カサブランカ -6-
「じゃ、風呂、入るか」
気分を変えるようにそう提案すると、ルークは気だるげに首を振った。
「……僕はいい」
「え? どうした、熱でもあるのか?」
「違う」
「毎日、入りたいって言ってたじゃねえか。一日一回、って」
「…………」
どうしたのだろうか、いつもならば、喜んで一緒に入るというのに──こんなことは初めてで、俺は少なからず戸惑う。確かに、一日中家にいて、一歩も外に出ることのないルークだから、毎日風呂に入る必要もないのだが。むしろ洗いすぎは、その薄く弱い肌を荒らしてしまいかねない。
たぶん、そういうことなのだろうと強引に己を納得させようとしていたところで、ルークが小さく続けた言葉に、俺の思考は完全にぶち壊しにされた。
「それは、……一日に、二回も三回も入るのは、嫌だから、って」
──それが、どういうことであるのか、一瞬意味が分からなかった。「お風呂は、一日一回」とは、確かにルークの言っていた台詞である。それを、俺はてっきり、3日にいっぺんなどという無精をせずに、最低でも毎日1回風呂に入りたいということなのかと思っていた。だが、ルークの意図は、そうではなかった。最高で1日1回だけ、それ以上は入りたくないと──そういうことだったのだ。
ということは──どういうことになる。
今日はもう入ったから、いいのだと──まさか、そういうのだろうか。
俺のいない間に、ルークが風呂に入っていた。昼間のうちに、ということだろう。少なからず、俺は動揺せざるを得なかった。勝手に浴室を使ったことについては、別に構いはしない。ここはルークの家でもあるのだ。変な遠慮などせずに、自由に振る舞って貰って、一向に構わない。
だから、俺が引っ掛かったのはそこではない。思わず喉から出かかった言葉を、俺は辛うじて呑み込んだ。代わりに、胸の内だけで吐き出す。
──誰と。
着替えも食事も、自分の力でまともに出来ないルークが、ひとりで風呂に入れる筈もない。やらせたことがないので、それが具体的にどういうことになるのかは分からないが、まず間違いないといっていいだろう。いつも俺と一緒に入浴しているのは、なにも効率的な話だけではなくて、実際問題、そうでなくては何が起こるか分からないためなのだ。
そのルークが風呂に入ったということは──誰かが、付き添ってやったということになる。
今にも叫び出しそうな思いで、しかし、俺はそれをルークに問うことは出来なかった。問うてしまえば、嘘の吐けないルークはきっと、素直に答えるだろう。そうしたら、きっと俺は、抑えが利かなくなる。ルークに、どんなひどいことを言ってしまうか分からない。
「……風呂、行ってくる」
「うん」
これ以上、親友の顔を見ていられなくて、俺は背を向けた。そのまま、リビングを後にする。扉を閉めて、俺は震える息を吐いた。あの親友の無垢な瞳の前では、決して見せられない表情を、今の自分がしていることが分かる。
こんな気持ちになる理由なんて、ひとつもない筈だというのに。
自分で、自分が分からなかった。
久しぶりにひとりで入る風呂は、どこか居心地が悪く、落ち着かなかった。ルークが来るまで、それが当たり前であった筈なのに、広いバスルームが妙に寒々しい。昼間、ここに入ったルークは、そういう気持ちを抱かなかっただろうか。いつも、一緒に入っている俺がいないのに、何とも──思わなかっただろうか。
考えるほどに気分が沈むのが分かったので、俺は早々に入浴を済ませることにした。
髪を乾かすのもそこそこにリビングへ戻ると、ルークは床に座り込んで、赤い紐を指に遊ばせていた。ひとりの間の暇つぶしとして、俺が与えたあやとりだ。顔を上げてこちらの姿を認めると、カイト、と嬉しそうに微笑む。そのせいで、おろそかになった手元でせっかく作っていた形が崩れてしまったが、気にも留めない。むしろ、邪魔とでもいうように無造作に手を振り払い、絡みつく赤い紐を外そうとする。
ああ、そんなことをしたら──内心で俺が抱いた危惧の通り、ルークのその行動は、両手を自由にするための何の役にも立たなかった。複雑に絡んだ紐はなかなか外れず、考えなしに引っ張ったために、むしろ指を締めつけている。動くほどに余計にもつれ、思うようにいかない事態と、圧迫された指の痛みに混乱したルークは、ますます力任せに引っ張る。白い指先が、締めつけられて赤みを帯びているのが、遠目にも分かった。
