カサブランカ -3-
「どうだ、俺、髪引っ張ったりしてねえか? ちゃんと中まで洗えてるか?」
いつものように、洗髪を手伝いつつ具合を確認する声は、そう大きなものではなかった筈だが、閉め切った狭い浴室の中では、思いのほかよく反響した。問い掛けながら、俺はルークの背後から伸ばした腕でもって、その髪をかきまぜる。白金の頭は、今やふわふわと白い泡だらけになっていた。
自分のものとは質が違う、細く柔らかな髪は、濡れると指に絡まりがちで、ともすれば、引っ張って痛い思いをさせてしまいかねない。そんな事態にならないよう気を払って、俺は出来る限り慎重に泡立てた。
「うん。きもちいい」
安堵しきって、今にも眠りに落ちてしまいそうな調子でもって紡がれる、少し舌足らずなルークの声は、俺までも心地良くさせられるものであった。もっとその感覚を味わわせてやりたくて、指先の動きに緩急をつけて揉みほぐすようにすると、もう身体の力も抜けてしまうのか、ルークは次第に、背後の俺の胸にもたれてくる。すっかり身を委ねきる友人を抱くようにして、俺は黙々と手を動かした。
今となっては、こうして二人で入るのが当たり前になってしまった風呂であるが、もちろんはじめのうちはそうはいかなかった。というか、当初は別に、高校生男子二名で一緒に入ろうなどという酔狂な考えは、微塵も存在していなかったのだ。少なくとも、俺の内には。
だから、そうなってしまったのは、ルークのせいだ。流された俺にも責任がないとは言わないが、主犯は確実に我が親友の方といって間違いではない。その泡だらけにしてやった白金の頭をかきまぜながら、俺は思いを馳せた。
ルークをここに招いた初日、風呂に入ったときの騒動は傑作だった。思い出すと、笑えるやらあきれるやらで、自然と表情が緩む。
あのとき、俺としてはもちろん、二人で一緒に入るなどという発想はなかったので、湯が沸いたことを知らせる電子音のメロディが流れる中、当然のようにしてルークに問うたのだった。
「風呂、先に入るか?」
「ううん。僕は後から行く」
この遣り取りを、俺はおそらく一生、忘れないと思う。だが、そのときの俺は、この会話にそんな深い意味を見出すことはなかった。じゃあお先に、と断って、俺はひとまず先に湯に浸かることにした。
湯船に肩まで浸かってゆっくりするというのは久し振りで、のんびりと四肢を伸ばして、緩やかな解放感を味わう。風呂でこんな良い気分になるのは、あの北海道温泉旅行以来であるかも知れない。弛緩しきった心地良さに、俺は完全に、身も心も委ねきっていた。だから、多少反応が遅れたのも、仕方あるまい。
扉の軋む音がして、閉じていた目を開けてそちらを見遣ると、ルークが立っていた。なんだろう、急な用事か何かかと思って身を起こす。誰かが訪ねてきたのか、電話でも掛かってきたのか──しかし、そういった類の用があるにしては、焦った様子は見受けられない。むしろ、ゆっくりとした動作で、ルークは洗い場へと足を踏み入れ、物珍しそうにこちらを見下ろした。
そのまま、しゃがみこんで湯船に手を掛ける。至近距離で、ちょうど俺と同じ目線の高さに合わせると、我が親友は短く言った。
「脱がせて」
「…………」
何故今、ルークが服を脱ぐ必要がある。停止しかける思考を、俺は懸命に働かせた。
まさか、一緒に入るとでもいうのだろうか。後から入ると言っていたのに、急に気が変わったのか──否、確かに行動としては、後から入ってきてはいるのだから、間違いではないのだが──最初から、そのつもりで口にしたのだろうか。そうだとすれば、それは日本語の一般的な用法から、若干外れていると言わざるを得ない。それとなく指摘してやった方が良いだろうか。言葉の使い方以前に、一緒に入ろうと言うその発想からして、方向性を修正してやらねばならないような気も、しないでもないのだが。
後ほど、互いの円滑なコミュニケーションのための討議をする必要があるようだと痛感しつつ、どうしたものかと天を仰ぐ。とはいっても、最初から答えは決まっていたようなものであるが。
だいたい、ひとりでまともに着替えも出来ないルークが、ちゃんと風呂に入れるのかどうかも、確かめていないのだ。世話してやるとすれば、自分も一緒に入っているうちに済ませてしまうのが効率的だろう。なにより、こうして洗い場に頼りなく膝をついたルークを、ここで追い返すような真似を、俺は、どうあってもしたくはなかった。
「……分かったよ。ほら、立てって」
