カサブランカ -4-




「……ま、こんなとこか」
任された情報収集を、それなりに見栄えのするレポートにまとめてオンラインストレージに放り込むと、俺は端末を閉じた。同じ姿勢を続けて、少しばかり凝った首を軽く回し、一つ伸びをする。迂闊に身じろぎも出来なかった理由は、言うまでもなく、膝の上ですっかり幸せそうに眠りこんでいる親友のためである。その薄い肩を、俺は右手で掴んで揺らした。
「ほら、起きろ。ベッド行くぞ」
んん、と呻いてルークは瞼を震わせた。嫌がるように緩慢に身じろいで、所有権を主張するかのごとく、膝枕に小さくしがみつく。自発的に起き上がろうという気は、どうやら微塵もないらしい。折角、気分良く眠っているところを邪魔してしまうのは、多少なりとも心が痛むが、仕方あるまい。いくらラグを敷いているとはいえ、こんな格好で床の上に寝かせておくわけにはいかないのだ。こんな格好で──そう。
覚醒を拒否するように眉を寄せて、身を縮めるルークが纏っているのは、ごく平凡な寝巻の上衣。元々、独り暮らしのときに俺が着用していたものだ。それは良い──否、それだから悪い、と言うべきか。
親愛なる同居人が身に纏うものは、それだけであった。すなわち、下は穿いていない。長めの裾からは、そのまま、白い大腿が覗き、しなやかな脹脛、ほっそりとした足首へと、包み隠すことなく灯りの下に晒されている。
揃いの下はどこへいったのかといえば、何ということはない。それは今、タンクトップを着た俺の下肢を包んでいる。どうしてこういうことになったのか、おそらく、こんなシチュエーションを目の当たりにした誰もが、理解に苦しむことだろう。万が一、寝坊でもして、あの幼馴染に寝室に踏み込まれた日には、どれだけの説明責任を果たさねばならないのだろうかと、想像するだけで気が遠くなる。むしろ、まともな弁明の出来る気がしない。どうしてこのような状況を継続しているものか、俺自身が未だに、よく分かっていないのだから。



寝巻の上下を二人で仲良く分けあって着るのは、なにも、一人一着を購入する金銭的余裕がないからという悲しい理由あってのことではない。遊ぶほどの金はないが、ありがたいことに保護者から毎月、必要なだけの生活費は与えられている身分である。
それに、今はルークの分も加わっている。彼の保護者は、ホームステイさせる以上、資金援助は惜しまないと心強いことを言ってくれたものだから、一介の高校生としては、謹んでそれを受けることにしたのだ。
だが、それがとんでもなかった。
最初に振り込まれた額面を見て、俺はまず桁数を二度ほど数えて確かめ、それから、ああ1年分をまとめて入金してくれたのだなと納得した。それにしては多すぎるから、もしかしたら5年分の先払いなのかも知れない。ともかく、大事に貯蓄しておこうと思ったものだ。
ところが、翌月の同日、またしても同じ額が振り込まれている。それを知ったとき、正直、背筋に戦慄が走ったと言ったら、大げさだとして笑われてしまうだろうか。あの頭脳集団の上位に所属する人間の金銭感覚がいかようなものであるか、俺は悪友がその妹に宛てた小切手の件で多少は心得があった筈なのだが、それも軽く飛んでしまうような衝撃だった。いったい、これだけの金額をどうやったら消費出来るのか、およそ想像もつかない。
援助者は、本気でこれが高校生男子2名の一ヶ月間の生活に必要な経費だと考えているのだろうか。だとすれば、いったいどういう計算をすればそういうことになるのか、ぜひとも内訳を説明して貰いたいものだ。といって、こちらから向こうに連絡をとる術など、ありはしないのだが。
「……これを使い切るくらいの生活を、させてやれってことなのか……いや、普通の高校生らしい暮らしを、っていう話だったよな……わけわかんねぇよ」
独りごちて、結局俺がとった選択肢は、ルーク宛ての仕送りはとりあえず手をつけずにおいて、俺の分だけで二人、生活していこうというものであった。少なくともルークの保護者よりは、俺の保護者の方がまだ、普通の高校生らしい生活感覚というものを分かっている筈だ。これを目安に暮らしていれば、そう大きく道を外れることもあるまい。
そして、ルークに宛てられた大金は、いずれ時が来れば本人に渡すことにして、責任をもって保管する。という考えを伝えると、俺の保護者は「まるで子どものお年玉を管理する親のようですね。いや、君はそれを横領などはしないわけですが」などと笑いながら、快くその管理を引き受けてくれた。そう言う本人が横領していたら、これは悪い冗談にしかならないが、まあ彼のことだから大丈夫だろう。いたいけな子どもの気持ちを裏切ったりはするまい。

そうした背景があるので、ルークのために新しいものを買ってやることに、何ら支障はない。
にも関わらず、それをしないのは、だから、専らルークの意思を尊重してのことである。初めての入浴のときと同じように、初めての入眠となったときに、俺たちの間の「常識」の食い違いは明らかとなったのだった。友人の安らかな寝顔を眺めつつ、俺は再び、思いを馳せる。



