優雅に叱責する聖職者




人形のようなルークを前に、青年は、最早取り戻せない、過ぎ去った時間の話を続ける。なんと無意味で愚かな行為であろうか。
ひとり遊びで、聖なる存在を汚す──ああ、自分のしていることは、ずっと昔から少しも変わっていないのだと、ビショップは緩く首を振った。

「どうぞ」

最適の抽出時間でもって淹れた紅茶を、ビショップは年若い主の前に置いた。ルークはそれに手をつけようとしない。彼がカップに唇を寄せるのは、いつも、琥珀色の液体がすっかり冷めきってからだ。これから語る話は、それまでの小さな時間潰しくらいにはなるだろう。翠瞳に物静かな光を宿して、ビショップは穏やかに問うた。

「続きを、話しても?」



少年の嗚咽が治まったところで、司教は彼を優しくいざない、寮の自室へと招き入れました。少年がこれ以上、罪を犯さずに済むように、司教は特別な器具を与えてくれました。それは、汚らわしいその箇所を覆って、手に触れさせないようにするための腰帯でした。司教は少年の制服を脱がせ、それを嵌めると、外せないように鍵を掛けました。

「どうしても我慢出来なくなったら、私のところへ来なさい。君の罪を、癒してあげよう」

彼は少年にそう囁き、少年は素直に頷きました。司教さまがこうして僕を守ってくださるから、大丈夫なのだと、心強く思いました。
腰帯を他人に見られるわけにはいきませんでしたから、共同生活の中で多少の不便は生じましたが、大した問題ではありません。信心深い者は、入浴時さえ衣服を身につけたまま、決して肌を晒さないものです。自分もその一員であるかのように振舞うのは、少年にとって難しいことではありませんでした。そうして、少年は己の罪深い身体に嵌められた枷を、周囲の眼から隠しました。

己の汚らわしい箇所を直視せずに済むというのは、少年の沈みきっていた心を少しばかり軽くしました。とはいえ、それはただ覆い隠しただけであって、もちろん、消えてしまったわけではありません。信仰と深く結びついた生活の中では、彼を煩悶させる聖画から逃れることは出来ませんでしたし、それを目にして、身体の底から浅ましい衝動が湧き起こることに変わりはありませんでした。
鍵を掛けて封印されている以上、それをどう処理することも出来ずに、少年はひたすらに耐えました。耐えて、耐えて、とうとう鍵穴に針金を差し込んで何とか解錠しようとしている自分を認めたとき、少年は司教の言葉を思い出しました。我慢が出来なくなったら来るようにと、彼が言っていたのは、今を指すのだと思いました。

人目を忍んで、寮内の司教の居室を訪れると、彼は少年を温かく迎え入れてくれました。そろそろじゃないかと思っていたところだ、と彼は柔和な微笑みを浮かべて言いました。ああ、やはりこの方はすべてをご存じなのだ、と少年は思いました。
居間を素通りし、連れて行かれた彼の寝室は、清貧と労働をモットーとする聖職者の在りように反して、それは豪奢なものでした。足を取られそうなほどに毛足の長い緋色の絨毯が敷かれた部屋の中央には、重厚なマホガニーのフレームも美しいベッドが据えられ、その大きさは生徒用の3倍はあろうかというものでした。古の聖典の一場面を描いた巨大な絵画が、黄金の額縁に収まって寝台の正面に設えられているほか、壁面には小ぶりなイコンがいくつも掛かり、さながら美術館の様相を呈していました。部屋の四隅に飾られた壷は、子どもが入れそうなほどの大きさで、緻密な模様が鮮やかに描き込まれています。学内の礼拝堂や博物館でしか見たことのないような調度品の数々に、少年は圧倒され、感嘆するのでした。

寮監は、自室を訪れた生徒から、学業や生活上の相談を受けることも業務の一環です。しかし、そうした応対の場である居間の質素な風景からは、奥にこのようなものが隠されているとは、とても想像がつきません。その意味でも、他の生徒は知らないその部屋に招き入れられた少年は、特別な存在でした。
彼は少年を寝台へ導き、その制服を解き、腰に嵌められた枷を外しました。そして、大きな手のひらでもって、幼い罪の証を包み込んで慰めるのでした。
誰にも話してはいけない、と司教は言い渡しましたが、少年にはもとよりそのつもりもありません。これは、自分の懺悔の記録なのですから、自分一人の胸に収めておけば良いことです。はい、と少年は従順に頷きました。良い子だ、と言って司教は満足げな表情を浮かべました。
彼は少年を背後から抱きかかえ、膝の上に座らせるかたちでもって、その儀式を執り行いました。己の身に与えられるものに翻弄されながら、少年は彼の腕に縋りつきました。目を閉じてしまいそうになる少年に、司教は、しっかり見ていなさいと囁き、少年は滲む視界でもって懸命に、己の浅ましい身体を見つめました。司教の崇高な手が、己の最も醜い部分に触れ、これを撫でさする様子は、下肢ががくがくと震えるほどに畏れ多く、こうして彼の手を煩わせる自分の身体を、少年は深く呪いました。

