檻のユーフォリア 3
それから数日間にわたり、エレンは盛大な「しごき」を受ける羽目となったが、結果といえば、「特に変化なし」の他に何も見出すことは出来なかった。
「──ああ、……だるい…」
盛大な溜息と共に、疲れ切った身体を、だらしなく寝台に投げ出す。今夜はもう、起き上がるつもりはなかった。灯りを消すのも面倒で、毛布を引っ被って、身を丸める。いったい、これだけのことをして、どれだけ事態に進展があったかを思うと、暗澹たる心地になる。
分からないことがあれば、分かれば良い、とハンジは言っていた。しかし、これでは、何も分からないまま、「分からないということが、分かる」ばかりではないかと思う。やはり、もう一度巨人化し、実戦でその能力のほどを測るほかには、一歩も前進出来ないのではないだろうか。エレンにとっては、それが一番、分かりやすい方法なのだが、彼の身を預かる者たちにとっては、そうではないらしい。なんとも、もどかしいことである。
いっそ、敵と見做されようと、何であろうと構わないから、自分の内に眠るものを、はっきりと定義して欲しいとさえ思う。このままでは、漠然たる不安が募る一方だ。
もういい、寝てしまおう──そのまま、うとうとと瞼が落ちかかったときだった。
「エレン」
潜めた声が、耳を打つ。閉じかけた瞼が、途中で止まる。何だ、とエレンは小さく呻きながら姿勢を動かした。見れば、階段へと続く扉が、少しだけ開いている。ぼんやりと眺めていると、静かに扉が動いて、麦藁色の髪が覗いた。ああ、とエレンは気の抜けた息をもらす。扉の向こうに、姿を見せたのは、アルミンだった。その胸には、何冊かの書物を抱えている。先日の約束を、生真面目にも、果たそうとしてくれたらしい。
「あ……ごめん、寝てた…?」
扉に手を掛けたまま、室内には足を踏み入れようとせずに、アルミンは問う。その表情には、少し困ったような、気遣わしげな色が浮かんでいる。
「……いや」
緩慢に身を起こして、エレンは答えたが、行き倒れ的に眠りかけていたことは事実である。疲弊しきった様子は、アルミンから見ても、明らかであっただろう。邪魔をしてはいけないと思ったのか、友人は手短に用件を述べる。
「興味ありそうなの、選んだから。ここ、置いておくね」
少しだけ部屋の中に入ってきて、アルミンは、机の上にそっと本を置いた。そのまま、無駄口の一つも叩くことなく、もう役割は果たしたとでもいうように、踵を返す。どこかよそよそしい、その背中に、エレンは咄嗟に声を掛けていた。
「待てよ、……読み聞かせてくれないのか。昔みたいに」
ぴたりと、アルミンの足が止まる。ゆっくりと振り返った、青灰色の瞳には、咎めるような色が映っていた。
「……エレン、何言ってるんだ…」
あきれるというよりは、理解に苦しむ、というような顔のアルミンに、エレンは急いで、弁明した。
「いや、今のは……冗談だ。本当は、…話がしたい」
そう言って、じっと目を見つめてやると、アルミンは、明らかにうろたえた。助けを求めるように、扉の方へ視線を遣って呟く。
「でも……あまり、長居するなって、言われてる」
監視役の先達の動向を気にしているのだろう、アルミンの言葉は予想通りのものであった。エレンは、畳み掛けるように続ける。
「いいだろ、何がいけないっていうんだ……俺が、暴れ出して、お前を捻り潰しちまうって?」
「……それは、」
「お前も、そう思うのか。俺が、怖いから、……行っちまうのか」
「違う……けど、……」
アルミンの表情には、どうしたものかと迷うような、躊躇いの色が浮かんでいた。それでも結局、この友人には、自分の懇願を撥ね退けることは出来ないのだと、エレンは知っていた。寝台から腰を上げて、ゆっくりと距離を詰める。触れるばかりに近づいても、アルミンは逃げようとはしない。その手に、軽く手を重ねると、ひくりと小さく震えるのが分かった。安心させてやるように、指先をそっと、握ってやった。
「こっち、来いよ」
「……うん」
腕を引いて、寝台へと誘う。大した抵抗もなく、アルミンはエレンに従った。
「エレン、……今日は、どうしたの」
吐息も感じ取れるほどの距離で、アルミンは、囁くようにして問うた。きし、と寝台が小さく軋む。促されるまま、アルミンはエレンと共に、寝台に腰掛けていた。といって、二人並んで隣同士に座っているのではない。
アルミンの問いに、エレンは溜息交じりに、ぼそぼそと応じる。