心を決めると、俺はルークの手をとって立たせた。濡れた手で触って、衣服が多少濡れてしまうが、仕方あるまい。さっさと服を脱がせ、一旦浴室を出ると、まとめて脱衣所の適当な籠の上へと放り投げた。ついでに、床に水滴を落としながら戸棚前へ移動し、友人が身体を洗うための適当なタオルをストックからみつくろう。背後で、ざば、と水音がしたから、ルークは早速、湯を浴びているらしかった。
タオル片手に、再び浴室に戻ったとき、ルークはこちらに背を向けて佇んでいた。湯気の向こうに、一糸纏わぬその白い肢体の全容を目にした瞬間、俺は硬直してしまった。
先ほどはどうやら、衣服を脱がせるのに集中していて、気付かなかったらしい──不覚にも声を失ってしまうほどに、その身体は、完璧な調和を誇っていた。あまりに整いすぎて、作り物といった方が納得出来そうな気さえする。
美術の授業で、黄金比に則ったプロポーションの傑作彫刻などを観ても、いまひとつその偉大さを実感出来ない、美的センスに欠けた人間であると自覚している、こんな自分でも、その美しさははっきりと感じ取ることが出来た。それこそ、神か、あるいは悪魔の手によるとしか思えない、精緻なパズルに相対したときに抱くのと同じ思いでもって、俺はルークの後姿に見入った。
俯いた細い首筋から、背中を通って腰へと至る、身体の中心のラインは、指を這わせれば実に心地良く滑りそうな、しなやかで優美なカーブを描き、その華奢な肢体の綿密な構造を支える。精巧な骨格のかたちを明瞭に教える薄い肩、細い腕。指先までもが、歪むことなくなめらかなラインを繋げて、およそ非の打ちどころがない。
痩せた身体にあって、臀部と大腿には適度な柔らかさが残り、ともすれば痛々しくなりがちな印象を穏やかに和らげる。すっきりと締まったふくらはぎに繋がる、片手で包み込めそうな華奢な足首は、見ているだけでなんとも堪らない心地にさせられるものがある。所在なさげに頼りなく佇む在りようもまた、その身体から生身の存在感というものを取り去って、靄の向こうのような儚いものに変えてしまうのだった。
その身体の潔癖なまでの調和を決定づけるのは、一点の穢れもない乳白色の肌だ。まるで現実味のない白い肌は、今はこもった熱気に煽られて、ほのかに桜色に上気している。なめらかな柔肌の、しっとりと濡れて色づいた様子は、何故だか直視に耐えず、眩暈がするようだった。
同じく色素の欠落した白金の髪は、濡れそぼって銀色がかり、滴を伝わせながら、頬に、首筋に、ひたりと張り付く。ぼんやりと、それを見つめているうちに、俺の片腕が引き寄せられるように持ち上がった。小さな滴を結んでは落とす、その白金の毛先を、首筋から払ってやろうと、手を伸ばして──
「カイト」
振り返りざまに、気だるげな声に名を呼ばれて、俺は我に返った。そろそろと伸びかけていた手を、すぐさま引き戻す。こちらの不審な態度を知ってか知らずか、ルークはそんな俺の顔を、戸惑うくらいにじっと見つめた。
湯をかぶったせいだろう、こちらに向けられた淡青色の瞳は濡れて艶めき、いっそうに透き通るようだ。冷たく静まった水面のようなそれを前に、俺は一つ深呼吸をして心を落ち着かせた。
「ほらよ、こんなのしかなくて悪いけど。適当に使えよ」
照れ隠しというわけでもないが、タオルを差し出すのが、少々ぶっきらぼうになってしまったのはいたしかたあるまい。そんな俺の不器用な態度にも構わずに、ルークは差し出されたものをそっと受け取った。物珍しげに、目の前でそれを広げる。
察するに、というか確実に、こんなごわついた安物のタオルなどで力任せに擦り洗いなんて、していない筈だとは思っていたが、その反応を見て俺はますます確信した。たぶんその身は、とろけるような上質の布か、あるいはきめ細かなスポンジか何かで柔らかく、そっと撫でるようにして大切に手入れをされてきたのだろう。白い肌は、幼い頃のままに肌理が細かく、内側からほのかに光るかのようだ。
その推測を裏付けるかのように、ルークは不思議そうにタオルの端を摘まんで、ためつすがめつしている。もしかしたら、これで身体を洗うという発想自体、彼には欠落しているのかも知れない。たとえタオル派でなかったとしても、聡い彼がこの状況から、道具の使い方を類推出来ないとも考え難いのだが──思うと、俺は自然と溜息を吐いていた。
「……いつも、どうやって洗ってたっていうんだよ」
それは、ただの独り言のつもりだったのだが、閉め切った浴室内では思いのほか、大きく反響してしまった。聞き取った俺の呟きを、ルークは自分に向けられた問い掛けと解釈したらしい。律儀にも、実演で示そうというのか、浴室の隅に置かれた石鹸に手を伸ばす。
