檻のユーフォリア 8







エレンの特別清掃作戦の任務は、それから数日間、続いた。その間に、エレンは、否応なしに、自分自身と向き合うこととなった。そして、一つの結論に達していた。
──明日こそは、飛ぼう。
リヴァイ兵長に嘆願して、訓練への参加の許可を受ける。これまで、言われるままに指示に従ってきたが、この辺りでひとつ、自分の意思を訴えても良いのではないかと思った。今のエレンには、ひとつの意思があった。もう一度、飛びたい──飛ぶしかない。迷うつもりは、なかった。そうして、自分自身を試し、見極めるほかに、道はないと思った。
念入りに、立体機動装置の手入れを行なう。手の中の確かな実感は、エレンの内に、いっそうの飛翔への渇望を煽った。そこへ、控え目なノックの音がした。
「ちょっと、失礼するよ」
同期たちよりも幾分か落ち着いた女性の声に、エレンは手を休め、居ずまいを正した。顔を覗かせたのは、特別作戦班の先達のひとりである。
「ペトラさん……」
いったい、何の用だろうか。また、兵長が大掃除でも思い立って、明日早朝からの草むしりでも指示されるのかも知れない。いずれにしても、エレンは尊敬すべき先達を前にして、背筋を正した。
いつもの呼び出しや伝達にしては、ペトラの表情は、やや強張って見えた。彼女は、エレンが手の中で分解調整しているものに視線を落としたが、それについてのコメントを発することはなかった。代わりに、少年の緑瞳をまっすぐに見つめて、静かに口を開く。
「エレン。君にも一応、伝えておいた方が良いかと思って」
「はい……?」
普段には無い前置きに、エレンは戸惑わざるを得なかった。どうやら、用件は、上からの伝達ということではないらしい。本来ならば、エレンのところにまで下りてくることのない情報を、ペトラの独断で伝えようというのだろうか。エレンがその意味を審議するより前に、彼女は、はっきりと告げた。
「君の幼馴染の、あの子──アルミンが、訓練中に、負傷した」



「お願いです、会わせてください! あいつは……親友なんです!」
臨時の医務室として使用されている一室の前で、エレンは先ほどから、懸命に訴えていた。本来であれば、このような勝手は、許されなかったかも知れない。しかし、強い仲間意識による結束力を持つ調査兵団の先達らは、人一倍、友情に篤いことで知られる。これほどまでに親友を案ずるエレンを、そのまま地下室へ追い返すことに、躊躇いを覚えたのだろう。結局は、面会を許してくれた。
慌ただしく室内に足を踏み入れたところで、エレンは、寝台脇に佇む先客を見出した。頭に巻いたバンダナが特徴的な彼は確か、新兵の教育を担当している──
「……ネス班長」
小さく発した声に気付いて、ネスはこちらを振り返る。彼はエレンの姿を認めると、苦笑いを浮かべて、一歩脇へと退いた。彼の影となっていた寝台が、目に入る。そこに横たわるアルミンの姿を、目の当たりにした瞬間、エレンは心臓が押し潰されそうな心地になった。アルミンがいる──そこにいる。足早に、寝台へと駆け寄る。
「アルミン、……」
「今、眠らせたところだ」
声を潜めたネスの言葉通り、アルミンは静かに目を閉じていた。そこで初めて、エレンは、状況を観察するだけの余裕が生まれた。
まず感じたのは、そうひどいことになっていなくて良かったという、安堵だった。腕も脚も、ちゃんとある。頭と、シャツを肘まで捲り上げた腕には包帯が巻かれて痛々しいが、固定されていないことから、骨に異常はないことが知れる。くず折れそうな安堵を覚えながら、エレンは同時に、無性にやるせない思いに囚われた。自分の預かり知らないところで、友人がこんな目に遭っていたという事実に、胸を締め付けられる。
声もなく、寝台の傍らに膝をつくエレンに、ネスは気遣わしげに告げる。
「すまん、今回のことは、俺に責任がある」
身を屈めると、眠る少年の頭に、ネスはそっと片手を置いた。
「落馬して、全身を強く打ってな……幸い、すぐに意識は戻ったし、大事には至らなかったが、裂傷と、いくらか、筋を違えちまってる。暫くは、大人しくしてねぇといかん」
「なんで……落馬なんて、」
決して運動が得意な方ではないアルミンだが、体力よりも技術が物を言う馬術の成績は、そう悲惨なものではなかった。繊細な気質ゆえに、馬の特性をよく捉えて、それに上手く寄り添い、根気良く丁寧に扱うことが出来たためであろう。
そのアルミンが、落馬とは──よく訓練された調査兵団の馬をして、突然に暴れ出すような、何らかの非常事態が発生したのだろうか。エレンの疑問を察したのか、ネスはきまり悪げに続ける。
「鞍上からの立体機動術を教えてやろうとしたんだが……まだ早かったな。助けてやるにも、間に合わなかった」
