カサブランカ -10-
都合の良い夢。
薄っぺらい幻。
そんなもの、何だって良いんだ。
俺はただ、白い部屋にルークと二人で、いたかったんだ。
扉も、窓も、何も要らない。
どこにも行けない、閉じた世界で、ルークを安心させてやれたら、それで良かった。
ルークを閉じ込め、俺を閉じ込める。
それは、あたかも永遠のように。
ルークが望んでいたことを、させてやりたかった。
そうすれば、まるで、赦されるような気がしていたんだ。
本当の、未来だったら。
本当にルークのためを思うなら、突き放すんだろう。
広い世界を、教えてやるんだろう。
だけど、俺はそれが出来なかった。
そうしたくない。
ルークをどこにも行かせたくない、この家の中でずっと。
俺とルークが、パズルで繋がっているのだとしたら。
それを、ずっと、感じていたい。
■
なぜだか行く気がしなくて、学校は休んでいた。何度となく幼馴染が訪ねてきたものの、ドアチェーンの隙間から、大丈夫だからと言って、それ以上足を踏み入れさせることはなかった。
もちろん、ノノハも納得したわけではないのだろうが、俺を信用してねぇのかよ、と苦笑してみせると、彼女はそれ以上、強くは出られないようだった。少しばかり申し訳なく思いながらも、俺はしっかりと玄関を閉じた。
学業を放棄して、その間一日中、家の中で何をしていたか。そんなことは決まっている。俺とルークが二人でいて、やることといえば一つしかない。
「カイト。解いて」
「ん」
もう七冊目になったノートを広げて、ルークはこちらに差し出す。俺は、親友の作った、溜息の出るほどきれいで刺激的なパズルに挑戦し、これを解く。
そうだ、ずっとこうしたいと思っていたじゃないか。ルークがパズルを作って、俺がそれを解く。それだけ、出来れば俺は、満足じゃないか。ほかに、いったい、何が要るっていうんだ。
リビングのローテーブルの周りは、大小さまざまな紙が散らばっている。そのほとんどは、ルークがパズルを描いたメモやルーズリーフ、チラシの裏といった、作品の断片だ。
与えたノートに限らず、家の中のありとあらゆる白い紙に、ルークはパズルを描きたがったし、俺もそれを止めなかった。
壁や床にさえ描かれなければ、構わない──否、その約束ももう、必要ないような気がしていた。ルークがそうしたいなら、思い切り、壁をカンバスにさせてやっても、良いような気がした。
クレヨンで描かれた、無邪気なパズルに囲まれて暮らすのは、考えただけでも楽しそうだ。今だって、ルークの作品を描いた紙の散らばる中に身を置くのは、こんなにも安堵する。パズルによって、自分たちは守られていると感じるのだ。
そんな俺の心を読んだように、ルークはそっと、こちらに身を寄せてくる。どちらともなく手を重ね合わせ、緩く触れ合いながら、ルークは言った。
「パズルがあれば、僕たちは、大丈夫だよね。パズルが、守ってくれるよね。カイトと僕、二人のことを」
絡めていた指を動かして、ルークは小指を繋げた、指きりのかたちを作る。きゅ、と結ばれるのに応えて、俺もまた、小指を曲げた。
幼い日に、あの草原で結んだ、ふわふわと柔らかく温かい指は、今はしなやかに細く、少し冷たい。眺めるだけではなくて、絡めるとそれがよく分かる。指だけではなくて、それはルークの全部にいえることかも知れなかった。
たぶん、ルークの方も、似たような感想を抱いていることだろうと思う。無邪気にじゃれあった頃と、同じだけれど違うものを、俺たちはお互いの中に見つけていた。
「ずっと、友達。ずっと、一緒だよ」
それなのに、ルークは十年前と同じ瞳で、同じことを言うのだった。同じことを言って、変わらないことを望む。うん、うん、と俺は眼を閉じて、あの日と同じ答えを返した。
ルークの作った、心地良いパズルの世界に、思考を浸らせていたときだった。微かな電子音が、無遠慮に鼓膜を打つ。呼び出しの音量を最低まで下げた、玄関チャイムだ。
当然のようにそれを無視していると、今度はトントンとドアのノック音が聴こえた。併せて、甲高い男の声が告げる。
「大門カイトさん、いらっしゃいますかー? 書留でーす。解道バロン様から」
保護者の名前が読み上げられて、俺は一旦、自分たちだけの世界に向けていた思考を打ち切った。やれやれ、これは居留守というわけにはいかない。
腰を上げると、ルークはなにか物言いたげな視線をこちらに向けた。
「カイト」
「ちょっと待ってろ、すぐ戻るから」
