カサブランカ -9-





何かたった一つの出来事のせいで、未来が方向づけられてしまうとか。
結末が、決まってしまうとか。
そういう考えを、俺は、あまり信じてはいない。確かに、チェスの初心者ならば、チェックメイトされたとき、これで運命が決まったと感じることだろう。その直前の手こそが、この結果を生んだのだとみなして、反省するなり悔しがるなりすることだろう。
しかし、少し考えれば分かるように、これは正しい解釈とはいえない。
「決定的な手」と呼ばれるものは、ただその手だけで独立して存在するものではないからだ。その前に行なわれた、すべての駒の移動という文脈があって、それは、はじめて成立する。確かに、分かりやすい決め手は一つかも知れないが、目に見えなくともそこには、結末に至る確実な流れというものが息づいている。
チェスだけではない。それは、何にだっていえることだ。独立に存在するものなんて、この世にはないのだから。
──それでも。
もしも、一つのきっかけを、挙げるとすれば。
こんなことになってもまだ、俺たちは大丈夫なんだと信じて、やっていけるのだと思い込んで、都合の良い解釈をして、目を逸らして、引き延ばして、逃げ続けてきた俺が、とうとう盤上でチェックされるに至った、その一手。
それは──一枚の、絵だった。



「おかえり、カイト」
「……おかえり、ルーク」
──良かった。今日も、大丈夫そうだ。
毎日、帰宅するごとに、またルークが「新しいパズル」を作ってはいないかと、俺は気が気でなかった。先日の一件から、「クレヨンやペンは紙の上で使うこと」に加えて、「パズルには、尖ったもの、硬いもの、重いものを使わない」という約束をしたから、もうあんな危険なものは作れない筈だと、分かっていても安心は出来なかった。ルークがどうしてもパズルを作りたいと思ったら、そんな俺との約束なんて、いつまで守って貰えるものか分からない。なにしろ、こちらは彼との幼いころの約束を守れなかった身である。それでありながら、一方的に約束を強いるなんて、図々しいにもほどがあるだろう。
ともあれ今のところ、ルークはちゃんと約束を守っていた。帰ってくると、ノートに新作のパズルがいくつも制作されている。夜眠るまで、隣り合いながらゆっくりと、俺たちはそいつに取り組むのだった。
今日もそうしようと、ソファに並んで座る。どれから始めようかな、とルークがノートを繰っている間に、俺はふと思い出して、持ち帰った教科書の表紙を開けた。
「そうだ、これ、アナから」
言って、俺はそこに挟んでおいた一枚のポストカードを取り出した。あの子に渡してね、と言って、あの気ままな芸術家は俺にこいつを託したのだった。絵画のことなんて俺はちっとも分からないが、それでも、ポストカードいっぱいに描かれたその作品から、優しく温かい思いが伝わって来るのは分かる。
アナがこうして時々贈ってくれるのは、決まって、大きな空の下の風景を描いた絵だった。今日のそれは、夕暮れを切り取った一枚らしい。
沈みゆく、雄大な太陽。白く浮かぶ、優美な月。燃えるような草原。濃紺のグラデーションを描く空。
ポストカードを受け取ると、ルークは瞬きも忘れて、それをじっと見つめた。淡青色の瞳を瞠って、言葉もなくそれに相対する様子は、まさしく絵に魅入られた、という表現がぴったりであろう。自分の描いたものでもないくせに、俺はなんだか誇らしい気分になった。
その唇が、すごい、だとかきれい、だとかの感嘆の声を紡ぎ出すのを、俺は楽しみに待ったが、しかし、ルークは吐息をこぼすことすらしなかった。代わりに、確かめるように二度、ゆっくりと瞬きをする。それがきっかけになったのだろう。みるみるうちに瞳が潤んだと思うと、白金の睫に絡んだ滴がとうとう震えて、頬を伝い落ちる。
絵に見入ったまま、ルークはぽろぽろと涙をこぼしていた。
慌てたのは俺である。
「ど、どうしたんだよ。ルーク、おい」
俯いてしゃくりあげ始めた友人の肩を、俺はとりあえず宥めるように抱いた。もう片手で、ルークの震える手の中から、ポストカードをそっと取り上げる。いったい何がルークにここまでの反応を呼び起こしたのかと、紙面を仔細に観察してみるも、見たところ、何ということはない──見事な夕焼けの風景だ。確かに、太陽の沈む様子というのは、ある種のセンチメンタルを誘う対象ではあるが、ここまでの反応は予想外である。
「な、大丈夫だから。泣くなよ」
頭を抱き寄せるようにして、柔らかな髪を大きくかきまぜてやる。