平地での立体機動術は、訓練課程においては、さほど重要視されてはいなかった。それが必要とされるのは、壁外で活動する一部の調査兵団のみであるからだ。樹木や建物を活用し、全方位への移動を可能とするからこそ、立体機動装置の真価が発揮されるのであり、巨人どもの弱点を狙うことも出来る。高所の足場が巨人の肉体そのものしかないという状況は、およそ致命的である。
しかし、壁外に赴くならば、いかにして不利な状況下で装置の性能を引き出し、敵を討つか、その技術を体得することは、生存率に直結する。新兵とはいえ、そうした状況への備えは必要であると、ネスはそう判断し、指導にあたったのだろう。
疾走する馬上で体勢を整え、激しい上下運動の中で照準を定め、アンカーを撃ち込み、馬ごと引き摺られる前に速やかに跳躍──一連の動きには、高度なバランス感覚と動体視力、緻密な操作技術が求められる。成績上位者でもなければ、卒業したての新兵には、そう容易く習得できる技術ではない。
友人の白い頬を見つめて、エレンは呟く。
「それ……早いとかじゃ、ないと思います。こいつ、実技は、からきしで……卒業出来たのが、奇跡ってくらいですから」
「らしいな。先に、成績表に目を通しておくべきだった。そんな紙きれじゃなく、自分の目で資質を見てやろうと思った、結果がこれだ」
悔いるように、ネスは天井を仰いだ。
「アルレルトの奴、俺の最初の講義のときから、跳び抜けて優秀だったからな。一度言ったことは、絶対に忘れない。こういう状況で、どうしてこういう判断になるのか、ひとつひとつの事例から、遡って、物事の本質ってのを、理解してる。だから、応用力がある。実戦向きってことだ」
刻一刻と状況の変わる戦場では、柔軟な発想と即時の判断力が、兵の生死を分かつ。トロスト区防衛戦でも、作戦立案を担って、仲間を助けたんだろう、とネスは続けた。その話を知っているならば、当然、アルミンにそれなりの戦闘能力を期待してしまうだろう。
気まり悪げに、ネスはバンダナの頭を掻いて呟く。
「講義の後なんか、ここをもっと教えてくれ、って、真剣な顔して訊きにくる。これは教え甲斐のある新人が来たもんだ、って、俺はすっかり浮かれちまったよ。……逆に、驚いたくらいだ。体力も技術もない、姿かたちだけ見れば全然兵士らしくないってのに、どうしてこいつの頭ん中は、こんなにも──一人前の、兵士なんだろうってな」
「……」
「頭に、身体がついていってないんだな。だから、焦っちまう」
頼りなく細い少年の腕を、ネスは目を細めて見つめた。
そこで、エレンは、最も気になっている点を問うことにした。
「あの……これで、壁外調査に、行けなくなるなんてことは、」
「心配するな。もう、減点だの落第だの、びくつく訓練兵じゃないんだからな。大怪我でもしねぇ限り、除隊なんてことにはならない……お前たちは、今や立派な兵士だ。ちゃんと、こいつも外へ連れて行くさ」
なにせ、うちを選んでくれた、貴重な人材だからな、とネスは笑ってみせた。
「……良かった」
安堵の息を吐くエレンを、ネスは珍しいものでも見るような目で見つめた。
「……変わってるな、お前たち。壁外がどんな場所かは、知ってるだろう。身を案じたかと思えば、そんな危険な場所へ行かせたがったり……守りたいなら、大事に囲って、外に出さなきゃ良いだろうに」
エレンは、緩く首を振ってみせた。
「それは、ありません……いや、そう思っていたことも、以前には、ありました。危険な目に、遭わせたくない、戦わせたくない、って。こいつ、きっと……簡単に、死んじまうから。調査兵団に行かせないよう、無い知恵を絞ったりもしました。でも……俺が、間違ってた」
繋いだ手を、しっかりと握り直して言った。
「約束したんです。一緒に外の世界へ行くんだ、って。小さい頃の、そんな夢、こいつは、ずっと守ろうとして……だから、こいつは、……俺と一緒にいないと、いけないんです」
「……そうか」
友人を見つめる少年の横顔を、ネスは暫し、目を細めて見つめた。それから、おもむろに身を起こす。
「今度の壁外調査、アルレルトは出来るだけ、俺の側に配置する。しっかり見ててやるから、安心しろ。俺の腕に懸けて、あいつを巨人に遭わせやしねぇよ」
拳を胸に置いて、ネスは不敵に笑んだ。
「っ……よろしくお願いします」
背筋を正して敬礼する、エレンの肩を励ますように軽く叩いて、ネスはその場を後にした。

力ない友人の手を、ぎこちなく握る。こちらを握り返してくれない手は、エレンが力を緩めれば、すぐに取り落としてしまって、繋いでいるのが難しかった。指を組み合わせれば、しっかりと繋いでいられるだろうか。
こうするのは、二回目だと、先日、アルミンは言っていた。ならば、これは三回目ということになるのだろう。意識のない間のことであるから、エレンは覚えてはいないが、巨人体から出てきたエレンの手を取って、アルミンは、しっかりと握り締めていたらしい。ミカサと共に、エレンを、こちら側に繋ぎ止めようとしてくれた。
「今度は、俺が、……」