「いつもは、こうやって、」
石鹸を軽く泡立てると、ルークはぬるつくその手でもって、俺の手首を握った。何のつもりかと、問い質す間もなく、そのまま伝い上がるようにして肌を撫でられる。手首から、肘を通って二の腕までを、ルークは手のひらに包み込んで滑らせた。
「……っ」
抵抗なく滑る肌と肌の感触に、俺は息を呑んだ。ぞくり、と背中に痺れが走る。ルークの手は、肩から首へ這い上がり、それから今度は鎖骨、胸、腹へと伝い下りて──
「わ──分かった、ルーク、もういい。もういいから」
止めなければ、ルークのことだ、どこまでも続けるのだろう──全身を、最後まで。まさかそんなことをさせるわけにはいかない。俺は慌てて、その細い肩を掴んで、身を離させた。ひとまず距離をとって、一息を吐く。心中で、俺は痛感していた。
ああ──甘かった。
それは、同じ人肌であれば、いちばん刺激が少なく済むだろう。先ほど、腕から肩を滑らかに撫で上げられた感触が蘇る。ということはなにか、ルークはずっと、側近か誰かにそうやって、全身を手のひらで隅々まで撫でまわされて──やめよう、むなしい。頭を振って、俺はくだらない想像を振り捨てた。
ともかく、ルークに身体を洗うためのタオルが不要であることは分かった。そういうやり方に慣れているならば、これからも続けさせてやった方が良いだろう。頼まれれば、手を貸してやるつもりで、俺は決意めいた思いを抱いたのであるが、ルークは自分で石鹸を手にし、申し訳程度の泡しか立たないそれを淡々と己の身体に塗りつけていった。どうやら手助けは必要ないようで、胸に小さく安堵の気持ちを抱く。
身体を洗う、その様子を観察していて、一つ、面白いことに気付いた。泡立てるうちに、小さなシャボン玉が出来て、ふわりと宙に浮かび上がると、その度にルークは手を休める。ゆっくりと浮上していく、儚い虹色の球を、弾けて消えてしまうまで、じっと見つめるのだった。まるで子どもみたいだ、と俺は微笑ましい思いを抱いた。
──というような顛末を経て、この現状である。初回はともかく、今となっては、その姿にいちいち見惚れたりなんてことはしない。髪を洗ってやるのだって、すっかり馴れて、当たり前になっている。
ルークは自分で身体を洗うが、その髪については、専ら俺が担当することになっていた。それも、自分で洗わせれば、ずっと手を頭の上にやることになって、ルークが疲れてしまうからというだけの理由なのだから、他人が聞けばあきれてしまうことだろう。甘やかすな、と叱咤されてしまうかも知れない。ただ、俺としては、こんな風に触れ合うことも立派なノンバーバル・コミュニケーションだと思っているので、改めるつもりなどはない。
「終わったぜ」
頭を包んでいた泡を流し終えて、目を開けるようにと促す。濡れた髪が顔に落ちかかって貼りつくのを分けてやると、淡青色の瞳が瞬くのが分かる。その手をとって、足を滑らせないよう注意しながら、俺はルークを浴槽に導いた。
高校生男子二人で入るには、決してゆとりがあるとはいえない浴槽に、無理矢理身体をねじ込む。ゆったりと四肢を伸ばして休息するというのが、本来的な入浴の役割であるとすると、窮屈に膝を抱えたこんな体勢ではおよそ意味がないのであるが、まあ構いはしない。ひとりで暮らしていたときには、簡単にシャワーで済ませるばかりで、そもそも浴槽に湯を張ることなど滅多になかったのだ。入浴自体、面倒なときは2日に一度くらいに省略してしまうこともあった。それがこうして毎回、湯船に入ることになったのは他でもない、「お風呂は、1日1回」と言って譲らないルークが、風呂といったら湯に浸かることだと強硬に主張し、俺がそれに従ったためである。
我が親友が、これまでの暮らしでいったいどんな風呂に入っていたのかは知らないが、少なくともこんな狭苦しさとは無縁であっただろうことを想像しつつ、俺は一つ息を吐いた。そんな侘しい状況でありながら、特に文句を言うでもなく、窺い知れる限り、ルークはいつも楽しそうな表情である。それは、こんな体験がおそらくは今までの生活とは大違いであって、もの珍しいためなのだろう。ともかく、背景はどうあれ、喜んでくれているのならば、それはなによりである。
などと思っていると、ふと、腕に触れるものがある。ルークが、細い手を持ち上げて、こちらに伸ばしていた。肘から肩へと、確かめるように、そっと指先を滑らせる。繰り返されるその動作は、少々くすぐったかったが、俺はされるがままに任せた。
