檻のユーフォリア 5







自分の使うものは、自分で手入れをする──兵士としての、基本的な心構えである。戦場においては、己の他に頼れるものはない。自分の生命の責任を負えるのは、自分自身のみである。生き残りたければ、己の命を預けるものについて理解を深め、自らの手で把握してしかるべきである。それは、武器に限った話ではない。食事の支度、衣服の管理、部屋の清掃──生活のすべての面において、適用可能である。戦場の心構えを、常日頃から忘れるなというように、兵士たちは、日頃から自分で自分の面倒を見ることが、習慣として根付いている。
ゆえに、兵長から任された区画の清掃に、エレンは真摯に打ち込んでいた。
「特別作戦班ってのも、大変だなぁエレン? 大掃除作戦中か?」
「うるせぇな……」
通りすがりの同期たちの軽口につきあってやる余裕は、今はなかった。戦闘訓練ではなく、かような雑務に従事させられている理由は、エレン自身、よく承知していた。今のお前は、掃除の役程度にしか立たないと、そう言われたも同然であった。誰にでも、調子の良いときと悪いときの波があるものだといって、先達らは慰めてくれたが、あまりの情けなさに、何も言葉を返すことが出来なかった。兵長がそう判断したのならば、きっと、それが正しい。せめて、任された仕事は、きっちりとやりおおせなくてはならない。その使命感だけで、エレンは一心に、柱廊を拭き清めていた。
同期の新兵たちは、そんなエレンの事情は知らずに、単に先輩にしごかれているだけだと思っていることだろう。それはそれで、あまり嬉しくない解釈であるが、お荷物扱いされているという事実を知られるよりは、よほどましである。彼らは日々、着実に知識を吸収し、技術を磨いて、一人前の兵士として成長しつつあるというのに、まるで自分は停滞している。エレンは、やるせなく雑巾を絞った。
お荷物扱い──そこで、ふと、友人の顔を思い起こす。足手まといになること、お荷物扱いをされることを、アルミンは何より嫌って、そんな立場から脱するべく、懸命に励んでいた。あいつは、いつも、こんな気分でいたのだろうか、とエレンは己の心情を顧みた。傍から見ても、かなりの無理をして仲間たちについてこようとするアルミンに、かつてのエレンは、そんなに頑張らなくても良いんじゃないか、と思っていた。確かに、兵士の優劣の評価基準の第一は、立体機動術をはじめとする実技であるが、アルミンがいくら努力したところで、ようやく落第点を免れるか否かが精々といったところだろう。はじめから限界が見えている分野に時間を掛けるくらいならば、もっと他に、アルミンの備え持った長所を伸ばしていった方が良い。それが、彼のためであると、素朴に信じていた。アルミンには、状況を俯瞰する冷静な判断力と、正解を導き出す柔軟な発想力という、誰にも負けない武器がある。人類の勝利の役に立ちたいというのならば、それを役立てれば良い。だから、実技で落ちこぼれであっても、足手まといのお荷物であっても、そんなことは、大した問題ではない。そんな風に、考えていた。
大間違いだった、とエレンは苦々しい思いを噛み締めた。自分が役立たずの足手まといだと実感することが、どれほど辛いことであるか、エレンはすっかり忘れていた。エレン自身、訓練兵団入りした直後、立体機動の特性検査で危うく落第しかけたときに、愕然とするばかりの多大な衝撃を受け、さんざん苦汁をなめたというのに、乗り越えてしまえば、あれも良い経験だったとして、すっかり過去の思い出に押しやっていた。あの僅か数日の内に、エレンの味わった絶望を、苦悩を、いたたまれないほどの自責の念を、アルミンは三年間ずっと、味わい続けてきたのだ。周囲から取り残されて、自分ひとりが置き去りにされる、それがどれほど惨めなことであるか、今のエレンならば分かる。あの頃、アルミンに対して、彼を思い遣るつもりで、お前は実技なんて頑張らなくていいんだ、などと言ってしまった無神経な自分を、殴り倒してやりたい。やらなくていい、とは、お前はいなくていい、ということだ。これ以上の否定はあるまい。
アルミンは、よくも怒り出さなかったものだ。彼が無理をして、怪我を負ったり寝込んだりする度に、エレンは、お前はそんなことしなくていい、と繰り返した。アルミンは、困ったような顔をして、最後に小さく、ごめんね、と呟くのだ。分かってくれたのか、とそのときは思うが、結局、また同じことを繰り返す。あれは、言うことを聞けなくてごめん、という意味なのだと、エレンは次第に理解していった。アルミンは一度だって、エレンに反論しなかった。黙って、ただ、己の意思に従って行動していた。
