カサブランカ -7-





「うーん、どこがまずかったんだろう? やっぱりここはポーンを進めておくべきだったかな?」
首をひねりつつ、軸川先輩は歩兵の駒を摘まむと、一歩前へと前進させた。その盤面をじっと見つめて、ルークはぼそりと呟く。
「……それは、この状況下でポーンを移動させる16パターンの対処のうち、下から2番目に良い手だ」
「あはは、素直に悪手って言って貰って構わないよ」
屈託なく笑って、軸川先輩はルークに教えを請う。先ほど交えた一戦──結果はルークの鮮やかな勝利であった──それの、今は感想戦に入っていた。ここでの狙いはこうだった、この手は絶妙だった、あの手が敗北の遠因だった、などと検討することで、己の手筋を反省し、今後に活かすのである。
盤上に向けた顔を決して上げることなく、ルークは駒の間で淡々と、白い指先を躍らせた。
「だから……ここは、反射的に応じるのではなくて、相手の誘いに乗らずに……俯瞰して、他の手を検討すべきところで……」
「そうなのかい? こう指すしかないと思ったんだけど」
「……例えば、こう」
すっと動いた指先が、音もなく黒の騎士を移動させる。
「ええっと、ちょっと待ってくれよ……、……、……ああ。ああ、そうか、なるほどね! それだと、クイーンの動きにも睨みを利かせられるってわけだ。やあ、さすがだねえルーク君」
かなわないな、と俺は傍から見ていて思う。ルークに対して、ではない。軸川先輩のことだ。
かつて己の所属する頭脳集団の、崇高なる頂点に座していた相手に対し、こうも自然に、一人の年下の少年扱いをして親しげに振る舞うなど、なかなか出来ることではない。内心で何を思っているのか、その飄々とした態度からはうかがい知れないが、何にしてもありがたいことである。
たぶん、俺以外でルークと一番言葉を交わしているのは、この生徒会長殿だろう。他者との気楽な雑談となると、うまく応答が出来ずに黙り込んでしまうルークだが、チェスに関しては例外的に対話が成立する。それは、この盤上のゲームには厳密なルールがあり、何をどうすれば良いのか、精密な計算によって明瞭に定めることが出来るからだ。そして、この白と黒のフィールドの内側について、ルークは誰より熟知している。語るべきことが決まっているから、不安に襲われることもなく、教科書を読み上げるように淡々と言葉を紡げるのだ。いずれは、チェスをきっかけとして、相手と他愛のない雑談に興じることも出来るようになるのではないかと、俺はそんな風に期待している。
戦局の見極めに関するひとしきりの指導を受けると、感慨深げに嘆息して、軸川先輩は微笑した。
「今日もご指南いただけて、勉強になったよ。まだまだ、道は遠いけれどね」
またよろしく、と言って彼は椅子から身を起こした。