呟いて、エレンは友人と指を絡めた。容易には離れまいと、互いの骨を噛み合わせる。触れなかった期間は、ほんの数日に過ぎないというのに、無性に、懐かしい感覚が込み上げた。
アルミンも、意識のないエレンの手を握って、こんな風に感じていたのだろうか。触れるだけで、自分が無防備になるのが分かる。張り詰めていたものが解され、頑なに纏っていたものが剥がれ落ちる。そうして、お互いの、柔らかな部分を、押し付け合う。
もっと、きつく、握り締めて、痛いくらいに感じたい。
「……ん、…」
微かな呻きが、エレンの意識を引き戻す。見れば、固く閉ざされたアルミンの瞼が、小さく震えて、緩慢に持ち上がる。何度か瞬きをして、アルミンは、気だるげに視線を上げた。その青灰色の瞳が、エレンを捉え、不思議そうに瞬きをする。
「あ、……エレンだ……」
掠れた声で、アルミンは、そんな当たり前のことを呟いた。自分の名が呼ばれたというだけで、エレンは、心臓が大きく鳴るのを感じた。こみ上げるものを堪えて、傷に響かぬよう、声を潜めて問う。
「痛く……ないか、」
「うん、大丈夫……落ちるのは、慣れてる」
もぞもぞと、寝台の中で身じろぎ、慎重に上体を起こして、アルミンは己の身体の状況を確認した。それから、一つ溜息を落とす。
「思い出すよ、訓練兵になったばかりの頃……馬も、立体機動も、しょっちゅう落っこって、こんな風に、ベッドで目を覚ますんだ。エレンが、怒ってるのか心配してるのか分からない顔して、傍に立ってる……それで、ああ、また失敗したんだ、って分かる」
そういうとき、実際のところ、エレンは、怒りながら心配していた。いつも無理をしては、怪我を負ったり寝込んだりしてしまうアルミンには、もうお前は大人しくしていろと怒鳴りたかったし、何より、それをどうすることも出来ない自分の無力さが、腹立たしかった。アルミンを止めることも、守ることも出来ずに、彼が傷つくのを見ているしかない自分が、情けなかった。
黙りこむエレンの内心を知ってか知らずか、アルミンは穏やかな様子で続ける。
「でも、こんな見事な落馬は、久し振りだよ。気が緩んでいたのかな……何にしても、慣れてきた、と思うようになった頃が、一番危ないって言うよね。……壁外じゃなくて、まだ良かったけれど……もっと、頑張らないと、いけないな」
「……なあ、」
反省点と今後の展望を述べるアルミンを、エレンは、堪らずに遮っていた。何事かと、アルミンは軽く首を傾げる。友人から微妙に視線を反らしつつ、エレンは、吐き出すようにして言った。
「お前、何で……怒らないんだよ」
「エレンに、怒る……? どうして?」
何故そんなことを言い出すのか、分からない、というように、アルミンは不思議そうに問い返してくる。
そういえば、アルミンが怒ったところというのは、親しい付き合いの中でも、殆ど見たことがない。言い合いになることはあるが、それは、怒るというのとは違うだろう。ただ真剣に、議論をしているだけなのだ。アルミンは、いつもそうだ。複数の、群れないと何も出来ない、強者ぶった連中に馬鹿にされ、心ない言葉を投げつけられても、怒らない。主張するだけだ。それが、幼い頃から変わらない、アルミンの戦い方だ。感情任せに罵詈雑言を吐く姿なんて、想像も出来ない。もしもあったとしても、その矛先は、きっと、アルミン自身に向いていることだろう。
いつも何かに義憤を覚え、憤ってばかりのエレンとは、大違いだ。その実、案外、中身は変わらない。表現の仕方が、違うというだけなのだ。だからこそ、お互いに、自分にはないものを見出して、近くにいるのかも知れない。
エレンは、力なく寝台に腰を下ろした。膝の上に指を組み、己の足先を見つめて、ぽつりと呟く。
「ごめんな」
少し掠れた、その声に、アルミンは何かを察したのだろう。枕にもたれていた上体を起こして、俯いたエレンの顔を覗き込むようにする。
「どうしたの……何か、あった?」
気遣わしげな声は、いつもと変わらぬ優しさに満ちている。どうして、アルミンは、こうなのだろう。こうして、どこまでも、親身な友人で在り続けようとしてくれるのだろう。ぐ、と指先に力を込めて、エレンは、吐き出すようにして言った。
「……お前の気持ち、考えろって。ハンジ分隊長に、言われた」
「え……」
アルミンが、小さく声を詰まらせるのが分かった。いったい、どこまで話せば良いのだろう。訥々と、エレンは言葉を紡ぐ。
「お前が、自分を責めちまってるとか。俺が、……あんな風に、するから……辛い思い、してるとか」
その後に言われた、ハンジの「私見」は、口に出来なかった。本当は、それが一番、確かめたいことだったが、訊いてしまうのが怖くて、口を噤んだ。訊けるわけがない──お前は、俺に抱かれたいのか、だなんて、どうして訊ける。
アルミンは、暫し、沈黙を守った。それから、ふっと溜息を吐いて、苦笑する。
「そうか……あの人は、何でもお見通しだね」
「……俺、お前に、ひどいこと……」
