檻のユーフォリア 9
「そもそも……僕が勝手に、団長のところへ報告に行ったのが、まずかったんだ。先に、エレンと話すべきだったのに、……向き合うのが、怖かった、のかな」
「ああ……お前、結局あのとき、俺のことで相談──」
そこで、エレンは声を詰まらせた。窓越しに見た光景が蘇る。団長と抱き合うアルミンの姿を、エレンは見ているし、アルミン自身、それを否定しなかった。頼んで、慰めて貰っていたのだ、と言っていた。思えば、あれが、一つの崩壊のきっかけであった。あのとき、アルミンは、何を思って、どんな顔をして、団長にそんなことを願い出たのだろう。想像すると、エレンは、胸に苦いものが込み上げるようだった。ただ、それをここでアルミンにぶつけてはいけない、という自制心も、同時に働いていた。そんなことをすれば、また、同じことの繰り返しになってしまう。決して、アルミンを責めるようなことを言ってはいけないと思った。少しは、感情を抑える術も、学ばなくてはならないと、自分に言い聞かせ、エレンは、辛うじて平静を装った。
エレンの内心を知ってか知らずか、アルミンは淡々と、そこで何があったのかを語る。
「エレンのこと、話しに行った筈なのに、殆ど、僕の相談になっちゃったよ……不思議な人だね、団長は。この人になら、全部、打ち明けても大丈夫なんじゃないか、って思わされる」
そういう、頼りがいのある大人だから、アルミンは、安心して身を委ねることが出来たのだろうか。エレンにはないものを求めて、縋ったのだろうか。アルミンの言葉の一つ一つに、エレンは胸を抉られるようだった。密かに深呼吸をして、落ち着け、と言い聞かせる。
「何……相談したんだ」
「うん……一つは、懸念だ。エレンが不安定になる度に、僕を頼ることについて。繰り返して、癖になってしまったら、いけないと思った。僕はいつでも、その役目を果たせるか分からないし、……いつまでも、一緒にいられるとは限らない」
一ヶ月後には、死をもって、別たれているかも知れないのだ。そんな、確実性のない安全装置に頼ってはいけない、とアルミンは言う。
「なるべく、死なないようには、するけど……絶対なんて、いえないし」
知っての通り、僕の戦闘能力は悲惨だからね、とアルミンは自嘲した。陣形内でも比較的安全な中央付近に配置されるとはいえ、新兵の壁外調査における死亡率は三割程度と見込まれる──決して、低い比率ではない。
「僕がいなくても、エレンは、……こちら側に、戻ってこないといけない」
自分がいなくなることを、死んでしまうことを、どうしてアルミンは、こんなにも静かに語れるのだろう。自分がいなくなった後の、エレンを案じることが、出来るのだろう。
ここまで、友人に心配を掛けてしまったことを知って、エレンは己の軽率な言動を悔いた。自分のことばかりに必死になって、何も見えていなかった。ハンジに諭された通りだ。何も、分かっていなかった。
「……団長は、何て」
「そう、深刻に考えることはない、って。今は、僕をきっかけにするしか、ないかも知れないけれど……エレンも、調査兵団の一員として働いていく中で、意識が変わっていく筈だ。過去じゃなく、現在に、居場所を見つけられる。信じられる、仲間の存在によって……そんなことを、言われた」
友人の口から聞く、エルヴィンの言葉は、エレンにとっては、やや意外なものであった。それでは、まるで、行き当たりばったりで、何の指針も計画性もないではないか。そんな不確実なことで良いのかと、エレンは、抱いた疑問をそのまま口に出していた。
「それは……楽観的すぎやしないか。俺自身にだって、情けないが、どうなるか分からねぇのに……そんな甘いことを、団長が、……」
理解し難い、と眉を顰めるエレンに、アルミンは、僕の考えでは、と注釈を付け加える。
「おそらく、だけど。……これは、希望的観測じゃなくて、エレンへの伝言なんじゃないかと思うよ。僕に言えば、僕からエレンに伝わる。それを見越しての……助言、あるいは、指示と言っても良いだろう」
「……アルミンにばっか、甘えるな、ってことだろ。言われなくたって、分かってる」
ここに、居場所が──今はまだ、出来るとは思えない。しかし、団長にそう言われてしまえば、そうせざるを得まい。自分の命を救い、ここに置いてくれている、彼の言葉を、信じるほかはないのだ。
「で、……あとは」
エレンに関する「相談」は、一応のところ、それで良いとして、アルミンの言う「僕の相談」とは、何だったのだろうか。エレンとしては、むしろ、気がかりはそちらの方であった。促してやると、アルミンは逡巡するように俯いた。
「もう一つは、……僕の方が、耐えられなくなってしまう、ということ」
「……何に、」
