檻のユーフォリア 7









どうして、こんなことになってしまったのだろう。
少し離れていただけで、これまでずっと近くにあったものが、失われていく。
離れてしまったから、いけなかったのだろうか。
ずっと、近くで、離れずにいれば、失わずに済んだのだろうか。
周囲から奇異の目で見られ、特別扱いをされ、忌み嫌われ、あるいは祀り上げられる、そんなものになりさえしなければ、何も失わずに済んだのだろうか。
こんな力さえ──なければ。ぐ、とエレンは拳を握り締めた。
彼らといることで、自分は、バランスを取っていたのだと思う。ひとりにされると、急に、それが分からなくなった。これまで、どんな風にして、自分を制御してきたのかも分からない。
また、あんなことになったら、今度は、どうすればいい。
錯乱して、腕を石壁に叩きつけ、それでも足りずに、牙を突き立てて食い破ってしまったら──巨人になる。そうしたら、簡単なことだ。自分は、先輩方によって討たれるのだろう。想像して、自嘲した。
やるせない感情を、いったい、どこに向けたら良いのか、エレンには分からなかった。
「手が止まってるよ、エレン」
背後からの声に、エレンははっと我に返った。人気の絶えた食堂のテーブルを磨いていたのだと、遅れて思い出す。振り返れば、ハンジが扉に背を預けていた。また、急に新しい実験でも思いついたのだろうか。何でも良い、過酷な走り込みだろうと何だろうと、無心になって打ち込めるものを与えてくれるならば、喜んでそれに従いたかった。この、煩わしい懊悩から、一時でも気を紛らわせてくれるのならば、何であろうと構わなかった。
しかし、エレンの期待に反して、ハンジはそのまま、テーブルに着いてしまう。軽く頬杖をついて、分隊長は世間話でもするかのような口調で切り出した。
「君は、暫く、彼らと会わない方が良いかもね」
その言葉に、エレンは再び、手を止めることとなった。彼らとは──訊くまでもない、訓練兵団の同期たちであり、幼馴染たちのことであろう。それが分かっても、会わない方が良い、という言葉の方は、理解出来なかった。戸惑いのままに、エレンは問い返す。
「え……、それは、どういう……」
「分かるだろう? 君は、彼らとは違う。いつまでも、訓練兵の頃のようには、いかない。一緒には、いられないんだよ」
一緒には、いられない──それは、今のエレンの胸を、最も抉る言葉であった。ずっと一緒であると、疑いもなく信じていた友人を、エレンは、手放したばかりであった。こうして、何もかも、失うのかと思った。認めたくない、と思った。
「それは……分かっています。俺とあいつらじゃ、役割が違う。でも、だからって……」
「お互いのためさ。……皆、不安なんだ。落ち着かなそうにしてる子、苛ついてる子、やけにはしゃいでる子……君も、彼らも、私から見れば、相当に不安定だよ」
ハンジが誰を指して言っているのか、分かってしまうことが、エレンは悔しかった。意地になって、反論にもならない反論を口にする。
「あいつらは……いつも通りですよ。俺だって、」
「そうかなあ」
「……っ」
これ以上、分かったようなことを言われるのは、ごめんだった。ごくりと唾を呑み下して、エレンは飄々たる分隊長を見据えた。
「だいたい、……あなたに、何が分かるっていうんです。分からないこと、だらけの、あなたに」
「はは、言うようになったねぇ。これも、気分の変調の一端かな?」
同期の彼らは、エレンにとっての、日常なのだ。あの頃、自分の内に眠る力なんて、知らずにいた頃の、確かな証なのだ。自分が揺らいだときに、縋ることの出来る、支えなのだ。それの何がいけないのかと、エレンは声を荒げる。
「ええ、そうですよ。最近の自分がおかしいことは、分かっています。だから、……そういうときだから、あいつらに、会うんじゃないですか。お互い、それで安心出来て、」
「──彼の気持ちも、考えたらどうだ!」
よく通る声に叱咤されて、エレンは反射的に背筋を正した。いつも陽気な印象の、眼鏡の奥の瞳は、いつになく険しく、エレンを射抜いていた。先ほどまでの、飄々とした態度の残滓は、どこにもない。
ハンジは「彼」としか言わなかったが、それが誰のことを指しているのかは、明らかであった。
溜息を吐いて、視線を切ると、ハンジは椅子に腰掛け直した。
「中庭で、やり合ってるのを見たよ。……君は、何も分かっていない」
まさか、あの場を目撃されていようとは、思いもしていなかった。しかし、確かにエレンとて、団長とアルミンの面会を盗み見ている。自分もそうされていたとして、おかしくないと考えるべきであった。
あれを見られていたのならば、最早、言い訳のしようがない。ぐ、とエレンは唇を噛み締めた。
──何も、分かっていない。
またか──また、「分からない」だ。分からないこと、だらけではないか。自分のことも──アルミンのことも。分からなければ、分かれば良いとハンジは言ったが、そのためにどうしたら良いのかも、エレンには分からない。自分自身の、あまりのふがいなさに、嫌気がさした。
黙り込むエレンを、じっと見つめて、ハンジは静かに声を紡ぐ。
「……誘導尋問のようなことをして、悪かったよ。『彼ら』と言ったけれど、私が言いたかったのは、『彼』のことだし、君の答えも、『彼ら』についてじゃなく、『彼』のことを指していると推測する。離れたくない、という気持ちは、今、君自身が口にした通りだ。君は、彼を突き放したけれど、本当はそれを悔いているんだろう。それでも、これ以上、自分も、彼も、傷つかずに済むようにと、距離を取った。ただ、一つ言っておくと、エレン。そんなことをしても、何も解決しない」
机の上に指を組んで、ハンジは溜息交じりに続ける。
「エルヴィン経由で、大体の事情は把握した。あの子は……自分を責めてる。エレンと、上手くいかなくなってしまったのは、自分のせいだと。自分が、エレンを煩わせると」
「そんな……いや、元はといえば俺のせいで、アルミンは何も……」
──そうだっただろうか? アルミンのために、心を乱されるばかりではなかったか? それは──余計なことでは、なかったか? 
