カサブランカ -5-





「俺は気に入らねえな」
天才テラスと名付けられた学生食堂の一角から続く屋外へ出て、開口一番、ギャモンの奴はそんなことを言った。もちろん例の、癇に障る巻き舌である。むかついたので、こちらも負けじと応じる。
「ああそうかよ。別に気に入って貰いたくもねえよ」
会話終了。穏やかな風が静かにそよぎ、のどかな青空を小鳥が横切っていく。平和だ。軽く背伸びをして、爽やかな昼時の空気を味わっていると、今度は隣から、ややトーンを抑えた声が鼓膜を叩く。
「なあ、……なにもお前が責任感じる必要ねぇっつーか、そこまでしなくてもよ。放っときゃいいだろ。罪滅ぼしとか、馬鹿なこと考えてんじゃねぇだろうな」
俺が学校から一目散に帰宅する習慣を、どうやらこいつは非難しているものらしい。確かに、他人から見れば、これは異様な状況に思えるのだろう。別に理解を示して欲しいとは思わないが、神妙な顔で諌められるというのも、なんとも居心地が悪い。
「……責任なんか、感じちゃいねぇよ。そこまで自惚れられるもんか。……あいつがああなったのは、俺のせいじゃない。最初から、決まってたんだ。俺は、いても、いなくても、ルークにとっては、同じだった──同じことに、なるだけだった」
手すりに肘をついて、もたれかかる。深呼吸すると、遠くの山並みを眺めて、俺は続けた。
「ルークには、俺しかいないんだ。他に何も、心の中に、持ってない。何も知らないんだ、あの頃のまま。一緒にいたいって、ねだるのは、それだけ。放ってなんておけねぇよ……離れたくない。繋いでいたい。嫌なんだ、もう、あんな風に離れ離れには、なりたくない」
「でもよ、」
「約束、したんだ。いつまでも一緒、って。あの子は、一生懸命、それを守ろうとしてた……今度こそ、叶えてやりたい」
俺の言葉に、は、とギャモンは鼻で笑ってみせた。
「そういうのが、俺は気に入らねえんだ。約束だのなんだの、過去にばっか囚われやがってよ。後ろ向きすぎるぜ」
「だから。今から、作っていくんだ。埋め合わせなんかじゃない。あの頃の俺達は、やり直せないし、造り直せない。約束なんて、もう、取り戻せない。ずっと、止まっていたけど、やっと、回り出した気がするんだ」
そうかよ、と小さく吐き棄てて、ギャモンは肩を怒らせて立ち去った。奴のことだから、きっと、お前は何も分かっちゃいねえなどと、本当は説教したかったことだろうと思う。そうせずに話を切り上げたのは、たぶん、今の俺にそれを言ったところで仕方がないと、匙を投げたのだろう。
そう、自分でも分かっている。
こんなのは──おかしいと。こんな未来では、なかった筈だと。
それでも、俺は。
空っぽになったルークの抱く、たった一つの願いを、叶えてやりたかった。





メード・イン・ジャパンの刻印の威光は、俺が小さな頃にはもう凋落の一途を辿っていたように記憶しているが、筆記具という分野については、かろうじて過去の栄光が息づいているらしかった。英国名門校に籍を置いていた当時、貴重な外出許可日に訪れたスーパーマーケットの文具売り場には、いくつもの日本製のボールペンやシャープペンシルを見つけることが出来た。学校の授業では専ら、万年筆を使用していたから、ブリスターパックに入ってつり下げられたそれらのペンを、俺が購入する機会というのはついぞ訪れなかったが、異国の地で見る母国の製品というのは、なんとはなしにこちらを勇気づけてくれるものがある。
一方で、画材コーナーはというと、こちらはさすがに英国をはじめとする欧州ブランドが席巻していた。クロスフィールド学院で絵画の授業に使用していたのも、絵具はウィンザー&ニュートン、ペンシルはダーウェントがお約束だった。それらの用具に親しみながら、絵画を通して生徒たちは、パズルへの更なる理解を深めていったものだ。