エレンの問いに、アルミンは、口を噤んだ。視線を彷徨わせ、それから、何かを振り払うように、きつく目を閉じる。痛みを堪えるような表情で、アルミンは、唇を震わせた。
「……エレンに、触れられること。抱き締められること。……キスされること。それは、エレンが安心するため、昔を思い出すための作業でしかないと、分かっているのに、僕は、それ以外のものを感じてしまう。勘違いを、してしまう。……安全装置に、徹していられなくなる。耐えられる、わけがないと、最初から分かっていた」
「それ以外のもの……って、」
戸惑うエレンの言葉に呼応して、アルミンは、ゆっくりと面を上げた。青灰色の瞳が、少し潤んで、エレンを見つめる。
「まるで、……エレンが望んで、そうしているかのような、勘違いをしてしまう。エレンはただ、辛くて、苦しくて、そうせざるを得ない、だけなのに。それでも……エレンに求められることが、嬉しい、なんて」
言葉の最後は、殆ど、消え入るばかりに掠れた。嗚咽を堪えるように、アルミンは、ぐ、と唇を噛み締める。
「……アルミン、」
「エレンに、キスされたい、なんて……どうして、望んでしまうんだろう。浅ましい、汚れた……飢えた、唇で」
俯いて、アルミンは、片手を口元に遣った。何かを拭い去るように、きつく押し当てる。祈るように目を閉じて、アルミンは続けた。
「拒みたく、なかったよ。本当は、触れて欲しいに、決まってる……エレンに触れられて、嬉しかった。抱き締められて、嬉しかったよ。嬉しいと、思ってしまう、自分に気付いたから、……もう、駄目だった」
耐え難い、というように、アルミンは首を振る。
「自分は、惜しくなんてないよ。エレンのためになるのなら、……何を差し出しても良い。必要なら、何だって、……覚悟は、出来てる。でも、……これは、ただの自己満足だ。自分の、感情に引き摺られて、エレンにとって望ましくないことをしている……だったら、近づくべきじゃない。きっと、間違えてしまう。エレンに、求められていると……勘違いを、してしまう」
力なく、肩を落として、アルミンは声を震わせた。緩慢に両腕を上げて、自分自身を抱くようにする。
「もっと、触れてくれたら良いのに、って……エレンのためじゃなく、自分のために……欲している」
それの、何がいけないのかとエレンは思った。どうしてアルミンは、自分のしたいことを押し殺してまで、エレンを優先するのだろう。それを、当然のように思っているのだろう。
──多分、あの子は、エレンに抱かれたいんだ。
ハンジの言葉を、思い出す。アルミンが、隠し事をしていたのは、かつての開拓地での出来事だけではなかったのだと、エレンは、ここに至って理解した。感じるものを、欲するものを、アルミンはひた隠しにして、きっと最後まで、自分ひとりで、抱えていくつもりだった。エレンのためにも、アルミン自身のためにも、それが最善であると、彼は見做していた。ただ、それは、堪えるには、あまりにも重く、アルミンに圧し掛かった。
「勘違いでも、良かった。黙って、自分の内だけに、仕舞い込んでおけば良い。だけど……きっと、堪えられない。僕は、弱くて、……貪欲だ。自分の望みを優先して、エレンに何を強いてしまうか、分からない。自分が……信じられない」
「アルミン、俺は、」
「エレンは、僕を信じてくれるだろう……でも、僕が、それに応えられなかったら、意味が無い。自分で、自分を信じられなければ……何も、選択出来ない」
自分自身のことさえ、分からない。それが、いかに心苦しいことであるか、エレンはよく承知している。同じなのだ、と思った。アルミンは、何もかも分かっていて、いつも正しい、なんて──どうして、無邪気に言えただろうか。こんなにも、アルミンは、先の見えない暗闇の中で、もがいていたのではないか。
「今の……団長に、話したのか、」
ぽつりと、エレンは呟いた。ハンジが言っていた、エルヴィン経由で事情を把握している、という言葉は、エレンの精神状態の方ではなくて、むしろ、アルミンの葛藤の方であったのかも知れない。エレンの問いに、アルミンは、小さく首肯する。
「団長は、……受け容れよう、と言ってくれた。僕は、彼の率いる駒の一つだから、彼に隠し事をすべきではないし、彼は、僕のすべてを知るべきだ。そう、教えてくれた。話を聞いて、すべて承知して、……過去に囚われる、弱い僕のことも、認めてくれた。……エレンも、見ていた通りに」
エルヴィン団長の所作は、一貫して自然なもので、アルミンに余計な気を負わせるものではなかったのだという。親しみを込めて、部下の肩を叩いてやるのと、何ら変わらぬ鷹揚な態度で、団長はアルミンを抱擁し、静かに口づけた。かつて従事した行為によって汚れた、アルミンの唇に、優しく唇を触れ合せてくれた。
──何ということはない。そうだろう?
