檻のユーフォリア 6







「……本当に、いるじゃねぇか」
斜向かいの棟の通路に身を隠しつつ、窓の向こうに位置する、急設えの執務室の方へ目を凝らして、エレンは呟いた。丁度、窓辺に立ってくれているために、小さいが確かに、団長とアルミンの姿を確認出来る。随分と長い間、そうしているようだが、何を話しているのだろう──何故、団長は椅子に座することなく、新兵に向き合って、起立してやっているのだろう。手を伸ばせば、難なく触れられる程度の距離である。相談事をするには、近づきすぎではないだろうか。
話は、アルミンが一方的に何事かを訴え、団長は静かにそれを聞いてやっている風であった。時折、小さく頷くのが分かる。そればかりか、彼は励ますように、アルミンの肩に手を置いた。それだけのことで、エレンは、小さく息を詰めていた。じわり、と嫌な汗が浮かぶ。
頼りなく薄い肩を包み込む片手を、団長は、すぐには外そうとはしなかった。そのまま、もう片手でアルミンの顎に指を掛けると、長身を屈める。小柄なアルミンは、軽く頭一つ分ほども大きな影に、殆ど、覆い被さられる格好になる。
「っ……」
エレンは、ごくりと唾を飲み下した。団長が何をしようとしているのか、理解したからだ。それは、エレンがあの夜に試みて、明瞭な拒絶に遭った行為だ。
すぐさま、アルミンは抵抗するだろうと思われた。いくら相手が相手とはいえ、こんなことを、黙って受け容れるアルミンではない。ひ弱で大人しいからといって、決して臆病な性質ではないのだ。意に沿わない行為を強いられれば、本気で抵抗する。訓練兵時代に、からかい半分の先輩連中に迫られたときは、そうしていた。
「何……やってんだ、」
早く、突き飛ばして逃げろ──そんなエレンの心の声も空しく、アルミンは、その場を動こうとはしなかった。少年の従順な態度を褒めるように、エルヴィンの手は、優しく腕を伝い下り、背中を通って、細い腰に回る。逞しい腕が、そっと促すように腰を抱き寄せると、アルミンは自然に、団長の胸へ身を任せた。柔らかな金髪を指に絡めて、エルヴィンは少年の小さな顎を掬い上げる。お互いの顔が、触れるばかりに近づき、──それ以上は、見ていられなかった。見ては、いけないと思った。エレンは、すぐさま窓辺に背を向けた。
「……くそ、……っ」
忌々しく、頭をかきむしる。目を逸らしたのは、なにも、二人に配慮したわけではない。覗き見をするのに、気が咎めたというのでもない。単純に、気分が悪かった。ここへ来て久しく、感じることのなかった激情が、一瞬にして心臓を冷やし、それから、沸騰させるのが分かった。このまま、見続けていれば、きっと、制御が利かなくなることが分かった。だから、対処したのだ。心を乱すものから、目を背けた。その意味も分からないままに、うるさい鼓動が治まるのを、きつく目を瞑って待った。
どれほど、そうしていただろう。詰めていた息を、ゆっくりと吐き出す。そろそろと目を開け、振り向いてみれば、窓辺には、既に人影はなかった。はじめから、見間違いだったのかも知れないと、儚い希望的観測を信じたくなる。嘘だ──あんなのは、嘘に決まっている。
団長が、その立場を笠にして、新兵に無体を強いるとは思えない──あの人は、そんなことをする人ではない。さほど親しく話したことがあるわけではないが、自分や先達への彼の接し方や、部下たちから厚い信頼を受ける様子を見て、エレンはそのように判断している。
それでは、合意の上であったのだろうか。だから、アルミンは抵抗をしなかったのだろうか。エレンには、許さなかったことを、団長には、許した。思うと、エレンは無性にやるせなかった。分からない話ではない、というのが、いっそうに辛い。
トロスト区が超大型巨人の襲撃を受けた、あの日の朝、エレンたちは、壁外調査へと出発する調査兵団の隊列を見送った。美しく鍛え上げられた軍馬に跨り、凛々しく胸を張って前方を見据え、軍勢を率いる背中に自由の翼をあしらったマントをなびかせる、エルヴィン団長の雄姿を、アルミンは、憧憬の眼差しで見つめていた。エレンが、人類最強の兵士長の姿を目の前にして興奮する傍らで、熱に浮かされたようにして、陶然と団長を見送る、その頬はほのかに紅潮し、抑えきれない敬愛の念を感じさせた。この人に命を預け、ついてゆくのだという、それは兵士としての覚悟の現れであると、当時のエレンは解釈していたのだが、そればかりではなかったのかも知れない。
