檻のユーフォリア 4
同じ兵団に所属し、同じ城内で鍛錬に励んでいるとはいえ、昼食の時間も、場所も、同期たちとばらばらになってしまうのは、異なる任務に就いている以上、仕方のないことである。エレンはリヴァイ兵長率いる特別作戦班と行動を共にし、一方で、同期の新兵たちは、講義で知識を叩き込まれた後、乗馬して長距離索敵陣形の動きを身体で覚えている最中だろう。
なにしろ、これまで、徹底的に集団生活に心身を嵌め込んできたものだから、はじめのうちエレンは、自分だけ特別扱いをされることに慣れなかった。全員で食卓に着き、同じメニューを同じ時間で摂る。それが、三年間の訓練課程で、毎日繰り返し、身体に刻まれたリズムだ。
だから、たまたま食事時に、同期たちと食堂で顔を合わせることが出来たのは、純粋に、喜ばしいことであった。先に食卓に着いていたエレンは、慣れ親しんだ同期たちの姿を見つけると、先達らに断った上で、僅かな自由時間を与えられた。テーブルへ駆け寄り、空席に腰を下ろす。
「よ。真面目にやってるか」
「お前に言われるまでもねぇよ」
周囲の同期らと、そんな軽口を交わし合う。こうしていると、まるで、三年間を過ごした、あの訓練兵団の食堂に集っているかのようだ。調査兵団を志願した際、各人の浮かべていた悲愴な決意の表情は、少なくとも表面上は覆い隠され、いつもの馬鹿話に花を咲かせている。あるいは、それは、一ヶ月後に控えた壁外調査に向けて、否応なしに圧し掛かる重苦しい緊張感を、せめて食事時くらいは和らげたいという、無意識の抵抗なのかも知れない。
向かいの席のミカサは、落ち着かなそうな様子で、エレンを見つめて深刻に眉を寄せている。
「エレン、そっちはどう? 無茶を強いられたりは、していない? 実験の名のもとに、限界まで傷めつけられたりとか、あられもない姿を晒す羽目になったりとか」
「してねぇって……こっちのことは、心配すんな」
ミカサの懸念は、ある意味で正解にほど近かったので、限界までしごかれて死にかけたことは、伏せておくことにした。いったい、こいつの目には、俺や先輩方がどんな風に見えているのか──こればかりは、掛け値なく、いつも通りのミカサの様子に、エレンはあきれるというよりは、ほっとしていた。
「……アルミンは、どうだ? ちゃんと、やっていけてるか?」
その隣で背中を丸めている、今一人の幼馴染へと向き直って、エレンは問うた。極力、普段通りの調子で声を掛けたつもりであったが、少し、わざとらしかったかも知れない。妙に、気遣うような、遠慮がちな口調になってしまった。そんなエレンの不器用な言葉に反応して、アルミンは、小さく肩を跳ねる。
「あ……う、うん、大丈夫……」
「……どうしたの、アルミン」
どことなくぎこちない二人の遣り取りの間に、ミカサの不審げな問いが差し挟まれる。もしや、気付かれたか、とエレンは内心で慌てた。なにしろ、幼い頃から共に過ごしてきた仲であるから、少しの異変を敏感に感じ取られたとしてもおかしくはない。しかし、エレンの危惧に反して、彼女は、じっと机の上に視線を注いでいた。そして、ぽつりと呟く。
「全然、食べてない」
つられて見れば、確かに、アルミンの皿の中身は、殆ど減っていない。緩く頭を振って、ミカサはパンの皿をアルミンの前へ押しやった。
「午後も長距離の移動があるのだから……食べなくては、もたない」
「うん……」
力なく頷くものの、アルミンは、なかなかパンに手を伸ばそうとはしなかった。心なしか、頬が白く、血の気が引いているように見える。そこへ、横合いからヤジを飛ばすのはジャンである。
「いいだろ、気分悪いってのに無理して食っても、ろくなことにならねぇよ。馬の上で吐かれて、こっちにぶちまけられても堪らねぇ」
言って、挑発的に肩をすくめてみせる。
当初よりエレンと反りの合わなかったジャンであるが、どうも首席卒業のミカサをもライバル視しているのか、何かと彼女に突っ掛かる傾向がある。たいていは相手にされないか、ひと睨みされて黙る羽目になるのだが、懲りないことであると、いっそ感心するほどである。しかし、彼の発言は、今ばかりは、女子からの不評を買うこととなった。
「仮にも食事中にする話かよ……」
