巨人失格(プレビュー版)






生きることは、喰らうこと。




■収録内容

1.『クラウ』Eren & Armin
友人や祖父の生命を喰らって、自分は生きている──まるで、巨人のようだ。
寝床で震えるアルミンと、エレンの抱擁。

2.『摘まれた花の名前』Eren & Mikasa & Armin
エレンの家の近所に、沢山の白い花が咲いていました。
ミカサの言う「花の匂いのお茶」が気になったエレンは、アルミンで実験してみようと思い立ちます。

3.『Haus』Eren & Armin
親友に家畜と言い放ってしまったことを悔やむエレンと、赦すアルミン。
避難所を抜け出して眺めた夜空に、自由を誓う。

4.『人を舐めた話』Soldier & Armin
開拓地にて、お腹を空かせたアルミンは、
兵士の足を舐めたご褒美にパンを貰っていました。

5.『カンデル』Eren & Armin
「もっと、噛んで、良いか」「…良いよ」
アルミンに喰らいつくエレンの衝動

6.『巨人失格』Titan & Armin
脱落兵に憂さ晴らしされるモブアルからの身体のお清めキスアルからの
頭のお清めジャンアルからの心のお清めエレアル




■『クラウ』Eren & Armin

『クラウ』 の再録です)

最初は、嗚咽かと思った。
どこからか、小さく、押し殺すような息遣いが、聞こえたような気がして、エレンは緩慢に瞼を上げた。
薄闇の中、耳を澄ませてみると、僅かに喉を詰まらせるような声が入り混じっている。どうやら、幻聴の類ではない。
いったい何だ、とエレンは粗末な寝床の中で身じろいだ。時刻は、おそらく深夜である。訓練兵たちの寝床は、しんと静まり返っていた。
昼間たっぷりと教官にしごかれた同期たちは、皆、泥のように眠っている。エレンと、そして、どこからか聞こえてくる声の主を除いては。
こんな時間に、妙な奴だ、とエレンは思った。それから、夜中に目を覚ましている自分も、人のことは言えないか、と思い直す。
自分が物音によって目を覚ましたのではないということを、エレンは知っていた。このような、聴こえるか聴こえないかの嗚咽ごときで睡眠を妨げられるほど、繊細な神経をしてはいない。そんなことでは、雑魚寝状態の集団生活を営める筈もないだろう。
だから、別に声によって起こされたというのではなくて、たまたま目が覚めただけなのだと自己分析する。特に眠りが浅い性質ではないが、今日ならば、思い当たるふしもある。
──少なからず、ショックだったということか。
昼間の講義を思い起こして、エレンは苦々しい心地になった。調査兵団の最新の報告書に基づく、巨人の生態学。覚悟していたとはいえ、教官の話からは、「奴ら」の圧倒的な優位性を思い知らされるばかりであった。
あのとき、教室を覆い尽くしていた、無力感、恐怖心は、同期の誰もの胸に、深く刻み込まれた筈だ。両隣の友人にしても、ミカサはいつも通りの冷静な表情を保ってはいたが、白い面には緊張の色が見て取れたし、アルミンの方は、小刻みに肩を震わせていた。
巨人と、戦う──これまで漠然と思い描いてきたイメージが、過酷な現実に上書きされていくのを感じる。忘れたくとも忘れられない光景が、脳裏に蘇る。ごくり、とエレンは喉を鳴らした。
その不安と緊張が、眠りを浅くしたとしても不思議ではない。そんなことを考えていると、すっかり目が冴えてしまった。妙な声は、相変わらず、途切れ途切れに聞こえてくる。
無視して寝ようとも思ったが、気にするまいとするほどに、耳は鋭敏に、その気配を感じ取ってしまう。そして、時折吐息に混じる、か細く澄んだ声音が、自分にとって、ごく親しく聞き覚えのあるものであることに、エレンはそろそろ気付いていた。
「……」
周囲の仲間を起こさぬように注意しながら、エレンは静かに毛布を捲り、身を起こした。気付いた以上、放ってはおけない。幼い頃から、それは、エレンの内に変わらず息づく信念だった。