触れていた唇を離して、団長はアルミンの耳元に、穏やかに囁いた。アルミンにとっても、団長にとっても、何ということはない──と、言ってくれた。あまりに躊躇いのない、彼の行動に、アルミンは半ば、茫然としたという。そして、即座にそんな対応の出来る団長に、深く感銘を受けたらしい。
「恐怖症の克服で、そういう手法が使われると聞いたことがある……恐れているものや、行為に、あえて近づき、そこで『何も起こらない』ということを、身体で覚える。何でもない、という体験を繰り返すことで、恐怖心は和らぐ……逆にいえば、怖がって、避けている限り、それを克服する機会は、永遠に訪れない」
一種の、治療であり、慰めだったのだと、アルミンは結論付けた。自分が目撃した行為の経緯を知って、エレンは小さく呻く。
「だから、……あんなこと、」
「ごめん、心配掛けて……でも、ああでもしないと、たぶん僕は、いつまでも向き合えなかった。自分の抱える、不合理にも気付けずに、その場しのぎを続けていただろう……仕方が無い、今は仕方が無いと言って、いつまでも」
仕方が無い、という言葉は、エレンの内に、苦々しい記憶を呼び起こす。陥落する故郷を脱して、避難所に身を置いていたとき、配給のパンを巡って、アルミンと言い争いになった。心ない兵士どもに頭を下げて、何とかパンを確保した友人の姿が、エレンには耐え難かった。そんなものを食うのは、屈辱以外の何物でもないと、憤った。そのとき、アルミンは、今は仕方が無い、と言ったのだ。その言葉が、エレンは、嫌いだった。それは、ただの弱者の言い訳で、都合の良い逃げ道であるとしか、考えられなかったからだ。その後、エレン自身、今は仕方が無いとして、恵んで貰ったパンを食うことを受け容れたが、とうてい、納得はしていなかった。仕方が無いという言葉でごまかしていては、何も進展しないし、解決しないことは、明らかだったからだ。
だから、アルミンが、そんな言葉に逃げずに、己の抱えたものと向き合うことが出来たという意味で、団長との一件は、喜ぶべきことなのだ、とエレンは自分に言い聞かせた。自分と向き合い、そして、エレンと向き合うためにこそ、アルミンは、彼の力を借りたのだ。むしろ、感謝すべきであるとさえいえる。
とはいえ、そう簡単には、割り切れない部分もある。
「でも、お前、その後の中庭で……嫌がったじゃねぇか」
自然、責めるような口調となってしまったことは、やむをえまい。あれは、エレンにとっても、かなり辛いものがあったと、アルミンに分かって欲しかった。愚痴めいたエレンの呟きに、アルミンは、困ったように首を傾げる。
「そりゃあ、そうだよ……いきなり、あんなの、困る……ちゃんと、話をしてからでないと、卑怯だ。黙って、きれいな振りをして、エレンを騙すなんて、したくない。話した上で、もしも、エレンが望むなら……そのときは、」
その続きを、アルミンは、口にしようとはしなかった。口に出して言ってしまえば、それで、エレンを都合の良いように誘導してしまう、と思っているのだろう。代わりに、アルミンは小さく笑った。
「団長に、言われたよ。……僕自身が、受け容れなくてはいけない、って。昔あったことも、今、抱いている気持ちも。それは、自分しか、背負うことが出来ないから。……後悔のないように、と」
その言葉を噛み締めるように、アルミンは、暫し瞑目した。再び、目を開けたとき、そこには、静かな意思の光が宿っていた。澄んだ青灰色の瞳が、エレンをまっすぐに見つめる。
「それで、分かった。辛いのは、ずっと、後悔し続けていたからだ。今、このときにも、自分が選択から逃げているということが分かるから、流れて失っていく、一瞬、一瞬を、後悔し続けていた。でも、もう……後悔は、したくない。だから、全部……エレンに、話した、……っ」