「特に、問題があるようには見えないね。安定している様子だ」
外廊下まで見送りに出た俺に、軸川先輩は穏やかな調子でもって言った。対局の間、我慢していたためであろう、その手には早速、リンゴジュースが握られている。
先日の一件──部屋中をパズルの落書きでいっぱいにしてしまった、ルークのあの行動以来、俺はなんとはなしに、落ち着かない心地を感じていた。もっとも、あの翌朝にはルークはいつものルークに戻っていて、どうして自分がちゃんと服を着て眠っていたのか、どうして爪の間がカラフルに色づいているのか、その経緯も忘れてしまっているようだった。不思議そうに両手を眺めて、爪をいじっているルークを前に、俺は何も問うことが出来なかった。
いったい、あの日、俺のいない間に、何があったのか。だから、それを知る機会というのは、永遠に失われてしまったのだった。
それでも、なんとも割り切れないものを感じた俺は、ルークの様子をちょっと見てやってはくれないかと、生徒会長殿に相談を持ち掛けた。すぐさま自分たちの保護者に連絡を取るほどのことではないが、かといって、何事もなかったかのようにやり過ごすことも出来ない、そんなこちらの思いを、彼はすぐに汲み取って、快く相談に応じてくれた。早速、スケジュールを調整して、放課後の家庭訪問を約束してくれたのだった。
その第三者の視点から、問題なしという所見を得て、俺は小さく安堵の心地を覚えた。こんなことで、多忙な生徒会長殿に手間を掛けさせてしまったことが、今更ながら申し訳なくなってくる。
「なんか、わざわざすんません。先輩」
「いやいや、お役に立てていれば何よりだよ。君たちの保護者に、ちゃんと経過報告もしないといけないからね」
「経過……」
そう、俺はただ、ルークを居候させてやっているというだけではないのだった。そのことを、今更ながら実感させられる。
我が親友の手を引いて、彼のまだ知らない、この世界を教えてやること──それが、自分に与えられた役割の筈だった。果たして、俺はどれだけのことを、ルークにしてやれただろう。一緒に学校に行くでもなく、どころか、今のところ、ろくに外に連れ出そうともしていない。
していることといえば、この白い部屋の中で、ルークの望むままに寄り添ってやることくらいだ。一緒に食事をして、一緒に風呂に入って、一緒に眠る。思うと、それはとてもちっぽけな働きかけに過ぎない気がして、俺は口をつぐんだ。
こちらのそんな内心を悟ってか、軸川先輩は一口、ジュースを啜ると、慰めるように穏やかな声を紡ぐ。
「カイト君はよくやってるよ。おかげで、ルーク君にも良い変化が生まれている。君たちの保護者も、きっと、望んだようにね。……これからも、仲良くするんだよ」
最後に、軽く肩を叩いて、全校から信頼を集める人格者たる生徒会長氏は踵を返した。
「軸川先輩!」
その背中に、俺が声を掛けたのは、ほとんど無意識の行動だった。
「なんだい?」
穏やかな表情で振り返った彼に、いったい、俺は何を訊きたかったのだろうか。自分でも途端に分からなくなり、言葉を濁す。
「ええと、その、……なんでいつも、先輩が黒で、ルークが白なんかな、って」
結局、口から出たのは、何ということもない無難な質問だった。チェスでは伝統的に、実力の劣る側が、有利な先攻である白を取ることでゲームバランスを調整する。こう言っては失礼かも知れないが、軸川先輩とルークでは、当然、先輩が白を取るべきだ。
それなのに、この二人の対戦で、白を取るのはいつもルークの方だ。もともと優位な側に、有利な条件までプラスされるのだから、先輩が一度も勝利出来ないのも無理はない。そのことは、本人たち同士が一番良く分かっているだろうに、何故かルークも、この状況に異を唱えないのだ。思い返してみれば、二人が俺の家で初めて対戦したとき、先攻後攻をどうするか話し合うこともなしに、自然にルークが白を、軸川先輩が黒を取っていた気がする。俺がルークと勝負するときは、当然いつも白を譲って貰っているものだから、普段と反対の席に座っているルークを見るのは、なんだか妙な感覚だったことを覚えている。
常々、不思議に思っていたことだ──しかし、なにも今、呼び止めてまで訊くようなことではなかっただろう。なにをやっているんだ、と俺は内心で小さく自分を責めた。
そんな俺の不審な態度にも、軸川先輩は首を傾げることはなく、含みのある微笑を浮かべて一言、応えた。
「年上だから、さ」