「違うよ」
小さくも、はっきりと言い切る声に、エレンは顔を上げた。すぐ近くで、アルミンの青灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。
「違う。エレンのせいじゃない……僕が、いけない。僕が、……エレンを、汚してしまうから、」
まただ、と思った。また、「汚れる」と言う。もどかしく、エレンは姿勢を捻り、寝台に片膝を乗り上げた。真正面から、友人に問う。
「いや……だから、それ、何なんだよ……汚れるとか、何言ってんだ、わけ分からねぇぞ」
「……」
躊躇うように、アルミンは目を伏せた。きゅ、とシーツを握り、そして、か細い声を紡ぐ。
「エレンは、足を舐めたことはある?」
だしぬけに、アルミンは、そんなことを問うた。こちらの問いには答えずに、いきなり何を言い出すのかと、エレンは戸惑いを隠せなかった。
「は? あるわけないだろ、そんなの」
「僕は、あるよ」
エレンは、大きく目を瞠った。咄嗟に、アルミンの両肩を掴んだ。
「……誰が、お前に、そんなこと! 上級の奴らか、憲兵か、まさか、上官……っ」
頼りない身体を揺すって、エレンは声を荒げた。訓練兵団内において、実技は専ら劣等生のアルミンが、卑劣ないじめの格好の対象となっていたことは、エレンも承知している。幼い頃、そうであったように、エレンはその現場を目撃する度に、友人を助け出してやったし、そもそも隙を見せぬよう、出来るだけ自分の目の届く範囲にいさせた。それでも、常に傍にいてやることが出来たわけではない。エレンの預かり知らぬところで、何があったとしても、アルミンは、決してそれを後から訴えることはしなかっただろう。たとえ──足を舐めさせられたとしても。
誰とも知れぬ相手に対する怒りも露わに、答えろ、とエレンは迫った。アルミンは、ゆっくりと首を振る。
「強いられたんじゃない。自分から、したんだ。開拓地にいた頃だよ……どうしても、パンが、欲しくて」
「パン……?」
予想していた、訓練兵団時代のことではないという答えに、エレンは虚を突かれた。そして、無理強いされたのではなく、自分からしたのだ、という言葉に、思考が凍りついた。アルミンが、何を言っているのか、分からなかった──否、認めたくなかった。
地面に這いつくばって、頭を下げて、足を舐めて、パンを──恵んで貰った。アルミンが言っているのは、そういうことだと、エレンはようやく、理解した。理解したが、到底、受け容れることは出来なかった。愕然として、呻くように呟く。
「お前、……そんなこと、一言も、」
「言えるわけ……ないじゃないか」
諦めたように、俯いて、力なく微笑む。そんな表情は、見たことがなかった。表情は柔らかく笑っているのに──触れることも、許されないのではないかと思うほどに、痛々しかった。すっかり失って、諦めて、最後に浮かべる微笑だった。
──取引、というのはどうでしょう。パンと、何かの物々交換です。
サシャの推測は正しかった。否、エレンとて、そのとき、ふと頭を過ぎらなかったといえば嘘になる。しかし、盗みを働くのと同様に、そんなことはアルミンに限って、あるわけがないとして、振り払った。気付かなかった振りを通した。
知っている、分かっていた。「あるわけがない」なんて──ただの、自分の願望でしかないということを。アルミンは、いつも優しく、温かく、真っ白で、正しい──そんな、都合の良い幻想を、押し付けるのと、同じだということを。
出来るわけがないと思えることさえ、その信念と決断力で、実現してしまう、友人の姿を、ずっと間近で見てきたエレンは、よく知っている筈だった。
頭が良くて、感情を制御することが出来て、非力で、しかし、必要なときに必要なことをちゃんと導き出して実行出来る──それが、アルミンだ。昔から、ずっとそうだった。
幼いアルミンは、ちゃんと計算したのだろう。失うものと、その代わりに得られるものを、じっくりと吟味し、そして、選択したのだろう。たったひとりで、それを決めて、実行したのだ。
足を舐めて──パンを、貰ったのだ。
──『気に入られる』か。気に入らねぇな。
リヴァイ兵長の言葉の意味が、今ならば分かる。エレンの話を聞いただけで、彼は、その裏に隠されたものに気付いたのだろう。無力な子どもが、無償で食物を手に入れられるわけがない──それは、かつて、非情なルールの支配する王都の地下街を根城としていた彼ならではの、現実感覚と嗅覚に基づいた推測だったのだろう。何もリスクを負わずに、生きていくことなど、出来はしない。多大なリスクと隣り合わせで、エレンを配下に置く兵長を見ていれば、それは、身にしみてよく分かることだった。この世界は、残酷なのだと──分かっても、良い筈だった。無意識のうちに、アルミンだけは、そこから逃れられるような気がしていた、愚かな自分を、エレンは責めた。
「……話、聞いてくれる?」