「……おい、どうした? 大丈夫か」
粗末な寝床の中を覗き込んで、エレンは小さく声を掛けた。暗闇の中、ひくりと、何かが動く気配がある。
エレンは、そこに寝ている筈の幼馴染の顔を見ようと思ったのだが、それは叶わなかった。アルミンは頭からすっぽりと毛布を被り、身体に巻きつけるようにして、隅で小さく丸まっていたからだ。
ろくな暖房設備がなく、明け方の冷え込みに芯まで凍える冬場ならばまだしも、比較的しのぎやすい今の時期に、その格好はなかろう。エレンは不可解に思うのと同時に、聞こえてくる声が妙にくぐもっていた理由に納得がいった。
まさか、毛布の防音性を利用したくてそういう格好になっているとは思わないが、いずれにしても、すっかり中に隠れられてしまっては、いったい何があったのか、見当がつかない。辛うじて、その膨らみの中に友人がいるということが分かるだけだ。
苦しげなのに、声を掛けても、返事が無い。ということは、悪い夢でも見て、うなされているのだろうか。
今日の講義のこともある。この繊細で思慮深い友人が受けた衝撃は、並々ならぬものであっただろう。心配になって、エレンは身を乗り出した。
「なあ、アルミン」
「っ……」
友人が包まっていると思しき毛布の塊に呼び掛けると、小さく息を呑む音がする。どうやら、眠っているわけではなく、こちらの声も聞こえているらしい。しかし、一言も返事を寄越さないのは、どうしたことだろうか。
喋れないほど、具合が悪いのかも知れない、という発想にすぐに至ったのは、家業の影響もあるだろう。初夏の陽気の中、寒い、寒いとうわごとを紡ぎながら、毛布に包まり、がくがくと震える病人の姿を、エレンも目にしたことがある。
もしも、返事が出来ないほどに苦しい思いをしているのであれば、事は急を要する。エレンは、畳み掛けるようにして問い掛けた。
「寒いのか、苦しいのか? 待ってろ、すぐに教官に、」
「ちが、……違うよ、」
初めて、返事が返ってきた。今にも扉へと駆け出そうとしていたエレンは、そのごく小さな声に、一旦、動きを止める。
「だけど、」
「いいんだ、エレン。病気じゃない……」
「んなこと言っても……」...