二人での初めての入浴の後、風呂から上がって、俺は当然のごとく、いつもの寝巻を着用した。ルークには、似たような機能を果たす楽な衣服として、箪笥の奥から引っ張り出してきたジャージを既に用意してある。しかし、こちらが身支度を完了したというのに、我が親友はバスタオルに身を包んだまま、黙ってこちらを見つめるばかりで、なぜか服を手に取ろうとしない。
なんだろうか、こんな粗末な服は気に入らないというのだろうかなどと思って様子をうかがっていると、ルークは不思議そうに首を傾げた。
「カイト、どこか行くの?」
こんなラフすぎる格好で外を出歩く勇気はねえよ。などということは、もちろん口に出しては言わない。夜間に近所のコンビニに出掛ける際にどのような服装が適切であるかという議論をするには、ルークにはまだ、世間一般的な常識というものが足りていない。寝巻を外出着と思っても、まあ、不思議ではないだろう。彼の非常識を非難するというのは、筋違いだ。
だから、自分の肩に掛けていたタオルを取って、ぽたぽたと水滴を落とす友人の頭を大まかに拭いてやりながら、ごくシンプルに俺は応えた。
「行かねえよ」
だが、その返答は、ルークをますます困惑させてしまうことになった。眉を寄せて難しそうな顔をすると、親愛なる友人は、およそ理解出来ないといった風に問いを重ねる。
「今から、寝るのに。どうして、また着るの?」
「……どうして、って」
「寝るときは、何も着ないでしょ」
これが、身体の洗い方談議の次に、俺に訪れた第二の衝撃である。そういった習慣を持つ人々の存在は、俺としても認識していたが、自分とは違う世界のことのように感じていた。それが、まさか我が親友の口から聞かれようとは──暫し、俺は頭を悩ませた。
どうなのだろう、ルークのこれまでの生活では、それで問題なかったのかも知れないが、ここは狭苦しい我が家である。お世辞にも片付いているとは言えない室内には、あれこれの小物が散らばっているから、ベッドに向かう途中、あるいは寝起きの茫とした折に、足を引っ掛けて躓いてしまわないとも限らない。そんなときに、多少なりとも身を護ってくれる衣服の存在は、やはり必要だと思うのだ。
──などというのは、とってつけた理由に過ぎない。実のところは、そうやって裸身をさらされては俺が目のやり場に困るからという理由が一番で、しかし、そんなことを打ち明けるような恥ずかしい真似はごめんだ。考えて、俺は適当な理由付けを述べた。
「……あー。うちには、とある幼馴染の女子が、起きろと言っていつ乗り込んでくるとも分からないだろ。そんなときに、ナマで寝てるというわけにはだな」
いったい、俺は真面目に何の説明をしているのだろう。たどたどしく声を紡ぎながら、内心で盛大な溜息を吐いておいた。
こちらの説明に、とても納得したようには見えないが、一応の家主の言うことには従おうというつもりなのだろう。しぶしぶといった様子でルークは一旦、ジャージのズボンに足を通した。しかし、湯上りの脚に布地がまとわりつく感覚が慣れないらしく、なんとも居心地悪げに身じろぐ。
「……やだ」
ぼそりと呟いて、彼はそれをすぐに脱ぎ落としてしまった。
「ったく、仕方ねえな。じゃあ上だけでいいからよ……って普通逆じゃねえか、いいのかこれ……待ってろ、こんな短いのじゃなくて、なんか適当なシャツ、」
「これ」
Tシャツに代わる上衣を探しに行こうと、脱衣所を出かけたところで、小さく発せられた声に、俺は足を止めた。たとえそれを聞き逃していたとしても、後ろから服を引っ張られる感覚には、さすがに気付かないわけにはいくまい。
これがいい、と言ってルークが摘まんだのは、俺の纏う寝巻の袖口だった。裾が長く、大腿の半ばまで隠れるから、まあ万が一女子に見られても──はたして許される範疇であるのかどうか、なんともジャッジし難いが──とりあえず、良しとしよう。ここで下手に難色を示して、やっぱり上も着たくないなどと言い出されてはたまらない。
請われるままに、俺はくたびれた寝巻の上を脱ぎ、ついでにそれをルークに着せてボタンを留めるところまで世話してやった。物珍しそうに、身に纏ったシャツを腕を上げ下ろしして観察し、それから布地に鼻先を寄せて、ルークは眼を閉じた。
「……カイトの匂い」
うっとりとした声の響きには、無邪気なだけではない、どこか気恥ずかしさのようなものが微妙に入り混じって聴こえて、こちらがいたたまれなくなってしまう。素直な感想を述べただけだというのは分かっているが、思わずどぎまぎとしてしまうのは、どうしようもないことだ。

