カサブランカ -8-





あ、バスの時間やべぇ、と俺は口の中で小さく呟いた。幼馴染に頼らず、自力で目覚めるようになってひとつ成長した俺であるが、時間管理という面では相変わらずなものであった。なにしろ幼い頃から、パズルに夢中になると時間を忘れて、待ち合わせだの門限だのといったことをすっかり失念してしまうという、根っからのパズルバカである。余裕をもって目覚めた筈なのに、なぜか気付くと朝の貴重な時間を浪費して、結局バス停に向かって走るはめになることもしばしばである。
どうやら今日も、そのコースを辿ることになりそうだ。横目で時計を確認しつつ、朝食の残りを水で流し込む。
「俺、もう行くから。お前はゆっくり食べてろ」
まだ皿の中身を半分ほど残し、もぐもぐと口を動かしているルークに、今日の見送りは省略、と俺は指示した。友人が小さく頷いたのを確認してから、食卓を立つ。傍らの荷物を取り、居間を後にしかけたところで、
「カイト」
小さく呼び止められて、なんだよ、と俺は振り返った。食卓の向こうで、ルークは何か言いたげにこちらを見つめている。その唇がなかなか言葉を紡ぎ出さないのは、きっと、口の中に食べ物を入れたまま話すのは行儀が悪いという躾の成果なのだろう。
朝の忙しい人間を引き留めるのが悪いことだという意識は、おそらくこの親友の頭の中には存在していない。もちろん、俺はそんなことに苛立ったりはしなかった。ルークが何かを求めているというのならば、俺はいつだって、それをちゃんと聞いてやりたい。急いでいるからといって、ルークの話を聞かずに、独りきりで残していくなんていう身勝手なことは、したくないのだ。そうやって、彼を二度と、置き去りにしたくはない。
俺は辛抱強く、親友が語り始めるのを待った。口の中のものをゆっくりと咀嚼して、こくりと喉を鳴らすと、ルークはようやく用件を述べた。
「ペン。ちょうだい」
それが、出掛けの人間を引き留めての、ルークのささやかな要求であった。正直いって、どんなことを言い出されても驚かない自信はあったのだが、それはさすがに予想外の台詞だった。彼がいつでも思いついたパズルを書き留めておけるように、ペンとノートの一式は、既に与えていたからだ。
ローテーブルに出しっぱなしのノートの方を見やって、俺は応える。
「ペンなら、そこにあるじゃねえか」
「もっと欲しい」
悪びれることなく、ルークは当初の要求を通した。ああ、そういうことかと、ここで俺もようやく気付く。書けるものならば、何でもいいという話ではないのだ。今度の新しいパズルを設計するにあたっては、きっと、線の書き分け、あるいは色分けが必要なのだろう。
そういうことならと、俺は小走りに自分のデスクに駆け戻り、ペンスタンドを引っ掴んできた。女子の持ち物のように、そう何十色とカラフルなペンが揃っているわけではないが、4色も書き分けられれば十分だろう。それに、シャープペンシルならば芯径0.2mmから1.3mmまでをラインナップしているから、線の太さを書き分けたいというならば対処は万全だ。日本に戻ってきてからシャープペンシルを日常的に使い始めた俺は、数多くの青少年がそうであるように、その精緻な内部構造に惹かれ、あれこれと買い集めては分解してみたものだ。
そんな懐かしのペンの雑多に入り混じったペンスタンドを、俺は丸ごとルークに貸し与えた。
「じゃあこれ、適当に使えよ。あとな、家ん中のもん、ぜんぶ俺とお前のなんだから。使うの、いちいち断らなくていいぜ」
「うん。ありがとう」
屈託のない笑顔で、ルークは応える。どうやらバスの時間には間に合いそうにないが、ルークのこの笑顔が見られたのだから、別に遅刻だろうがなんだろうが、構わない気がした。
「じゃ、いってくる」
「いってらっしゃい」
小走りに駆け出しながら、帰りにカラーペンのセットでも買っていってやろうかなどと、呑気に俺は考えていた。



「アナが思うに、あの子にそれは要らないんだな」
「なんだよそれ。本人が欲しいって言ってるじゃねえか」