■『摘まれた花の名前』Eren & Mikasa & Armin

...
「……なら、試そう」
「試す?」
そう、と少女は頷きます。生い茂る生垣を仰いで、お茶の淹れ方を説明するように淡々と、ミカサは声を紡ぎます。
「たくさんの花の中に、エレンを入れる。繰り返し、擦りつける。匂いがついたら、私の話は正しい」
「やだよ。花の匂いなんて、恥ずかしい。女じゃあるまいし」
折角のミカサの提案は、即座に却下されてしまいました。ミカサは少し残念そうな顔をして、それでもめげずに、なお言い募ります。
「なら、私がする。存分に擦りつければいい」
自分の胸に手を当てて、少女は堂々と宣言しました。さあ、試してみようと言わんばかりに、大きく腕を広げます。対して、エレンは、駄目駄目、と首を振りました。
「お前じゃ駄目だろ。ズルするかも知れない」
「そんなことはしない……」
少女は俯いて、少しばかり唇を尖らせます。なかなか信じて貰えないことが、もどかしいのでしょう。いったい、どうすればエレンに納得して貰えるのかと、ミカサは黙って考え込みます。
エレンとしても、むやみやたらに彼女の話を否定するというわけではありません。彼はただ、真偽を確かめたいだけなのです。
見たことのないもの、知らないものについての好奇心は、人一倍あります。大切な家族の一員となった少女の語る不思議な話を、信じたいと強く思うからこそ、自らの手で、しかと確かめたいのでした。
ただ、そのための方法をどうしたら良いのかは、エレンにも分かりませんでした。
物知りの医者として人々の尊敬を集めている父親に訊けば、ヒントが貰えるかも知れませんが、あいにく彼は往診中です。それに、これは父の力に頼らず、自分の力で解決したい、とエレンは思いました。
さて、どうしたものかと、二人して唸っていた、そのときでした。
通りの向こうから、小走りに駆けてくる足音がありました。軽やかな、子どもの足音です。
「エレン、ミカサ! どうしたの、二人とも」
高く澄んだ声が、二人の名を呼びました。
軽く片手を上げて、駆け寄ってきたのは、二人の親友のアルミンです。陽光にきらめく金髪を揺らして、笑顔で駆けてきます。
花を見上げて話し合っている二人の姿を見かけて、何か面白いことをしているのかと、気になったのでしょう。大きな青い瞳は、期待に輝いています。
そんなアルミンの姿を認めるや、エレンとミカサは、同時に、口を開きました。
「あ」
「あ」
「え?」
二人の前で足を止めて、アルミンは首を傾げました。
いつもであれば、よぅアルミン、と笑顔で迎えてくれる筈のエレンが、今日はなにやら、深刻そうな表情です。ミカサとともに、無言で、まじまじとアルミンを見つめてきます。
「えっと……なに…?」
自分の顔に何かついているだろうかと、アルミンは頬や髪を触りますが、特におかしな点はありません。それでは、先ほどの二人の「あ」とは、何だったのでしょうか。
アルミンが戸惑っているうちに、エレンは、なにやら、ミカサと目配せを交わしました。それで、二人の間には、何らかの了解が得られたようです。彼らはお互いに、小さく頷きます。
わけが分からず、取り残される格好になってしまったのはアルミンです。目の前で内緒話をされているようで、少し、胸がちくりとしました。
ただ、二人がとても真剣な表情をしていることは分かりました。空き家の前で何をしているのかと思いましたが、どうやら、遊んでいたわけではなさそうです。いったい、二人に何があったのかと、アルミンは不安になりました。
そんなアルミンへ向けて、エレンは一歩、足を踏み出します。思わず後ずさりかけて、アルミンは辛うじて、その場に留まりました。エレンの両手が、アルミンの肩を、しっかりと掴みます。
「アルミン。俺たち、今、すごく悩んでるんだ」
「……悩み?」
こんなに真剣な表情のエレンを見るのは、アルミンは初めてでした。強い意志を宿した緑の瞳は、アルミンを射抜き、目を逸らすことを許しません。エレンの両手は、しっかりとアルミンの肩を掴み、逃がさない、と言っているかのようです。
いったい、何が彼を、そこまで駆り立てるのでしょう。大切な友達は、何を悩んでいるのだろうかと、アルミンは、一生懸命に考えました。怖い、逃げたいという気持ちは、友人を心配する気持ちに押されて、どこかへいってしまいました。
アルミンの瞳を覗き込んで、エレンは、深く頷きます。ゆっくりと言い聞かせるように、彼は、一言一言を紡ぎます。
「これを、なんとかするには、アルミン。お前の力が、必要だ」
「……そうなの?」
「そう。力を貸して」
見れば、ミカサも、いつも以上に神妙な顔つきです。この二人を悩ませるなんて、よほどの難問に違いありません。手助けを頼まれたものの、はたして、それが自分に解けるものだろうかと、アルミンは、不安に駆られました。
確かに、たくさんの本を読み、知識を蓄えているアルミンですが、自分がまだまだ未熟であることも、十分に分かっていました。
この世の中は、狭い壁の中ですら、知らないことだらけなのです。思うと、なんとも心もとない気もします。
しかし、二人は、アルミンがこの世で最も信頼している二人なのです。二人の頼みを、聞かないわけにはいきません。
二人は、いつもアルミンを助け、優しく、力強く、手を引いてくれます。そんな彼らが、今度は、アルミンを頼っているのです。
自分にも、何か出来ることがあるというのは、アルミンには、喜ぶべきことでした。たとえ結果が出なかったとしても、精一杯、彼らの気持ちに応えたいと思いました。
躊躇っていたのは、少しの間だけで、答えは最初から、決まっていました。顔を上げて、アルミンは緊張気味に答えます。
「ええと、僕に出来ることなら……」
「よし、決まりだな」
と、エレンはここで初めて、笑顔を見せました。それが、アルミンには、何故だか嫌な予感を呼び起こさせたのですが、気のせいだろうと思って振り払いました。
エレンたちの役に立てるという嬉しさに浮かれて、彼らの真の目論見にまで、頭が回らなかったのです。
気付いたときにはもう、逃げることは出来ませんでした。...



