カサブランカ -11-





これで掃除しなさいよ、と幼馴染が以前に寄越してきた、十センチメートル四方大のカラフルな手編みのコースター──なんでも、そいつはコースターではなく、一種のたわしかスポンジのように使うもので、洗剤を使わずに水だけで汚れを落とせるエコアイテムらしい──活用する機会もなくキッチンの隅に放置されていたそれを、先ほどからルークは、解いて一本の毛糸に戻しては、一定の長さに切るという作業に集中していた。
切り出した毛糸は、輪にして結び、両手で引っ張って強度と使い心地を確かめる。長さの異なるいくつもの輪を作ると、ルークは満足げに頷いて、その中の一つで遊び始めた。

床に座り込んでひとり、あやとりに興じているルークを、俺はソファにもたれてぼんやりと眺めていた。沈み行く太陽が、緋く、それから蒼く、白い壁に囲まれた室内を照らす。
窓の外では、濃度を増しつつある藍色の闇の下、家々からこぼれた光がきらめき始めている。うちも灯り、点けなきゃなと思いつつ、俺は身体を起こすことが出来なかった。
ルークを見つめることしか、今はしたくなかった。ずっと隣にいた筈なのに、まるで初めてそうするように、目を離したくないと思った。あるいは、本当に俺は初めて、ルークを見つめているのかも知れなかった。



……なんだ。
今更、気付いたのか。
お前は、ルークに何を与えることが出来た? 
「おかえり」と言われて、「おかえり」と答えて。
抱き締められて、抱き締め返して。
それは、いつだって、ルークから与えられるものをそのまま返して答えるだけではなかったか。
願いを叶えてやりたいといって、話を聞いてやりたいといって、ただ、ルークから与えられるものを待っていただけではないか。
そんなものは──鏡と同じだ。
ルークを傷つけたくなかった。ひとりぼっちにさせたくなかった。
そういって、恐れていたのだ。
俺から何かを与えて、それで失敗するのを、恐れていた。
きっと俺は、またルークの気持ちに気付かずに、無神経に傷つけてしまう。お互いを苦しませることになる。
だから、ルークの言うことだけ聞いて、欲することに従ってやれば、上手くいくと思ったのだ。一番、欲しがって、望んでいるものを、与えてやれると思い込んだのだ。
まるで、それで何か自分の役割を果たしたような、そんな勘違いをしていた。
ルークが本当に求めていたのは、そんなものではなかったのに。
そんな風に、果たせなかった約束の罪滅ぼしのように、気遣われることではなかったのに。

いつも、ルークはあんなにも、言葉で、態度で、気持ちを表現してくれていた。
「大好き」と、躊躇わずに口にしてくれた。
その言葉を、俺の方から与えてやったことは、一度でもあっただろうか。
ルークのために何が出来るか、自分の頭で考えたことは、あっただろうか。
一方的に、差し出されたものに応えるだけの、かたちばかりの鏡映し。
それは、単なる反射的な自動応答と、何が違うだろう。
そんなことは──俺じゃなくても、誰だって出来る。
そんなことは──誰にも、求められていなかった。

ルークは不安に思った筈だ。
この言葉は、カイトに届いている? 
この気持ちは、カイトに届いている? 
カイトは、どこにいる? 
探して、ルークは見つけたのだ──パズルを。
回帰した、というべきだろうか。
パズルによって、俺たちは繋がっていた。
パズルに相対するときだけは、二人は対等だった。
ただただ純粋に、向き合うことが出来た。
ルークは、嬉しかったのだろう。昔のような「カイト」に、こうすれば逢えると思ったのだろう。
パズルを解いているときだけは、おかしな遠慮も気負いもなしに、ただ夢中で、傲慢で、素直で、純粋で、強くて美しい「カイト」になる。
そういう風に、接してくれる。
『パズルが、僕たちを、繋いでいる』──
だから、ルークはパズルを作った。どれだけ、やめるように言われても、考えを曲げようとはしなかった。
それがルークにとって唯一、「カイト」と繋がれる方法だったからだ。自分のパズルが解かれることで、ルークは、自分もまた、同じようにして解かれたような気分に浸ることが出来た。
自分のことは、見て貰えないけれど。
パズルならば、見て貰える。
自分のことは、喜んで貰えないけれど。
パズルならば、喜んで貰える。
自分のことは、愛して貰えないけれど。
パズルならば、愛して貰える。
──パズル、ならば。