ぽつり、ぽつりと、アルミンは、あの頃に何があったのかを語り始めた。

誰かの役に立ちたい。それが、幼い頃から、アルミンの胸の内にあった願いだった。それを叶えることは、容易ではなかった。故郷を追われた開拓地で、無力な子どもに出来ることは、何一つ無かったからだ。役立たずの足手まといでしかない自分を、アルミンは恥じ、ことあるごとに責めていた。それは、アルミンの内で、「何かをしなくてはならない」、という強迫的な観念へと育っていった。
役に立たなければ、生きては、いけない。過酷な環境は、少年に、この世界の残酷なルールをつきつけた。
力でエレンを守るのならば、ミカサがいる。だから、アルミンが役に立てることといえば、不器用な彼らに代わって、物事を上手く取り計らうという、ささやかな働きくらいだった。今日のパンが無事に手に入るのならば、大人との交渉も厭わなかったし、必要であれば、地面に這い蹲って憐憫を誘うことさえ、躊躇わなかった。それで、エレンたちがまた一日、ひもじい思いをせずに済むのならば、まったく構わなかった。むしろ、誇らしくさえ思えた。パンの来歴を知らないエレンやミカサが、それを受け取って、ちゃんと食べてくれることが、アルミンは嬉しかった。
エレンの役に立っている。エレンを、守れている。
そんな、可愛らしい思い込みに、幼い少年は酔っていたのだ。そうでもして、空想に逃避しなければ、とても、やりきれなかった。ただ腹を満たして眠りたいというだけの望みすら、簡単には叶えられない、こんな現実を、受け容れられるわけがなかった。
自分のしていることの意味を、考えなかったわけではない。きっと、エレンが知れば、怒るだろうと思った。こんなことで、自分ごときのことで、アルミンは、エレンの心を乱したくなかった。だから、黙っていた。正当な手段では手に入る筈もないパンを、一緒に食っていた。
そこまで話を聞いて、エレンは、ごくりと唾を呑み下した。
「俺が、食った……あの、パンは、」
アルミンが、どこからか手に入れてきて、「良かったら、食べて」と差し出してくれた、あのパンは──その来歴を想像して、エレンは声を詰まらせた。アルミンは、静かに首を振る。
「あれは、同情で恵んで貰ったものだよ。だから、汚くない」
「アルミン、」
「汚れたパンを、食べたから。僕は、……汚れた」
持ち上げた片手で、アルミンは、口元を覆った。かくりと首を折って、落ちかかる柔らかな金髪が、表情を隠す。
「僕は、体力もなくて……農作業の役にも、立たなかっただろう。役立たずに食わせるパンは無い、って……」
仕事が上手く出来ずに、罰として配給係にパンを奪われたことを、アルミンはエレンたちに言うことが出来なかった。プライドの問題というよりは、彼らに迷惑を掛けたくなかったからである。本当のことを言えば、優しい彼らは、少ないパンを割いて、アルミンに分け与えてくれたことだろう。彼らの食すべきものを奪ってまで生きる、そんな惨めで卑しい真似は、したくなかった。彼らの足手まといになることだけは、ごめんだった。
二人の元へ、何も持たずに帰るわけにもいかず、涙を堪えて、とぼとぼとと畑沿いに歩いていた、そのときだった。
「パンを、くれるって、言われたんだ……駐屯していた兵士だったよ。彼らの分の食糧は、十分に確保されていたから、……そういうことに使う余裕も、あったんだろう。自分では、そんなこと、思いつかなかったから、向こうから話を持ち掛けて貰えたのは、幸運だった」
なにが──幸運だったというのか。まるで、それで救われたとでもいうような、アルミンの言葉を、エレンは、とうてい、受け容れることが出来なかった。
「お前に、そんなことさせて……その対価が、あの、干からびたパン一個だっていうのか、」
信じ難い──信じたくない。呟く声は、頼りなく掠れた。怒りを通り越して、最早エレンは、茫然としていた。いったい、どこへ怒りを叩きつければ良いのか、分からなかった。腐りきった兵士か、その取引を受けたアルミンか、気付いてやれなかった自分自身か、それとも、そもそも故郷を襲った巨人どもか、避難民を満足に食わせることも出来ない王政か。
エレンの言葉を、アルミンは、逆の意味に捉えたらしい。諭すように、静かに答える。
「エレン。世の中にはね、幼い子どもが小さい口で、一生懸命に吸いついてくるというだけで、悦ぶ人たちがいるんだよ」
違う、とエレンは叫びたかった。決して、エレンは、そんな楽な仕事でパンが貰えるなんてずるい──と糾弾したつもりはなかった。もし、自分であれば、たとえ両手一杯のパンが貰えるとしても、そんなことをしようとは思わないだろう。これで助かった、幸運だったなんて、とても思えない。強制されたとしても、最後まで抗う筈だ。
己の自由を切り売りして、貶められて、その代償が、パン一個だなんて、受け容れられるわけがない。理解の範疇を、越えている。
「お前……なんで、」