「君の中に眠る罪を、残らず引き出して、父の前に差し出すのだ。そうすれば、君は罪から切り離された清らかな心身を獲得し、犯した過ちをも赦されるだろう。私に任せなさい」

司教の手によって為される儀式は、少年が自分の手で行なっていたことが他愛のない遊びに思えるほどに、彼を強烈な情動の奔流に叩き落としました。思考はとうに麻痺し、呼吸も追いつかぬほど追い詰められた心身のすべては、力強い腕と手の支配下にありました。窒息しそうな底知れぬ熱に煽られて、息喘ぐ少年の瞳からは、とめどない涙がこぼれ落ちます。赦してください、赦してくださいと、彼は声に出して、それが出来なくなっても胸の内で、ひたすらに繰り返しました。
圧倒的な焦燥と快楽にどっぷりと浸かることを、少年は罪であるとは思いませんでした。これは、天の父から赦しを受けるための儀式なのです。肉欲に負けて密かに行なう自涜とは、まったく異なる、崇高な行為なのです。
その証拠に、少年が己の内なる熱を弾けさせると、司教はよく出来たと言って、優しく頭を撫でてくれました。彼の手のひらを通して、少年は、天の父に褒められているのだと感じました。何も間違ったことはしていないのだと思いました。

償いの儀式の様式は、一定のものではありませんでした。司教は自らの手で、あるいは口で、優しく包み込むようにして少年の罪を清めることもあれば、道具を用いて、未熟な身体の奥に眠る忌まわしい衝動を限界まで暴き立てることもありました。
はじめは寝台の上でのみ行なわれていたそれも、次第に場所を問わないものへと変わっていきました。巨大な鏡の前に据えられた椅子の上で、大きく脚を広げさせられたとき、少年はいくら司教に促されても、目を開けることが出来ませんでした。寝台の上で、自分の浅ましい身体を見下ろすことは出来るようになっても、鏡に映る自分の顔だけは、どうしても見ることが出来なかったのです。

「たとえ、君が目を閉じたところで。たとえ、君が見なかったところで。君は、見られているのだよ。大いなる、天の父に、すべてを」

司教は宥めるようにそう言いました。そうです。だから、少年は鏡を見ることが出来ませんでした。天の父の視点で、汚らわしい自分の頭から爪先までを認めてしまうのが、怖かったのです。
それを、司教は「迷い」だと言いました。それは、乗り越えなくてはならない試練だと説きました。中途半端な刺激をいたずらに与えては、苦悶の中に放置することを繰り返して、少年が目を開けなければ儀式が終わらないことを教えます。とうとう、少年は瞼を上げました。鏡に映るものをしっかりと見つめ、そして、朦朧とした頭で思いました。
──ああ、なんて醜い、と。

儀式は次第に、長引くようになっていきました。それは、それだけ時間をかけなくてはならないほどに、自分が穢れている証であると少年は思いました。ぎりぎりまで焦らされるのは辛いことでしたが、その分だけ、自分は清められるのです。意思と身体の葛藤に、幼い胸は一杯になるのでした。
身体のあちこちをまさぐられながらも、なかなか腰の帯を外して貰えないとき、少年は、早く、早くしてくださいと嗚咽交じりに懇願しました。その訴えが聞き入れて貰えることはあまりありませんでしたが、それでも、少年には、司教に縋って解放を願うしか、道は残されていませんでした。
限界まで焦らしたところで、ようやく司教は小さな鍵を持ち出し、戯れに少年の唇に押し当てました。

「こんなに我慢弱い身体になってしまって、いけないね。お仕置きが必要だ」

何を、と思う間もなく、彼は鍵の先端を、今度は忙しく上下する少年の胸元に向けました。浅ましく立ち上がった赤い尖端に、それをひたりと押し当てます。敏感な箇所に硬く冷ややかな感触を覚えて、少年は背筋を震わせました。その反応を愉しむように、司教は鍵の先でもって、少年の鮮やかな柔肉をくすぐりました。鍵穴を探るかのように、かりかりと引っ掻き、あるいは、捻じ込んで押し潰す。指先の愛撫とは異なる責めに、少年は堪らず声を上げました。片手を持ち上げて唇に押し当てても、声を完全に殺すことは出来ません。こんなものに感じてしまう自分がなんと滑稽なことかと、思うと脳が熱く灼けつきそうでした。そんなところではなくて、嵌め込んで欲しいのはもっと違う箇所なのにと、もどかしい思いで身悶えているときでした。