パズルタイムを中断されて不服なのだろう、その唇が何か紡ぎかけるより前に、俺は白金の頭をぽんぽんと撫でて慰める。周囲に散らばった紙片を踏みつけないよう、気をつけながら玄関へと向かった。
しかし、わざわざ書留とは、いったい何の用だろう。また厄介な事に巻き込まれなければ良いのだが、などと思いつつ、俺はドアチェーンを外して、鍵を開けた。
瞬間、ドアハンドルを握るより前に、勢いよく扉が開け放たれている。
「…………ッ」
咄嗟に俺は、身を硬くした。一瞬にして、圧倒的な後悔が押し寄せる。
ああ、開けるべきではなかった──ルークは、知らせてくれていたじゃないか。その作った声音が、誰のものであるのかを。
扉を、開けては、いけなかったのに──
「こんな手に引っ掛かってんじゃねえよ。バカイト」
茫然とする俺の前に立った配達員──否、それを装ったギャモンは、皮肉げに唇をゆがめて言った。
突然の訪問者に不安げな様子を見せるルークを、とりあえずここにいろと寝室に連れて行き、リビングに戻ると、ギャモンは我が物顔でソファを占拠していた。勝手に拾い上げたルークの作品を、つまらなそうに一瞥しては、ひらりと床に放る。
向かいに腰を下ろしつつ、俺は奴のむかつく顔を睨んだ。
「何の用だよ」
「学校休んで携帯にも出ねぇ大門カイトくんがどうしちまったか、心配でなぁ。ついにパズルに埋もれて死んじまったんじゃねぇかってよ」
それも、あながち的外れでもなかったみてぇだな、とギャモンは挑発的に顎を上げる。家じゅうに散らばったパズルの断片のことを揶揄しているのだろう。
俺はまだしも、ルークをそんな風に、死神か疫病神みたいに言われるのは、気分が良いものじゃない。忌々しく俺は吐き捨てる。
「余計な世話だぜ」
「ふん。そうはいかねぇ」
言って、ギャモンは人差し指を立てた。
「その一、お前らのことが心配だってノノハがぼやいてた。その二、どうやらルーク君は大丈夫そうだけど、カイト君の方がむしろ気になるねえ、という軸川先輩の指摘。その三、カイトが危ないってキュービックの大騒ぎ、まあこいつはいつも通りだけどな。その四、……おい聞いてんのかよ」
偉そうに語る悪友の説教なんて、俺は聴くつもりはなかった。それよりも、今は大事なことがある。一つ息を吐いて、俺は席を立った。
「もういいだろ。俺は、パズルを解かなきゃなんねえ。ルークが待ってるんだ」
「おいカイト、」
「俺が、解いてやらないと。また、あんなパズル、作っちまう前に、俺が、」
「カイト!」
床に散らばる紙を避けながら、廊下への扉に向かいかけたところで、ぐらり、と大きく視界が揺らぐ。
紙を踏みつけて、うっかり足を滑らせたのではない。後ろから力任せに肩を掴まれ、引き倒されたのだと、気付いたときには身体はバランスを失って、腕が空しく宙をかいている。
一瞬の浮遊状態の後、フローリングに盛大に頭と背中を打ちつけることを覚悟した俺の全身を襲ったのは、存外に穏やかな衝撃だった。思わず閉じてしまっていた目を、呻きながら開けると、天井と、傍らに立って手をはたいている悪友の姿を認める。
わざわざソファに着地するように投げ飛ばしてくれるとは、気遣いがあるのだかないのだか──そんなことを、ぼんやりと思っていると、素早く伸びた右腕によって胸倉を掴まれる。
「目ぇ覚ませ! カイト!」
耳と言わず、全身を打たれたかのような、烈しい一喝だった。箍が外れたように、そこからギャモンは休むことなく、一気に糾弾の言葉を継いだ。
「なにが、『解いてやらねぇと』だ、笑わせるぜ! お前はただ、自分が満足したいだけじゃねぇか。あいつの作るもんを片っ端から解いて、それでなんだってんだ? 自分にしか出来ない、いっぱしのことをしたつもりになって、勘違いして、状況に酔ってるだけじゃねぇか! そんなことが、どうしてあいつを救うことに繋がる? お前がパズルを解けば解くほど、あいつはまた新しいパズルを作る。お前をもっと喜ばせるためにな。自分で気付いてねぇのかよ、危険なパズルに挑むときほど、お前は貪欲に目ん玉ぎらぎらさせてるってよぉ!」
空いたもう片手を、苛立たしげに上下しながら、ギャモンは糾弾を続けた。