嫌悪感もあらわに眉を顰めるユミルを筆頭に、クリスタは困ったような表情を浮かべているし、ミカサは温度を感じさせない瞳でジャンを睨めつける。サシャだけは、威勢よく食事を掻き込み続けていたが、彼女はカウントしなくて構わないだろう。
さすがに、己の失言に気付いたのか、ジャンは周囲からの冷たい視線にたじろいだ様子を見せた。小さく舌打ちをして、何やら呟きながら、そっぽを向く。
「……スープだけでも、飲んどけば十分だろ。消化にも良い筈だ」
「……そうするよ」
意外なことに、捨て台詞めいたジャンの言葉に、素直に同意したのはアルミンだった。自分を馬鹿にした張本人の勧めに従うとは、エレンにはその気持ちはよく分からない。
スプーンを手に取る、アルミンの表情に、微かな安堵の色が見て取れたのは、気のせいであっただろうか。これでは、まるで、食事を摂らずに済む理由をつけることが出来て、ほっとしているかのようだ。
結局、アルミンはスープを呑み干し、パンは丸ごと残して、早々に席を立った。
「じゃあ……先に、行ってるね」
「おい、アルミン、」
どうも様子がおかしい──今にも、この場を離れようとする友人を、エレンは咄嗟に呼び止めていた。もしや、こちらを避けようとしているのだろうか。昨夜のことを、この繊細な友人は、思いのほか、気にしてしまっているのかも知れない。そうだとすれば、エレンが食卓に着いたことで、アルミンは、落ち着いて食事が出来なくなってしまったのだろうか。そんな風に、迷惑を掛けてしまっていたのならば、可哀想なことをしてしまった。
俺はもう行くから、お前はゆっくりしていけよ──そう言って、安心させてやるつもりだった。しかし、エレンが口を開くより前に、肩越しに振り返ったアルミンが声を発する方が、早かった。
「良かったら、……食べて」
「……え、」
小さく告げられた言葉に、エレンは瞠目する。それ、と言って、アルミンは食卓を指差してみせた。その先には、手つかずのパンがある。エレンが、それを欲しがって、呼び止めたものと思ったのだろうか。それとも、話題を逸らしたのか──そうこうしているうちに、アルミンは振り返ることなく、足早に食堂を後にしていた。残されたパンを見遣って、エレンは苦々しく呟く。
「……なんだってんだよ」
溜息とともに、エレンは皿の上に手を伸ばした。硬く焼き締められたパンの重みを、掌に確かめる。
──良かったら、食べて。
その言葉とともに、思い出すのは、飢えと寒さに暗く覆われた、開拓地での日々だ。繰り返す、停滞した日々の中で、その言葉だけは、腹の満たされる温かな感覚とともに、鮮明に覚えている。時折、アルミンはそう言って、どこからか手に入れたパンを、エレンとミカサに渡していたのだ。噛み切れないほど硬く干からびたライ麦パンを、三人で分け合って、少しだけ、空腹を紛らわせることが出来た。パンを咀嚼するエレンたちを、アルミンは、満足げに微笑んで見つめていた。
懐かしい記憶に想いを馳せながら、エレンは、ふと呟く。
「そういや、あれって……どこから、手に入れてきたんだ……?」
「食べ物の話ですか? 交ぜてください」
正面から、そんな弾んだ声が飛んできて、エレンは視線を上げた。空いたアルミンの席に、抜け目なく腰を下ろしたのはサシャである。自分の皿を片づけた上で、どこかで余りが出ないものかと、目を光らせているらしい。正式に調査兵団の一員となった今でも、やっていることは、訓練兵時代と変わりない。それは、嘆かわしいというよりは、むしろ微笑ましいといった方が正しいだろう。エレンが、ミカサやアルミンの存在によって、ひととき心を休めているのと同じように、彼女の振る舞いによって、同期たちの不安や緊張も、幾分か軽減されているのではないだろうか。
しかし、今の自分の独り言のどこにも、食物を表す単語は含まれていなかった筈だが、彼女はどこに反応したのだろう。心を読まれたようで、エレンは戸惑わざるを得なかった。
「別に、食いものの話じゃ……いや、まあ、そうなんだが……何で分かるんだよ」
「私の耳をなめてもらっては困りますね、エレン。三キロメートル先のウサギの寝息さえも、私にはありありと聞き取れます。エレンの心の声など、朝飯前ですよ」