称号持ちの生徒にのみ開かれた、恥ずかしい名称のテラスに上ったところで、気ままな芸術家の姿を見つけた俺は、雑談の一環として、彼に今朝の話をしたところだった。クレヨンやカラーペンを使ってパズルを作る行為は、絵画の制作とも近いだろうという素人考えでもって、専門家の意見を聞いてみようと思ったのだ。カンバスに油絵具でナンプレを描くほどの彼であるから、なにか適切な画材をアドバイスしてくれるのではないかという期待もあった。そんなこちらの予想に反して、スイーツをつつきながらふんふんと話を聞いていた学友の発した感想が、先のコメントである。
手にしたスプーンでのんびりとプリンを掬いながら、アナは説明を加えた。
「カイトは、あの子の言葉を聞く。あの子の言う通りにしてあげようとする。でも、それって、あの子の本当に欲しいことなのかな」
「んなこといったってよ。俺、そんなマニアックなペンとか分からねえし」
「そうじゃないんだなー」
アナは緊迫感に欠ける声でもって応え、やれやれと首を横に振る。どうも、ルークとはまた違った意味で、いまひとつ会話が成立しない。まあ、これもいつものことである。芸術家というやつは、パズルバカとは脳の構造が違うのだろう。おいしー、と満面の笑みでプリンを賞味する彼を残して、俺は席を立った。
カラーペンを買ってやるのは、今日はひとまずやめておこうと思った。アナが「要らない」と言ったのが、いったいどういう根拠によるものなのかは分からないが、確かに、もっとよくルークの希望を聞いてからの方が良いだろう。なにしろ、俺は大事な親友がクレヨンを欲していたことさえ、他の誰かからそれが贈られるまで、知らずにいたくらいなのだ。俺はもっと、ルークの言葉を聞かなくてはいけないし、ルークの望みを分かってやらないといけない。きっと、アナのアドバイスはそういうことなのだろう。解釈して、俺は小さく頷いた。

さて、用も済んだことで、俺はさっさと食堂を後にすることにした。したのだが、そこであたかも、敏腕警察官のごとく張り込みをしていたパズル部員たちによって、行く手を阻まれる。お馴染みの、眼鏡男子、その腰巾着、中等部の眼鏡女子である。
3人組の中央に仁王立ちになった眼鏡男子は、ワイヤーのこんがらがったような形の不細工なオブジェをこちらに突き出す。
「大門カイト、いざ勝負だ! 武田特製、スペシャル立体迷路が君に解けるか!?」
「お前には解けんのかよ」
「当然だとも! よし、まずは華麗なる手本を見せてやろうじゃないか」
「武田さん素敵っすー!」
先輩の眼鏡が悪戦苦闘しながらパズルに挑む姿を、中等部の女子は半ばあきれた表情で見遣りつつ、フリーとなった俺の方につつと寄って来る。
「ところで先輩。いつになったら我がパズル部に、期待のルーキーを投入してくれるんですか? 私、ずっと楽しみに待ってるんですけど」
「……何だそれ」
思い当たるふしがなかったので、素直にそう応じると、後輩は心外だとでも言わんばかりに、眼鏡の奥の目を瞠った。
「えー! すっごいパズル作る人、紹介してくれるって先輩、言ってたじゃないですか!」
何かというとこちらを慕ってくるパズル好きの後輩は、声と表情でもって盛大に不平を表明した。そういえば、確かに以前、自作のパズルを解けというのにとどまらず、アドバイスしろだの添削をしろだのと彼らの要求があまりにしつこいものだから、そういうことなら俺よりもっとすげぇ奴がいるぜと口にしたような気がする。
なにしろ、俺は解く専門なのだから、パズル制作のアドバイスというのならば、作る専門の奴に訊くのが一番だろう。そのときは、いつか我が親友もこいつらに紹介しないとな、などと軽い気持ちで考えていた気がする。
「……あー。いや、お前らには、やっぱまだ早いわ。今は会わせらんねえ」
申し訳ない気分で、頭をかきながら応じる。むくれながらも後輩は引き下がったが、代わりにしゃしゃり出てきたのは、どうやら立体迷路の解放を諦めたらしい眼鏡である。
「本当にそんな奴がいるのかねえ、大門カイトくん? そういえば風の噂によると、君を迎えに来たクロスフィールド学院の使者、彼も敏腕パズラーなんだって? ふむ、謎のルーキー君と、なにか関係があるのかな?」
「どうでもいいだろ。お前らはとりあえず、こんくらいキレーなパズル、作れるようになるんだな」