だが、その責任をアルミンに求めるのが不合理であることくらいは、エレンも承知している。アルミンは──エレンを、拒んだ。境界を引き、壁を築いた。それは、嫌悪感を抱いているからだと思った。友人同士のじゃれ合いというには、行き過ぎた行為を、嫌っているのだと思った。
アルミンが、これ以上悩むことのないようにと、あんな風に突き放したというのに、それでますます、アルミンは気に病んでしまったのだとすれば──いったい、どうすれば良かったのだ。
分からないから、分かろうとして、分かったつもりになって──結局、間違えていたというのならば、どうすれば良かった。
茫然として言葉を失うエレンを、ハンジは、憐憫を含んだ眼差しで見つめた。指を組み直して、静かに呟く。
「これは、私見だけれどね……たぶん、あの子は、エレンに抱かれたいんだ」
「な、……」
「端的に言えばね。で、そんな自分を恥じている。……ねぇエレン、君の行為は、随分と残酷じゃないかい? さんざん触れ合って、抱き締めておきながら、あの子が何を感じているか、考えもしなかったの?」
「……俺、は」
アルミンは──協力してくれているのだと思っていた。エレンが戦えるようにと、励まし、慰め、叱咤し、安心させてくれる。こちらの甘えに、付き合ってくれている──友達だから。
エレンが、アルミンによって、精神の安定を取り戻し、兵団で力を発揮できるのならば、それが、アルミンにとって、一番良いことであり、唯一の目的なのだと思っていた。それに、エレンも、応えたいと思った──友達、だから。
息喘ぐようにして、エレンは、辛うじてそれを口にする。
「アルミンは……友達で、」
「そうだね。友達だから」
ふぅ、とハンジは溜息を吐いて、天を仰いだ。眼鏡の奥の瞳を細める。
「それでも、あの子は、君を責めないだろうさ」



ふらつく足取りで、エレンは、地下の寝床に戻った。頭の中には、ハンジに言われたことが、ずっと響いていた。
エレンを責めなければ、アルミンは、いったい誰を責めるのだろう。決まっている──自分自身を、責めるのだ。己の無力を責め、己の過ちを責め、己の躊躇いを責め、己の感情を責める。そういう姿を、エレンは、幾度となく、間近で目にしてきた。
──彼の気持ちも、考えたらどうだ!
ハンジから投げつけられた台詞が、ぎり、と胸を圧迫する。
アルミンが、何を考えているか、なんて──それは、エレンを正してやろうと、そう思っているほかに、考えられなかった。手のかかる友人に、それでも、出来るだけのことをしてやろうという、厚意なのだと思っていた。おかしいのは、エレンで、アルミンは、それを正してくれる。それが、当たり前の構図だと、信じて疑わなかった。荒んだ気分を、アルミンは、優しく包んで、鎮めてくれる。不安定に揺れる意識を、健気に支えて、立つべき地面を教えてくれる。エレンを繋ぎ止め、引き上げて、懸命に、守ろうとしてくれる。人間(エレン)に──戻してくれる。
ただ、その限度を、エレンが超えてしまったから、もう付き合っていられないといって、拒んだのだと──思っていた。甘えるなと、叱咤されたのだと思った。それ以外に、理由なんて、考えられなかった。
それは、アルミンに、自由な意思を認めないのと、同じことではなかったか? 
いつだって、「正しく」あることを強いるのは、残酷ではなかったか? 