それは、これまでルークが生きてきた世界と、いったい、何が違うだろう。ただ、パズルを作ることによってのみ、価値を認めて貰えた少年の、閉ざされた空っぽの世界と、何が違う。
そういう方法しか、ルークは知らなかった。否──俺が、教えなかったのだ。
本当は、それこそが、ルークに真っ先に教えなくてはいけないことだったのに。
俺は、ルークとパズルで繋がることが出来る相手は、自分しかいないということを分かっていて、それを利用したのだ。パズルを介さない、他の方法をルークが覚えてしまったら、それを俺以外の誰に向けてしまうか分からない。
俺は、ルークに俺だけを慕って欲しかった。
俺だけに微笑んで、あの甘い声で「大好き」と言って欲しかった。
表面上では、彼に外の世界を教えてやるなどという名分を掲げ、その実、望んでいたのはまるで逆のことだった。
白い部屋の中で、二人だけでいられたら、後はもう、どうでも良かったのだ。
ルークが望んだことではない。それは、ほかでもない、俺自身の望みだった。
カイトと僕が、いればいい──ルークは言った。他には何も、要らないと。
それは、俺が望んだからだった。そういうルークを、俺が、望んだから。
真っ白なルークは、俺をそのまま、反射してしまう。
……そんなことにも、俺は、気付かずに。

寝室の隅に吊るした、太陽系のモビール──そう、太陽系の。
燃え盛る、宇宙の火球に、ルークは──灼かれて、堕ちると、言っていた。
俺は、そんな風に彼を傷つけるものから、大事な親友を守りたかった。
しっかりと繋ぎとめて、傍にいてやれば、それが果たせると思っていた。
守りたいと言いながら、力任せに引き寄せ、突き落とし、業火で煽り続けてきたのは──俺自身、だった。



遠く、暗くて、向こうのルークが何をやっているのか、よく視えない。相変わらず、あやとりで遊んでいるのだろうか。
こんなに暗くては、手元も不確かなことだろう。そろそろ本当に灯りをと、身を起こしかけたところで、薄闇の中から声がした。

「カイト。見て」

音量を潜めていながらも、はしゃいだ様子の伝わる声は、秘密の宝物をこっそり見せてやろうというときの子どもの姿を想起させる。
幼い頃、ルークがその声で俺を呼ぶとき、彼の小さな手の中にはいつも、生まれたばかりの新しいパズルが包まれていた。見せて、解かせて、と俺は毎回、瞳を輝かせたものだ。
そんなことを思い返しながら、俺は呼ばれるまま、緩慢にソファを立った。
灯りを点ける前に、まずは、床にうずくまったルークの傍へ行くのが先だ。かさりかさりと、床に散らばる紙を払って道を作りながら、そのシルエットに歩み寄る。
向かい合うようにしてしゃがみ込むと、ルークはゆっくりと顔を上げた。俺の姿を認めて、柔らかく微笑む、その唇は、先ほどあやとりをしていた、あの毛糸の端を咥えている。
その繋がる先を追おうとしたとき、ルークは軽く首を反らして糸をぴんと張り、それから唇を開いた。音もなく、糸が滑り落ちる。
自由になった唇で、ルークは囁いた。

「ね、カイト、パズルだよ。……解いて」

大切そうにゆっくりと、ルークはこちらに、揃えた両手を差し出した。その細い手の上には、パズルなんて、何も乗っていない。薄闇の中でも、それは明らかに視認出来た。
そこにあるのは、両手だった──手首から指先まで、幾重もの糸の輪で、がんじがらめに縛りつけられた、ルークの両手だった。

「……ルーク」

掠れた声に、俺はどんな情動を込めたかったのだろう。それはただ、吐き出されて宙に消えるだけだった。
呼び掛けに、ルークは何も応えない。パズルが──始まったのだと、肌で感じた。
よく視えないが、それでも、指が僅かの隙間なく、ぎりぎりと締めつけられているのは確かだった。自分で自分の手を、どうやって縛ったのか──そこで、彼が先ほど唇に挟んでいた糸を思い出す。
薄闇の中、背中を丸めて手を動かす、それがあやとりをしているのだか、口を使って手を縛っているのだか、そんなことは、こちらからは視認出来ない。てっきり、ひとりで遊んでいるものと思っている間に、ルークは着々と、己の両手を縛り上げていったのだ。
最後に口に咥えていた、あの糸を引っ張って結んだことで、今ここに、パズルは完成したのだろう。