「どうもしねぇよ。ただ、疲れた」
「なら、早く寝たら良いのに……」
友人を後ろから抱いた格好で膝の上に座らせて、首筋に顔を埋めている場合ではあるまいに、とアルミンはあきれ気味の声をこぼした。その身体は、背後から、しっかりとエレンの腕が回って拘束している。頼りなく細い背中に縋るようにして、エレンは友人と身体を密着させていた。
ああ、落ち着く、とエレンは腕の中から伝わる温もりに身を委ねた。この体勢を、最初は恥ずかしいといって嫌がっていたアルミンであるが、どうせ誰も見ていやしないだろうと言ってやったら、それきり大人しくなった。柔らかな金髪に、エレンは、存分に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「ちょ、エレン……くすぐったい、よ」
腰に回ったエレンの腕を、アルミンは、軽く叩いて訴える。それさえも、エレンには、心地の良い刺激でしかなかった。構うことなく、深呼吸を、繰り返す。
そうだ、こうすれば、あの焦燥も、不安も、鎮まる。いつだって、アルミンさえいれば、戻ってこられる。その姿を見て、声を聞いて、触れたならば、いつだって──それを確かめるように、エレンは、友人の首筋に頬を擦り寄せた。
「……子どもみたいだ。さっきから」
溜息混じりに、アルミンは呟いた。あきれたような、その台詞の内容とは違って、声は、優しい温もりを含んでいる。エレンの手に、アルミンの手が、そっと重なる。柔らかな感触に包み込まれて、エレンは、身体の強張りが融けていくのを感じた。ゆっくりと、根気よく、アルミンはエレンの手を撫でてくれる。それは、くすぐったく、優しく、エレンを満たした。
「エレン。……どうしたの」
先ほどと同じ質問を、アルミンはもう一度、繰り返した。今度は、エレンも、何でもないとは答えなかった。暫しの沈黙の後、意味もなく、アルミンの指を絡ませながら、呟く。
「分からねぇこと、だらけなんだな……自分のこと、だってのに」
苦々しい記憶を呼び起こして、エレンは眉を寄せた。
「ジャンに言われた通りだ。俺は、俺自身のことも、未だに何も、分かっちゃいねぇんだって……そんなもんのために、お前らは、……」
人類が巨人に対して初めて勝利した、あの戦いを思い起こす。偉大なる勝利の栄光と、多大なる犠牲──自分が動くとき、きっとまた、大勢の仲間が命を落とすだろうことを、エレンは承知していた。知っている顔ばかりが、奴らに蹂躙されて、喰われる、そんな光景が、容易に目に浮かぶ。
「それで、俺は……生き残るんだろうな。あの力を使って、仲間を犠牲にして、……お前たちを、捨て置いて」
「エレン……それは、」
言い掛けて、アルミンは口を噤んだ。その通りだ、と言いたかったのだろう。それが、正しいことなのだと、言いたかったのだろう。仲間を大勢犠牲にして、見知った顔を失って、その屍を踏み越えてでも、エレンは生き延び、戦い続けなければならない。それが、宿命だ。割り切れ──そう、言い掛けて、しかし、アルミンは言えなかった。こいつは、優しいから、とエレンは胸の内で苦笑した。同時に、その優しいアルミンを困らせている自分が、無性に情けなくなる。
「俺は、ここにいて、良いんだろうか。こんなんで、……戦えるのか。奴らを、ぶっ殺せるのか、」
そこで、エレンは、視線を落とした。左腕を、ぎこちなく、持ち上げる。一度千切れて、蘇った腕──化物の腕だ。
「いや……殺されるのは、俺か?」
ぽつりと呟いた、自分自身の言葉に、指先が小さく痙攣した。それを、悟ったのだろうか。膝の上のアルミンが、身体をずらして、振り返る。向きあう姿勢をとるや、腕を伸ばして、アルミンは、軽くエレンの頭を抱いた。
「エレン。焦っちゃ駄目だ……落ち着こう」
「っ……」
気付けば、その肩口に、顔を埋めていた。縋りつくように、背中に腕を回して、抱き寄せる。アルミンも、ゆっくりと手を回してくるのが分かった。背中を撫でられる感触が、泣きたいくらいに、優しかった。
力があれば、不安も、恐怖も、感じなくて済むと思った。力があれば、勝てる。もう何も失わなくて済むと、単純に、信じていた。それがどうだ。圧倒的な力を手にしたところで、ちっとも、愉快な気分にはならない。
「俺は、ただ……死なせたくない、だけなのに、」
「うん……そうだよ、エレンは、いつもそうだ。そのおかげで、僕たちは生きている。……これからも、生き続けられるよ」