不意に、アルミンは声を詰まらせた。口元を片手で覆い、がくりと首を折る。その瞳から、ぽろぽろと、シーツに滴り落ちるものがある。
「アルミン、……どうした、」
突然に、涙を溢れさせた友人を、エレンはどうしたら良いのか分からずに、肩を抱いた。大丈夫か、と背中を撫でさする。アルミンは、ひくりと身を竦ませた。
「痛、い……」
嗚咽交じりに、アルミンは、上ずった声を吐き出す。傷が痛むのか、とエレンは背筋を緊張させた。
「待ってろ、すぐに誰か──」
すぐさま、立ち上がりかけたエレンは、しかし、足を踏み出すことは出来なかった。手首を、軽く掴んで引き留めるものがあったからだ。
「いい……いいんだ、エレン、このまま……」
「アルミン、」
「先輩の前じゃ、泣けない……」
暫し躊躇った後、エレンは、再び寝台に腰を下ろした。自分の肩にアルミンの頭を預けさせ、宥めるように、背中を撫でてやる。嗚咽を堪えて、背中がひく、ひくと震えるのが分かった。きっと、これまで、泣き出したいのを我慢して、無理矢理、押し殺してきたのだろう。痛いものを、痛いとも言えなかったのだろう。せめて、自分の前では、打ち明けて、晒して欲しい、とエレンは思った。エレンはアルミンに、弱く愚かな部分も含めて、何もかも晒したと思っている。今度は、こちらが受け止めてやりたかった。アルミンの抱える、痛みも、すべて、分かち合いたかった。
「何でも……言ってくれよ、頼ってくれ。お前のために、俺だって、してやりたい。友達だろ」
嗚咽が落ち着くのを待って、エレンは、静かに腕の中に語り掛けた。小さく身じろいで、アルミンは目元を拭っているらしかった。友人が顔を上げてくれるのを、エレンは根気強く待った。ややあって、アルミンは、そろそろと面を上げた。目は赤く、潤んだままであったが、表情は既に落ち着いている。
白い頬に、癖のない金髪が、さらさらと落ちかかる。エレンは片手で、それをかき上げてやった。その手をとって、アルミンは、そっと頬を擦り寄せた。
「手、だけじゃ、足りないよ」
言って、唇の合間に、指先を挟み込む。エレンは、振り解こうとはしなかった。ほんの爪の先程度の接触から、互いの柔らかさと、温もりを感じ取る。僅かばかりの交感の後、音もなく、離れた。
「指先は神経が集中して、鋭敏な箇所ではあるけれど、唇だって、それと同じくらいに敏感だ。皮膚が薄く、それだけ、神経に近いから、直に感じられる。……食べ物を判別することは、生きることに直結するから、それは、必要な機能だったんだろう」
「それで、何を知りたい」
「エレン」
迷うことなく、アルミンは答えた。
「エレンを、知りたい」
指先と唇で、知りたい。一番、敏感なところ同士を擦り合わせれば、お互いをもっと、知ることが出来る。
「エレン、……」
吐息交じりの声を、そっと舌の上に乗せて、アルミンはエレンを呼ぶ。ただ一人のためだけに紡がれた声を、どこへも逃がしたくなかった。だから、そのまま封じ込めるように、唇を触れた。
「……」
ひくりと、アルミンの肩が強張るのが分かる。宥めてやりたくて、僅かに唇を滑らせた。
軽く掠めただけでも、その柔らかさを感じることが出来た。鋭敏な感覚器官だという話は、本当だったのだな、と思った。
重ねて、触れ合わせて、離れた。ごく間近の距離で、アルミンの青灰色の瞳にぶつかる。友人の瞳は、静かにこちらを見つめていた。初めての接触の後というのに、エレンもまた、不思議と心は穏やかだった。エレンをじっと見つめて、アルミンが口にしたのは、やはり、「ごめんね」という言葉だった。
「……何で、謝るんだ」