何度か続けてから、はぁ、と溜息を吐いて、ルークは小さく呟いた。
「綺麗だね、カイトの身体」
憧れるような、愛でるような、それは、感嘆の声だった。吐息混じりに紡がれた称賛を、何言ってるんだよ、と俺は一笑に付した。
「馬鹿、綺麗ってのは、お前みたいなのを言うんだ」
言って、その物憂げな顔に向け、ぱしゃんと軽く湯を跳ね飛ばす。小さく声を上げて、ルークは首をすくめた。白金の髪から輪郭を伝って、ぱたぱたと水滴が伝い落ちる。自分でやらかしておいて何であるが、悪い悪い、と俺はその濡れた頬を拭ってやった。よほど驚かせてしまったのか、ルークは怒るでもなく、黙って俯いてしまう。
さすがに少しばかり申し訳ない心地でもって、顔に貼りつく髪を払ってやっていたときだった。俯いたルークの唇が、薄く開く。
「……ううん。綺麗じゃ、ないよ」
分かり切ったことを告げるように、ルークは呟いた。決して大きくない、しかし明瞭なその響きに、俺は友人の白い顔を拭ってやっていた手を止める。
気だるげに首を振って、ルークはもう一度、静かに繰り返した。
「少しも。綺麗なんかじゃ、ない」
それが、どういうことなのか、結局、問うことは出来なかった。
入浴を終え、特にこれといった用事もなく、普段ならば、さっさと寝てしまうところである。しかし、今日ばかりはそうはいかない。自分とルークの髪を乾かすと、俺は寝床に入る前に端末に向かった。己に課せられた使命であるところの、校外学習用情報収集がその目的である。せめてこういうところで協力的態度を示しておかなくては、同じグループに所属するクラスメイトたちに対して、あまりに申し訳ないというものだ。
画面にかかりきりになっていると、こちらは放っておかれてつまらないのだろう、ルークが隣に座った。先に寝ていて貰って一向に構わないのだが、ひとりで寝台に入ることが、ルークはあまり好きではないらしい。それくらいならば、付き合って起きていようというつもりなのか、何も言わずに隣で画面を──否、どちらかといえば、俺のことを見つめている。そのまっすぐな瞳を向けられることに、はじめのうちは気恥ずかしくて落ち着かなかったものであるが、やはりこれも慣れなのか、今となっては当たり前のように感じられる。俺は、特に気にすることなく、画面に向かい続けた。
暫くそうして大人しくしていたものの、どうやら我が親友は、隣で見ているだけでは満足出来なかったらしい。無言のままに、肩にもたれるようにして身体を寄せてくる。構ってくれと言わんばかりの、これを無視することはさすがに出来ない。ちょうど良い、この辺りで少し休憩としよう。俺は一旦、打鍵の指を止めた。無機質なキーボードを叩き続けた疲れを癒すように、友人の身体に手を回す。
「……ルーク。あったかいな」
軽く頭に手を置いて、洗い立ての柔らかな髪をかきまぜてやると、ルークはくすぐったそうに笑って、けれど逃げようとはせずに、身を擦り寄せて甘えてくる。
「カイト。もっと撫でて」
「……よしよし。偉かったな」
ぽんぽんと頭を撫でてやりながら、自然と口をついて出たのは、そんな言葉だった。幼い頃に、褒めて欲しくて膝に上がった自分の頭を、父親がそう言って撫でてくれたことを、ぼんやりと記憶している。それが、当時の自分には、なにより誇らしく、嬉しかったということも。今のルークを見ていると、あの頃、無邪気に周囲の全てを信じ、満たされていた時間を思い起こす。
そんな風に子ども扱いされたことに、別段に気分を害した様子もなしに、ルークは軽く小首を傾げた。
「なにが?」
どうして、ここで自分が「偉い」と言われるのか、理解出来ないらしい。俺の顔をまじまじと見つめて、答えを求める。不思議そうにこちらを見上げてくる、淡青色の澄んだ瞳を、俺は一旦手を止めて見つめ返した。
「10年、がんばっただろ。偉い、偉い」
俺は笑い掛けて言った。それで納得したのかどうかは分からないが、ルークもつられたように、柔らかく微笑む。ひとつ身じろぐと、ルークはこちらの首に抱きつくように腕を回した。細い指が、髪をかき上げて後頭部を撫でる優しい感触を、俺は自然と目を閉じて味わう。
「カイトも」
おさまりの悪い黒髪を、くしゃくしゃと撫でて、ルークは囁いた。何も言わずに、俺はその背中を緩く抱いた。
頭を撫でて、抱き締めて、キスをする。そうするとルークは、安堵しきったように目を閉じて、こちらに身を預けるのだ。そのまま、頭を撫で続けてやると、たいてい、安らかな寝息が聴こえてくる。膝の上に親友を寝かせながら、俺は黙々とレポートを仕上げていった。