俺は懐から取り出した紙片を、眼鏡の目の前で振った。そこに書きつけられているのは、ルークの新作パズルだ。もちろん、俺は既に、楽しみながら解かせて貰っている。
メモを前に、眼鏡は訝しげに眉を寄せた。そして次の瞬間には、感心するほどの俊敏さで、俺の手からそいつを奪い取っている。
「こっ、これは…! 美しい配列、絶妙なバランス、そこに加えられたささやかな遊び心…まさしく、あの地堂刹大先生にも匹敵する神のパズル……!」
「まじっすか武田さん!」
「先輩、私も! 私も見たいです!」
紙片を手にして打ち震える眼鏡の反応に、自ずと周囲の取り巻きたちは、我も我もとそれを覗き込もうとする。彼らの視線から素早くメモを隠すと、眼鏡は重々しく宣言した。
「待ちたまえ、このレベルは君たちにはまだ早すぎる……まずは、この武田が全身全霊で解析を執り行い、しかるのちに……」
「ずるいです先輩!」
神の書ならぬルークの書を巡る、熾烈な争いの繰り広げられる音を背後に聞きながら、俺はのんびりと学食を後にしたのだった。



「おかえり、カイト」
玄関先で出迎えてくれたルークの笑顔は、いつも通りの柔和なものだったが、今日はどこか浮ついた雰囲気があった。おかえりルーク、とこちらが答えるのにももどかしげに、俺の手を引っ張ってくる。
「ね、見て。もうすぐ、出来るところだから」
「ちょ、待てって」
ぐいぐいと腕を引くルークは、こちらに靴を脱ぐ猶予も与える気がないらしい。俺はひとまず、すぐに見に行くからと言って友人の身体を押し戻した。
「すぐ、来てね。待ってるから」
何度も念押しするように振り返りながら、ルークはリビングへと入っていった。何をあんなにはしゃいでいるのだろうか。もうすぐ出来る、と言うからには、ルークは何らかの創作活動に取り掛かっているということであり、彼が作るものといったら、パズルだけだ。ノートに書き留めたものは逃げないのだから、後でゆっくり見せてくれれば良いものと思うが、何かすぐにでも解いて貰いたいような、画期的な新作でも出来上がったのだろうか。
それなら、俺だってすぐに見たい。解いてやりたい。きっと、パズル部の奴らに見せたら、また仰天することだろう。そうだ、今日の昼の彼らの反応も、面白おかしく話してやったら、ルークは喜ぶだろうか。学校に行ってみようかと、興味を示すだろうか。
そんなことを思いながら、靴を脱いで、テキスト類を勉強机の上に放ると、洗面所に寄ってから、俺は居間に向かった。

リビングのドアを開けた先には、ルークの後ろ姿があった。こちらに背を向けた状態で、フローリングの上に座り込んでいる。俯いて、何かを覗き込むように首を傾げては、小さく手を動かしているらしい。その周囲には、俺の貸し与えた筆記具が散乱している。あれで、ノートに新作パズルを書き留めている最中なのだろうか。
「で、なんだよ、ルーク──」
何かと思って、俺は肩越しにその手元を覗き込んだ。予測に反して、そこにノートのページは開かれていなかった。といって、表紙に何かを書き込んでいたというわけではない。筆記具を手にしていながら、ルークはそれを筆記の用途には使用していなかった。我が親友は、それらのペンを縦横に組み合わせ、ピラミッドのような角錐をかたち作っているのだった。
ああ、朝のリクエストはこういうことだったのかと、俺はようやく理解した。てっきり、ノートにパズルを書くためにペンを求めたものとばかり思っていたから、こんな用途に使用されるとは予想外である。48本のシュガースティックで即席のパズルを組み立ててみせたときのことを思い起こして、ふと懐かしい気持ちになる。あのときとは違って、一本一本形状も重さも異なるペンは、普通、材料とするには不向きである。それを難なくやってのけてしまうとは、さすがルークだ。
あのときの砂糖パズルは、どうなってしまったのだったか──確か、何かの拍子に机が揺れたために、あえなく崩れてしまった筈だ。絶妙なバランスで成り立つ繊細なパズルに、震動は大敵だ。それを分かって、先のルークはあんなに急いていたのだろう。
俺も昔、初めてトランプタワーに成功したときには、料理中の母親のもとまで走って行って、見てくれとせがんだ記憶がある。忙しいところだっただろうに、彼女は手を休めて、俺の作品を見に来てくれた。見事なタワーを前に、一緒になって喜んで、すごい、諦めずによく頑張ったといって褒めてくれた。そのときの記念写真は、今でも残っている筈だ。