それは、今にしても、同じことなのだろう。あの夜、アルミンはエレンを拒んだが、意に沿わぬ行為を強いたエレンに対して、怒ることはしなかった。あのときのアルミンの真意を、エレンは、まだ聞いていない。今ならば、話せるのではないだろうか──見知った顔ぶれの中に、視線を走らせる。明るく輝く麦藁色の髪を探すが、しかし、新兵たちの中に、アルミンの姿は見当たらなかった。別行動中なのだろうか、それにしては、他の奴らは揃っているようだが──不思議に思っていると、隣から袖を摘まれる。
「エレン。水が……」
「え? ……あ、」
ミカサの短い指摘に、視線を落としたエレンは、手の中の雑巾からぽたぽたと床に水を落としていたことに気付いた。しまった、と慌てて布を絞り、濡らしてしまった箇所を拭く。
「疲れているの? ……大丈夫?」
「何でもねぇよ、ちょっと寝惚けてただけだ……それより、」
それを訊いたものかどうか、エレンは一瞬、迷いを覚えた。訊いてどうするのか、とも思った。自分のことだけでも手一杯だというのに、他の奴を気に掛けている場合かと、己を叱咤する声も聞こえる。しかし、結局のところ、エレンは、それを問わずにはいられなかった。
「……アルミンは?」
その姿が見えないというだけで、落ち着かない心地にさせられている自分を、エレンは、認めざるを得なかった。友人だからだ、と思う。もしかしたら、怪我をしたり、寝込んだりしてしまって、訓練を休んでいるのかも知れない。それが、心配なだけだと、自分に言い聞かせる。
エレンの内心を知ってか知らずか、ミカサは簡潔に応じる。
「団長に呼ばれていった」
「え……」
エルヴィン団長──実動部隊とは別行動で、普段は市街の調査兵団本部での執務にあたる彼であるが、視察ということか、ここ数日間、こちらに滞在している。新兵の教育状況の確認というのも、その目的の一つであろうが、しかし、個別に呼び出されるとは、ただ事ではない。エレンは、戸惑いの声を上げていた。
「呼び出しって……何か、やったのか、あいつ」
「分からない……けれど、アルミンは分かっているようだった。面会を申し出ていたのかも……知れない」
「あいつが何を、団長に相談するってんだよ……」
苛立ち混じりに、エレンは吐き棄てる。ミカサは、僅かに眉を寄せた。
「エレン。どうかしたの……いつもの、あなたらしくない」
静かな指摘を受けて、エレンは、自分が必要以上に動揺させられていることに気付いた。ぐ、と唇を噛み締める。
「……どうもしねぇよ」
顔を背けて、短く呟いた。ならいい、とミカサは応じたが、およそ納得したようには聞こえなかった。まだ何か言いたいことでもあるのか、彼女は口を開きかけ、しかし、それがエレンの耳に入ることはなかった。横合いから、両者の間に割り入る者があったからだ。
「おい、エレン。ちょっと面貸せ」
「なんだよ……」
どう考えても、良い知らせでないことが聞く前から分かるような、不機嫌そうな面持ちで声を掛けてきたのはジャンである。アルミンが団長に呼び出される理由が不明であるように、俺もこいつに呼び出されるいわれはない筈であるが、とエレンは胡乱に応じた。その態度が気に障ったのか、ジャンは露骨に顔を顰める。
ああ、もしかしたら彼は、失望したと言いたいのだろうか、とエレンは推測した。自らの命を懸ける以上、しっかりとエレンを値踏みさせて貰うと、ジャンは言っていたではないか。その彼にしてみれば、現状のエレンは、まったくふがいないに違いない。巨人の力を制御する術も持たず、どころか、立体機動術すら危うく、訓練に参加することすら許されない。ひたすら掃除に励んでいるエレンの姿に、ジャンが何を思うかは明らかである。呼び出しの目的は、叱咤か、あるいは、一発くらいは殴られるかも知れない。それも仕方あるまい、とエレンは諦念に似た覚悟を抱いた。ついてこい、と歩き出すジャンに続いて、一歩を踏み出す。
そこに不穏な空気を感じたのか、すかさずミカサが前へ出る。
「私も、」
離れずついてこようとするミカサを、振り返ったジャンは一瞬、険しい表情で見遣って、それから、皮肉げに唇を歪めた。
「……付き添いが必要か? エレン」
「っ……要らねぇよ……」
お前は来るな、とミカサに短く言い残し、エレンはジャンに続いて、その場を離れた。

喧騒から離れたところで、ジャンは足を止める。挑発されるままに、やってきてしまったが、ミカサを遠ざけたことを考えると、やはり目的は、こちらに活を入れるか、あるいは、鬱憤を晴らすかといったところであろう。いずれにしても、やるならば、さっさと済ませて貰いたい。こちらも暇ではないのだ、という主張を滲ませて、エレンは呟く。
