に、窘めるように頬に掛かったあいつの手が、それを許さなかった。
明智君、と唇が柔らかく呼び掛ける。
「──僕を、見てよ」
ねだるように、あるいは、叱責するように、あいつは、じっと俺の眼を覗き込む。頬に沿わされた、その手を、振り払えない。微かな衣擦れとともに、身を寄せてくるのを、突き放せない。奥底まで見透かすような、あの眼から──逃れられない。
「ねぇ──君は、どうしたい?」
俺を試すように、あいつは僅かばかりの距離を残したところで、それ以上は自分から近づこうとしなかった。あくまでも、決めるのは俺だとでも、いうように。委ねられている──差し出されている。どうすることも、俺の自由なのだと、否応なく、意識させられる。
軽く傾けられた首。薄く開いた唇。触れるばかりの距離で、あいつの吐息が、唇を掠める。鮮烈な血の色が、垣間見える。内奥で濡れ光る、柔肉が、荒々しく押し開かれるのを待ち侘びている。
心臓が、痛いほどに鼓動を速める。抗い難く──惹きつけられる。その真紅に。たとえ、呑み込まれると、分かっていても、喰い殺されると、分かっていても──だからこそ。
ぎこちなく、持ち上がった俺の手が、あいつの頬に触れる。僅かに顔を上向けさせる、指先の意図を合図に、金の瞳が、陶然として閉ざされていく。無防備に差し出された、可憐な唇に、釣り込まれるように、俺は少しずつ、姿勢を倒し──
「──っはは、あははは、はは──」
とうとう、堪えきれないとばかりに上がった、高い笑声が、一瞬にして、静寂を打ち破った。あっけにとられる俺の目の前で、身を折って、傑作だとでもいわんばかりに笑っているのは、誰あろう、あいつである。
「……何、笑ってんだよ」
「だって──っはは、明智君、そんな深刻な顔しちゃって──ああ、可笑しい」
言われて、俺は思わず、眉間の皺を確認してしまった。そんな俺の反応が、ますます奴を喜ばせたようで、息切れしそうになりながら笑い続ける。今さっきまでの空気は、いったい何だったのか、完全にぶち壊しである。俺は一方的に、奴に弄ばれた格好だった。眩暈がしそうなのを、かろうじて堪えて、俺は苦言を呈する。
「……あのな。こっちとしては、真剣な心構えでだな、」
「少なくとも、惚れた相手とするときの顔じゃあ、なかったよ」
それはそうだろう。そんなとき、どんな顔をすることになるのか、俺は知らない。要するにこいつは、かつて、そういうのは惚れた奴とするものだ、などと偉そうに説教した俺が、いざそういう状況になって、前言撤回をすることになるのかどうか、試してみたということらしい。およそ正気の沙汰ではないが、こいつが正気でないのは、今に始まったことではない。
なんて奴だ、人をおもちゃにしやがって、という怒りは、しかし、笑いが止まらなくなっている奴の無邪気な顔を眺めていると、どうでも良い気にさせられた。こいつがこんなに笑うのは、いつ以来だろう。俺だけが知る、こいつの表情だ。そんなに可笑しそうにしてくれるのならば、俺の純情が弄ばれたことなんて、瑣末な問題だ。もう勝手にしてくれ、と俺は半ば諦念の境地を覚えた。
「お前は、刺激が強すぎる」
退屈させない、という意味では完璧であるが、これでは、俺の身がもたない。俺は深々と息を吐いた。一方のあいつは、涼しい顔である。
「でも、嫌いじゃないだろう」
「馬鹿なこと言ってねぇで、ほら、さっさと、……」
はだけたままの、あいつの襟元を、俺は無造作に合わせて、釦を留めてやろうとした。タンクトップ一枚の俺や他の連中とは違い、普段から、極力、肌の露出を抑え、シャツも一番上まで几帳面に閉じ合わせるような奴である。そんな風に着崩した姿でいられると、どうも落ち着かない。垣間見える薄い胸元は、月明かりの下にあってなお白い。見てはいけないものを見ているようで、調子が狂うのは、そのせいだろう。
しかし、結論から言うと、俺は奴の釦の一つも、留めることが出来なかった。
「──まだだよ」
言って、あいつは容易く俺の手をすり抜けると、そのまま愛しげに、俺の首に抱きついてきたのだった。耳元に唇を寄せて、密やかに囁く。
「僕だけ、楽しませて貰ったんじゃあ──不公平だからね」
言って、奴は俺の背筋を、ゆっくりと撫で上げた。衣服越しにも、もどかしいような感覚が、脊椎を這い上がるのを感じる。皮膚に浮かぶ隆起のひとつひとつを、逃さず明らかにしていく、その細い指先から、直截に、甘美な痺れを流し込まれているかのようだった。
剥き出しの首筋に至るや、ひやりとした感触が、引き攣れた古傷を掠める。反射的に、身が竦むのを、俺は堪えたつもりだったが、身体を寄せ合っている相手には、隠しきれなかった。なめらかに動いていた指先が、ふと止まる。
「──嫌だった?」
奴は、すぐに手を引き戻して、案じるように言った。こちらを見上げる黄金の瞳に、俺は、すぐに答えを返すことができなかった。それを、拒絶の意思表示ととったのだろう、あいつは静かに、身体を離そうとする。ごめんね、とその唇が、小さく音を紡ぐ、その前に、細い腕を、俺は焦燥のままに掴んで、引き戻した。
嫌だったわけではない。それより、そうして離れられることが、瞬間、何より、恐ろしく感じられた。
幻滅されることが。
離れられることが。
置き去られることが。
また──ひとりに、されることが。
途方もない、喪失の予兆、あるいは忌まわしい記憶が、混乱した頭に一気に押し寄せる。縋るように、俺はあいつの腕を握り直した。少しでも緩めれば、失ってしまう気がした。これを離さないということだけが、今の自分にできる唯一であって、何より優先すべきことだった。
どうしたいのかと、こいつは先ほど、俺に問うた。どうして欲しい、俺は、こいつに、何を求める。何と言ったら良いか分からずにいる俺に、奴はふっと微笑んだ。
「君に触れたい──触れても良い?」
震えるほどに強く、掴まれた腕が痛まないはずもないだろうに、その声は限りなく優しかった。俺は、ぎこちなく頷くだけで良かった。