ともあれ、そうした経緯があって、ルークは寝巻の上だけを。俺はそれの残り半分と、タンクトップとを。それぞれ身に纏った、独自のスタイルを確立したのであった。そんな間抜けな格好にも、既に当たり前のようにして何とも感じなくなってきているのだから、人間の慣れというものはおそろしい。
などと感慨に浸っている場合ではない。ともかく俺は、後生大事に膝にしがみついて離れようとしない友人を、何とかして寝室へと移動させるという厄介なパズルの続きに取り掛かった。こちらの衣服をぎゅっと掴むルークの白い指を、心を鬼にして一本ずつ、外させていく。一度眠りに落ちてしまったこの友人を、途中で起こすのが容易ではないことくらい、分かっていた筈なのに、こんなところで一休みすることを許してしまった先の自分の甘さを反省しながら、根気強く耳元に語りかける。
「なあ、ちゃんとベッドで寝ねえと。風邪ひくぞ」
我ながら、笑えるくらいにまっとうな主張である。至極もっともな正論に、ルークは目を閉じたまま、気だるげに首を振って応じる。
「いい……」
「よくねえよ」
判然としない口調で紡がれたうわごとに、つい律義に反応してしまう俺であった。
我が友人は、基本的に欲望に忠実な性質である。その頭の中の価値観では、後から熱を出して辛い思いをすることなど、数の内にも入らない瑣末な事項であって、なにより今、惰眠を貪り続けることこそが最優先となっているのだろう。
ここにいたって、やはり説得は無理であることを俺は悟った。仕方あるまいと、より直截的な手段に訴えることを決意する。一つ息を吐き、そして吸い──
「──起きろ!」
脱力しきった友人の肩を掴んで、容赦なく床から引っ張り起こす。小さく抗議の声が上がった気がするが、構うものか。自分自身も立ち上がりながら、荷物か何かのように腕を引き上げる。この期に及んで、往生際悪くも抵抗の気配があったので、意地でも離すまいと、俺はルークの白い腕を固く握り直した。
肩を貸してやりながら、半ば背負うようにして無理やりに立ち上がらせる。およそ自立する気のないらしい同居人に、全面的にもたれかかられるかたちとなって、やや足元がふらついた。なんとか体勢を立て直していると、耳元で、およそ緊迫感のない声が囁く。
「カイト……どこ、いくの……」
「寝るっつってんだろ。だから起きろ。一緒に行くぞ」
自分でも、支離滅裂なことを言っているのは承知の上だ。そんなはなはだ矛盾に満ちた言葉にも、案外ルークは素直に「……ぅん」と言って従った。ようやく、夢の世界から少しばかり意識が戻って来たらしい。ぐったりと背中にかかっていた重みが、少しばかり軽減する。それでも、相変わらず身体を寄せてもたれられていることには変わりはなかったが、離れろと言って突き放すことは、俺はしなかった。
寝惚け眼で足取りも怪しい友人を支えてやりながら、寝室への短い距離を移動する。まずベッドの奥にルークを寝かせ、その隣に俺も身を横たえた。既に安らかに目を閉じている友人の肩まで、掛け布を引き上げてやりながら、小さく告げる。
「おやすみ、ルーク」
「……おやすみ…カイト」
半ば怪しい呂律ながら、ルークは律義に答えを返してから、穏やかな寝息を立て始めた。幾分か幼さを感じさせる、安らかなその表情を前に、なにかひと仕事を終えたような静かな満足を覚えながら、俺もまた瞼を閉じる。

我が家の寝台は、浴槽と同様、二名での利用を想定されたものではなく、決してキャパシティに余裕があるわけではない。文字通り、身を寄せ合った体勢で、下手に寝返りを打てば、そのまま冷たい床へと転がり落ちかねない状況である。
それでも、同じベッドで眠ることにしているのは、そうしないとルークが不安がるからだ。ベッドとリビングのソファとで別々に寝ていたときは、ルークは度々悪夢にうなされては、泣きながら俺を探して、寝床に潜り込んできた。細い身体を抱き締めてやっても、明け方まで震えが止まらないこともあった。
そういうときのルークには、触れるこの手も、語り掛けるこの声も、何も届かない。大丈夫、ここにいるから、と背中をさすって何度言い聞かせても、固く噛み締められた唇からこぼれるのはいつも嗚咽だけで、返事が戻って来ることはなかった。
一緒に寝るようになってからは、様子はだいぶ安定しているように見えた。時折、確かめるように手を小さく握ってくるから、そうしたら握り返してやればいい。それは、こうして眠りに就く場面だけではなくて、いつだって同じことだ。いつだって、俺たちの間で、繰り返されていることだ。
おかえりと言われたら、おかえりと返すのと、同じように。手を繋いできたら、こちらもちゃんと、握り返す。抱き締めてきたら、分かるようにしっかりと、抱き締め返す。そうしてやることで、ルークはやっと、心からの安堵の表情を浮かべるのだ。
何度も繰り返し、同じことを確かめなくては、ルークはまた、不安と焦燥で一杯になってしまう。だから、そうやってルークが問い掛けてくるものを──与えてくるものを、俺は一つだって、逃すつもりはない。すべて受け止めて、応えるのだと、当然のようにして、そう思っている。

うとうとと、こちらも意識が落ちかけたところで、耳元に小さく囁く声が、聞こえたような気がした。
「カイト……おいていかないで、ね。いつまでも、一緒だよ」




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