■『Haus』Eren & Armin

...風雨を遮る頑丈な屋根も、音も熱も漏らさぬ壁も、錠を下ろした扉も、打ち砕かれてしまった。それらの枠組みの中にあった、優しく温かな空間は、簡単にひしゃげて、風にさらわれ、夕焼けの空に、どこまでも拡散した。
今や、内と外の区別はない。肩の触れ合う距離にいる他人が、神経を苛む。帰る場所はなく、逃げ場はなく、拠り所はないのに、自分だけが存在しているという、強烈な違和感。
あまり人の集まる場所が得意ではないアルミンにとっては、ひときわ息苦しかったことだろう。寝床を抜け出して、ひとりになりたいと思うのも当然だ。
しかし、眠れない者同士、そこで同調し、二人でゆっくりと夜空を眺めて過ごそうとは、エレンは思わなかった。
「……起きてたら、それだけ、腹が減るぞ。さっさと戻って、寝てろよ」
エレンの口から発せられたのは、自分でも驚くほどに、そっけない言葉だった。
アルミンは、青灰色の瞳を瞠って、エレンを見つめる。明瞭な拒絶を受けたことが、信じ難いのだろう。その表情が、微かに翳る。
視線を切って、エレンは友人から顔を背けた。自分の、汚れた靴の足先を見つめる。
これまでそうであったように、アルミンに親しく接することの出来る自信が、今のエレンには無かった。どうか、放っておいて欲しい、と思った。
こんな奴、放っておいて、さっさと立ち去り、眠る努力をした方が、よほど良い。動けば動くほど、疲労と空腹は募っていく。
それが、苛立ちへと繋がり、ろくな結果を生まないことは、昼間のアルミンが言っていた通りだ。今は、大人しくしているのが、一番正しい。
アルミンだって、疲れている筈だ。この友人は、ただでさえ体力面に不安がある。
明日、また地区の移動や何やの指示がないとも限らない。休めるうちに、休んでおくのが一番だ。聡明な友人に、それが分からぬ筈もない。
しかし、アルミンはそうはしなかった。気遣わしげな表情で、エレンを見つめて、ぽつりと呟く。
「昼間のこと……気にしてるの?」
まるで、申し訳ないといって謝るような、控えめな声音だった。図らずも、エレンはびくり、と肩を強張らせてしまう。それで確信を得たのだろう、アルミンは悲しげに眉を寄せて俯く。
どうしてお前が、そんな顔をするんだ、とエレンは唇を噛み締めた。だから、さっさと帰れと言ったのに──ぐ、と拳を握る。
飢えた避難民に対する、心ない兵士の言葉に激昂して、後先考えずに殴りかかってしまったこと。あっけなく地面に倒されて、制裁を受けそうになったこと。その場を機転で救ってくれたアルミンを、ひどく詰ってしまったこと。
思い返すだけでも、気分が悪い。それで結局、恵んで貰ったパンを食って、腹を満たしたことを思うと、口の中に苦いものが広がった。
言葉少ないエレンの態度をどう捉えたか、アルミンは、か細く声を震わせる。
「……ごめんね。僕が、出しゃばったせいで、」
「違う。そうじゃ、ない……そうじゃないんだ、」
お前のせいじゃない、それを伝えたくて、エレンはアルミンの言葉を遮った。
ろくでもない兵士どもに立ち向かえなかったことが、悔しいのではない。意思を曲げざるを得なかったことが、屈辱なのではない。
最も辛いのは、そうではなく──
「お前に……頭を下げさせた。謝らせた。屈服させた。……あんな、あんな奴らのために、」
「エレン……」
そのときの屈辱を思い出して、エレンは拳を震わせた。...