縋るように、手を伸ばして、エレンは友人の襟元を掴んだ。ひくりと、アルミンの身体が震えるのが分かった。そうしたら、もう、堪えることは出来なかった。衝動のままに、頼りない身体を揺さぶって吠える。
「俺に言えば、分けてやった! お前に、そんなこと、絶対にさせなかった!」
「だからっ……だからだよ!」
胸倉を掴むエレンの腕を振り払い、アルミンは声を張り上げた。長い付き合いの中で、この友人が感情のままに声を荒らげる姿を、エレンは滅多に目にしたことがない。いつもアルミンは、威勢ではなく、理詰めで物事に決着をつけたがる。その彼が、もうやめてくれというように、エレンを突き放した。それは、悲痛な叫びだった。
「……アルミン」
振り払われた手を、どうすることも出来ずに、エレンはそのまま下ろした。アルミンは顔を背け、暫し、肩で息をしていたが、ややあって、ごめん、と小さく呟く。
「……エレンは、たとえ飢えても、足を舐めるなんて、絶対にごめんだろ? 同じだ……僕は、たとえ飢えても、エレンたちの食べ物を奪うなんて、絶対に、したくなかった。僕のせいで、エレンが、腹を空かせるなんて、それだけは、……嫌だった」
自分自身の腕を、ぐ、と掴んで、アルミンは声を震わせた。
「食べなければ、生きては、いけない。生きることは、喰らうことだ。……非力で、幼い、役立たず。それでも、……何かが、出来ると思った。出来ることを、しないといけない、だから」
──誰かの、役に立ちたい。
それが、アルミンの行動原理であると、エレンは知っていた筈だった。それならば、辿りついてしかるべき結論だった。声を失うエレンに、アルミンは、力なく顔を伏せて続ける。
「僕の持っているもので、エレンたちのために役立てることが出来るのなら、……そうすべきだ。それが、正解だ。そうでなければ、僕は、何のためにエレンの傍にいるのか、分からない……」
何のために──そんな理由が、必要だったのだろうか。ただ、傍にいて、身を寄せ合って生きているという、それだけでは、いけなかったのだろうか。
否──アルミンにとっては、必要だったのだろう。そうして初めて、「支え合って生きている」と、実感することが出来たのだろう。そうでなければ──役立たずの足手まといであるとしか、思えなかったのだろう。
「自己犠牲なんかじゃない。エレンは、気にしなくていいんだ……お願いだから、気にしないで。これは、どこまでも、僕個人の問題だ。個人的な飢えと、自己満足。浅はかで、懸命な、選択。自分で選んで、自分で決めた……だから、その結果も、自分で負うほかにない」
耳を塞ぐようにして、アルミンは両手で頭を抱えた。きゅ、と金髪を握って俯く。
「食事を、していると……時々、思い出すんだ。この口を使って、何をしたか……苦味と、息苦しさ。全部、押し込めて、食べるけど、……そんな資格、ないんだ。吐き気を堪えて、無理やり食べるなんて、食べ物に対する冒涜でしかない。汚しながら、食べている……」
耐え難い、というように、アルミンは力なく首を振る。小さな唇はわななき、苦しげな息を吐き出す。
「食べてはいけないものを、口に入れた。呑んではいけないものを、呑んだ。生きるための、喰らうという行為を、辱めた。……巨人どもと、同じだ」
生きるためでもなく、ただ殺戮のためだけに、人を喰らう。あの忌まわしい化物と、自分は、何も変わらないとアルミンは言った。忌まわしい──汚らわしい。
「だから、エレンは、駄目。汚れるから、食べちゃいけない」
お願いだ、とアルミンは声を震わせた。
「エレンを、……失いたく、ない」
失うのが──怖い。それは、ミカサも指摘していたことだった。
どうして、エレンが離れていくのが当たり前であるように、アルミンは見做すのだろう。失ってしまうことを、前提として考えるのだろう。それは、彼が目の前で、一度、エレンを失っているからだ。思うと、エレンは、やるせない心地になった。あのときは、それしか方法がなかったとはいえ、自分の行動のために、アルミンはその後に渡って、拭い難い不安を植え付けられてしまった。あの瞬間を、いったい、何度記憶に蘇らせ、想像の中で、何度エレンを失ったのだろう。
それでも、アルミンは──エレンを、責めることは、しない。責めるのは、いつも、自分自身だけだ。
「話すつもりは、なかった。話せば、きっと、エレンを動揺させる。今更、悔やんだって仕方がない、何も生み出さない。こんな、つまらない、瑣末なことで、エレンを煩わせたくない、……足手まといに、なりたくない」
それが、結局こうだ、とアルミンは緩く首を振った。
「僕の、身勝手だ、分かっている……エレンの気を引いて、同情を買って、罪悪感を植え付ける、卑怯なやり方で、繋ぎとめるための、……浅ましい方策」
アルミンには、正解を導く力がある。エレンは、幼馴染として、そう思う。彼の選択ならば、信じても良いと、いつも思える。しかし、そのアルミンが、自分の下した決断に揺れている。エレンにも、いったい、何が正解であったのかは、分からなかった。