どうして、アルミンは、こんな自分に付き合ってくれるのだろう。優しい言葉を掛けて、励まそうとしてくれるのだろう。エレンが、一番欲しい言葉を、言ってくれるのだろう。溢れ出るものを、エレンは、堪えることが出来なかった。
「俺が、一人で、走っていけばいいのに……一人で、戦えれば良いのに、そうはいかない。一人じゃ、何も出来ない……子どもの頃と、同じだ、」
自分の力では、人間の身体に戻ってくることすら出来ない。そんな無力な自分を支えてくれる、アルミンに甘えて、エレンは、他では決して吐くことの出来ない弱音を口にした。それさえも、アルミンは、理解し、受け容れてくれる。
「もどかしいかも知れないけれど、……エレンは、人間だよ。僕たちと、同じ。馬を駆って走るのも、巨人との戦闘を避けるのも……当たり前だ。僕たちは、……一緒に、行こう」
背中を撫でてくれていた手が、静かに動いて、肩から腕へと伝い下りる。化物の腕を、アルミンは、しっかりと握って、力づけてくれた。
──外の世界へ、一緒に。
そう言って、二人で瞳を輝かせていた、幼い頃の情景が、ふっと眼前を過ぎった。どこへでも行ける、何にだってなれる、何だって出来ると、あの頃、信じていた。微かな痛みが、胸を噛む。
黙り込んだエレンを、納得してくれたものと見做したのだろう、アルミンは安心したように息を吐く。
「じゃあ……じきに、消灯だから」
回された腕を外して、アルミンは静かに身を起こす。密着していた温もりが、離れていく。瞬間、ぎり、とエレンの心臓が痛んだ。今度は、はっきりと分かった。足りない──まだ、足りないのだ。もっと、触れなくては──分からない。
自分が、分からない。
「まだ、いいだろ」
「っ、あ……」
手首を掴んで、ぐ、と引っ張ると、アルミンの身体は、あっけなくバランスを失った。寝台の上に投げ出されて、小さく声が上がる。エレンもまた、静かに寝台に上がった。ゆっくりと、友人に覆いかぶさる格好をとる。あの月の晩と同じだが、今度は、屋外の草の上などではなく、寝台の上である。勢い任せの前回とは違う。本を貸してくれ、という口実を使ったときから、何とはなしに、こうなるだろうことは分かっていた。幾分か落ち着いた心地で、エレンは姿勢を低くした。
「また、やるの……」
エレンの影の中で、アルミンは戸惑いの声を上げる。両腕に体重を掛け、出来るだけアルミンの負担にならない姿勢を取りながら、エレンは、「今度は、気を付けるから」と応じた。友人の懇願に、アルミンは、仕方ないなというように、四肢の力を抜いた。
「……ん、…」
首筋に顔を埋めると、くすぐったそうに身じろぐ、アルミンの反応が、触れ合わせた身体から感じられて、エレンは気分が良かった。アルミンが、エレンを感じてくれている。彼のささやかな反応の一つ一つが、エレンを証する。
もっと、感じさせてやりたかった。描写して欲しかった。そうすれば、ここにいるのだと分かる。エレンも、アルミンも、ここにいるのだと分かる。初めて、安心出来る。
「アルミン……もっと、」
頬を擦り寄せて、細い首筋に、顔を埋めた。
「ふ、……」
ふる、とアルミンは肩を震わせる。もっと、教えて欲しい、とエレンは思った。柔らかそうな耳の後ろに、唇を寄せる。小さく震える身体を、宥めるように押さえ込んで、耳朶をそっと噛んだ。
「あ、っ……」
今度こそ、アルミンの唇から、上ずった声がこぼれる。
ああ、そうか、こうして触れることも出来るんだ──何か新しい発見をしたような気分で、エレンは、友人の首筋に、喉元に、唇を寄せた。軽く吐息で撫でてやるだけで、アルミンは敏感に背を跳ねて応じる。
ここに触れたら、どんな声を上げるのだろう。どんな風に触れるのが、一番、感じるのだろう。好奇心のままに、エレンは、アルミンを探った。胸元に掌を押し当て、確かめるように、ゆっくりと伝い下ろしていく。薄い身体が、手の中で、ひくりと跳ねるのが分かる。
「……喜んでるのか? アルミン」
「っ……エレ、ン……」
恥ずかしいのか、密やかに吐息を押し殺して、咎めるように紡がれるアルミンの声が、耳に心地よい。そうしているうちに、じわり、じわりと、あの熱が湧き起こって、脳を痺れさせる。
「アルミン、……」
熱に浮かされた心地で、エレンは身体を密着させた。柔らかな金髪を、ぎこちなく撫でる。目を伏せて、アルミンは小さな吐息をこぼした。柔らかそうな、その唇に、エレンは知らず、喉を鳴らした。食らいついたら、どんな感触がするのだろう。何を、教えてくれるのだろう。