抱き合うような格好で、あいつは俺のタンクトップの下に手を滑り込ませ、背中の傷を手探りで辿った。自分では見えないが、そこがひどいありさまになっていることは分かっている。普通なら、触れるのを躊躇い、目を背けすらするだろうということも。
「歴戦の兵士の、栄誉ある負傷、だったらまだしもなあ」
「傷に、栄誉も何もないよ」
それから、死にも、と奴は囁く。無力な幼子の受けた傷も、勇猛なる戦士の負った傷も、あいつの前では、等しく同じ価値にさせられるのだった。
俺の硬化してかさついた指とは異なる、しなやかな感触が、忌まわしい傷跡を明らかにしていく。精緻に動く、奴の指先を通して、俺はひとつひとつの記憶を蘇らせる。傷口が塞がり、何年も経っているというのに、不思議と苦痛の記憶は薄れずに、この身に刻み込まれているらしかった。癒えかけた傷の上に、また新たな傷が刻まれ、地層のように折り重なる。子どもの小さな身体で受け止めきれる暴力には限界がある以上、そういうことになる。
一枚一枚、ページを捲っていくように、奴の指先は俺を辿った。そんなはずもないのに、俺は、奴に己の過去を読まれているような心地だった。もっとも、こいつに隠さなくてはならないものなど、何もない。読みたいのなら、好きに読めばいいと思う。俺というものを、そうして、知ってほしかった。昔話を聞かせたときと同じ、ただの俺の身勝手だ。そんな身勝手に、あいつは文句も言わず、付き合ってくれた。お互いに、何も言葉を口にすることはなく、見つめ合うこともなく、ただ、触れ合う感覚だけで、繋がっていた。
奴からは、匂いがしなかった。あえて言うならば、水だった。濡れたような闇色の髪に顔を埋めて、深く呼吸すると、清涼な水に内側から洗われるような心地を覚える。洗い流されていく──冷ややかな手に、胸の内を、撫でられながら。
幼い頃、煙草の火を押し付けられて爛れた皮膚に、苦鳴を堪えながら、冷水を流した。余計な物音を立てて、あの男の神経をこれ以上、逆撫でするのは利口ではないから、いつも水量は最低限に調節した。細々と流れ落ちる冷水に、意を決して、患部を晒す。瞬間、無数の針で皮膚を抉られるばかりの痛みに、目の前が真っ白になる。
耐えられるのは、これが一番、辛い瞬間であり、これさえ乗り越えれば、後々が楽になると、経験上、知っているからだ。目を瞑り、歯を食いしばり、もどかしいほどゆっくりと流れる時間を数えて、やり過ごす。耐え続けていると、患部の感覚神経は次第に鈍磨し、骨の芯に染み入る、凍てつくばかりの冷たさだけが残る。震えるほどの寒さは、同時に、安堵をもたらした。
ああ──これで、暫くは、何も感じずに済むのだと。
男の気が晴れるまで、執拗に殴られ、足蹴にされた後にも、熱を持って腫れ上がった患部を、水は鎮めてくれた。その冷たい愛撫で、俺の熱は、痛みは、鈍らされ、眠らされ、殺されていく。それは、静かな儀式だった。
痛みは、いつも、熱と手を組んで襲い掛かる。そこから救い出してくれるのは、温かさなどではない。圧倒的な、凍てつくばかりの、冷たさだけだ。
許されるならば、ずっと、その中に浸っていたかった。感覚も何も、なくなるまで、冷え切っていたかった。もう、流れ落ちる水の冷たさも感じなくなるくらい、同じ温度になれたのならと、何度も夢想した。
そうすれば、こんな痛みを、感じなくて済むのだろうか。こんな思いを、しなくて済むのだろうか。両手に掬い取った、小さな水面を、あの頃、ぼんやりと見つめていた。
遠い記憶の底で滴る、その水のように、あいつは俺を、深く沈み込ませた。
何も見ずにすむように。
何も聞かずにすむように。
何も感じずにすむように。
何も思い出さずにすむように。
奴の指は、俺の傷を掘り起こし、開いてみせ、それから、そっと閉じ合わせた。あの頃、冷え切った水が、傷だらけの幼子に、そうしてくれたように。冷たく、痛く、そして、優しかった。安らぎの内に、俺は、与えられるものに浸りきった。
唇だけではない、指先からでも、流し込めるものがあるということも。水のように、静かに全身に回って、気付かれることなく、蝕む毒があることも、忘れて。
否──それでも、構いはしなかった。
与えられるものを、振り払う代わりに、俺は、その先にあるものを求めた。