「これなら……何も、言わなければ良かった。結果は、同じなんだから。わざわざ、エレンを嫌な気分にさせるくらいなら、……きれいな振りを、しておけば良かったな。その方が、エレンも、嬉しいだろ、……」
あの夜、拒んだりせずに、受け容れていれば良かったと、アルミンは俯いて呟く。離れようとする、その手首を、エレンは掴んで、引き寄せた。何かと思って顔を上げるアルミンに、触れるばかりに詰め寄る。
「知らない方が、良かったなんて、俺は、思わない」
エレンは言い切った。心の底からの、本心だった。アルミンが、青灰色の瞳を瞠るのが分かる。しっかりと、言い聞かせるように、エレンは続けた。
「何も知らなけりゃ、確かに俺は、良い気分でいられたかも知れない……けど、お前はどうなる。全部、お前ひとりが、抱え込むことになる。そんなのが正解だなんて、俺は、思わない」
アルミンの昔話のせいで、エレンは動揺させられた。嫌な気分にさせられた。怒りと、憎しみと、情けなさと、痛みと、哀しみが、ないまぜとなって、心をかき乱した。アルミンさえ口を噤んでいれば、それは、感じずに済んだものだ。しかし、余計なものに煩わされてしまったとは、エレンは思わなかった。これは、自分が受け止めなくてはいけなかった筈のものだと思った。これは、ずっと、アルミンが、ひとりで抱え込み、背負ってきてくれたものだ。エレンを困らせたくない、煩わせたくないという一心で、アルミンは、それをひた隠しにしてきた。今からでも、それを受け止めてやるのが、自分の役割だと、エレンは思った。それが、友人のために、してやれることだと思った。
アルミンは、躊躇うように、視線を外して俯く。
「僕の、身勝手で、……」
「違う」
はっきりと、エレンは言い切った。縮こまってしまった友人の手に、手を重ねて包み込む。それに促されるように、アルミンが顔を上げるのを待って、エレンは顔を寄せた。
「俺が、したいから、するんだ」
「ん、……」
再び、唇を押し当てる。柔らかな弾力を、何度も味わって、それでも足りずに、そっと歯を立てた。ふる、とアルミンは肩を震わせる。
「っふ、……エレ、ン……」
紡ぎ出される声ごと、封じ込めるように、舌を這わせた。濡れた肉が擦れ合って、小さく音を立てる。
「アルミン、……口、開けろよ」
「っ……」
おずおずと差し出された舌が、触れた瞬間に、危ういほどの痺れが、脊椎を駆け上がった。確かめるように、二度、三度と、ざらついた感触に舌を這わせる。繰り返すほどに、もどかしさが募り、息が上がった。
「…っは、ぁ……ふ、」
熱く湿った吐息を交換しながら、柔肉を貪った。どちらのものともつかぬ荒い呼吸に、煽り立てられていく。もっと、もっとと、求めるように、エレンは友人に覆いかぶさった。押されるままに、背後に倒れそうになるアルミンの背中を支えてやりながら、姿勢を前傾させていく。
「エレ、……そんな、押さないで、……」
「悔しいんだよ、団長に先を越されて。いいから、やらせろ」
「こんな、のは……っ、して、ないよ……、んぅ…」
抗議を紡ぐ唇を、エレンは、塞いで大人しくさせてやった。とうとう、アルミンの肩が寝台につく。唇の端からこぼれ落ちるものを、舐め取ってやってから、エレンは一旦、顔を離した。自分の下で、アルミンは頬を紅潮させ、切なげに乱れた息を継いでいる。潤んだ瞳に落ちかかる金髪を梳いてやりながら、エレンは、静かに語り掛けた。
「俺のこと、知りたいって言ってたな。……俺も、お前を知りたい」
心臓は、うるさいほどに鳴っている。規則的に上下する、アルミンの薄い胸元に、エレンは手を伸ばした。こちらの意図を承知してか、アルミンは力なく顔を横向けた。拒まれていないと分かって、いよいよ、鼓動が速まる。はやる思いを抑えて、シャツの襟元に、指を掛けた。
■
生きている、ここに、生きている!