いつか、絡まったあやとりを解いてやったときのことが頭をよぎって、俺は慄然とした。あれは事故のようなものだったが、これはそうではない。ルークが意図的に作り上げたパズルだ。
おそらくは、あのときに着想を得たのだろう──俺が、あれを、パズルのように解いてしまったから。ほら、ここにパズルがあるじゃないかと、教えてしまったから。
そして、筆記具で作ったピラミッドのパズル──あれに、俺が一気に引き込まれたのは、ルークの手の上に、今にも落下しそうに揺れるカッターナイフを認めた瞬間だった。
自分の身体を餌にすれば、俺がより真剣にパズルに向かうことを、ルークは覚えてしまった。そして、これを利用することを、躊躇わなかった。
あのとき、愚者のパズルの塔で、自ら人質を演じたように。あるいは、孤島の惑星パズルで、己の命を賭けたように。解放されてなお、同じことを──繰り返そうとしている。
眩暈がするようだった。

解くのが遅くなればなるほど、糸に締めつけられたルークの指は圧迫され、血流が阻害され、痛み、痺れ、感覚を失くし、そして、取り返しのつかないことになってしまうかも知れない。
あの、歪みなくまっすぐな白い指が、損なわれてしまう。しなやかな手つきでチェスピースを操り、パズルを作る、あの指が。
とにかく、灯りを点けなくてはと、急いで立ち上がりかけた俺は、結局、その動作を完了することが出来なかった。
離れていこうとする俺に、ルークがぽつりと呟いたからだ。

「知ってるよ。皆、いなくなってしまう。誰も、僕と一緒には、いてくれない……カイトも」

その言葉が、俺の動作を停止させた。祈りを捧げるように、ルークは両手を胸の前に引き寄せて、こちらをじっと見つめる。
何もかもを、それは分かって、知っているとでもいうような、静かな諦念を宿した瞳だった。
──どうするのかと、問われているのだと、俺は分かった。
いなくなって、しまうのか。それとも、一緒にいるのか。
逃げるのか──解くのか。
立ち上がりかけの中途半端なところで固まっていた姿勢から、俺は、かくりと膝を折った。元のように、座り込む。
たとえ照明を点けに行く僅かの間であっても、こんなルークを置いていくことは出来なかった。その視線を断ち切り、振り払って背を向けてしまったら、たとえすぐに振り返ったところで、二度と取り戻せない気がした。
俺は、ルークから──離れない。

「……今、解いてやるからな」

意思を固めると、俺は拘束されたルークの両手を掴んで引き寄せた。解放の糸口を探って、視線を走らせる。
大丈夫だ、今までだって、無茶苦茶なパズルをいくつも解いてきたじゃないか。命の危険に晒されたことだって、何度もある。その度に、俺はこの手で、答えに通じる道を切り開いてきた。
それに比べれば、こんな、ただ毛糸が絡んだだけの、単純な、ルールも何もないパズルを、解けない筈が──ないじゃないか。
必死で自分に言い聞かせ、冷静を保つ。どこだ──どこから攻めれば良い。
じわり、と焦燥が肌を這い上がる。心臓の音がうるさい。俺は生唾を飲み下した。
──駄目だ。
こう暗くては、いくら目を凝らしたところで、糸の流れが読めない──解けない。
そもそも、こいつはパズルなんかじゃないと、俺は分かっていた。ルールも何も、なくて当然だ。それどころか、作った人間が、答えを用意していない。
息苦しいほどの思いだけが、そこには満ちていて、扉も出口もなく、円環のように閉じ切って完結している。
こいつは、このパズルは──解かれたがって、いない。

「……解かないで」

その直感を裏付けるように、ルークは訥々と言葉を綴る。

「いなくなって、しまうなら。解かないで……ずっと、縛ったままにして。もう、何も作れないように。カイトのためのパズルが、作れないなら、僕は……要らない」

──どこだ。
俺は、眼球だけを動かして、左右の床を見回した。
そう、離れてはいない筈だ──薄闇の中、散らばる紙片を仔細に観察し、いくつかの位置の見当をつける。
静かに体勢を変えながら、俺は手探りで、紙の下に隠れた「それ」に向けて腕を伸ばした。
もう片腕は、ルークの頭をそっと抱き寄せる。気がおかしくなりそうなくらいに、胸の内は焦燥で満ちているのに、俺はあえて緩慢に動いた。安心させてやるように、柔らかく後頭部を撫でながら囁く。

「行かない。一緒にいる。だから、大丈夫なんだ、ルーク。こんなこと、しなくたっていい」

戸惑いを隠せない様子で、どうして、とルークは声を詰まらせる。

「だ、って……パズルを、作らないと。好きになって、貰えない。僕を見て、貰えない」
「……ルーク」
「僕が、カイトを喜ばせてあげられるのは、パズルだけだもの」

かくりと首を折って、ルークは弱弱しく俯いた。

「何も、他に、持っていない。僕には、これしか」

震える息を吐きながら、精一杯に声を紡ぐ。今にも溢れ出しそうなものを、それは、水際で懸命に堪えているようだった。
触れたら崩れてしまいそうな、その身体に、俺は黙って寄り添った。