「……カイト」
上ずった声で呟くと、ルークは縋るように、俺の背中に腕を回して抱きついてきた。
「カイト、カイト……行かないで。一緒にいて」
「ああ、行かねえよ。お前を置いて、どこにも行かない。安心しろって」
その後はもう、カイト、僕のカイト、と嗚咽の合間に紡ぐばかりで、およそ意味を為さなかった。ようやく嗚咽がおさまってからも、ルークはなかなか俺から身体を離そうとしなかったし、パズルを解いてやっても、物憂げな表情が晴れることはなかった。



寝台の中で、俺はぼんやりと暗い天井を眺めて過ごしていた。いつもならば、隣のルークは寝床に潜り込んですぐに寝入ってしまうのに、今日は暫く経っても、小さく身じろぐ気配があった。その程度のことで眠りを妨げられるほど、俺は繊細な神経を持ってはいないが、なんとなく気になって、目を閉じる気になれなかったのだ。
俺は、自分が眠るのは、ルークが眠ったのを見届けた後が良いと思っていたし、起きるのは彼より先が良かった。ルークが目覚めている間は、いつでも彼に応えてやれる態勢を整えていたかった。そうでなかったら、俺の大切な親友は、きっと不安になってしまう。寂しがってしまう。そんな思いは、味わわせたくないのだ。いつも一緒、という約束の、これもひとつの守り方なのかも知れなかった。
静寂の中、隣で身じろぐ時折の布擦れの音だけが、思い出したように耳に届く。いくら待っても、そちらから穏やかな寝息が聞こえてくることはなかった。どうしたのだろう──横目に様子をうかがっても、薄闇の中、はっきりと表情を見て取ることは難しい。
眠れないのか、と声を掛けようとしたときだった。きし、と寝台が音を立てると同時に、ルークが身を起こしかける気配があって、俺は発声のタイミングを失った。水でも飲みに行くのだろうかと、呑気に構えていると、親友は起こした上体を、こちらに覆い被さるかたちで伏せた。のみならず、俺の襟元に指を掛けて、ぎゅ、と掴む。
「カイト。脱いで」
もどかしげに、衣服を掴んで引っ張りながら、ルークは言った。突然のことに、俺は言葉を返すことが出来ない。反応がないのをどう捉えてか、ルークは不安げにもう一度、カイト、と吐息混じりに囁いた。襟元に、改めて指を掛け直す。自分の手で釦を外すという選択肢はないらしく、ただ握っては、焦燥交じりに訴える。
「触って、直截に、もっと。撫でて、ぜんぶ。ぜんぶ、欲しい」
「……ルーク」
ひとまず宥めてやろうと、その細い肩に手を掛ける。突き放されると思ったのだろう、ルークはびくりと肩を震わせて、嫌がるように首を振った。離れまいとするように、肩口に縋りついてくる。
「カイトが、欲しい」
顔を伏せて呟かれた声は掠れ、消えてしまいそうに頼りない。耳元に捉える息遣いは、それだけで、悲痛な叫び声に聞き取れた。このままでは、ひとりで壊れてしまうとでもいうように、ルークは小さく身を竦めて喘ぐ。
「寒い……怖い、よ」
──ああ、ルーク。たぶん、それは、寂しいって言うんだ。なんて、教えてやることもしないで、俺は、震える身体を抱き締めた。だって、そんな言葉を教えてしまったら、他の誰かにだって、ルークは同じことを言ってしまうかも知れない。そんなのはごめんだ。
しっかりと抱いた腕の中で、ルークが小さく身じろぐ。
「温かく、して……カイトで」
促されるままに、体勢をこちらが上になるように入れ替える。乱れた白金の髪の下から見上げてくる瞳は、小さく光を反射していたが、ふと、下りてきた瞼がそれを覆い隠す。代わりに、薄く開いた唇が微かに動いて、息を吸うのが分かった。
「カイト……キス、して」
いつもそれをねだるときよりも、少し濡れた声で、ルークは紡いだ。ゆっくりと、身体を重ね合わせながら、可憐に開かれたそこに、俺は唇を押し当てた。互いの柔肉の感触を味わう時間が、ルークは何より好きだと、知っていたから、離しかけてはまた押し付けて、分かるように何度も繰り返す。ルークが少しでも、寒がらないですむように。怖がらないですむように。感覚を、温度を、分け与える。
「ん、ぅ……は、」
息苦しげな声がもれ始めたのに気付いて、俺は身を引いた。これでもう、安心してくれただろうか。満足してくれただろうか。そして、よく眠ってくれれば、今はそれ以上に望むことはない。けれど、俺はどこかで分かっていた。こんなことで、ルークをごまかすことは、出来ないのだと。ゆっくりと瞼を持ち上げた彼が、その唇から切なく言葉を紡ぎ出すより前に、もう分かってしまっていた。