「どうして欲しい?」

気まぐれに両胸をくすぐりながら、司教の発した穏やかな問いに、少年は、挿れてくださいと必死に訴えました。早く、その鍵をこの腰帯の鍵穴に挿入し、解放して貰いたいという、それだけで頭が一杯でした。挿れて、挿れてと息喘ぎながら訴えると、彼は満足を得たようでした。挿入された鍵が回り、小さく解錠の音を立てると、それだけで、少年は半ば達してしまいそうになるのでした。

自分で自分をどうすることも出来ない少年には、ただ、司教によって為される儀式だけが救いでした。司教は、少年を「罪深い身体」と呼び、その手でこれを清めました。その儀式の間だけは、少年は罪の意識も寂しさも、何も感じずに済みました。思考を放棄して、心身の支配権を明け渡して、司教の力強い腕に、ずっと身を任せていられたら、どんなに良いだろうかと思いました。恍惚にどっぷりと浸りながら、これで自分も天の父のもとへ行けるのだと、信じていました。
それに、儀式だけではありません。司教は他にも、少年の苦しみを軽減しようと、面倒を見てくれました。たとえば、少年の肺が痛んで息苦しさを覚えるとき、司教は手製のハーブの軟膏を塗ってくれました。それは、満月の夜に摘んだハーブをゆっくりとラードに混ぜ合わせて作ったもので、温かな手で塗りつけられると、少年の胸の上でよく伸びました。そうされると、少年は少し呼吸が楽になる気がしました。様々な理由をつけては、少年は彼からの愛撫を受けるために、人目を忍んで扉を叩くのでした。

少年の心を最も打ち震えさせたのは、礼拝堂で行なう儀式でした。寮を出て、森を抜けた先に設えられていた、鐘楼を擁する荘厳な礼拝堂──そう、少年が罪を犯す現場を司教に見つかったのは、それに併設の用具室でした。巨大な白亜の丸天井も美しい礼拝堂は、500名余りの席が用意されており、祭典の折には近隣住民にも開放されていました。生徒たちは、朝夕にこの場で祈りを捧げることが、日常生活の一部となっていました。
天の父のもとへと通じる、この清浄な祈りの家で、己の汚らわしい心身のすべてをあらわにするのです。確かに畏れ多い行為ですが、少年には不思議と抵抗感はありませんでした。むしろ、他のどこでするよりも、安堵を覚えることが出来ました。この空間が父によって守られていることを、知っていたからです。

祭壇に高く掲げられていたのは、古より伝わる神聖なる比率を表した教団のシンボルでした。乳白の大理石で形作られたそれを、揺らめく蝋燭の火が荘厳に照らし出します。その聖なる場こそ、贖罪に相応しいといって、司教は祭壇の上に少年を横たえました。一糸纏わぬ姿で手足に縄を掛けられた姿は、神の御前に捧げられた生贄を彷彿とさせました。司教は、なめらかな黒い布を結んで、少年の眼を覆い隠しました。何を為されるのか分からない暗闇に包まれ、少年は少し不安に思いましたが、奇妙な高揚を覚えていました。視覚の利かない分、聴覚と触覚が研ぎ澄まされ、布擦れや小さな物音までも、鋭敏に捉えることが出来ました。

だから、脇腹に初めての刺激を捉えたとき、少年はそれが何であるのか、一瞬分かりませんでした。とてつもなく熱いか、冷たいものが押し当てられたのだと思いましたが、それがどちらであるのかを判断している暇はありませんでした。腹に、胸に、脚に、断続的に、同じ刺激が落とされていきました。そして、鼻腔をくすぐる独特の匂いから、少年はそれの正体を知りました。蝋燭です。
理解した瞬間、今までわけが分からずにいた肌の上の刺激が、とてつもない熱を帯びました。骨まで滲み入って灼けつくような感覚に、少年は苦鳴をもらしました。
融けた蝋がぽたぽたと素肌に落とされるたびに、少年は声にならない声を上げて身悶え、ぎしぎしと祭壇を軋ませるのでした。気まぐれに与えられるそれは、視覚の利かないこともあいまって、あまりに過酷な責めでした。泣き叫んで赦しを乞うたとしても、不思議なことではありません。