俺は涙目のルークに大股で歩み寄り、床に膝をついた。両手を絡め取られて悪戦苦闘するルークの細い手首を、これ以上事態を悪化させないよう、ひとまず握って押さえ込む。
「いま、解いてやるから。じっとしてろ」
宥めるように囁きかけると、ひくりと背を跳ねて、ルークは大人しくなった。それを確かめてから、握っていた手首をそっと解放する。力なく、くたりと床に落ちる白い手を、俺は改めて掬い上げると、絡んだ紐の流れをざっと流し見た。どこから攻めれば良いか、要所要所が、視界の中で特に明るく見える。2秒で、俺は方針を固めた。
まずは圧迫されている指先の解放を最優先に、複雑に絡んだ赤い紐を手早く緩めていく。自分の指も巻き込まれがちになるが、一時的なことだ、構わない。痛がらせないように加減しながら、指先に神経を集中する。
湯上がりの身には冷たく感じられる、ルークの白い手と。だいぶ毛羽立った、赤い紐と。自分自身の、この両手と。絡めては解き、離れてはまた押しつけて、俺はそのパズルに挑んだ。
「……解けた」
ふう、と一息を吐いて、俺は解放を宣言した。床には、ますますみすぼらしくなった赤い紐が放り出され、それを前にルークが神妙な面持ちでしゃがみこんでいる。てっきり、解いて貰って無邪気に喜ぶものとばかり思っていたから、その反応は少し予想外であった。まあ、別にこれはルークが用意したパズルでも何でもないのだから、喜ぶようなことでもないのだろう。
「いま、ケーキ出すからな。座って待ってろ」
テーブルに着くよう促してやると、ルークは緩慢に頷いた。床についた白い両手には、細い紐に締め付けられた痕が赤く残って、あたかも未だ、視えない糸に縛られたままであるかのようだった。
差し入れのケーキを前に、向かい合って食卓に着く。これが美味いのだと言っていた、赤い方をルークの前に、白い方を俺の前に置いてある。早速フォークを入れたところで、友人の熱心な視線がこちらの手元に注がれているのに気付いて、俺は声を掛けた。
「……食うか?」
「うん」
あー、と口を開けて、ルークは行儀悪くねだった。子どもっぽい振る舞いに苦笑しつつ、俺はフォークに刺した一切れを、小さな口にそっと押し込んでやった。白金の睫を伏せて、ルークは柔らかな唇の合間にフォークを挟み込む。静かに引き抜いてやると、閉じ合わされた柔肉の感触が、金属の柄を通して、こちらの指先にまで伝わるようだった。
じっくりと味わうように、目を閉じて咀嚼する親友の姿は、なんとも微笑ましい。俺は知らず、表情を緩めていた。
「美味いか」
「うん」
頷いて、ルークはゆっくりと瞼を上げた。食卓に両肘をつき、どこか夢見るような表情で、組んだ指の上に顎を載せる。そんな風に、可愛らしく小首を傾げて目を細められると、温かく見守られているようで、妙な心地である。俺が何か食物を口に運ぶ様子を、ルークはそうやって、向かいで黙って眺めるのが好きらしかった。
ケーキは、なるほど、確かに美味かった。俺はグルメレポーターではないので、微細な表現などは出来ないが、いかにも上品なその味わいは、学食のテラスでぱくつく、いつもの菓子とは確実に別物として感じられた。一言でいえば、分かりにくい味だ。これという単純な押し出しがない。たぶん、こういうのを、複雑なハーモニーだのなんだのというのだろうな、と俺は咀嚼しながら想像した。
美味いが──好きかどうかと言われたら、それは、なんともいえない。たぶん、このケーキも俺なんかに食われるために作られたものではないだろうに、可哀想なことだと思う。ケーキが上質であるだけに、我が身を思うと、なんともちぐはぐな気分を味わうこととなった。
こちらがもう食べ終えかける頃になって、ルークはようやく、自分のフォークを取った。そっとケーキにあてがいながら、弾んだ声で発せられたのは、ひとつの提案だった。
「カイトにも、一口あげる」
先程のお返しということだろう。好物なのだろうに、貰ってしまって良いのだろうかと、俺は一応問うた。
「いいのか?」
「とってあげるね」
いいらしい。我が親友はこれでなかなか、というか相当に頑固なところがあって、一度これと決めたことについては、何があろうと意志を曲げようとしない。俺の確認の問い掛けは、およそ無意味なものであったが、まあ良いだろう。自然なコミュニケーションには、無駄な遣り取りも欠かせない。たとえそれが、ルークの耳に届いていなくともだ。