覆い被さる俺の首に、緩く腕を回して、ルークは掠れた声で囁く。
「もっと、いっぱい……首にも、胸にも、腕にも、脚にも。ぜんぶ、して」
ルークの、言うことに、俺は──逆らえない。
落ちかかる前髪をかき上げて、その下に隠された左目の上に口づけると、ルークはぴくんと身を竦めた。白金の髪を、俺は出来る限り丁寧に撫でる。
「……ああ。ぜんぶ、な」
手探りで、ルークの纏うシャツの釦を外し、前を開いていく。素肌を指先が掠める度に、ルークは息を詰め、ひくりと首を反らす。一番下まで外したところで、俺は自分の上衣も脱ぎ捨てて床に放った。何ら邪魔するものなく直截に、胸を、肩を、首を、重ね合わせて擦り寄せる。がさがさした衣服よりもシーツよりも、しなやかで温かいそれは、自然と肌に馴染むようだった。柔らかな髪に鼻先を埋めて、二人、同じだけれど少し違う匂いを、いっぱいに吸い込んだ。

白い肢体を解きほぐすように伝い下りていく間、ルークは度々、こちらの背中に爪を立てた。何かに耐えるように、縋りつくように。正直いって、痛みを感じないでもなかったが、注意して止めさせるようなことでもない。そんな風に、爪を立てるまでに、俺に縋って、頼りにしてくれているのだと、そう思うのは悪いものではなかった。
普段、ルークと静かに寄り添っている限り、感じられるのは温もりと柔らかさばかりで、それは穏やかで心地良かったけれど、どこか捉えどころがなかった。ルークの内の苛烈な熱と情動を、俺はパズルを通して既に知っていたから、こうすることで初めて、あらわになった彼の中心に触れられるような、そんな手応えを感じていた。
「あ……ぁ、カイト、……」
敏感な箇所に触れると、ルークは泣き出しそうな細い声でもって応じる。慰めてやりたくて、そっと舌を押しつける度に、ひく、ひくと白い身体が跳ねて、ルークはますます切なげに啼く。今や、俺に触れられて感じないところなど、ルークのどこにも見当たらないようだった。
「ぁア、っ……」
かり、と歯を立ててみると、寝台を軋ませてもどかしげに身をよじる。大丈夫なのだろうかと、俺は一旦、身体を離して友人の様子をうかがった。白金の睫を伏せたルークの頬は紅潮し、胸を上下して息を継いでいる。何かを堪えるようなその表情に、なんだか悪いことをしてしまったような気になって、俺は柔らかな髪を梳いてやった。
暫く続けていると、頑なに閉ざされていた瞼が、ゆっくりと持ち上がって、眩しげにこちらを見上げる。潤んだ淡青色の瞳は、ぼんやりと揺れて、ああきれいだな、と俺は思った。けれど、泣かせてしまったのは良くない。ごめんと謝ろうとした矢先、ルークの濡れた唇が、何か小さく音を紡ぐ。カイト、とそれは俺の名を呼んだように聞こえた。なんだろうかと、聞き取りやすいように顔を寄せる。
「……もっと。続けて…」
熱っぽい吐息交じりに、ルークはそう言って、続きをねだった。引き寄せるように、背中に細い手が回る。
「……うん」
目を閉じて、俺は頷いた。これ以上、続けたらどうなるのか、それは俺には分からない。こんな風に、ルークを泣かせることが、良いことなのかどうかも、判断出来ない。
──それでも。
背中に回る腕の感触、押し付けられるしなやかな肌の心地。
切なげにこぼれる吐息、隠しきれない甘やかな声。
身体を触れ合せて、そうして感じるルークを、俺はもっと欲しいと思った。寒くて──怖い。肌を通して共鳴したのだろうか、先のルークの言っていたのと同じものを、俺は感じ始めていた。触れるほどに、身体の奥の寂しさが募って、もっと欲しくなる。どこまでいけば満たされるのかも分からずに、ただただ、掴みたくて追い求める。
「カイト……カイ、ト、どこ、」
足りない、足りないというように、ルークは泣きじゃくりながら、身を擦り寄せてくる。絡ませ、撫でまわし、引っ掻き、挟み込んで、押し付ける。相手を追い求めながら、懸命に、自分を教える。そうしたら、まるで、ひとつに融け合えると信じているように。感覚を、温度を、意識を、分かち合えるというように。
「ここだ、ルーク。俺たちは、ここにいる」
お互いのかたちを、確かめあった。



明け方、自然と目が覚めて、俺はうっすらと青い光の差し込む室内を茫と眺めた。後頭部の方に、なんとなく昨夜の高揚がわだかまっているように感じられた。服も着ずに、そのまま眠ってしまったせいだろうかと、むきだしの腕を持ち上げてみる。ルークが触って、抱き締めて、口づけた、俺の腕。腕だけではなくて、それは全身にいえることで、たぶん俺はルークの身体のすべてに触れたし、ルークも俺のすべてに触れたのだろう。思い返してみると、じわりと心臓から熱が滲み出す。