あいつの白い手が、胸を押してくるので、俺はゆっくりと背中を倒した。仰向けた俺の腹の辺りに手をついて、跨る格好を取る、あいつの輪郭が、淡く月光に縁取られて見える。俺を見下ろしながら、あいつは片手を自分の首の後ろにやって、結んでいた髪を解いた。緩く首を振るうと、闇に溶ける漆黒の髪が、音もなく肩を滑り落ちる。青白い月光を纏う、その見事な艶に、俺が見惚れていることに気付いてか、あいつは黄金の眼に愉快げな色を浮かべて微笑した。姿勢を低くして、俺の鎖骨の辺りに顔を伏せる。
奴の髪が、水のようにしなやかに流れて、俺の上に落ちかかって広がる。衣服を捲り上げられ、晒された胸から腹を、直截に撫で、掠め、伝い落ちていく。冷たく、なめらかに肌を撫でる感覚は、何にも似ていない異質さで、軽く息を呑む。奴が柔軟に身じろぐ度に、それは音もなく俺の身体を滑り、這いずり、愛撫する。くすぐったいような、もどかしいような感覚に、俺は息を詰めた。
心臓の辺りに、頬を摺り寄せて、奴は吐息交じりに問う。
「──どうかな。明智君」
「ああ……なかなか、刺激的だな」
それは良かった、とあいつは小さく笑う。上下する俺の胸に口づけ、指先で愛しげに腹筋を辿る。あいつのしなやかな手と、柔らかな唇、そして冷たい髪の感触が、緩急をもって、俺を刺激する。
奴の指先は冷たく、俺の内にわだかまる熱を宥めたかと思えば、また熱く、俺の強張りを解きほぐした。奴の舌は熱く、俺を昂ぶらせたかと思えば、また冷たく、俺を翻弄した。与えられる刺激を、俺は貪るように享受した。求めるほどに、渇望は募る一方で、決して満たされることはないと、知りながら。
かり、と鎖骨に歯を立てられて、俺は小さく呻いた。俺の些細な反応を、あいつは逃さず拾い上げて、更なる刺激をもたらそうとする。その刺激に、こちらの身がもたずに降参することになるのが先か、あるいは、与えられるものに慣れて、何も感じなくなるのが先だろうか。
こんな熱も、危うい高揚も、繰り返せばいつか、感じなくなるときが──飽きるときが、来るのだろうか。否、こいつ相手に限って、そんなことがあるとは、およそ考え難かった。こいつは──こいつならば、いつまでも、飽きず俺を感じさせてくれるはずだ。そんな、我ながら、あきれるほど傲慢な考えに、苦笑する。こいつが、あまりにサービス精神旺盛なものだから、つい、勘違いしてしまう。求めれば、与えて貰えるかのように。欲すれば、満たして貰えるかのように。願えば、叶えて貰えるかのように。そんな、都合の良い考えを抱いてしまう。
闇色の髪を、片手に梳きながら、俺は嘆息交じりに問うた。
「なあ、……どうして、こんなこと、してくれるんだ」
「──君が、そうさせたんだ」
伏せていた顔を、あいつはゆっくりと上げて、そう呟いた。白い指先が、光に触れるように繊細に、俺の輪郭を辿る。金色の瞳は、ただ俺ひとりを映し、唇は、俺のためだけに声を紡ぐ。
「君は、初めての人だから」
あいつは、俺の手を取り、そっと頬を擦り寄せた。感じ入ったように、吐息をこぼして、眼を伏せる。
「あの薄暗い世界から、僕を連れ出してくれた。君は、あのとき、光を背負って見えた」
かみさま──と、あいつの唇が、小さく動いた気がした。あのとき、暗く湿った路地裏に蹲る、あいつのために、俺は自ら足を踏み入れ、手を差し出した。細く頼りない、白い手を、掴んで強く引き寄せた。それが、始まりだった。
「君に出逢い、君の手で引き上げられて。僕は初めて、生命を得た」
俺の手を、あいつは薄い胸元に押し当てる。その奥に、息づくものの音を、聞かせるように。確かな熱を、教えるように。己のすべてを、差し出して、捧げるように。
「何も無かった、がらんどうの僕に、生命を、世界を、光を。与えてくれたのは──君だった」
俺を見つめる、その瞳の黄金の光は、確かな意志を感じさせた。決して、がらんどうのつくりものなどではない。これも、俺が与えたものだと、そう言うのだろうか。俺によって──救われたのだと、そう言うのだろうか。
心臓の上に重ねた手を、大切そうに包んで、あいつは歌うように紡ぐ。
「だから、僕は──君のものだよ」
明智君、と、唇が甘く囁く。
「君のために、生きるよ」