■『人を舐めた話』Soldier & Armin

空色の上着を羽織った、小柄な少年は、先ほどから、懸命に懇願していました。胸の前で、きゅ、と手を握り締め、勇気を振り絞って、相手を仰ぎ見ます。
「か、返してください…それは僕の……っ」
「残念だがな、パンに名前は書いてねぇんだよ」
小馬鹿にしたように鼻を鳴らして、大人は嗤うのでした。
配給のパンを貰って、開拓民のための寝床へと戻る途中のことでした。畑の傍の、人気のない小道で、アルミンは突然後ろから、強く突き飛ばされました。
何が起こったのか分からないままに、小さな身体は倒れ込み、勢い余って、地面を転げます。呻きながら、なんとか身体を起こしたとき、大事に胸に抱いていた筈のパンは、ありませんでした。
目の前では、今まさに、地面に転がったパンを、誰かが拾い上げているところでした。同じ、避難民としてここへやってきた大人で、アルミンよりずっと大きな男でした。
男は、なにも、転んでしまった子どものパンを、親切で拾ってやったわけではありませんでした。そんな風に思えるほど、アルミンは無邪気でも愚かでもありませんでした。パンを奪うために、自分が突き飛ばされたことも、分かっていました。
だから、意を決して、返してください、と男に言いました。しかし、少年の懸命な言葉が、男を改心させることは、残念ながらありませんでした。
「お前みたいな、役立たずのガキに食わせる飯はねぇよ」
言って、大人はこれみよがしに、パンを引き裂いてみせました。その一欠片を、無造作に口に入れます。あ、とアルミンは大きな瞳を瞠りました。
大人はパンを食い千切り、咀嚼しながら、アルミンに言葉を投げつけます。
「年寄りや子どもが優先なんて、おかしな話だ。壁が壊される前のきれいごとを、いつまで引き摺るつもりなんだか」
一番の働き手にこそ、たっぷりと食わせるべきだろう、と大人は自らを指して言いました。それから、少年をいたぶるように、丁寧に付け加えて説明します。
「ああ、これまでなら、子どもに投資してやった分は、将来の労働力として回収も出来ただろうがな。いつまた巨人が攻めてきやがるかも分からねぇ状況で、そんな悠長なことが言ってられるか? お前みたいなノロマ、真っ先に巨人の餌だ。お前は飯を食うだけ食って、人類の未来に何も貢献しないまま死ぬ。そんな奴、はじめから、生かしておくだけ無駄ってもんだろ?」
大人の言葉は、アルミンの耳を素通りしていきました。少年は小刻みに震えながら、瞬きも忘れて、大人を見上げていました。
その瞳に映っていたのは、大人に対する恐怖や屈辱の色ではありませんでした。青灰色の瞳は、ただ、大人の持つ、自分のものになる筈だったパンに向けてのみ、開かれていました。
パンがすっかり食い尽されて、大人がどこかへ去っていっても、少年は、ずっとそこに佇んでいました。どれほどそうしていたでしょうか。やがて、お腹をそっと押さえるようにして、アルミンは、とぼとぼと歩き出しました。

とりあえず、おじいちゃんのところへ戻ろう、とアルミンは思いました。ここに突っ立っていても、お腹が減るだけです。
しかし、戻ったところで、自分のされたことを、話すつもりはありませんでした。あっさりパンを奪い取られたなんて、恥ずかしいことです。それで、皆に哀れまれ、パンの欠片を恵んで貰うのは、ごめんでした。
そうして、歩いていたときです。向こうに、兵士たちの姿を認めて、アルミンは足を止めました。
彼らは、市民を守るのが務めの筈ですが、常日頃の振る舞いを見ていると、とてもそんな風には思えませんでした。権力を笠に、何かと難癖をつけては、避難民たちをいたぶるのです。
あるいは、彼らにとって、家を失った人々は、市民とは見做されないのかも知れません。家畜を柵で囲っておくのと、気持ちとしては、そう変わらないのでしょう。
いずれにしても、近寄らないに越したことはありません。普段のアルミンであれば、急いで踵を返し、遠回りしてでも、別のルートを取ったことでしょう。
しかし、今日は、そうはいきませんでした。彼らが、食べ物を手にしているのが見えたからです。引き寄せられるように、アルミンの足は、そちらに向かっていました。...