「何でパズルを作り続ける、言っても止めようとしないかって? 決まってるじゃねぇか。そうすりゃお前が喜ぶからだ。お前が、パズルを解かずにはいられねぇって知ってるから、あいつは、パズルを作らずにはいられねぇ。自分のことは棚に上げやがって、夢中になってパズルを解いているくせに、あいつにはそれを止めろと命じるのかよ。与えられたもんは喜んで受け取るくせに、本当は望んじゃいないだなんて、どの口でほざきやがる! いい加減気付けよ、あいつは、『パズルを作るために』パズルを作ってるんじゃねぇ。腕輪も外れた今、パズルを作らずにはいられねぇ理由なんて、一個だけだ。あいつにとって、パズルは手段だ。大切なもんを、繋ぎとめるための糸だ。これしかねぇって大切なもんを手放す、それがどんだけ辛いことか、お前は知ってるんじゃなかったのかよ、あァ!?」
「……俺は、……」
俺は──なんだ。なにを、弁明する。
面白いくらいに、頭が働かなかった。
ふっと鼻で笑うと、ギャモンは掴んでいた俺の胸倉を突き放した。悠然とした態度で、廊下に続く扉へと足を向ける。ドアハンドルに手を掛けると、奴はこちらを一瞥して、高らかに宣言した。
「確かめてみるか。本人の前でな!」
「……ルーク!」
開け放った扉の風圧で、床の紙片が舞い上がる。
その向こうに、立っていたのは頼りなく細いシルエット──奥の部屋にいた筈の、ルークだった。
困惑したように眉を寄せて、何かを堪えるように、唇を引き結び、親友はこちらを──俺を、まっすぐに見つめた。
ルーク、ともう一度呟いた自分の声は、ひどく掠れて、向こうまでは届かなかっただろう。だから、俺が、行かないと駄目なのだ。引き寄せられるように、ふらりとそちらへ、足を踏み出しかけたとき、
「お前が悪い」
耳を打ったギャモンの宣告は、おそろしく冷たい響きを宿していた。勢い任せの先ほどまでとは違う、冷徹ですらある態度でもって、こちらを見下ろす。
「お前がこいつを、『すごいパズルを作る奴』として見てた、そのままで変わっちゃいねぇからだ。あれだけのことをやらかしたってのに、結局、お前の時間ってやつは止まったまんまだ。同じ場所で馬鹿みてぇにぐるぐる回ってるだけで、少しも先に進んじゃいねぇ。認めろよ、こいつがパズルを作って、お前は嬉しかったんだろ? こいつのパズルが、欲しかったんだろ? もっと作って欲しかったんだろ? ああ、そうだ、こいつは理解(わか)ってたんだよ。パズルを媒介しなけりゃ、お前にこっちを見て貰えない、喋っても貰えないってな!」
「そ──んな、」
何を──何を言っているんだ。そんなの、ぜんぶ、でたらめだ。お前に、なにが、分かるっていうんだ。
俺は、いつだって、ルークの傍にいた。
学校からは出来るだけ早く帰宅するようにしたし、食事も、風呂も、寝るときだって、ずっと一緒で、離れなかった。
ルークが望むことは、何だって聞いてやろうとした。
何よりルークを優先して、大事に、大事にしてきた。
俺はルークを見つめたし、ルークと喋ったし、ルークと笑った。
それの、何が──いけない。
何が──間違っていたっていうんだ!
胸の内には、割れんばかりの叫び声が響くのに、凍りついた喉からは、ただ音のない息がもれるばかりだった。急所を射抜かれたように、凍てついて、指先ひとつ──動かせない。
こちらの惨めな姿を、ギャモンは哀れみすら宿した眼でもって見据える。
「じゃあ、一つ訊くけどよ。お前は、どっちが好きなんだ? こいつか、それとも、こいつが作るパズルか?」
「──そんなこと、」
「決まってるよ」
ぽつりと、ルークは呟いた。落ち着き払った声には、もう、どこにも不安の色はない。穏やかですらあるトーンで、歌うように紡ぐ。
「カイトは、パズルが一番好き。だから、それを作る僕のことも、好きでいてくれる。そうだよね、カイト」
「ちが、……ちが、う……」
こちらを見下ろすルークの瞳は、ガラス玉めいて感情をうかがわせない。あらゆる言葉も温度も、素通りしてしまうほどに、透明に澄み切っている。
小さく首を傾げて、ふっとルークは微笑んだ。
「ありがとう、カイト。僕を好きになってくれて。パズルが好きな、そんなカイトが、僕は、大好き」
俺は──何も、返してやることが、出来ない。言葉も、笑顔も、今まで無理やりに紡ぎ出していた、そんなもの、ひとつも。
小さく舌打ちをすると、ギャモンはもたれていた壁から身を起こした。制御を失った舞台を、これ以上腕を組んで傍観していても、何ら得るところはないと判断したのだろう。柔和な笑みを湛えるルークの脇を、何も言わずに通り抜ける。
最後に、俺に鋭い一瞥をくれてから、奴は振り返らずに扉を出ていった。玄関の閉まる派手な音が、遠くに聞こえた。