──ああ。
そのとき、俺は初めて、強烈に。
こいつを、抱きたいと思った。
こいつが求めるものを、俺のすべてを、差し出して、与えてやりたいと思った。
奪うのではなく、犯すのではなく、壊すのではなく。
その空虚を、埋めてやりたいと。
俺の内に芽生えた、そんな情動を、あいつは感じ取ったのだろうか。奴の手が、俺の肩を、胸を伝い下り、身体の中心辺りに伸びる。慣れた所作で、そっと下腹部を撫でられて、危うい痺れが背骨を伝い上がる感覚に、俺は息を詰めた。うろたえる俺の内心が、あいつには、それこそ手に取るように分かるのだろう。何も心配することはないと教えるように、あくまでも優しく、白い指は俺のかたちを辿る。急所を晒している、というだけが理由ではない、焦燥感が、じわりと心臓を締めつけた。
そんな俺の様子を、間近でじっと見つめていたあいつは、不意に、姿勢を動かした。俺の両脚を、そっと押し広げて、その合間に、当然のことのように、顔を伏せようとする。
「っ……」
屈服し、傅き、奉仕しようとする、奴の意図を悟った瞬間、俺は弾かれたように、身を起こした。躊躇いなく、顔を埋めようとする、あいつの薄い肩を、掴んで押し留める。半ば強引に、引き剥がして、姿勢を起こさせた。
「──どうして」
少し乱れた黒髪の下、金色の眼が、戸惑うように俺を見上げる。何故、止められたのか、本当に分からないといった、あいつの様子は、意図した行為に反して、いっそ無垢ですらあった。金色の眼を瞬いて、訴える。
「一応、下手ではないつもりだけど──」
「しなくていい。お前に、そんなことは、させない」
それより、と俺は奴の背中を抱き支えながら、ゆっくりと押し倒した。どうするつもりかと、不思議そうに見上げてくるあいつに、俺は覆いかぶさり、押し潰してしまわないように注意しながら、その薄い胸元に頬を寄せた。低く、規則的に響き鳴る、心臓の音に、耳を澄ます。ああ──生きている。がらんどうなどではない。欠落などしていない。つくりものなどではない。
こいつは、ここにいる。
「しばらく、……こうしていても、いいか」
「──こんなことで、いいの?」
返事をする代わりに、俺は目を閉じる。奴と、自分の音だけが聞こえる。なんて、静かだろう──なんて、温かだろう。できることなら、ずっと、こうしていられたらと、愚かにも、祈りに似た思いを抱く。このまま、動くことなく、変わることなく、永遠に。
そんなことを、望んでしまう自分に、俺は戸惑った。いつも、神経が焼き切れて、意識が真っ白に飛びそうな、何もかもを忘れさせてくれる、そんな刺激だけが、俺を救ってくれると思っていた。より苛烈に、より過酷に、加速して、墜ちていくしか、ないのだと思っていた。それでは、これは、何なのだろう──この、圧倒的な静けさの中の、温かな安堵は。
ふと、髪に触れるものがあった。静かに、細やかに、髪を梳く。あいつらしい、几帳面な手つきだった。あの人のそれとは、まったく似ていないのに、無性に懐かしかった。白い腕に抱かれて、俺は嗚咽を堪えた。いいよ、とあいつの声が、穏やかに耳を打つ。
「いいよ──明智君」
その声は、俺のすべてを受け容れ、赦してくれることを証していた。俺にならば、何をされても構わないと、かつて、こいつが言っていたことを思い出す。あのときは、まともに取り合わなかった、その言葉を、今ばかりは、信じたかった。甘やかな声に促され、縋るように、細い身体に腕を回した。