そんなことを思い返しつつ、俺は無心になって集中しているらしいルークの手元を見守った。それにしても、このパズルはいったい、どういう構造になっているのだろう。複雑に入り組んで、一見して仕組みを理解出来そうなものではない。こんなものを創り上げてしまうのだから、まったく器用なものだなと、築かれた土台から頂点を視線で辿った、そのときだった。
「────!」
瞬間、俺が息を呑んだのは、そのピラミッドの頂点に、あるものが設置されているのを認めたからだった。まず、己の眼を疑い、それから、眩暈と圧倒的な後悔に襲われる。頂上に据えられていたもの、それは、カッター──折り刃式の、カッターナイフだった。
真新しいカッターは、先日購入したばかりで、筆記具類と一緒にペンスタンドに突っ込んでいたものだった。そいつが、鋭利な輝きもあらわに、刃を10センチメートルほども出して、ふらふらとオブジェの上にバランスを取っている。まるで気にした様子もなしに、ルークの白い指が土台の微調整をする度に、刃先は大きく振れ動く。
あれが今、もし落下したら──その薄く研ぎ澄まされた刃が、さっくりと突き立つ先は──
何やってるんだ、馬鹿、と叫んで、すぐに止めるべきだったのかも知れない。しかし、俺にはそれが出来なかった。
なにも、難しい理屈なんてない。これが、パズルだからという、ただそれだけの理由だった。幼児が危険な道具で遊んでいるとでもいうならば、それはすぐさま、取り上げてしかるべきだろう。しかし、ルークは、手遊びに筆記具を弄っているのではない。これは、俺の知る限り最も美しく、苛烈なパズルを創り出すことの出来る、彼の──作品なのだ。今まさに完成しようとしている、崇高なまでに緻密なパズルに、手を出して止めさせることが、俺はどうしても出来なかった。その完成した姿を、見たいと思ってしまった。息を潜めて、ルークの作業を、見守ることしか出来なかった。
出来た、と嬉しそうに言って、ルークは今にも落下しそうなカッターの刃の下で躊躇なく動かしていた白い指をそっと引き戻した。
恐ろしいまでに、見事なピラミッドだった。
うかつに触れてバランスを崩せば、落下した刃が確実に皮膚を切り裂く──そんな、解答者を傷つける意図だけを宿したパズルだった。
どこか誇らしげに己の作品を眺めるルークを、俺は後ろから、静かに抱き寄せた。
「ルーク、……もう、いいんだ。こんなパズルは、もう、作らなくていい」
片腕に友人の身体を収めながら、俺はもう片手を、出来上がったばかりのパズルに向けて伸ばした。出題者によって隠された、模範解答の手順を読み取って、ピラミッドを支える筆記具を一本一本、取り払う。いやになるくらいに、無駄のない美しい動きでもって、手は勝手に動き、パズルを解放していく。こんなときだというのに、一歩ずつ答えへと近づいていくその過程に、抑え難い高揚を覚えてしまう、自分が本当にいやだった。やめてくれと叫んで、腕を振るって力任せに突き崩すことの出来ない、自分が悔しかった。
目の前で繰り広げられるその様子を、ルークは夢見るような、陶然とした眼差しで追った。期待と、歓喜、高揚──それは、かつてあの丘の上で、白い少年の作ったパズルを解いてやっているときに、彼の見せた笑顔と、少しも違わなかった。
最後に、俺の指先がカッターの柄に触れると、ルークは小さく感嘆の吐息をこぼした。淡青色の瞳は、熱に浮かされたように、うっとりと蕩けている。きちきちと音を立てて、俺はカッターの刃を収納した。解けた、と心の中だけで呟いたのが聞こえたかのように、ルークは俺の腕にじゃれついてくる。
「ああ、カイト。パズルを解いているときの君は、本当に素敵だよ。また、作るね」
ぎゅ、と腕にしがみついて屈託なく笑う白い少年に、俺は、何も言葉を返してやることが出来なかった。泣きたいような心地で、無理やりに微笑んでやることしか、出来なかった。




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