「僕は、カイトに何を、あげられるの、……」

消え入りそうな声を紡ぐ、ルークの俯いた頬に、そっと片手を添わせる。
顔を上げるように促すと、ルークは小さく肩を震わせてから、おずおずと従った。頑なに閉ざした目元からは、一筋の滴が伝っている。

「……ばーか」

呟いて、俺は互いの額を軽くぶつけた。それから、友人の頬を伝うものを拭ってやる。
ん、と小さく啼いて、ルークは恐々といった様子でゆっくりと瞼を上げた。
その濡れた淡青色の瞳を、俺は鼻先が触れるほどの距離で覗き込む。

「パズルバカ。お前も、俺も」
「……ぁ、」

微かな吐息がこぼれたのは、ぷつりと何かの切れる感覚が、両手に伝達したためだったのだろう。目を瞠って、ルークはぎこちなく、自分の手元を見下ろした。
そこにあったのは、決して解けないように、がんじがらめになった両手と──小さく垂れる、糸の切れ端。
拘束する糸の輪の一本を、まさしく今、俺の手の中のハサミが断ち切っていた。
魔法のように出現した道具に、ルークは声もなく、唇をわななかせる。そんな彼によく視えるようにゆっくりと、俺は新たな糸の一本に刃を入れた。ぷつん、とそれを断つ。

使った道具はちゃんと片付けること、という約束をルークとの間に結んでいなかったのを、これほど感謝したことはなかった。
先ほど、ルークは小さな編み物から糸を切り出すのに、ハサミを使用していた。いくつもの輪を作り終えてからも、その場にずっと座り込んで、あやとりに興じていたのだから、その道具は彼の傍に放置されている筈だった。
見当をつけて床に視線を走らせたとき、ハサミそのものは見つけることが出来なかったが、それを下に隠していそうな怪しい紙片は、いくつか見出すことが出来た。
親友に寄り添いながら、俺は気付かれないように、腕を伸ばして手探りで紙片を払いのけ、下に這入り込んでいたそいつを拾い上げたのだった。

「なあ、ルーク。パズルって、なんだろうな」

静かに語りかけながら、一本ずつ、絡んだ糸を断ち切っていく。抵抗することなく、ルークは黙ってその様子を見つめていた。
ぷつん、ぷつんと、ハサミを持った手に小気味よい感覚が伝達し、みるみるうちに糸は解けていく。

「パズルが、俺たちを引き合わせた。パズルが、俺たちを繋いだ。そうだよな。だけどな、パズルは俺たちを護っちゃくれない。これからの俺たちを、パズルは知らないし、俺たちはパズルに縛られない」

ぷつん、とまた一本を断ち切ると、頑なに結び合わされていたルークの両手が、ふっと緩む。そこで、ふと顔を上げて、親友はもどかしげに言葉を紡いだ。

「でも……大切だよ」
「ああ。でもな、その大切なもんがなくったって、やっぱり俺には、ルークが大切だ」

残りの細かな部分を、指を傷つけないように慎重に切っていく。ルークはもう何も言わずに大人しく、それに身を任せた。
最後の一本を断ち切ると、力なくフローリングに落ちかける両手を、俺は受け止めて掬い上げた。
糸にきつく縛られて、きっと赤く痕がついてしまっているであろう細い指を、そっと解きほぐすように包み撫でる。

「お前は、どうだ。ルーク」
「……カイト」

指にまとわりつく、糸の欠片を払い落してやりながら、俺は続くルークの言葉を待った。どう言えばいいのか分からない、というように困った表情で、ルークは躊躇いがちに声を紡ぐ。

「カイトは、僕を、貰ってくれるの」
「ああ」
「僕が、欲しい?」
「うん」

頷いて答えると、ルークは黙って、きゅ、とこちらの手を握ってきた。それから、静かに手を離す。
自由になった両手を広げて、ルークはゆっくりと、俺の身体にもたれた。その腕が、そっと背中を抱くのを、俺は眼を閉じて待った。
ぎゅ、と身体を寄せて、ルークの甘い声が、小さく耳打ちする。

「じゃあ、あげる」

俺は首を傾けて、柔らかな白金の髪に頬を擦り寄せた。それ以上、何も言葉は要らなくて、紙片の散らばる床の上に、抱き合いながら横たわった。




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