──結局のところ。
ここまでしておきながら、俺はあいつを抱かなかった。否、ここまでしてしまったから、もう、そういう関係にはなれなかった。
奴のほうが、どう思っていたのかは知らないが、俺はそれで良かったと思っている。もしも、状況に流されるまま、あいつに手を出していたら、俺が味わうこととなる後悔と自己嫌悪は、こんなものでは済まされなかったはずだ。それとも、俺がこうして、探偵明智小五郎を名乗ることにも、その場合、ならなかっただろうか。あいつに酔いしれ、溺れ、沈み込んだ先に、はたして何があったのか、最早、知るすべはない。
恋人ではなく、友人ではなく、師弟ではなく、家族ではない。
何でもなかった──何にもなれなかった。
俺たちには、こうなるのが、だから、お似合いだった。
あの星空の下で、俺には確かに、あいつが必要だった。俺は求め、そして、あいつは応えた。たぶん、あのとき、俺たちは一番、近付いていた。俺はひととき、何もかもを忘れ、あいつという存在だけに満たされていた。あいつが後に、それを望んだように。
ただ、それは、まるで別々の軌道を描く二つの点が、偶然に放物線の最端で接近した、僅か一瞬だけのことであって、それからは交わることもなく、加速度的に離れる一方なのだと、気付いたときには、なにもかもが手遅れだった。
手遅れ──否、いったい俺が、あいつに、どんな手を打てたというのだろう。
手遅れというなら、それは、出逢った時点で、この手を差し伸べた時点で、既に、どうしようもなく、致命的に、手遅れだった。俺は、あいつは、俺たちは──手遅れだった。
差し出された手を取った、その瞬間に、すべては決まった。
俺は、明智小五郎になったし。
あいつは──何者でも、なくなった。