重ね合う身体に、情動を、衝動を、叩きつけた。お互いに刻みつければ、覚えていられる。確かめられる。
忘れられないくらいに、鮮明に、刻みつければ良い。
ここにいること、ここに、生き続けていることを。お互いが、確かめている。
身体の熱い部分を押しつけて、擦り合わせれば、切ない焦燥が募って、嗚咽がこぼれた。
焼き切れるほどに、加速する。
どちらがどちらであったのか、もう、分からないほどに。
どくどくと脈打つ心臓に心臓を重ねて、目を閉じる。
ああ、良かった。まだ、生きている。走り続けられる。
■
身体が重い。眩暈がする。全身が、ひりつくように熱い。冷ややかなシーツの感触を追い求めて、頬を擦り寄せた。
──これで、良かったのだろうか。
だらしない格好で寝そべったまま、エレンはぼんやりと思考した。事に及んだ是非を問うているのではない。そうではなく、手順や手際、力加減について、自分がちゃんと出来ていたのかどうかが気に掛かる。なにしろ、経験のないことであるから、文字通りの手探りで進めていくほかはなかった。後半などは、自分のことで手一杯になり、アルミンの反応や表情を窺っている余裕もなかったというのだから、薄情なことである。
終わってみれば、一方的に無体を強いてしまったようで、エレンは己の至らなさを悔いた。体力のないアルミンにとっては、それだけ負担が大きい。無理に付き合わせても、疲弊させるだけだ。そんな当たり前のことが、すっかり頭から抜け落ちていた。まして、相手は怪我人である。もっと気遣って、優しくしてやることも出来た筈なのにと、エレンは少々落ち込んだ。もしも、満足したのはエレンの方だけで、アルミンはただ苦しい思いをさせられただけなのだとすれば、ひどい話である。手酷くいじめてやったのと、何も変わらない。
「……アルミン」
緩慢に首を動かして見れば、アルミンは隣で身体を丸めていた。
もう遅いかも知れないが、せめて、慰めてやりたくて、そろそろと手を伸ばした。
アルミンの汗ばむ頬に張りつく金髪を、そっと払い、伝い落ちる涙を、唇で拭った。伏せた睫が、小さく震えるのが分かった。視線を下ろせば、首筋と、肩の辺りには、しっかりと噛み締めた痕が赤く刻まれていて、エレンは胸が痛んだ。罪滅ぼしというわけではないが、自らつけた痛々しい痕に、小さく口づける。微かな鉄錆の匂いが、口の中に広がった。
「ごめんな。……痛かっただろ」
真新しい傷口を、丁寧に辿って、唇で塞ぐ。なすがままに身を任せながら、アルミンは怪しい呂律で応じる。
「ん……でも、……気持ち良かったから、いいよ」
「……そうか」
やっぱり、噛まれるのが好きなんじゃないか、と思った。
気だるげに姿勢を動かして、アルミンは、隣のエレンを見つめた。濡れた青灰色の瞳には、既に、不安の色はない。
「なんだか……安心した。やっぱり、エレンに隠し事は、出来ない……知って貰えて、良かった」
「なら……俺も、良かった。アルミンは、大事な、友達だから」
「うん。仲直り、だね」
どちらからともなく、唇を重ねる。涙が入り混じったせいか、塩辛かった。
エレンの肩に額を預けて、アルミンは、訥々と語る。
「エレンを、汚したくない、なんて言ったけれど……違う、本当は、エレンのためじゃない。自分のため、だったんだ。……きっと、エレンに、気付かれると思った。隠し通せる、自信がなかった。エレンは、きっと、失望する……友達で、いられなくなる。そう思ったら、拒むことしか、出来なかった」
そろそろと、躊躇いがちに手を持ち上げて、アルミンはエレンの腕に触れた。簡単に払いのけてしまえるくらいの、それは、あまりにも控え目な接触だった。
「エレンを、失いたくなくて、……臆病になって、余計に、離れていったんだ。隠したって、離れたって、そんなことでは、何も解決しないのに。時間が経てば、悪くなっていくだけなのに」
「……アルミン、」
友人の金髪の頭を、エレンはそっと包むように支えた。促してやると、アルミンは静かに身を寄せてくる。エレンの腕に触れていた手が、ぎこちなく、背中に回る。顔を伏せたアルミンの、小さな吐息が、鎖骨を掠めるのが分かった。
「こんな、簡単なことなのに。気付けないで、逃げて、どんどん、見えなくなっていったんだと思う……逃げるしかないんだと、諦めて、何を求めることも、やめてしまって」