話すべきでなかった、というのも分かる。こんな風に、過去を掘り返して──お互いに、傷つくだけじゃないかと、言われればその通りである。何より、アルミンの辛そうな表情を見れば分かる。やはり、彼は話すべきでは、なかったのかも知れない。
しかし──アルミンは、打ち明けた。これ以上、隠してはいられなかった。打ち明けてしまいたいと、欲してしまった。そうしたところで、何を得られるとも知れない、むしろ失うかも知れないと、重々承知していながら、エレンにそれを話した。
それだけのリスクを払ってでも、アルミンは──話したかったのだと、いうことではないか。エレンに、聞いて欲しいと、それほど強く、願ったということではないか。
それならば、考えるまでもない。アルミンが、そうしたいと望んだのならば、それが──正解なのだ。それを、教えてやりたくて、エレンは友人の手に手を重ねた。ひくりと小さく震えるのを、宥めるように、上から包んでやる。
「つまらないことだとか、言うなよ。……足手まといなんかじゃ、ないだろ。アルミンは、友達だ。隠し事も、全部、ひっくるめて。アルミンだから、俺を、引き戻してくれる」
「……」
アルミンは、応えない。重ねられた手を見て、それから、ふっと視線を逸らす。痛みに耐えるように目を閉じて、途切れ途切れの声を紡ぐ。
「エレンに、触れられて……少しだけ、分かち合えたような気がした。痛みを、熱を、感じられたような気がした。……もっと、分け合いたくて、こんな……僕の勝手を、押し付けた」
「そんなの……当たり前だろ。友達、なんだから」
押し付け合って、求め合う。差し出したいと思うし、受け止めたい。それが、当たり前のことだと、エレンは思った。自分がどれだけ、アルミンに勝手を押し付けたことか、エレンはよく自覚している。同じように、アルミンが欲するのならば、エレンは応えてやりたかった。どうして、アルミンの方ばかりが、エレンに対して遠慮することがあるだろうか。それが、対等な友人関係というものだ。
かつて、アルミンがひとりきりで苦しんでいたとき、何もしてやれなかった分を、少しでも、埋め合わせることが出来るのだろうか。寒さと飢えに身を縮める、幼い少年を、今からでも、抱いて暖めてやることが、出来るのだろうか。
エレンには、分からなかった。分からないままに、ぎゅ、と友人の手を握り締めていた。
「気付いて、やれなくて……ごめん」
込み上げる感情を堪えて、エレンは声を震わせた。アルミンが、緩慢に瞼を上げて、不思議そうにこちらを見つめる。
「どうして、エレンが謝るんだ……気付かれたくなかったんだから、それで良かったんだよ」
そうかも知れない。エレンが何も気付かず、何も知らずにいることが、当時のアルミンにとっては、一番の望みだった筈だ。だからといって、エレンは、アルミンの痛みを、なかったこととして受け流すことは出来なかった。これは、自分が受け止めなくてはならないことだと思った。これ以上、友人に辛い思いをさせたくはなかった。
「こんな、話、させて……ごめん」
「いいよ……もう」
ごめん、ごめんなと、エレンは繰り返した。その度に、アルミンは、いいよ、いいんだ、と繰り返し応じる。アルミンの指が、静かに上がって、エレンの頬に触れた。緑瞳を覗き込むようにして、アルミンは、困ったように首を傾げる。
「……エレンの方が、痛そうな顔してる」
そう言われて初めて、エレンは、自分がひどい顔をしていることに気がついた。今にも溢れそうなものを堪えて、エレンは、声を詰まらせる。
「お前が、っ……何でも、赦しちまうから、」
「何でもじゃ、ないよ。……エレンだから、いいんだ。エレン、だから」
それは、アルミンが幾度となく、口にしてきた言葉だった。エレンだから、良い。エレンだから、出来る。エレンだから、──出来ない。
「もう、済んだことだ。エレン、言ったよね。腕が斬られて、痛くなかった、平気だって。僕も……辛いとは、思わなかった。お腹が満たせて、本当に、嬉しかったんだ。……繋がった腕は、もう、痛くはないだろう? 傷は、見えなければ、無いんだ。だから、痛くない、苦しくない……間違っていたとは、思わない」
アルミンの言う通り、それは、間違いではなかったのだろう。エレンには、それを糾弾することは出来ない。寂しげに目を伏せて、アルミンは微笑む。
「ただ、そのせいで、……エレンに、応えられなくなった。それだけが、残念だけど」
こんなときにも、アルミンの口から出るのは、エレン、という言葉だ。アルミンは、何もかも、エレンを通して、価値判断をしようとする。そんな風に、大事に思って貰えるのは、ありがたいことであるが、その分、アルミン自身がないがしろになってしまっているのではないかと、エレンは思う。人類の希望である、エレンを救うためならば、その身を投げ出すことも厭わない。アルミンは、昔からそうだ。そういう計算が、ちゃんと出来る。