自慢げに胸を張るサシャに、目を輝かせて食いつくのはコニーである。
「マジで!? すげー!」
「いや、それはねぇよ……」
ああ、本当に、変わらない──あきれながらも、エレンは心地良く肩の力が抜けるようだった。
アルミンが手を付けなかった小皿の中身を、勝手に口に放り込みながら、サシャは呑気な笑顔を見せる。
「アルミンなら、大丈夫だと思いますよー。お腹が空けば、自然と食べるようになりますって」
飼っている犬猫の話でもするかのように、彼女はお気楽に言う。お前にそう言われても、まったく大丈夫だとは思えないのだが、とエレンは内心で思ったが、口に出すことはしなかった。そうしているうちに、サシャは早くも、次の皿を片付けに移っている。
「ほら、私を見てください。ここへ来た当初は、不安と緊張で何も喉を通らない状態でしたが、今はこうして、おいしく食事をしています」
「初日から食い漁っていたように思うけど……」
隣のミカサが、ぼそりと呟く。新兵として行動を共にしてきた彼女が言うのであれば、そうなのだろう。そうでしたっけ、などとサシャは屈託なく首を傾げている。
確かに、正式に調査兵団の一員となった今、食事内容は訓練兵団時代のそれより、量、質ともに、幾分か格上げとなっている。切り屑ではない野菜が数種類入って、ちゃんと味のついたスープを飲むのは、何年ぶりだろうか。
食事の向上は、それに見合うだけの働きを期待されているという証であり、また、圧倒的な死亡率の高さで知られる危険な職務にあたる者たちへの、せめてもの慰めであるのかも知れない。
そこまで考えているのかどうか分からないが、サシャは訳知り顔で言う。
「食べられなくなったら、終わりですもん」
「終わりって、」
咀嚼していた芋と葉野菜の炒め物を、サシャはごくりと飲み下し、平然と応じる。
「命の終わりです」
しん、と一瞬、鼓膜が冷たく鳴った気がした。小さく喉を震わせて、エレンは応じる。
「さらりと言うなよ、そういうこと……」
いかなるときも明るく無邪気で、ときに馬鹿らしくも見える態度のために騙されそうになるが、彼女の語る内容は、実は相当に厳たるものだ。自分の喰らうものを、自分の手で仕留めてきた者ならではの、現実感覚なのだろうか。食べることが出来なくなったら、終わり──それは、医者である父の仕事を間近で見てきたエレンにも、実感として納得の出来る話であった。
「聞きましたよ。開拓地でのこと」
不意に発せられた、その言葉に、エレンは思わず、身を硬くした。それから、ああ、そういうことかと、サシャの妙に勘の良すぎる言動に納得する。
ウサギの寝息はともかくとして、ペトラ達との会話を聞かれていたのは、本当であったらしい。なんでも、旧本部内を探索中に、焼き菓子の匂いに惹かれて、談話室の前まで至り、さすがに中に這入る勇気はなかったが、茶会の様子を羨ましく眺め、ついでに会話を耳に挟んだということだ。盗み聞きが礼儀に反した行為であるという意識は、おそらくサシャの内には存在しない。
エレンがアルミンの残したパンを片手に、物思いにふけっているのを見た彼女は、すぐさま、そのとき仕入れた昔話を思い起こし、見事にエレンの心中を当ててみせたということだ。まったく、食いもののこととなると、驚くほど回転の良くなる頭をしている。
「数少ない食べ物を、皆で取り合う。どこだって、やっていることは同じですね。開拓地にしても、森にしても、市街にしても、兵団にしても。この壁の中、それ自体が、そういう仕組みになっているんですから」
神妙な顔をして、サシャは人差し指を立てる。辺りの皿はあらかた喰い尽してしまったので、今度は食べるよりも喋ることに口を集中しようということらしい。
「狩りの秘訣は、皆と同じ場所で狙わない、ということです。たとえ多くの獲物が見込める地点であっても、そこへ皆が集中してしまえば、旨味なんてありません。血みどろの奪い合いになるだけです。結局、利益を得るのは、最初にそこに目をつけて陣取った者たちだけなんですから。人間同士で争っても仕方ありません、お腹が減るだけです。なので、私たち孤高の狩人は、自分だけの狩り場、自分だけの獲物を探し求めて、今日も森を往くのですよ」