■『カンデル』Eren & Armin

...それは──罪深いことだろうか。
こんな風に、願ってしまうのは──友人失格だろうか。
伏せた青灰色の瞳から、一粒の滴が、頬を伝い落ちる。それに気付いて、エレンは一旦、顔を上げた。アルミンの頬を、軽く拭ってやりつつ問う。
「怖いか、」
「……」
たとえ、怖い、嫌だ、と言ったところで、聞き入れて貰えるものとは思えなかった。それ以前に、そもそも、アルミンには、彼を拒むつもりはなかった。
乾いた喉を、湿らせて、細く紡ぐ。
「……怖くなんて、ないよ。エレンだから、……怖くない」
声は殆ど掠れて、弱々しく震えた。きっと、ひどい顔をしているだろうことが、自分でも分かる。揺れる視界で、光る緑瞳を頼りに、辛うじて、友人を見つめていた。
触れるばかりの距離で、エレンは、高揚を隠しきれないといった声で囁く。
「……なら、いいよな」
「いいよ、……もっと、噛んで、」
答えて、アルミンは、少しずつ手足の力を抜いた。エレンによって、この身体の上にもたらされるものを、もっと、感じたいと思った。
エレンの手に、身体を押さえ込まれている。エレンの牙に、噛み締められている。鼓動は、狂おしいほどに速い。熱が、甘美な毒のように、全身を覆い尽くしている。
意識が、居場所を失って、拠り所なく、揺れ動いているのが分かる。何も、正しいことなんて、分からないのだと思った。
少なくとも今、エレンは、アルミンを必要としてくれている。アルミンに縋ろうとしている。それが、嬉しかった。
こうして、エレンの役に立つことが出来る。たとえ、獲物としてでも良い。食糧であっても、構わない。巨人の餌になるより、ずっと良い。
エレンに、何かを与えてやることが出来る。それは、彼を守ることに繋がる。今のアルミンに出来ることは、それだけだった。
「エ…レン、」
友人の黒髪に、アルミンはぎこちなく、指を絡ませた。軽く梳いてやると、呼応するように、エレンは顔を上げる。無言のうちに、視線が交錯した。互いの呼吸と、鼓動しか、聞こえなかった。
こくりと喉を鳴らして、アルミンは片手を差し出した。その手首を、エレンの手が取って、引き寄せる。
緑瞳を伏せると、少年は、引き寄せた指先に口づけた。そのまま、口腔に含む。その一瞬一瞬の動きを、アルミンは眩しく見つめた。
エレンが、誰かと取っ組み合いをするとき、エレンが、訓練に汗を流すとき、エレンが、パンを食い千切るとき、アルミンはいつも、エレンが眩しい。彼の、痛々しいまでに躍動する、生命の奔流が、眩しい。
それと、同じだった。指に噛みついてくる、エレンは眩しくて、恐ろしくて、とても美しいと思った。
彼に求められることで、まるで自分までも、同じ段階まで引き上げられるかのような気がした。届かない、光に焦がれて、伸ばした指先から、燃え落ちていくのだと思った。
その、灼けつくような、痛みを、知りたい。
この、苛烈な熱は、彼のものだ。湧き起こる衝動は、彼のものだ。エレン、エレン、と、アルミンはうわ言のように呟いていた。
もっと、教えて欲しい。エレンの、熱を。痛みを。受け容れたいのだ。
彼の熱に、この身体は、きっと堪えられない。それでも、構わなかった。内側から侵蝕されていくような感覚に、アルミンは震えた。
喰われる──エレンに、食われている。危ういほどの熱に、浮かされた。

「くそ、いてて、マジ痛ぇ! これマジ骨折れたわ、どうしてくれんだよジャン!」
「十分元気だろうが……俺だって腕、捻っちまったんだ。ギャーギャー騒ぐんじゃねぇよバカ」
「ジャン、コニー……二人とも、もう少し怪我人らしく、大人しくしていろ」
呑気な声が割って入ったのは、そのときだった。
あ、と思う間もなく、扉が開き、数人の同期たちが、顔を覗かせる。コニーをおぶったライナー、隣には、煩わしげに腕組をしたジャン。彼らの表情は、こちらを見て、瞬時に硬直した。
固まってしまったのは、アルミンたちの側も同じである。咄嗟に、身体を離す余裕もなかった。
寝台の上で、しどけなく服を乱して横たわるアルミンに、圧し掛かって指を咥えるエレン──いったい、その姿が、同期たちからどう見えるか、ようやくアルミンの思考は、回転を始めた。
とりあえず、まずは口から指を抜いて、と考えるより先に、沈黙を打ち破ったのはコニーである。彼は、ふるふると震える指先でエレンを指すと、この世の終わりかと思うような顔で叫んだ。
「エ……エレンが、アルミンを食ってる!」...