一つ息を吐くと、肌にまとわりつく感傷を振り払って、俺は起き上がった。背中を丸めると、引き攣れたような小さな痛みが走って、そこに残された爪痕を教える。ちりちりとした痺れは、ぼんやりとした頭には丁度良い目覚ましのように感じられた。
ひとまず、朝風呂としよう。一日中、こうして自分の身体を見下ろす度に、昨夜の俺たちのしたことを思い返してしまうようではたまらない。新しい一日に向けて、気分を切り替えるのだ。隣で気持ち良さそうに惰眠を貪る友人を叩き起こし、手を引いてバスルームにいざなう。目をこすりながら、ぺたぺたと頼りない足音を立てて、ルークは俺の後に続いた。
寝る時でも何か服を身につけておくべきだというのが、俺の当初の常識だった筈だが、今や二人してこんな姿で短い廊下を歩いているのだから、まったくいいかげんなものである。この調子でいくと、いつか、家の中では全裸生活というのが当たり前になってしまうような気もして、少し戦慄する。それはそれで、楽しそうな気もしないでもないのだが。
用を為さない脱衣所を素通りし、早速バスルームに入ろうと、ドアハンドルに手を伸ばしかけたときだった。友人の手を引いていた片手に、く、と抵抗を感じて、俺は足を止めた。どうしたのだろうかと、振り返るより前に、背後からルークの声が掛かる。
「カイト、背中」
「え?」
ああ、もしかして、盛大な爪痕でも見つけたのだろうか。自分の眼で確かめてはいないので、どんな風になっているのかは分からないが、先ほど感じた痛みからして、それなりに引っ掻き傷が出来ているものと推測される。ルークも、爪を立てていた時点では、そんなことに気を留めている余裕はなかっただろうから、こうして明かりの下で初めてその痕を目にして、驚いてしまったのかも知れない。
振り返ってみると、親友は物憂げに俯いていて、その表情から、俺はますます確信を強めた。大切に大切に扱われて、身体に傷一つないルークのことだから、腫れた傷跡を目の当たりにして、ショックを受けてしまうのも無理はない。きっと、こうして傷つけてしまったのを悪く思い、謝ろうというのだろうと解釈して、俺は安心させてやるように言った。
「大丈夫だって、こんくらい。すぐ治るからよ」
見て確かめなくたって、これが血を流すような深い傷ではなくて、ただ表面を引っ掻いただけの、ごく浅いものに過ぎないということくらいは分かる。大したことはない、気に病む必要なんてないのだと、教えてやるべく、俺は友人に笑い掛けた。
しかし、それでルークから安堵の微笑が返されることはなかった。気だるげな表情もそのままに、力なく、ふるふると首を振る。
「見て」
短く言うと、俺の腕を取って、洗面台の鏡に映して見るようにと促す。いったい、なにをそこまで頑固になっているのだろうか。だから大丈夫だって、と俺はあきれ半分に口にしようとして──結局、一言も紡げなかった。
促されて映し見た、鏡の中。
黒髪の落ちかかる、脊椎と肩甲骨の形状も明瞭に浮かんだ、背中の上。
そこにあったのは──パズルだった。少し歪んだ格子と、ところどころを埋めるアルファベット。極めて簡素な、それだからこそ美しく完成されたワード・スクエアが、鏡の中に成立していた。
「解いて……治っちゃう、前にね」
背中の皮膚を抉って縦横に走る赤い筋の上に、ルークは愛おしげに指先を寄せて囁いた。鏡に映すことで精確に読むことが出来る、その鏡文字で刻まれたアルファベットの精緻な筆跡を、爪と吐息でなぞる。己の創り上げた作品に触れて確かめるルークの表情は、いかなる苦悩からも解放されたように、穏やかな安堵に満ちている。
「素敵だよ、カイト。とても、綺麗……」
そっと背中にもたれて、頬擦りをするルークの、安らかに瞼を下ろした表情を、俺は、鏡の向こうに茫然と見つめていた。背中を撫で下ろす温い吐息に、ごくりと唾を呑み込む。刻み込まれた赤い筋に沿って、じわじわと熱が広がり、背中から腹へ、身体全部を覆っていく感覚。
──なんて。これは、なんて──
「……ああ。きれいだ、ルーク」
さあ、解いてくれと、せがんで輝くルークの瞳に、俺はしっかりと頷いてみせた。そう、パズルタイムの──始まりだ。後ろに手を回して、自分自身の背中の中央に、俺は爪を押し込んだ。




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