「……へえ」
たまには、しっかりしたことも言うものだ──気付かぬうちに、エレンはサシャの語り口に引き込まれていた。自分の育った環境とは異なる、狩の世界の話は、純粋に興味があるし、命の遣り取りをするという状況には、興奮を覚える。狩り場の話は、エレンにも理解しやすかった。丁度、開拓地での暮らしを回想していたためもあるだろう。天井を仰いで、エレンは、今となっては遠く思える過去に思いを馳せる。
「ああ……そういやあの頃、近くの森の中で、たまたま食える木の実、見つけたことがあったっけ。俺とミカサとアルミンで、薪拾いしてるとき、……だったよな」
そのときも、黙ってこちらに寄り添っていた幼馴染を横目で見遣って、エレンは問うた。そう、とミカサは静かに首肯する。
「お手柄じゃないですか!」
サシャははしゃいで声を上げる──自分のことでもないというのに、食べ物を発見した話というだけで、彼女には嬉しく感じられるのだろう──が、話はこれでめでたく終わるわけではない。浮かれるサシャに対して、ミカサは物憂げに首を振ってみせる。
「でも……大人に報告したら、あっという間に話が伝わって、次の日には全滅していた」
「……ああ……でしょうね……」
「だな……黙っとけば良かったんだ。皆で仲良く分ける、なんて、出来るわけないんだから」
三人だけの秘密にしておけば、こっそり腹を膨らませることも出来た筈だ。丸裸になった木を、茫然として見上げたときの、あの喪失感が、胸を小さく締め付ける。同じ、故郷を追われた開拓民という集団内でも、こうなのだ。壁の中の人類が一致団結して助け合い、共通の脅威に立ち向かうだなんて、夢物語に過ぎない。
だからこそ──今になって、思うのだ。片手のパンを、じっと見つめて、エレンは思う。
あの頃、「良かったら、食べて」と言って、アルミンが差し出した、あのパンは──どこから、貰ってきたのだろうか。
エレンの内心を読んだかのように、サシャは首を傾げる。
「しかし、妙ですね。配給のパンの数には、限りがあったんでしょう。誰かがアルミンにパンを上げたら、その人の食事はどうなるんです? そんな過酷な状況で、そこまで親身になってくれる人がいますか?」
どうしてこいつは、普段は馬鹿みたいな言動しかしないくせに、こういうときだけ妙に頭が回るのだ──それは、エレン自身、疑問に思いつつも、目を背けてきたことであった。触れられたくないところに触れられた思いで、エレンはそっけなく応じる。
「……いたかも知れないだろ」
説得力が無いにもほどがある返答であったが、おおらかな性格のサシャは、それを指摘することはなかった。興味は、いかにして食糧を確保するかという作戦に移行したようで、ぽんぽんと思いつきを口にする。
「あとは、食糧庫から盗むか、配給の隙を突いて盗むか、駐屯する兵士の食糧から盗むか」
「アルミンは盗みなんてしない」
そういうことが出来る奴であれば、もう少し、要領よく立ち回ることが出来ただろう。頭は誰より切れるくせに、不器用なくらいにまっすぐすぎる性格が、アルミンを余計な苦悩に陥れている。他人を上手く使って利益を得るだとか、誰かを頼って難を逃れるということが、出来ない性質なのだ。訓練兵団時代の演習でも、見かねた同期らが手助けしてやろうとするのを、アルミンは頑なに拒んでいた。無償の厚意や、憐憫による施しを受けるのを、アルミンは何より嫌っていた。何も代わりに差し出せないのだから、何も受け取ってはいけないと、彼の頭の中では、そういう規則になっていたのだろう。
自分自身、不器用であると自覚しているエレンから見ても、アルミンは相当に頑固で、生真面目で、思い詰めやすい。逆にいえば、そういう彼だからこそ、まったく性質が違うようにも思えるエレンと、親しく付き合うことが出来るのかも知れない。
とはいえ──今は、その関係性の雲行きが怪しい。どうしてこんなことになってしまったのだろうかと、エレンは知らず、溜息を吐いていた。
向かいでは、相変わらず、サシャが頭を捻っている。また何かを思いついたらしく、あ、と彼女は机の上に身を乗り出した。
「それなら──取引、というのはどうでしょう。パンと、何かの物々交換です」