■『巨人失格』Titan & Armin

...頬を打擲された勢いのままに、倒れ込みかけた身体は、それを許さぬとでもいうように、今度は強く胸を突き飛ばされた。
受け身を取ることも叶わず、背後の壁に、したたかに背中を打ちつける。小さな苦鳴が、狭い倉庫内に反響した。堪らずに咳き込む少年を、三人の若者が取り囲んで見下ろす。
「良いざまだなぁ、アルレルト君?」
今にも崩れ落ちそうな少年の顎を、無遠慮に掴んで、男は愉悦の笑みを浮かべた。強引に顔を上げさせ、触れるばかりに引き寄せる。
「こんなに小さくて弱いのに、巨人と戦うだなんて、健気だねぇ。泣かせるねぇ」
「でも、ひとりで居残り練習なんて、危ないぜ。怖い巨人が、いつ襲ってくるか」
「……っ放して、…何の用だ、」
息を乱しながらも、アルミンは青灰色の瞳を上げて、相手を睨めつけた。拒絶の意図は、しかし、「はは、怖い怖い」と鼻で笑われるだけに終わった。
「お前みたいなのが、こんなの、着てんじゃねぇよ」
横合いから伸びた腕が、アルミンのジャケットの襟元を掴み、乱暴に肩から引き剥がす。
ずり落ちかけるそれを、少年は急いで羽織り直そうとするが、細い腕は簡単に捻り上げられてしまう。抵抗をものともせずに、男はジャケットを剥ぎ取った。
「やめ、……返せ…!」
背後に回った一人に羽交い締めにされながらも、奪われた制服へ向けて、アルミンは懸命に手を伸ばす。もがく少年を鼻で笑うと、男は手にしたジャケットを地面に投げ捨てた。
「人類を守るとは、ご立派な使命感だな、あァ? 自分の身さえ守れない、『巨人の餌』ふぜいが、いい気になりやがって!」
訓練兵団の紋章をあしらったジャケットを、男は苛立ち任せに踏み躙った。誇り高き双剣のエンブレムが、泥に塗り潰される。
その光景に、アルミンは大きく瞳を見開いた。男を睨めつけて、声を張り上げる。
「こんなことを……っされる、いわれはない!」
「お前にはなくても、こっちにはあるんだよ。立派な理由がな」
言って、男は憎々しげに顔を歪めた。
「納得いかねぇな。お前が残って、俺たちが追い出されるなんてよ!」
自らの言葉によって興奮を煽られたのか、男は繰り返し、ジャケットを足蹴にした。まあ、落ち着けよ、と仲間がとりなす。
「こいつには、それだけの才能があったってことだ。俺たちにはない特技を、持っているから、評価された。体力がなかろうと、立体機動が下手だろうと、それを補って余りある才能がな。そうだろう、アルレルト君?」
優しげな声でもって、男は紡ぐ。しかし、それは一向に、聞く者を安心させる役には立たなかった。それどころか、より警戒心を強めさせることにしかならないのは、何故だろうか。
羽交い締めにされたアルミンの前へ歩み寄ると、男はからかうように、丸めた指先で、少年の薄い胸の中心を叩く。沈黙するアルミンを舐めるように眺めて、男は唇を歪めた。
「──心臓だけじゃなく、身体も、お上に捧げたんだろ?」
「な、……っ」
あまりの侮辱に、アルミンは何か反論をしかけたが、後ろから締め上げる腕に体重を掛けられると、それはただの呻き声にしかならなかった。
少年を黙らせたところで、男たちは下卑た笑みを浮かべた。
「そいつは確かに、俺たちには出来ねぇ点数稼ぎだな」
「その可愛いお顔で、教官に泣きついたのか? どんなご奉仕で取引したんだ、アルミーナちゃん」
ひとしきり少年を馬鹿にしたところで、一人が吐き捨てる。
「腐りきってるぜ。こんなところ、こっちから願い下げだ」
負傷、成績不順、素行不良──たとえ、入団後の最初の試験をくぐり抜け、立体機動の資質を認められていようとも、後に諸々の事情によって除隊処分を受ける者は、一定数存在する。彼らは開拓地に送り返され、生産者として一生を送ることになる。
一度は特権階級の兵士を志し、それなりの訓練を積んできただけに、それは、最初の段階で脱落するよりも非情な宣告となる。
何故、自分たちだけが──そこに至る事情に関わる自らの責任は棚上げにして、自分たちを切り捨てた上官、および、同期の訓練兵に恨みを向けるのは、珍しいことではない。
そして、落伍者どもは、荷物を纏めて兵団を出て行こうという間際に、丁度良い獲物を見つけた。最後にこいつで、鬱屈を晴らしておこう──傲慢と愉悦、そして、圧倒的な劣等感が、彼らを支配していた。
「……自分自身ではなく、自分を受け容れない組織の方を恨むのか。そんなんじゃ、居場所なんて、どこにも見つからない、」
「……なんだと?」
俯いていたアルミンの、小さく、しかしはっきりと呟いた言葉が、男たちの表情から、にやついた笑みを消した。...




[ to be continued... ]
















夏コミ新刊・エレアル中心アルミン総受難短編集『巨人失格』プレビュー(→offline

2013.08.04

back