何故、そんなことを思い出したかというと、単純なことだ。俺の眼の前に、幼児の落書きめいた拙い筆致の絵が、見渡す限り広がっている。幼稚園ではない。俺の家だ。
いつも通りに駆け足で帰宅して、ドアハンドルに手を掛けたところで、俺はまず違和感を覚えたのだった。ドアが開かない──玄関の鍵が、掛かっている。それを違和感というのは、世間一般的には、きっと間違った用法であろう。朝方、鍵を掛けて出掛けたのだから、帰ってきてそれが掛かっていることについて、何の不思議もない。むしろ、開いている方が異常であり、普通であれば空き巣の侵入などを疑うべき場面である。
だが、我が家における常識としては、俺が帰宅するとき、鍵は開いているものだ。否、開いていなくてはならない。それは、扉の向こうでルークが俺を待っているということの、証なのだから。
ポケットから取り出した鍵でもって、俺は久々に、自分の手で玄関を開けた。ゆっくりと扉を開けた先に、こちらを見つめて佇むルークの姿はない。そして、代わりに目に飛び込んできたのが──この状況だった。

白い壁といい、フローリングの床といい、あたりかまわず、一帯は無法地帯のキャンバスと化していた。
線、線、線、線。
ぺったりとした不透明の色の質感、輪郭の掠れた特徴的な筆跡は、一目でクレヨンのそれと知れる。明るい色彩の溢れる落書きは、無秩序のようでいて、よく見れば小さな秩序の集合で成り立っていた。ある一角に描かれているのは、ところどころ埋められた升目だ。また違う一方には、数字の羅列。のびのびと描かれた壁一面の迷路、一見して判読不能の複雑な記号──
「……ルーク」
それらの作品の創造主は、今まさに、座り込んだ床を塗り潰している最中だった。手の中に握り込むようにして黄緑のクレヨンを持ち、触れるほどに顔を寄せて、熱心に何かを描いている。夢中になっているのだろう、こちらの接近にはもちろん、いつもならすぐに顔を上げて反応する筈の呼び掛けにさえ、気付きもしない。
手も、顔も、髪も、服も。真っ白だった筈のそれらは、今や、いずれもカラフルな色彩で無秩序に汚れている。床のあちこちには、11色のクレヨンが散らばって、どれもだいぶ長さを擦り減らしているか、あるいは、真っ二つに折れた姿で放置されている。あんな風に力任せに握り描きをしていては、柔らかな軸が筆圧に耐えきれず折損するのも無理はない。幼稚園児と高校生では、握力というものが違うのだ。何本かを折って犠牲にした結果として、適度な力加減というものを学習したのかも知れなかった。

眼の前の情景を、俺はどこか現実感なく、ぼんやりと見つめた。
普通であれば、何をやってるんだと言って、その手からクレヨンを取り上げ、ともかく掃除に取り掛かるところである。しかるのちに、どうしてこれがいけないことであるかを納得のいくまで説明し、これからは気をつけるようにと約束させる。そういう対処が、最も適切であろうことは分かる。
分かっている、筈なのに──描かれたものを、すぐさま消そうとすることは、俺にはとても出来なかった。それどころか、今も順調に床を汚し続けるルークの手首を掴んで止めさせることすら、出来ずに立ち尽くす。なにも、あまりの事態にショックで思考が停止してしまったなどという話ではない。むしろ、脳は驚くほどに冷静だった。
──見ていたい。
彼がそれを描きあげるのを、ここで黙って、待っていたい。
俺の内には、ただその思いだけがあった。壁だの床だのは、どうなろうと構いはしない。大事なのは、それがパズルであって、出題者がルークであるということ、それだけだった。
今まさにルークの手元で生み出されつつある、そのパズルは、解いてくれといって、早くもこちらへねだってくるのだった。その一つだけではない。四方の壁、床と、あちこちに描かれたパズルは、どれも無邪気に、俺を呼び求めていた。まるで、丘の向こうから、いつも俺の名を呼んで嬉しそうに走り寄って来た、あの白い子どものように。
その声に、俺は──
──解きたい。
引き寄せられて──抗えない。
足元に転がっていた、青のクレヨンを、片手でおもむろに拾い上げた。