「手短に頼むぞ……まだ、掃除が残って、」
「エレン。……あいつ、やばいって、分かってるか」
エレンの台詞を遮って、発せられたジャンの声は低く、少なからぬ緊張をはらんでいた。それが予想していた内容とは違っていたために、エレンは一瞬、戸惑いを覚えた。突然そう切り出されても、話の筋が見えないが、愉快な内容でないことだけは明らかであった。つられて、自然と身を硬くしつつ、エレンは応じる。
「は? …あいつ、って……」
「アルミンのことだ」
ジャンは声を潜めて告げる。エレン自身、問うておきながらも、それは筆頭に予想していた答えであった。アルミンが、いったい──どうしたというのか。友人について、自分が知らないことを、ジャンは知っているというのかと思うと、エレンは愉快な心地はしなかった。それでも、「やばい」とまで言われてしまっては、聞かずにはいられない。
「……なんだよ」
「食事だ。全然、食ってねぇぞ」
「……え、」
思わぬ答えに、エレンは瞠目した。
確かに、この前の昼食の際、アルミンは食欲がないようであった。パンを丸ごと、エレンに譲ってくれたときのことだ。一時的に胃腸が疲れてしまっているだけだろうと思っていたが、まさか、あんな状態が続いているというのだろうか。食事時に顔を合わせる機会の殆どないエレンには、その真偽を判定する術はないが、感覚としては、にわかには信じ難い。思わず、エレンは背後を振り返っていた。遠く、こちらを案ずるように、ぽつんと佇む黒髪のシルエットを確かめる。
「んなこと、ミカサは一言も……」
アルミンに異変があれば、彼女が気付かない筈がないではないか。自分たち三人は、幼い頃から、他の誰よりもよく、互いを理解している。ミカサがついていると思えばこそ、エレンも案ずることなく、アルミンを自分の目の届かないところにいさせることが出来る。もしも、何か変調があったというのならば、まずは彼女から一報があってしかるべきだ。
疑問が、表情に出ていたのだろう。ジャンは、面倒そうに溜息を吐いて、付け加える。
「全員、揃って食堂で食うときは、ミカサの手前、なんとか詰め込んでるが……班別行動中となると、全然だ。スープをほんの少しだけで、パンなんか、欠片も口にしない……ライナーの奴が、えらく気にしてた」
あの面倒見の良い、兄貴分の同期もそう言うならば、本当なのだろうか。ただ、仮にそれが事実なのだとしても、まったく事情が分からないということに変わりは無い。茫然として、エレンは呟いていた。
「な、んで」
掠れた声で呟くエレンを、ジャンはあきれたように見遣った。
「何でってなぁ……俺が知るかよ。お前の馴染みだろうが」
「……」
ぐ、とエレンは拳を握り締める。友人のくせに、そんなことも分からないのかと、咎められた心地だった。それに反駁する術を、エレンは持たなかった。自分自身のことも、アルミンのことも、何も分からないのだと思った。
憐憫を含んだ眼差しで、ジャンは腕組をして続ける。
「そんなんじゃ、身体がもたねぇって、あいつに分からねぇ筈がないんだがな……何にせよ、あの調子じゃ、近々、ぶっ倒れるぜ。そうなったら、壁外調査も無理だな。……ったく、初っ端から何やってんだ、あいつ……」
呟きながら立ち去る、ジャンの言葉の後半は、殆どエレンの耳には入っていなかった。

本当だろうか──だとすれば、放ってはおけない。団長への相談というのも、そのことと関係しているのだろうか。何らかの理由により、食事もろくにとれないほどに体調を悪化させており、壁外調査への不参加、あるいは──転属でも、願い出ているのだろうか。「食べられなくなったら、終わり」と言っていた、サシャの言葉が脳裏を過ぎる。想像が、みるみるうちに、悪い方向へと膨らんでいく。
何故、言ってくれないんだ、と思った。何か思い詰めているというのならば、アルミンは真っ先に、こちらに話すべきだと、エレンは考えていた。まるで、自分がのけ者にされたようで、良い気分はしない。自分の預かり知らぬところで、友人の今後について、重大な決定がなされようとしているのだとすれば、見過ごすわけにはいかない。
会って、確かめなくてはいけない。団長がこちらを訪れた際、使用する部屋は──古城の図面を頭の中に思い描いて、エレンは駆け出した。





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