泡立てたタオルで身体を擦りながら、俺は先に先輩と交わした会話を思い出していた。
なるほど、同じ組織に所属していた二人のことだから、その地位はだいぶ違うとはいえ、もしかしたら過去にもそうやって、ひと勝負したことがあったのかも知れない。そのとき、ルークは先輩の「年上だから」という理由に納得して、白を取ったのだろうか。だとすると我が親友は、案外、年齢による上下関係を重んじるタイプだったらしい。十代にしてあの頭脳集団のトップに君臨し、大人たちを駒のように扱いながら、その同じ人間のすることとは思えないが、チェスに関しては例外ということなのだろう。
ということは、手遊びに側近や誰かと対戦するとき、ルークはいつも白を取ることになっていたのだろう。彼の周囲には、いつだって目上の相手しかいなかった筈だ。だとすれば、ルークに黒を取らせることが出来るのは、今も昔も、俺だけということか──
身体を洗いながら、ぼんやりと思索に耽っていた、そのときだった。ふと、浴槽の方からの何気ない風の呼び掛けが、小さく鼓膜を叩く。
「ね、カイト」
「え?」
振り向いたところで、勢いよく噴射された湯は、見事に顔面に直撃した。うわ、と俺は間抜けな声を上げて仰け反る。瞬間的に閉じた瞼を、片手で拭って上げると、滲む視界の向こうで、ルークがそれはそれは愉快げに、口を押さえて笑っていた。
「……やったなこいつ!」
ああ、馬鹿なことをしているなあ、と自覚しつつ、俺は身を乗り出すと、たっぷりと掬った湯を、笑い転げているルークの頭に思い切りぶちまけてやった。わぁ、だかやだ、だかの声を上げて、ルークは身を竦める。これでおあいこだ、ざまあみろと思ったが、大人しく引き下がるルークではなかった。負けじと、再び指を組んで水鉄砲の形を作ろうとするから、俺はさせるまいと、続けざまに湯をかけてやって応戦する。
とうとう、自分も湯船に侵入すると、ばしゃばしゃと盛大に湯を溢れさせるにも構わず、狭い湯船の中で二人して取っ組みあった。やっていることはただの馬鹿だが、当人たちは本気である。童心に返って戯れたとでも言っておけば、少しは聞こえが良いだろうか。
「っ、はは、はぁ、」
すばしこく逃げるルークの両手首を、ついに掴み上げてやったことで、勝負はとりあえずの落着を迎えた。笑いなのだか、息切れなのだか分からない、二人分の荒い呼吸が浴室内に響く。
見れば、ルークの頬は随分紅潮しているし、肩を上下して息を継いでいる。こんなところで盛大に運動したのだ、のぼせてしまってもおかしくはない。早く上がらせてやった方が良いだろう。浴槽から引き上げるべく、身を寄せて、細い腰に腕を回したときだった。
「……カイ、ト」
ぽつりと呟いて、ルークは伏せていた瞳を上げた。淡青色の瞳に、至近距離から相対する。そのきれいに艶めく表面が潤んで、反射する光を揺らしているのは、湯をかぶったせいだろうか。なにかを訴えるように、切なく眉を寄せ、ルークは唇を震わせた。はぁ、とか細い吐息がこぼれ落ちる。
そこで初めて、現在の自分たちの状況に思い至り、慄然とする。狭い湯船の中、裸で脚を絡ませ合い、上気した頬で切ない息を吐くルークと、それに覆いかぶさって手首を掴み上げた自分。かっ、と頭が熱くなったのは、湯気のせいだけではあるまい。
ほとんど勢い任せに、俺は身を起こした。ひとまず自分だけでも湯船を上がり、迷わず頭から冷水を浴びる。
「ほら、お前もだ」
まだ湯船の中でぼんやりとしているルークの頭に、俺はシャワーヘッドを向けて盛大に冷水を浴びせてやった。なにか小さく抗議の声が上がった気もするが、構うものか。冷たい飛沫を浴びながら、俺は頭を振って、一瞬だけ抱いたおかしな衝動を追い払った。



風呂上がり、コップにたっぷり注いだ水を飲み干すと、ルークは疲れたのか、早々に寝室に足を向けた。今にもふらつきそうな、頼りない足取りが気になって、俺もそれに続く。
「歯、磨いてけよ」
「まだ寝ない……」
本人としては、一時の休憩というつもりなのだろう。その言葉通り、ルークはちゃんと寝台には入らずに、掛け布の上から腰を下ろし、そこから静かに身体を横にした。照明を消してやろうとする俺に、そのままで、と呟く。その視線が向けられた先は、隅の天井だ。
寝室の隅には、太陽系を模した小さなモビールが吊られている。必要最低限の生活用品とパズルしか存在しないこの家で、それは唯一、鑑賞のためだけのオブジェであった。
それが、ゆらゆらと動く様子を、ベッドにだらしなく身を投げ出したルークは、飽きず眺めていた。ぼんやりと開いた淡青色の瞳が、その向こうに何を見出しているのか、俺には分からない。