「……なああぁぁにやってんのよあんたたちはぁぁあ!」
一緒になってクレヨンを握り、四つん這いになって床を落書きで埋め尽くしていく男子高校生二名の姿を発見した女子高生の、それが第一声であった。幼馴染の大音声とともに、盛大に頭をはたかれ、手加減なく羽交い締めにされてようやく、俺は正気を取り戻したのだった。
我に返った俺を見て、一つ頷くと、ノノハは馬鹿力による拘束をひとまず解いた。続いてルークの方にもつかつかと歩み寄り、止める間もなく、同じように頭をはたいている。そこに遠慮というものは欠片もない。衝撃で手の中からクレヨンを取り落としたルークは、ようやく作業を中断して顔を上げた。いったい、何が起こったのか分からないというように、涙の滲む目を丸くして、はたかれた頭を押さえる。
大丈夫か、と労りかけた俺の声は、しかし、仁王立ちになった幼馴染の高らかな一喝によってかき消されることとなった。
「壁や床は画用紙じゃないの! さっさと掃除!」
勢いよく人差し指をつきつけて、ノノハは茫然とへたりこむ男子二名に命じた。ようやく回転を再開し始めた頭をさすりながら、俺は問う。
「……クレヨンの筆跡って、どうやって落とすんだ?」
そんなことは、ちっとも気にせずにパズルに勤しんでしまっていた。壁紙は、もはや色とりどりに埋め尽くされて、白い部屋の面影もない。止めてくれた幼馴染には悪いが、これはもう、手遅れというものではないだろうか。どうせ壁紙全部を取り替えるという最終手段しか残されていない以上、折角だからその前に、ちゃんとパズルの解答を描き入れておきたいのだが。
そんな、後ろ向きなのだか前向きなのだか分からないこちらの考えは、しかし、彼女にはおよそ無縁らしかった。パッケージに筆跡の落とし方も書いてあるんじゃないの、と気楽げに言って、ノノハは足元に転がっていた箱を手に取った。説明書きに目を走らせる。
「あ、これ普通のと違って、水拭きで落とせる新製品なんだって。良かったね」
雑巾雑巾、と彼女は早速に洗面所の方へと向かって行った。なるほど、最近の描画材にはそのような掃除時の気遣いまで盛り込まれているらしい。知らないうちに、世の中も進歩しているものである。このセールスポイントがあれば、汚れを気にせず、幼児にものびのびと絵を描いて遊ばせてやることが出来るだろう。

「じゃあ、私こっちやるから。あんたはそっちお願いね」
「ああ。悪いな」
濡らしたタオルを片手に、二人で掃除に取りかかる。残り一名はどうしたのかといえば、部屋の隅で見学である。我が家には雑巾として使用出来るタオルは残念ながら2枚しかないし、それにおそらく拭き掃除なんて生まれてこの方従事したことがないであろうルークは、はじめから戦力の内にない。
もともと平滑でつるりとしたフローリングと壁紙だったのが功を奏して、濡らしたタオルで拭くと、筆跡は簡単に落ちた。まだ解いてやっていないパズルを、この手で消さなくてはならないというのは少なからず胸が痛んだが、後でルークに頼んでもう一度、今度はノートにでも描き直して貰えば良い。なにしろ、ルークのパズルは全て俺が解いてやるという、それが約束なのだから。
その我が親友の様子をうかがうと、別段に、自分の作品が消されていくことについて、動揺する兆候は見られなかった。むしろ、無関心とさえいって良い。ただ、折れたクレヨンを、ルークは目の前に摘まみ上げて、ガラス玉めいた瞳でじっと見つめていた。
最後に、汚れた顔と手のひらを拭いてやったけれど、爪の間に這入り込んだ分は、どうしても取れなかった。後から風呂でゆっくり、落としてやれば良いだろうと思った。