エレンの肩に頭を預けて、アルミンは、小さく頬を擦り寄せた。
「でも、もう、エレンに隠さなきゃいけないことは、ない。全部、知って貰えたから。また、動ける……僕を信じてくれた、エレンに、応えられる」
目を見れば、互いに考えていることが分かる、かつての友人同士の在りようを、取り戻すことが出来たのだと思う。相手のことを、自分のことのようによく知っているから、信じて、命を託すことが出来る。そうして、お互いを信じ、支え合っている。故郷を追われた、あの日から、ずっと、そうして生きている。
「エレンは、エレンだし……僕は、僕だって、分かったような気がする」
それは、当たり前と言われてしまうかも知れない、けれど、常につきまとう不安なのだ。誰もが、その中で生きていることを、今のエレンは、知っていた。
「ああ、……そうだな、」
どこへ行っても、何があっても、変わらないのだと思った。どこまで捨てたら、自分が自分でなくなってしまうのだろうかと、恐れていた。それでも残るものは、いったい、何なのだろうかと、もがいていた。確かなことなどは、何一つない。何も知らないままに、何も分からないままに、それでも、進むしかない。
「俺の、友達のアルミンは、……変わらない。そう思うから、俺も、戻って来られる」
「うん。変わらない……友達だよ」
心臓が、動いている。抱き合って、それを確かめた。生きている──生き続ける。離れていようと、どこにあろうと、変わらない。混じり合う、規則正しいリズムを、目を閉じて、身体で聴いていた。
「……アルミン?」
エレンの腕の中で、アルミンはいつしか、静かな寝息を立てていた。つられて、エレンはうとうとと瞼が落ちかかったが、辛うじて、己を叱咤した。気だるさの残滓を振り払って、友人を起こさないように気を払いつつ、身を起こす。
──一緒には、いられない。
人は、眠るときには、一人きりだ。
汗を拭ってやるために用意されていた薄布で、軽く友人と自分の身体を拭いてから、衣服を整えた。包帯が緩んだり汚れたりしていないことを確認して、小さく頷く。
すっかり疲れ切ってしまったのだろう、深い眠りに就いていると思しき友人の頭に、最後に、そっと頬を擦り寄せた。
「……じゃあな。また、明日」
それだけ告げて、地下の寝床へ戻るべく、背を向けた。
■
戦場では、自分が死ぬと思っている者はいない。
自分たちだけは、死なないのだと、誰もが信じていた。
死んでいった者たちも。
生き残った者たちも。
その点において、変わりはなく、同じだった。
どれだけ、仲間が斃れようとも。
何も果たすことのないままに、終わるなんて、考えられなかった。
彼らは死に、自分たちは生き延びた。
かろうじて、やり過ごし、少しでも、引き延ばす。
そんな、その場しのぎのやり方で、喘ぎながら、進むしかないのだ。
細々と、繋ぎ続けるしかない。
呼吸を。鼓動を。命を。
きっと、墜ちることを、最初から知っていた。
翼を持たない背中は、飛ぶことは出来ない。
墜ちるだけだと、分かっていても、飛びたかった。
僅か一瞬の、自由のために。
いつか、死ぬ者同士だから、人と人は分かり合えるのだと聞いた。
自分たちは知っている。仲間が死んでしまうことを、自分が死んでしまうことを。
ずっと、生きていけると、無邪気に信じてなんて、いられない。
それは、あまりに儚く、あっけなく、奪われてしまう。
軽く指先に引っ掛けるだけで、引き千切れてしまう。
柔らかく、脆い存在である、自分たちは。
墜ちていくのだ、水底へ、ゆっくりと。
そうしたら、もう、息をしなくて済むのだろうか。
貪り喰われることに、怯えなくて、済むのだろうか。
そんな、束の間の夢に、身を委ねながら。
熱を失い、鼓動は音を潜め、まどろみに沈んでいく。
滲む景色は、光に溶け、優しく瞼を覆う。
その安寧を、しかし、両手の双剣は、薙ぎ払う。
がむしゃらに、宙を駆けて、振り払う。
決して、手放さない。
灼けつくほどの熱に焦がれ、強烈な痛覚を支えに、
こんな風に、しがみついている。
どこまでいっても「友達」であり続ける、そんなエレアルが好きです。加筆版『檻のユーフォリア』発行(→offline)
2013.10.18