しかし、エレンにとってみれば、それは勇敢であるというよりは、ただただ、痛々しいのだ。その計算で、いつかアルミンは、大切なものを失ってしまうのではないかと、そんな気がする。仕方のないことだと、アルミンは言うだろう。そうだとしても──エレンは、納得出来ない。
友達だから、守る。生き抜いて欲しいと思う。共に、未だ見ぬ世界に行きたいと望む。ただシンプルに、それだけだった筈なのだ。どうして、そのままでは、いられなかったのだろう。人間の身を超えた力を、手にしてしまった、それが、代償なのだろうか。
重ねていた手を、アルミンは、静かに振り解いた。温もりが、離れていく。触れ合せていた部分を、大切に守るように、アルミンはそっと胸の前で握った。
「エレンに触れられて、エレンの役に立てて……嬉しいのに、怖かった。まるで、あの頃みたいに、なってしまう。満たされなくて、寂しくて、……惨めだ」
自分の腕を、きゅ、と握って、アルミンは背中を丸めた。唇が、小さく震える。
「……寂しい」
吐息交じりに発せられた声は、殆ど、消え入りかけていた。何も考えることなく、エレンは動いていた。小柄な友人の身体を、腕の中に、抱き寄せる。しっかりと、腕を回して、身を寄せた。
「エレ、」
「分からないけど、俺は、こうされると落ち着くから。……お前に、何か、してやりたいのに、……分からない」
エレンの腕の中で、アルミンは、戸惑うように身じろいだ。逃げようとするのを、エレンは許さずに、きつく腕の中に閉じ込める。咎めるように、アルミンは小さく声を上げた。
「……足を、舐めたんだよ、僕は」
「だから何だよ」
喰ってはいけないものを、喰ったというのならば──同じだ、と思う。巨人の身体を纏い、「奴ら」を次から次へと屠ってやったときのことだ。その間の記憶は欠落しているが、おそらくは、奴らを──喰い殺すことも、したのだろうと思う。ミカサに拳を振るったというほどであるから、あの姿で何を仕出かしていたとしても、おかしくはないのだ。
それは、エレンの意思が反映されていなかったのだから、仕方のないことだと、アルミンは言うだろうか。自分で選んで、自分で口を開いた、自分とは違うと、言うだろうか。
しかし──エレンは思う。
そのときが来れば、きっと自分は、巨人を──喰うだろう。汚れようと、何だろうと、大口を開けて、食らいつくだろう。咀嚼し、嚥下し、嘔吐するだろう。そういう想像が、出来てしまう。だからこそ、言えることがある。
「生きるための選択で、汚れたとか……言うなよ。俺達は、こうなるしか、なかった。それを、選んだから──今が、ある」
ぐ、とエレンは拳を握り締めた。指先に至るまで、確かな実感が張り巡らされていることが分かる。生きて、動いていることが、分かる。
「間違いだと言われようと、……罵られて、蔑まれて、……嫌悪されて、憎悪されて、恐怖されても。……選ばなくちゃ、いけないときがある。そうだろ、」
そのことを、エレンは、よく知っている。もう、何年も前から、知っている。そのとき、エレンは──選択したのだから。
「俺が、……人攫いの奴らを、殺したとき、」
開いた掌を、じっと見つめる。
「俺の両手、血まみれで、いくら洗っても、生臭い匂い、取れなくて、あの手応えも、感触も、消えなくて、……でも、お前は、怖がらなかった。いつもみたいに、手、繋いで、……友達で、いてくれただろ」
いつもそうだ、と思う。血塗れの手を、化け物の手を、アルミンは、躊躇わずに握って、引き寄せてくれる。だから、この手は、アルミンのものなのだ。
「間違ったことは、していないと、俺も思った。でも、お前に怖がられるのは、仕方が無いって、それも分かってた。だから、……嬉しかったんだ」
そのときから、たったひとりの友人は、ただひとりの、かけがえのない友人になった。それを伝えたくて、エレンは、最後にもう一度、しっかりとアルミンを抱き締めてから、静かに身体を離した。アルミンの青灰色の瞳が、戸惑うように揺れながら、こちらを見つめている。
「エレン……許して、くれるの」
「お前な……別に、俺は元々、怒ってなんかいねぇし、許すもなにも、」
「でも、僕のせいだ。僕のやり方がまずくて、エレンに、心配掛けてしまった……」
そういえば、お互いにここまで思い悩み、友人関係をこじらせてしまったのは、どうしたわけなのだろう、とエレンは思った。それは、アルミンが隠し事をしていたからであり、エレンが情緒不安定になっていたからである、というだけでは、説明がつかないような気がする。
アルミンにしても、それを承知しているのだろう。ぽつり、ぽつりと、すれ違いを招いてしまった己の言動を省みる。




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