「何かって何だよ」
あまり期待せずに、エレンは義務的に訊いた。んー、と宙を見上げて、サシャは呟く。
「……肉とか? 野菜とか?」
「あのな……そんな、価値のあるもん持ってたら、苦労してねぇよ」
やはり、訊くのではなかった。食べ物関係の話であるから、何か鋭い一言が飛び出すのではないかと密かに思っていたが、どうやら買い被りすぎであったようだ。やはり、サシャはサシャであった。
内心で失礼なことを思われていることも知らずに、サシャは納得したように、うんうんと頷いている。
「ですよね。つまり、まとめると、食べ物を手に入れるのは大変ということです。たとえそれが、一切れのパンであっても。それでも、大変な思いをしても、人は、食べ物を求めなくてはいけません」
総括して、サシャは最後に、背筋を正した。瞳には、高潔なまでの強い光が宿っている。普段、見慣れた飄々たる態度とは異なる印象に、エレンは知らず、たじろいだ。彼女は、まっすぐにエレンを射抜いて、言った。
「生きることは──食べること、ですから。ところでエレン、そのパン、貰って良いですか?」
■
アルミンから譲られたパンを、乞われるままにサシャに提供してしまったから、というわけでは確実にないが、その日の午後はさんざんだった。立体機動の目測が甘い。斬撃のタイミングが合わない。馬にコケにされる。いったい、何がいけないのか分からずに、焦るほどに、努力が空回りするばかりであった。
エレンの失態を、リヴァイ兵長は終始、黙したまま、一片の温度も存在しない瞳で見据えていた。何も言って貰えないというのが、エレンにとっては、いっそうに辛かった。恫喝めいた叱咤と罵倒を浴びせかけられる方が、まだ幾分かましだった。
地に膝をついて汗を拭うエレンに、見かねた先達の叱責が飛ぶ。
「いくらお前に特別な力があるとはいっても、それに頼るのは危険すぎる。基本をおろそかにしては、生き残れないぞ」
「はい……勿論です」
掠れた声で応じて、エレンは、きつく拳を握り締めた。自らの内に眠る、巨人の力に頼っているという自覚はなかった。いざとなれば巨人と化して、圧倒的な力のもとに敵を叩きのめせば良いと、そんな考えで、手を抜いていたわけではない。これまで通り、一人のちっぽけな人間として、全力で戦おうとしただけだ。それだというのに、上手くいかなかった。
やはり、指摘された通り、どこかで甘えが出ていたのだろうか。拳一つで敵を次々に殲滅する、あの強大な力を、一度手にしてしまったら、もう、脆弱な肉体で小さな刃を振るう、人間のありようには、戻れないのだろうか。人間の身で出来ることなど、たかが知れている、こんなことをして何になると、諦念めいた思いが、身体を鈍らせたのだろうか。
「今日は、ここまでにしよう。もう、休め」
慰めるように、肩を叩かれて、エレンは唇を噛み締めた。結局、何一つ、思うような結果は上げられなかった。
■
身体が、おかしい。薄暗い地下室で、寝台の中にうずくまり、エレンはそれを認めざるを得なかった。まるで、戦闘の後のような、うるさく昂った熱が──治まらない。昼間の鍛練によって、肉体は疲弊しきっている筈なのに、目ははっきりと冴え、四肢の緊張状態が抜けず、掌には汗が滲む。どくどくと脈打つ鼓動が耳に響き、浅い呼吸を繰り返す。
これも、あの力の代償というのだろうか。熱く──息苦しい。
「……くそ、…っ」
手を伸ばして、知らず、縋れる何かを求めていた。冷たいシーツの上を、空しく引っ掻いて、腕を投げ出す。低く呻いて、エレンは身体をうつ伏せた。
変調の原因は不明だが、きっかけならば、自分で把握している。アルミンだ。ここで、アルミンに拒まれた、あの夜から、何かがおかしくなっている。
あのとき、もしもアルミンが声を上げて、止めてくれなかったら、どうしていただろうかと思う。腕の中に、抱き締めた友人の感触が蘇る。
「人間は、……他の生き物の温もりに触れていないと、不安で、おかしくなってしまう」
今は行方の知れぬ父が、そう教えてくれたことを思い出す。だから、人は手を繋ぎ、抱き合うのだ。
目の前で、ぼんやりと、拳を握っては、開いた。