ルークのケーキはミルフィーユに似ていて、重なったパイ生地はいかにも脆く崩れやすそうである。どうやって切り分けるつもりなのだろうか、上手く出来るのだろうかと、俺は少々心配になった。ルークはケーキを横倒しにするでもなく、フォークの側面を刃に見立て、そのままケーキに垂直に立てようとする。無残に崩れたケーキの哀れな姿を幻視して、俺は思わず呟いていた。
「大丈夫かよ」
「いいから」
ルークはのんびりとした調子でもって応えると、躊躇いなく、そのまま寝かせたフォークを押し込んだ。驚いたことに、その結果生まれたものは、ぐしゃぐしゃになったパイの破片の山などではなかった。垂直方向にまっすぐ押し込むように力を加えられたミルフィーユは、小気味良い音を立てて、すっとフォークを呑み込んでいた。きれいに立った姿を崩すことなく、さっくりと最下部までが切り取られる、その見事な様子は手品か何かのようだった。
「少しでいいぜ」
その半分くらいでいい、と手ぶりで示しながら言う俺に、ルークは遠慮するなというように微笑んだ。
「気に入ってくれるといいな」
そんなことを言いながら、フォークに一切れを乗せて、こちらへ差し出す。やや気恥ずかしかったが、柔らかな光を湛える淡青色の瞳に見つめられると、俺に逆らう術はない。促されるままに、黙ってフォークに食いついた。
甘酸っぱい赤い果実の匂いが、鼻腔に抜ける。さくさくと軽い生地の層は、噛み締めると、その合間から溢れるクリームが程良い食感を与えた。なるほど、これは確かに美味い。
引き戻したフォークを、そっと己の唇にあてがって、ルークはじっとこちらの様子をうかがうように見つめていた。好物だと言っていたのに、続けて皿の上のものに手をつけようとしないのは何故だろうか。
音もなく、ルークは優美な手つきでもって、銀のフォークを皿の上に置いた。長い睫をそっと伏せて、それは、指揮棒を下ろして終演を知らせる演者のごとく、静かな余韻をもたらす所作だった。
「……アイリス」
「え?」
ぽつりと呟かれた言葉の意図を、すぐさま掴むことが出来ずに、俺は聞き返した。俯いていた顔を上げて、ルークは柔らかく微笑する。
「パズルだよ。今、作ったの。解いて」
アイリス──カキツバタ。それは、ちょっとパズルをかじった者ならば、すぐに、とある言葉遊びと結び付けられる。古の貴人が、その花の名前を短歌に詠み込んだ方法──句頭の一文字を繋げることで、隠された意味が浮かび上がる、折句(アクロスティック)と呼ばれる巧みな暗号。いろは歌にも、同様の仕掛けが施されているという話もある、伝統的手法。現代風に言うならば、横書きの文に対する、いわゆる「縦読み」というやつだ。
それならば──ルークがフォークを手にした瞬間、おそらくは、あれがスタートの合図だったのだろう。そして、それを置くまでの間、俺達の間に交わした会話の頭を繋げると──
「……カ、イ、ト…だいす、き」
信じられない心地でもって、俺は茫然と、掠れた声を紡いだ。回答を受けて、ルークは満足げに目を細める。一方で、俺は未だ、混乱から抜け出せなかった。
自分の発言だけで、同様のパズルを仕込むのは、さほど難しいことではない。いくらでも調整は可能であり、なんとでもやりようがある。だが、このパズルを二人の会話で完成させるには、相手を誘導し、望ましい言葉を紡がせなくてはならない。一言でも、想定から逸れた応答をされては、そこでパズルは終わりである。
こちらの応答まで見越して──組み上げたのか。
それも、相手には全く、悟られないうちに。
──そんな、ことが。
いたずらに成功した子どもの顔で、ルークは無邪気に笑った。
「そうだよ。大好き」
──パズルを作るために、生み出された存在。
道具も何も、必要ない。
ただ、そこにいるだけで、パズルを作ってしまう。
「カイト。大好き」
幸せそうに、頬を染めて囁くルークを目の前にして、否応なしに、実感させられていた。
その日、ルークは寝巻に着替えようとしなかった。脱がせてやろうとしたら、嫌がったので、昼間のままの格好で寝かせた。ルークがちゃんと服を着て眠っている姿を、こうして、俺は初めて見ることになったのだった。