自分が「おかしい」ということを、エレンは自覚していた。当然、アルミンも、おかしいといって、正してくれるものと思った。彼の判断に従っておけば、安心出来ると思った。アルミンは、間違えない。アルミンは、おかしくならない。アルミンに任せておけば、安心出来る。当然のように、そう見做していた。
「おかしい」エレンを、正すのではなく、共に「おかしくなる」という選択肢を、許さなかった。それは──友人を、友人としてではなく、都合の良い安全装置扱いするのと、何が違うだろうか。
──たぶん、あの子は、エレンに抱かれたいんだ。
どくん、と心臓が大きく鳴った。狂おしいほどの熱が、首筋を這い上がって苛む。
力なく、エレンは寝台に身を投げ出した。枕を掴んで、小さく呻く。
「俺は、あいつを、……」
──どうしたいのだろう。
背後で、小さく、扉が軋む。エレンは、我に返って、身を起こした。先輩方であれば、はっきりと呼び掛けながら扉を叩く筈だから、そうではない。いったい、誰が──ゆっくりと開く扉を、エレンは、小さな期待を込めて見つめた。扉の隙間から、あの明るい麦藁色の髪が、控えめに覗くのではないかと思った。
扉が開く。訪問者は、一歩、室内に足を踏み入れた。艶やかな黒髪が揺れる。
「本を、取りに来た……アルミンの、代わりに」
「……ミカサ」
扉の向こうに立っていた、いまひとりの幼馴染の姿に、エレンは、知らず、安堵の息をもらしていた。息苦しいほどの鼓動が、少しばかり、鎮まった気がした。
結局、机に積んだまま、一ページも開いていない書物を、ミカサは一冊ずつタイトルを確認して、腕に抱えていく。無言の作業に、落ち着かない心地を覚えながら、エレンは、問うていた。
「……アルミン、どうしてる」
ミカサは手を止め、横目でこちらを見遣った。それから、また手元に視線を落とす。
「元気が無い……きっと、エレンに会えないから、落ち込んでる」
「んなことねぇだろ……」
元気が無いというのは、まともに食事を摂っていないからだ。その原因は、おそらくは、エレンの行為にあったのだろう。そうしてアルミンを煩わせてしまうから、エレンは、彼と距離を置いた。きっと、これから、少しずつ回復していく筈だ。
その辺りの事情を知る由もないミカサは、なおも案じるように呟く。
「私は、エレンに会えないと辛い……アルミンも、同じだと思う」
「お前がいるだろ」
「アルミンは、エレンといるときが、一番楽しそうだ。私は、エレンの代わりにはなれない」
集め終えた本を揃えたところで、ミカサは、じっとエレンを見つめた。その唇が、静かに告げる。
「エレンは……アルミンと、離れてはいけない」
「……離れた方が、良いこともある」
「離れてしまったら、守れない」
「俺が、守ってやらなくったって、」
「違う」
静かに窘めるような声によって、エレンの自嘲気味な台詞は遮られた。何が違うというのかと、エレンは胡乱にミカサを見遣った。漆黒の瞳が、じっとエレンを見据える。
「アルミンは……あなたを、守りたいのだと思う」
だから、離れてしまったら、守れない──ミカサは、そう言いたいらしかった。エレンが考えたのとは、方向性が真逆である。守る、といえば、当然のようにして、自分がアルミンを守るということしか考えられなかったエレンは、その言葉に虚を突かれる。
取り繕うようにして、エレンは顔を背けた。
「俺を、守るとか……そりゃあ、お前の考えだろ」
「そう。同じ。私たちは、あなたを守るし、あなたは私たちを守る」
これまで、そうやって、三人で生きてきたではないかと、その瞳は、問い掛けてくるようだった。そして、これからもそうであると、ミカサは信じて疑わないのだろう。彼女から見れば、エレンとアルミンのぎこちない現状は、とうてい、受け容れ難いに違いない。
どうして、こんなことになってしまったのか、それは、エレン自身にも分からなかった。エレンは、ただ、アルミンを守りたかった。アルミンも、おそらくは、エレンを守りたかった。その結果がこうだ、とエレンは拳を震わせた。
「あいつが、今でも、そう思ってるって……いうのか」
「そう」
「いや…だって、あいつ、俺を避けて、……怯えてる風だった」
「それは違う……アルミンが、恐れているのは……エレンを、失うこと」
「……え、」
「分からない……けれど、それは、確か」
思い込みの激しい彼女の言うことであるから、話半分に聞いておくのが正しかったのかも知れない。家族を失う辛さをよく知るミカサは、アルミンの心境を、己に重ね合わせて見ていただけなのかも知れない。しかし、その言葉を信じて、縋りたがっている自分がいることを、エレンは認めざるを得なかった。自分の方から、突き放しておきながら、アルミンに対して、まだ、期待を抱いている。なんて愚かだろう、と思った。
「今の、二人は……見ていられない」
最後に、辛そうに眉を寄せて、ミカサの呟いた一言が、胸を噛んでいた。




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