床に転がっていた12本のクレヨンを拾い集め、パッケージに収めつつ、ふと小さな疑問が頭をよぎった。なんでこんなものが、我が家にあるのだろう。もちろん、俺に心当たりは無い。
絵を嗜むでもない高校生男子の独り暮らしの住まいには、およそ似つかわしくないファンシーなパッケージを指して、俺はルークに問うた。
「どうしたんだよ、こんなもん」
「……くれた」
誰が、と問おうとして、俺は辛うじて踏みとどまった。訊くまでもないだろう。俺のいない間にここへ来て、ルークに扉を開けさせ、手土産を置いて行く、そんなことが出来る人間は一人しかいない。
「……そっか」
影のようにルークに寄り添い、一番近くでその身を案じていた、あの青年を思い起こして、俺は緩く首を振った。高校生にもなる相手に、対象年齢6歳〜の描画材を贈るなど、普通であれば冗談にしかならないだろう。しかし、きっとこれは、彼らの間では冗談などではない、当たり前のことなのだ。ルークに、これが必要だということを、彼の保護者は知っていたから、届けに来た。それだけの話だ。
思い出すのは、一度だけ足を踏み入れた、クロスフィールド学院附属ラボラトリの一室。独房めいた陰気な空間に、およそ似つかわしくない明るい色彩でもって、壁じゅうに図形と数字が描かれていた。あれも、かつてルークが、与えられたクレヨンで描いたものだったのだろうか。当人が目の前にいるが、まさか訊くわけにはいかない。忌まわしい記憶に繋がる鍵は、出来る限り、ルークから遠ざけておきたいのだ。また何がきっかけで、彼の中の危ういバランスが崩れてしまうか分からない。
もどかしい思いでルークに相対する俺の鼓膜を、そのとき、訝しげな声が打った。
「あれー? カイト、なにこれ?」
キッチンの方から聞こえた声に、俺はとりあえず振り返る。何か飲み物でも拝借しようと思ったのだろう、勝手に他人の家の冷蔵庫を開けて、ノノハは首を傾げていた。なんだよ、と俺も寄って、中を覗き込む。
がらんとした空間に、見覚えのない白い箱が入っていた。なんだこれは、と眉を寄せかけるが、取り出して見れば側面に、優雅な字体でフランス語と思しき店名が箔押しされている。なんとなく予想がつくままに開けてみると、いかにも手の込んだ繊細な造形のケーキが二切れ、行儀よく並んで収まっていた。一方は鮮やかな赤、一方は純白。こちらも、クレヨンと一緒に持ち込まれた手土産ということなのだろう。
なんとも反応しかねる俺の隣で、感嘆の声を上げたのは我が幼馴染である。
「わぁすっごーい! 本物初めて見た! これってあれでしょ、マカロン1個1,000円するっていうあのお店! やだー、記念写真撮っていい?」
そんなことを言ってはしゃぐそばから、こちらの返事も待たずに、もう携帯を取り出して撮影態勢に入っている。間断ない激しいシャッター音が響き渡ったかと思うと、途端に静かになる。どうやら動画撮影に移行したようだ。動かないケーキを動画撮影して何が楽しいのか、俺にはよく分からない。
「ご覧ください、この表面のストロベリージュレの、宝石もかくやという上品な艶めき加減……さりげなく、それでいて計算し尽くされた金箔の散らしよう……クリームは口に入れた瞬間にふわりと溶けてしまいそうに優しく、またフレッシュな果肉の甘酸っぱい香りがいっぱいに広がり、舌の上にとろけるような、むしろハートがとろけるような……ああ」
恍惚の眼差しで舐めるようにケーキを撮影しつつ、涎を垂らさんばかりの興奮した妄想実況を繰り広げる少女の背中に、俺は一つ溜息を吐いてから声を掛けた。
「つーか、やるよ。別に俺、特別甘いもん好きってわけでもねえし。ありがたみの分かる奴に食われた方が、こいつも本望だろ」
「え? いやいや駄目だよ、それはカイトとルーク君が貰ったものなんだから。ちゃんと二人で食べなきゃ」
しっかりと撮影データを保存しながら、ノノハは当たり前のようにそう言って快活に笑った。ありがたく味わっていただくのよ、と最後に念押しをして、幼馴染は軽やかに玄関を出ていった。
改めて見れば、俺なんかが触れたら叱られてしまいそうな、芸術作品めいた造形美を誇るケーキである。ルークの好みを、その保護者が把握していない筈もないから、きっとこれは、彼もお気に入りの一品ということなのだろう。
こうして一緒に暮らして、一緒に食事を摂っても、ケーキが俺たちの食卓に上ったことは、一度もなかった。それについて、ルークが何を言うこともなかった。俺は──知らなかった。
「こっちの、赤いの。おいしいんだ」
ルークは小さく耳打ちしてくれたが、俺は生返事しか返せなかった。
あの頭脳集団のトップの座に就いていたとき、ルークはいつも、こんなものを食べていたのだろうか。俺などは一生味わうこともないような、最高級の紅茶を飲んでいたのだろうか。
これは──この気持ちは、いったい、何なのだろう。
「──ああ。後で、食べような」
知らず、握り締めていた拳を解いて、俺はひとまずケーキを冷蔵庫に仕舞った。



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