いけないことなのだろう、とは思った。幼い頃から、少なくない時間を共に過ごして、エレンはアルミンに対して、たいていのことはしてきたと思っている。泣きじゃくるアルミンを、抱き締めて撫でてやるのはいつものことであったし、殴りこそしなかったものの、取っ組み合いくらいならば経験がある。同じ布団で眠ることも、風呂に入ることも、言うまでもない。
その細い肩や腰、少し小さな手、柔らかな頬、光に透ける髪、どれも、数え切れないくらいに、触ったことがある。それでも、すぐ目の前にあるのに、唇に触れたことはなかった。思えば、不思議なことだった。首筋に吸いつくくらいならば、まず最初に、そこに気付いてしかるべきだった。
友人として、アルミンのことは、何でも知っておきたいと思う。触れて、味わって、確かめたい。引き寄せられるように、姿勢を前傾する。
触れたい──食いたい。
「……だめ」
今にも、唇が触れ合わされるというところで、アルミンは顔を背けた。初めての、抵抗らしい抵抗だった。自分のしようとしていたことを棚に上げて、エレンはもどかしく問う。
「なんで」
「エレンが、汚れる」
顔を背けたままで、アルミンは、それだけ、短く言った。片手が上がって、口元を覆う。その指先は、微かに震えていた。固く目を閉じて、アルミンは、ふるふると金髪を揺らす。
「こんなの、食べちゃいけない」
食べては──いけない。
その言葉の意味を、エレンは咄嗟に、理解することが出来なかった。ただ、友人に拒まれたという事実だけ、はっきりと感じた。それは、反駁も忘れて茫然とする程度には、エレンにとって、予想し得ない展開であった。アルミンが、理解出来ない理由によって、エレンを拒絶したことは、これまでに一度もなかったからだ。
すぐに、説明してくれるのだと思った。いつものような、理路整然たる言葉で、こちらを納得させてくれることを、エレンは期待した。しかし、アルミンは、それ以上、何も言おうとはしなかった。中途半端な体勢で、ただ、時間だけが流れていく。
アルミンの片手が、ゆっくりと上がる。その手が、優しく頬に触れ、引き寄せてくれるのではないかと、エレンは夢想した。しかし、淡い期待を裏切って、その手は、よそよそしく、エレンの胸を押した。
「……どいてくれ。もう、いいだろ」
その程度の力では、覆い被さるエレンを押し返すにはとても足りなかったが、エレンは自ら、身を引いた。アルミンが、どけと言ったから、どいてやった。それくらいしか、今のエレンに、出来ることはなかった。何と言ったら良いのか分からずに、もどかしく、口を開く。
「あぁ……その、……ごめんな、」
ううん、とアルミンは緩慢に姿勢を起こしながら、小さく首を振った。言葉だけは、いつも通りの、何でも許してくれる優しいアルミンであったが、見せる態度は、そうではなかった。俯いたまま、決して、こちらと目を合わせようとしない。硬く引き結んだ唇は、エレンの名を呼ぼうとしない。アルミンは寝台を降り、止める間もないまま、扉へと向かう。
「……おやすみ」
小さな背中に、エレンはなんとか、それだけ告げた。聞こえたのか、聞こえなかったのか、アルミンが振り返ることはなかった。扉を閉める、無慈悲な音だけが、室内に響いた。
せめて、扉までの数メートルとはいえ、友人を送り届けてやるべきではなかったかと、エレンは後から思ったが、既に遅い。そのときのエレンには、アルミンを気遣う余裕などはなかった。ただ、居心地の悪い空気を嫌って、アルミンから離れることしか、出来なかった。要するに──逃げたのだ、と気付いたのは、月もだいぶ傾いてからだった。
崩れ落ちるようにして、寝台に身を投げ出す。蓄積した疲弊が、一気に全身に押し寄せていた。
「……なんなんだよ」
虚空に向けて、呟く声は、誰に拾われることもなく石壁に吸収される。八つ当たり気味に枕を叩いて、エレンは寝返りを打った。
いったい、自分は、何にこんなにショックを受けているのだろうかと思う。拒まれたことが、そんなに無念であったのかと思うと、あまりに自分が情けないが、それとも違うような気がする。だから──分からないことが、ショックなのだ。