あいつは、決して、完璧ではなかった。ヒトとして、大きく欠落していた。空虚であり、歪であり、異形だった。
ただ、あいつは、それで完成されていた。何の不足も、余剰もなく、これ以上ないというぎりぎりのところで、奇跡的に。そういうものとして、他にはない唯一のものとして、存在していた。
そんなあいつを、俺は──きれいだと、思ったのだ。

人心を惑わし、掌握すること。
己が備え持った、その能力について、あいつがいつから、どれだけ、自覚的であったのかは分からない。あいつの言動は、すべてが嘘偽りで構成された芝居であったようにも思える一方で、それを受け容れ難く思う俺がいることは、否定できない。
あいつには、嘘を吐いて相手を騙すなんて意識は、少しもなかったのではないか。あいつの嘘に、誰より深く騙されて、それを本当だと信じ込んでいたのは、あいつ自身なのではないか。
あいつは、何も知らない無邪気な子どもに見えることもあったし、何もかも知り尽くした老練な賢者に見えることもあった。あいつは、ヒトの心に巧みに這入り込んで、感情を、葛藤を、衝動を、自在に操作することができたが、あいつ自身は、それを持たなかった。
自分というものが、あいつにはなかった。あいつの中身は、がらんどうの空白だった。あいつは相手に求められるままに、己を創り上げて振舞うことができた。いくつもの仮面を、自在につけ替えて、演じ続ける。あいつは、両手で糸を引く人形遣いでありながら、自分自身、舞台を彩る、一番美しく、輝かしい、空洞の人形だった。

自分自身を、がらんどうの空っぽだと描写した、あいつが何者かになるためには、仮面が、嘘が、どうしても必要だった。何も持たないあいつでは、何を語ろうとも、すべてが嘘になってしまう。それなら、何も喋るなと、いったい誰があいつの喉を塞ぐ権利があるだろう。たとえ偽物でも、あいつは、それを──本物だと、信じたかったのではないか。何者かに──なりたかったのではないか。
そうでもしなければ、ここにいては、いけないのだと。俺と一緒には、いられないのだと。あいつは、そんな風に思っていたのかもしれない。あいつに、そんな風に思わせてしまったのだとすれば、それは、俺の責任だ。
あいつに都合の良い投影をして、望むように振舞わせて、期待に応えさせて、それを喜んで愛でておきながら、途端に手のひらを返し、嘘だといって糾弾するのは、こちらの──俺の、傲慢ではないか。

あいつは、ああやって生きることしか、出来なかった。ただ、それだけのことなのだと。
未だにそんなことを言って、あいつに情を掛けるのかと、愚か者扱いされるだろうか。
それなら、愚かであっても構わない。情を掛けるつもりは、微塵もないが、こればかりは譲れない。
あのとき、確かに俺たちは、僅かの間だけでも、交わし合ったものがあると。
偽りに満ちた、つくりものなどではない、何かがそこに、あったのだと。

あいつは、何に縛られることもなかったし、何に規定されることもなかったし、何を残すこともなかったが──しかし。
共に過ごしたあの短い時間、あいつは確かに、ここにいたのだと。
愚かな俺は、それを信じる。




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本編で詳細な過去話回が来るのを待ち切れずに妄想が爆発しました。

【参考文献】
グロスマン, デーヴ(2004)『戦争における「人殺し」の心理学』(安原和見訳)筑摩書房
グロスマン, デーヴ・クリステンセン, ローレンW(2008)『「戦争」の心理学』(安原和見訳)二見書房
高部正樹(2001)『傭兵の誇り』小学館
高部正樹(2005)『傭兵の生活』文芸社

2017.1.29

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