その真新しいモビールが我が家に飾られるようになったのは、つい最近のことだ。
それは、永遠を望むルークが孤島に創り上げた最後のパズルに挑む前日、彼の願いで二人一緒にささやかな時間を過ごした、あのときに由来する。カイトの普段行くところに行ってみたい、というルークの希望で、俺たちは総合雑貨店に足を運んだ。パズルコーナーでひとしきりはしゃいだ後、サイエンスコーナーに移動したところで、親友はふと立ち止まった。その視線を追って、俺は天上から吊り下げられたモビールの存在に気付いた。
微風に揺れ動くそのオブジェを、ルークがあまりにきらきらと目を輝かせて熱心に見つめるものだから、俺はついつい、食事だの本だのに続いて、また財布を開いてしまったのだった。
すっかり心奪われたように立ち尽くしているルークの隣から、そっと離れてレジに向かう。別にこそこそとする必要などどこにもないのだが、友人の邪魔をしたくなかったというのが一番の理由だったのだろう。向こうのあれを、と店員に指さして伝え、在庫を出して貰う。プレゼント用かと問われたが、気恥ずかしかったので、自宅用といって簡素な袋に入れて貰うことにした。
まだ同じ姿勢で固まっている親友の元へ戻ると、俺はぶっきらぼうに、それを差し出した。
「ほら、やるよ」
そのときのルークの、きょとんとした表情の面白いことといったらなかった。大きな青い目を丸くして、何だろうと瞬きをする。俺は無言で、天井のモビールと手元の袋を交互に指した。そこでようやく、あ、と気付いたようにルークは声をこぼした。その顔に、みるみるうちに驚きと歓喜が広がっていく。
「すごいや、カイト! どうして僕が欲しいもの、分かったの?」
溢れんばかりの笑顔で、ルークは声を弾ませて問うた。わぁ、と感嘆しては、簡素な包みを大事そうに胸に抱きかかえる、子どもでもしないような無邪気な反応に、俺は小さく苦笑した。
「そりゃ、あれだけ眺めてたら誰だって……」
「そうか。やっぱり僕たち、パズルで繋がってるんだ! ね、そうでしょ、カイト」
幼い頃から変わらない、友人の白く薄い肌は、頬の紅潮を隠すことが出来ない。簡単に、その心身の高揚のほどを教えてしまう。頬を染めて、どこか陶然と確信めいた言葉を紡ぐルークを前に、俺はただ、そうだな、と頷いてやることしか出来なかった。

今にして思えば、あのときルークはモビールを見つめながら、そこに自分の創り上げた巨大な太陽系パズルを重ね見ていたのだろう。その先に望む結末があることを、信じて疑わなかった彼だから、早くも期待に胸を躍らせていたに違いない。そんな内心を、まるで俺が見通したかのように感じて、ルークはきっと嬉しかったのだろう。俺との繋がりを、ますます強く確信したのだろう。
そうした経緯でもってプレゼントした筈のモビールは、結局、ルークと一緒に我が家にやってくることとなり、現在寝室に飾られているというわけである。別にこんな未来を予知してのことではないが、図らずも、自宅用といったのは正しかったことになる。
あの巨大な惑星パズルを解き放った今でも、ルークはそれを眺めるのが好きだ。ベッドに寝そべるルークの隣に腰掛けて、俺はその顔を覗き込んだ。
「なあ。なに、見てんだ」
問い掛けに、ルークは緩慢に瞬きをすると、淡青色の瞳をこちらに向けた。薄く開いた唇が、吐息混じりに小さく紡ぐ。
「……カイト」
「俺はこっちだぜ」
胸に手を当てて自己主張すると、ルークは可笑しそうにくすくすと笑った。それから、視線をモビールに戻す。
「うん。でも……あれも、カイト。遠くて、強くて、眩しい……」
ゆっくりと持ち上げた片手を、ルークは眼の前に翳した。細い指が、きゅ、と空を掴む。眠りに落ちていこうとでもいうように、瞼を下ろしながら、友人はうわごとのように拙く言葉を綴る。
「僕は、……灼かれて、堕ちる」
ぱたり、と力なく腕が落ちて、ルークはそれ以上、声を紡ごうとはしなかった。瞼を閉ざした白い顔は、そのままふっと息を失ってしまっても不思議でないくらいに、つくりものめいて静まり返っている。ふと心配になって、俺はその頬に指先を添わせてみた。ちゃんと、柔らかく温かな感覚が伝達したから、少し安堵した。




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