冷静になって考えてみれば、あれが行き過ぎた行為であったことは、一応、エレンも理解している。これまでにしたことがないから、してみようと思ったのだが、やはり、していないことには、していないなりの理由があった。それは、友人同士ですべき行為ではない。そういうことに、なっている。熱に浮かされた思考で、エレンは、別に構わないじゃないかと思ったのだが、アルミンにとっては、そうではなかったのだろう。驚かれて、拒まれたとしても、仕方がない。
しかし、妙なこともある。それまでは普通に──という表現を、こんな場面で使って良いのか分からないが──変わったところなく、従順に、身体を重ねていたのだ。あの行為も、あまり友人同士でするようなことでもないような気がするが、それについて、アルミンは、特別に拒む素振りは見せなかった。それなのに何故、唇を重ねようとしたときだけ、頑なに拒んだのだろうか。身体よりも、ずっと小さな、そこだけは、許してくれなかったのだろうか。
──「汚れる」と言った。
アルミンが、何を言っているのか、エレンには分からない。それを、問い質すことも出来なかった。
もしかすると、アルミンは、自分が汚れているとでも思っているのだろうか? それならば、彼の言葉を否定してやらなかった自分は、とんだ極悪人である。あれでは、アルミンの言うことを肯定したようなものではないか。お前は汚れているといって、手を引いて、逃げ出したのと同じだ。友人失格とさえ言って良い。己の仕出かしたことを思うと、エレンは、堪らずに頭をかきむしった。
勿論、エレンは、アルミンが汚れているとは思わない。友人が何を指して、そんなことを言い出したのか、まったく見当がつかないが、何にしても、「汚れる」というのは、アルミンから最も遠いところに位置しているように思う。
まっすぐで、生真面目で、心優しい、勇敢な、あの友人は、いつも真っ白で、温かいのだ。幼い頃から、ずっとそうだった。アルミンが、そのままでいられるようにと、エレンは彼を守ってきた。友人のことは、誰よりよく分かっている。
「……お前の方じゃねぇか、」
──汚れた、この手を取ってくれたのは、アルミンの方じゃないか。
己の拳を、エレンは忌々しく握り締めて、それから、深く息を吐いた。アルミンが何を考えているのか、分からない。友人との間の壁を、否でも実感させられる。
どうして、アルミンは、あんなことを言ったのか。
──食っては、いけない。
地面に落ちた食べ物を指して言うような、腐りかけた果物を指して言うような、そんな風に、自分自身を──描写したのだろうか。エレンが、人間を喰らう、巨人の力を有しているからだろうか。食われてしまう、と恐怖が過ぎったのだろうか。もしも、友人にまで怖がられるようになってしまったのだとすれば、エレンは、どうすれば良いか分からなかった。陰鬱な闇の中の、小さな灯りが、かき消されてしまったら、どうすれば良い。何を目印に、歩めば良い。
──いくら考えても、分からないことだ。
そろそろ、頭が回らなくなってきた。頭脳労働なんていう、慣れないことをするから、こういうことになる。
夜のせいだ、と思った。こんな場所で生活しているから、お互いに、おかしくなっていたのだ。自分というものが揺らいで、不安定になっていた。それで、エレンはあんな、思いもしない行動に出てしまったし、驚いたアルミンは、突拍子もないことを口走ってしまった。そういうことにしておけば良い。
明日になれば、きっと、何もかも元通りになっている。そう期待して、エレンは目を閉じた。周囲の闇が、いっそうに濃くなった。
──汚れる。
──食っては、いけない。
それが、いったい、どういう意味であるのかは、分からないままだった。
■
小さな影が、扉を押し開け、仄かな月光の下に姿を現した。影は、頼りない足取りで、石段へと向かう。井戸の前で、影は足を止めた。
「エレン……」
影──アルミンは、ずっと押し殺していた息を吐いた。それとともにこぼれ落ちた声は、縋るような、祈るような、切ない響きを宿していた。
そろそろと、自分の頬に指先を這わせて、アルミンは、その温度を確かめた。紅潮した頬から、指先に伝わる火照りに、堪え難い、というように目を瞑る。
「……駄目だよ、……いけない、」
ぎこちなく、自分で自分の肩を抱く。きゅ、と力を込めて、アルミンは、小さく呻いた。
「エレン、……エレ、ン…」
そのまま、くずおれるようにして、アルミンは、井戸にもたれた。膝を抱えて、うずくまる。
親友の名を、切なく呼び続ける唇に、アルミンはきつく掌を押し当てた。押し殺した嗚咽が、夜の静寂に溶け消えていった。