審議所の地下室に隔離されていたとき、エレンは、自分がこれまで、いかに他者と触れ合いながら生きてきたかを、思い知らされた。他者との接触を一切断たれ、手枷のために、自分自身すら、肩を抱いて確かめることもままならない。刺激がなく、感覚がなく、──自分がない。
「っ、く……ぅ、」
やるせなく、シーツに頬を擦りつけて呻く。肌の擦れる感覚は、あの夜、ここでアルミンと交わしたものを、否応なしに思い起こさせる。組み敷いた身体の弾力、温もり、伝い感じた鼓動、微かに乱れた呼吸、小さく喘ぐ声。思い返しては、身体の内に、わだかまる熱を募らせた。腹を下にしているからいけないのかも知れない、と思って、緩慢に身体を仰向ける。こもっていた熱が、少しだけ、抜けたような気がした。はぁ、と息を吐いて、エレンは茫と天井を眺めた。
──この身体の熱は、アルミンを灼いて、傷つけるだろう。
両腕で、身体の前に、輪を作る。その内側に、抱き締めた友人の身体を、思い起こす。この両腕の中に収めてしまえるくらいの、ちっぽけで、頼りない身体だ。
自らが巨人と化したとき、地上を走って先導する友人を見下ろして、エレンはそれを実感した。うっかりすれば踏み潰してしまうし、それでなくとも、近づくだけで、衝撃で吹き飛ばしてしまいかねない。か細い手足は、簡単に折れてしまいそうで、千切れれば、二度と再生しない。
なんて──小さく、弱い生き物だろう。今、こうして、生き続けていることが、奇跡のようだ。エレンの、ほんの気まぐれで、この小さなものの命を──奪ってしまうことも出来る。
それに気付いて、心臓が震えた。
人間の命が、いかに簡単に奪われるものであるか、『奴ら』に相対した者たちは、既に知っている。理不尽で、おぞましい、圧倒的な脅威を、壁一枚を隔てた向こう側に、知っている。
そして、その力を、自分は持っている。
友人を、傷つけることが出来る。
そんなことは、するわけがないと、どうして言い切れるだろうか。実際に、エレンは記憶していないが、我を忘れた状態で、ミカサに対して拳を振り上げた事実は、拭い去れない。
相手がもしも、他の人間であったならばと思うと、背筋が強張る。超人的な反射神経と運動能力を持つ彼女だから、怪我で済んだものの、たとえばそこにいたのがアルミンだったならば、何が起こったのかも分からないまま、彼は一瞬のうちに叩き潰されていただろう。
小さく、弱いものは、強大な力には、近づくべきではない。何であれ、「絶対に安全である」などという言説が信用ならないものであることは、故郷が陥落したあの日に、否応なしに脳に刻み込まれた。何かが起こってから、悔やんだところで、遅いのだ。
それを分かっていながら、アルミンは、エレンを拒まなかった。不意に押し倒されて、驚かなかった筈もないだろうに、エレンを恐れなかった。「エレンだから、いいんだ」と言った。
エレンに巨人の姿を重ね見て、恐怖と嫌悪を剥き出しにする者どもとは違う。
アルミンは──信じてくれている。
エレンが、紛れもなく、人間なのだと──知っている。
そんなのは、当たり前だと言って、彼は笑うだろうか。その、当たり前のことが出来ない連中によって、エレン共々、始末されそうになったというのに、それでもアルミンは、揺らがなかった。たとえ、エレン自身が、足場を見失い、揺らいだところで、きっとアルミンは、懸命に肩を支えて立たせ、叱咤してくれることだろう。そういう、アルミンの強さに、支えられていることを実感する。外の世界を教えてくれたように、今、エレンが立つべき世界をも、彼は教えてくれるのだ。
思うと、次第に、昂っていた鼓動が落ち着いていくのを感じた。大丈夫だ──こんなことでは、潰れない。そう、自分に言い聞かせる。
灯りに惹かれて、やって来た小さな羽虫が舞っている。掌で追い払おうとして、しかし、エレンは直前でそれを止めた。
毛布を被り直して、目を閉じる。自分自身の肩を抱くようにしても、腕の中に空白を感じるだけだ。そこにあるべきものが、今はないという事実を、教えられるだけだ。
「……アルミン」
友人の懐かしい匂いを、心安らぐ無垢な笑顔を、思い起こそうとしても、上手くいかない。求めるほどに、遠のいてしまう。アルミン、アルミンと、呼び求めながら、己の服を、きつく掴んでいた。