深い憧れの相手である団長から求められれば、アルミンは、喜んで応じてしまうのではないだろうか。望まれるままに、何もかも、捧げてしまいそうな気がする。そういった意味で、エレンは、自分が団長に勝てるものとは思えなかった。悠然たる大人の余裕も、深い知性も、人望も、アルミンを閉じ込めてしまえる逞しい肉体も、何もかもが敵わない。勝負を挑むこと自体が、間違っている。
ならば、もしかしたら、今、目にしたようなことは、既に何度も、二人の間で交わされていたのかも知れなかった。今日、呼び出された理由にしても、アルミンは分かっているようだった、とミカサは言っていたではないか。これが、初めてではなかったのかも知れない。エレンがアルミンを押し倒すよりも、以前から、アルミンは密かに、こうして団長に呼び出されていたのではないか。向こうの方が、順番が先だったのならば──アルミンは、相手を団長のみと誓いを立てて、それを守るために、エレンを拒んだということになる。
そうだとすれば、これほど、滑稽なことはない。幼い頃から一番近くにいて、当然のように、相手にとっての自分も、最も近い存在であると思っていた。それが、少し目を離した隙に、知らぬ間に、他の誰かのものになっていたのだ。
そんなことを、認められるわけがなかった。信じられるわけがなかった。
──直截、確かめれば良い。
足音を立てずに、エレンは速やかに、その場を離れた。

待ち伏せると決めたのは、他の棟に移るために必ず通らねばならない、かつ、人通りの少ない通路であった。中庭に面したその地点で、エレンは、相手が現れるのを待った。エレンの予測は、ほどなくして的中した。通路の向こうから、アルミンが歩いてくるのを、柱の影から確認する。他に人影はない──タイミングを見計らって、エレンは、一歩踏み出した。
「──よう、アルミン」
「あ……エレン」
友人との遭遇が予想外であったのだろう、アルミンは足を止めて、目を瞬く。まさか、待ち伏せをされていたとは思うまい。その唇に、何となく目が行ってしまうのを、努力して逸らしつつ、エレンは何気ない風情で問う。
「団長のところか」
不自然な推察ではない筈だ──アルミンのやってきた方角からして、可能性は、それしかない。たとえ、ここで本当に偶然、出くわしたとしても、同じことを問うただろう。
何の疑問も抱いていない様子で、アルミンは素直に頷く。
「うん。貴重な本を見せて貰えたよ」
屈託のない表情で、そんなことを言う。当たり障りのない答えだ──そこに、微妙な違和感を感じ取ってしまうのは、こちらが疑いを抱いているための錯覚か、あるいは、長い付き合いの中での直感であろうか。
いつもならば、エレンが声を掛けると、アルミンはどこかほっとしたような、親しい者のみに見せる表情をして、嬉しそうに応じる。それだというのに、今のアルミンの顔には、あの柔らかさがない。表面上は、平常を装っているが、こちらに対する躊躇いが感じられる。エレンに対して、まるで何か、やましいことがあるとでもいうように、一歩──退いている。
──どうして、そんな顔をする。
こちらから、近づいてやらなくてはならない、とエレンは思った。いつもより、少し遠い位置の友人へ、一歩を踏み出す。
「エレン……?」
どうしたのだろうかと、アルミンは戸惑うように、後ずさった。そうやって、逃げるんだな、とエレンは冷静に友人の態度を観察した。不安げに揺れる青灰色の瞳を、じっと見つめて、エレンは、賭けに出た。
「顔、赤いぞ」
「えっ……」
咄嗟に片手を上げて、アルミンが押さえたのは、頬ではなく、口元だった。赤いと言われた、頬の温度を確かめるのではなく、エレンの目から、隠した。段階が、一つ、飛んでいる。それだけで、エレンが確信を得るには、十分だった。
冷静に観察するようなエレンの瞳に、アルミンは、諮られたことを悟ったらしい。しまった、というように、表情に動揺が走る。分かりやすすぎる反応は、こんな場面でさえなければ、いっそ微笑ましいくらいだった。
一歩近づいて、エレンは問う。
「何か……されたんじゃないのか」
「ちが、……違うよ、」
あからさまにうろたえた態度で、アルミンは懸命に、動揺を否定しようとする。こいつは、頭が良いくせに、友人相手には、まともに嘘を吐くことも出来ない。それが、いつもならば、微笑ましいと思うのに、今ばかりは、苛立たしかった。困ったように視線を彷徨わせるアルミンの肩を、エレンは掴んで、壁に押し付けた。
「っう……」
「おい、……ちゃんと、答えろよ」
低く問うエレンの声に、最早、ごまかしきれないと判断したのだろう、アルミンは顔を上げて、訴える。
「エレンのこと、報告してた……ごめん、勝手に。気を悪くしたなら、謝る……でも、隠してちゃいけないと思った。何かあってからじゃ、遅いし、」
「……俺が、泣きついてきて、迷惑だって、そういうのか」
「そうじゃない、聞いて、」
アルミンは、まだ何事かの言い訳を続けようとしていたが、エレンはこれ以上、堪えることは出来なかった。ぐ、とアルミンの頼りない肩を掴んで、声を震わせる。
「嫌だった、のか、……だから、団長に慰めて貰ってたのかよ!」
「……!」
青灰色の瞳が、大きく瞠られる。見られていた、ということに、アルミンはすぐさま、思い至ったらしかった。こうなっては、最早、隠し立ては出来ないと悟ったのだろう。力なく、肩を落とす。
「慰め……か…、」
呟く声には、自嘲的な響きが混じっていた。緩く首を振って、アルミンは気だるげに紡ぐ。
「……そう、だよ。無理強いされたんじゃない、して貰ったんだ……団長に非はない。特別、日頃からそういった扱いをされているというのでも……ない」
その言葉が、ますますエレンを抉るということを、はたして、アルミンは分かっていながら、口にしているのだろうか。無理強いをされた、本当は嫌だったけれど逆らえなかった、という方が、まだ幾分もましだった。否定して欲しかったのに、これでは、まるで逆効果だ。いったい、自分はどうしてこんな、傷を抉るような真似をしているのだろう。それでも足りずに、もっと、傷を重ねようとしているのだろう。馬鹿なことをしていると思いながら、途中で止めることは、出来なかった。
「……俺とは、しなかったのにな」
「エレン……痛、い……」
消え入りそうな声で、アルミンは訴える。エレンの両手は、骨が軋むほどの力で、ぎりぎりと、アルミンの肩を押さえ込んでいた。それを緩めてやる代わりに、ぐ、と身体を寄せ、抵抗を奪う。
「なあ、何がいけないんだ、俺の、何が、……っ」
「や、……やめて、エレ、…!」
細い首に手を掛けて、強引に上向かせる。青灰色の瞳が、大きく見開かれるのが分かった。いつだったか、こんな目で見られたことがある。信じられないというような、裏切られたというような、痛くて、哀しい表情。随分と昔の、あれは、何だったか──いずれにしても、どうでも良い。
口では駄目だと言ったところで、どうせ、最終的には、アルミンは拒まない。無理やりにでも、してしまえば良いのだ。何も、思い悩むことなど、ないではないか。友人同士なのだ──同じ気持ちに、決まっている。分かり合えるに、決まっている。分かってくれるに、決まっている──
「っ……嫌だ!」
小さくも、悲痛な叫びだった。突き飛ばされたわけではない。蹴り上げられたわけでもない。しかし、明瞭な拒絶の意思を宿したその声は、よほど強烈に、エレンを貫いた。後はもう、触れるだけといった距離で、唇が止まる。すぐ目の前のアルミンの顔は、今にも泣き出しそうな、怯えに染まっていた。瞳を潤ませ、声もなく、哀れに呼吸を乱す。それは、『奴ら』に喰われるのを待って、恐怖に震える人間の表情と、同じだった。ぐらりと、エレンは、足元が揺らぐのを感じた。
力なく、アルミンを押さえ込んでいた両腕が外れて、垂れ下がる。拘束が外れるや、よろめくようにして、アルミンはエレンから距離を取った。顔を背けて、辛そうに目を伏せる。
「……エレンだから、出来ない」
「なんで、……」
思わず、一歩踏み出すエレンに、アルミンはひくりと肩を震わせると、怯えたように後ずさる。手を伸ばしたところで、届かないほどの距離を取られて、エレンは声を震わせた。
「俺が……怖い、のか、」
「そうじゃ……ない、……怖いのは、エレンじゃなくて……」
ふるふると頭を振って、友人は、喘ぐように声を紡ぎ出す。
「……駄目なんだ。エレンが、汚れるのは、嫌だ……」
「だから、何が、」
「ごめん」
これ以上、何も話すことはないという、短い宣告であった。伸ばしかけた、エレンの手は、アルミンに届くことはなく、空しく宙をかいた。暫し、エレンは瞠目していたが、ややあって、静かに腕を下ろした。俯くアルミンから、視線を外して、自嘲気味に笑ってみせる。
「……だよな。分かった。お前、俺に気遣って、そんなこと言ってるだけなんだろ。ただ嫌がったら、悪いと思って、適当な理由、つけてるんだ……アルミンは、優しいから」
そうだ、はじめから、分かっていたことではないか。自分で言いながら、エレンは、可笑しかった。そんなことも、ここに至るまで気付かなかった、目を背けていた、自分の呑気さにあきれた。心根が優しく、仲間思いのアルミンが、エレンを傷つけないようにと気を払うのは、いつものことだ。さんざん慰めて貰って、温かな言葉を掛けて貰って、それで、勘違いをしてしまった。何でも許して貰えるものだと、思い上がってしまった。こんなかたちで、突きつけられるまで、思い違いに、気付くことが出来なかった。
力ないエレンの言葉に、アルミンは、声を失って瞠目した。優しい嘘が、嘘と知れてしまったことに、動揺したのだろう。慌てたように、首を振る。
「ちが──」
この期に及んで、アルミンは、本当の思いを隠そうとする。そんな優しさは、いっそうに、エレンを惨めな気分にさせるばかりだった。溜息を吐いて、エレンは、何事かを言い掛けたアルミンを遮る。
「悪かったよ。お前は、何でも分かって、受け容れて、支えてくれると思ってた。お前が、俺を一番に優先して、俺のために、何でもしてくれるんじゃないかって、勘違いしてた……そんなわけが、ないのにな。ただ、近くにいて、同じ方向を目指していただけで、俺とお前は、別々なのに。アルミンは、俺の、……何でも、ないってのに。馬鹿だった」
「エレン、僕は、」
「もういいって……無理させちまって、悪かったな。これからは……お前に、迷惑掛けないよう、頑張るよ」
「……っ」
アルミンは、それでもなお、何か言葉を紡ぎかけたが、結局、口をつぐんで俯いた。辛そうに眉を寄せ、伏せた睫は、小さく震えている。何かに耐えるように、きつく噛み締めた唇が、痛々しい。どうして、アルミンがそんな顔をしなくてはいけないのか、エレンには分からなかった。きっと、これが一番、良いことなのに、エレンの心は、少しも晴れやかではなかった。
アルミンは、黙ってエレンに背を向けた。のろのろと足を運ぶ、頼りなく揺れる後姿を、エレンは、見えなくなるまで見送った。



角を折れて、エレンの視界から外れるなり、アルミンは焦燥のままに、廊下を駆け出した。
「っ、は、……はぁ、……」
足元がふらつき、危うく倒れ込みかけては、壁に手をついて、身体を支える。扉を出て、なんとか辿り着いた井戸の陰で、アルミンは、堪え切れないとばかりに、続けざまに咳き込んだ。
「っぐ…、は、かは、……っ」
身を折って、乱れた呼吸を継ぐ。それは、少し走って息が上がったというレベルを超えて、あまりに切迫していた。とうとう、膝に力が入らなくなったか、アルミンはずるずるとその場に座り込んだ。息喘ぎながら、上ずった声を紡ぐ。
「なんで、こんな……もう、嫌だ、……苦い、……痛い…」
ぎゅ、とジャケットの襟元を握り締めて、荒い呼吸を繰り返す。
「エレン、……」
声がもれないようにと、口元をきつく覆って、アルミンは肩を震わせた。
「洗い、流せたら……良いのに、」
瞳からこぼれ落ちる滴が、頬を伝い、指先を濡らした。すべてを洗い流すには、それは、とうてい足りない、ささやかな一滴でしかなかった。




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