しかし、少年は中断を求めることはしませんでした。彼は知っていたのです。灼けるようなその痛みのひとつひとつは、天の父から与えられた赦しの証であることを。その度に、自分は清められていくのだと。こんな風にして貰える自分は、だから、父に愛されているのだと。いつしか、少年は歓喜の涙で目隠しを濡らすのでした。
もっと、ひどくしてくださいと、少年は儀式を執り行う司教に懇願しました。厳しく罰せられるほどに、彼は天の父の慈愛を感じることが出来ました。司教はそれに応えて、じっくりと少年に責め苦を与えました。
祭壇には、生贄の少年の両脇に、純白の花々が活けられていました。それは夜になると、昼間とは違った、むせかえるほどに濃厚な香りを発するのです。視界を覆われ、耳には聞くに堪えない浅ましい己の声が流れ込む中、甘くみずみずしい花の香りが、身体を、脳を、すべてを包み込むようでした。



クロスフィールド学院は全寮制を採用していましたが、定められた日時には、家族との面会が許されていました。
少年の母親は体が弱く、住まいも遠く離れていたため、面会に訪れてくれる頻度はそう高くはありませんでした。少年を訪れるとき、彼女はいつも、親戚の経営する農園で作られたコンフィチュールをお土産に携えていました。それは、幼い頃からパンやビスケットにつけたり、紅茶に入れたりと、少年にとって馴染み深いものでした。入学当初、母親と遠く離れて寂しく感じたときも、それを食べることで、少年は懐かしい我が家を思い出して安堵したものです。
今となっては、もうそんなホームシックに囚われることはありません。成長とともに味覚も変化し、昔ほどに甘ったるいものを好むこともありません。けれど、母親が持ってくるのは、いつも、彼が幼い頃に好んだラズベリーコンフィチュールをはじめとする、甘い甘いものばかりでした。

「ほら、好きでしょう。あなたは本当に、一番甘いラズベリーが大好きで、これじゃないとパンを食べなかったものね。今季は特に出来が良いって、叔母様も仰ってたのよ……」

要らないとは言えずに、少年は内心を隠して、ありがとう、大好き、と笑顔で受け取るのでした。貰ったそばから、コンフィチュールは甘いものが得意な学友や尼僧にほとんど譲り渡してしまっていることを、彼女にだけは気付かれてはなりませんでした。
ましてや、一度だけ司教にプレゼントしたとき、彼がそれを戯れに少年の身体に塗りたくっては、丁寧に舐め取ることで一瓶を消化したことなど、何があろうと知られるわけにはいきません。そのときの行為は少年の心身をたいへん疲弊させたので、以来、司教にコンフィチュールを渡すことはありませんでした。あの甘ったるい匂いをかぐだけで、そのときの行為を思い出してしまうということも、少年をコンフィチュールから距離を置かせる一因となりました。これらの経緯を、非の打ちどころのない少年の笑顔は、きれいに覆い隠すのでした。

そんな決まり切った、何も中身のない空っぽの遣り取りも、しかし、そう経たぬうちに必要がなくなりました。
いくら言葉の上で取り繕おうとも、少年が既に、彼女の知っている幼子ではないということは、月日を経るごとにあからさまになっていくのでした。面会に訪れる度に、成長して大人びていく子どもの姿を目にして、彼女が当惑を募らせつつあることは、少年にもよく分かりました。ただでさえ少なかった面会の頻度は、次第に減っていきました。それでも、毎回忘れずにコンフィチュールを持ってくるのは、彼女にとってそれが唯一の頼みの綱だったからかも知れません。それを口にさせることによってのみ、息子を愛しい幼子のままに留め置けるものと、信じていたのかも知れません。
いくつもの壜を渡すだけ渡して、逃げるように学院を後にする母親の後姿が見えなくなるまで、少年は二階の窓から見送りました。手荷物を抱えたまま、その足で中庭に向かいます。
適当な相手であれば誰でも良かったのですが、丁度木陰のベンチに座って書籍のページを繰る尼僧の姿を見つけて、少年はそちらに進路を取りました。以前にも、処理に困ってコンフィチュールを渡したところ、彼女は喜んでお菓子作りに使うと言っていました。きっと喜んでくれるでしょう。
礼儀正しく声を掛けて、手土産を差し出すと、まあ、いつもありがとうね、と尼僧は柔らかく微笑んでそれを受け取りました。それから、ふと気付いたように、首を傾げます。

「お母様、もう帰ってしまわれたの? 折角いらしたのだから、もっとゆっくりしていかれたら良いのに……」
「……長旅で疲れてしまったのだと思います。あの人は、身体が弱いので」

掠れがちな声で、少年は答えました。案じるような尼僧の視線から逃れるように、中庭を後にしました。彼もまた、信じたかったのかも知れません。こうして離れて暮らしているから、母親は戸惑っているだけなのだと。卒業して、自由に会えるようになれば、また昔のような幸せな関係に戻れるのだと。幼い希望を、捨てきれずにいたのです。決して、叶う筈もないというのに。

少年の手の大きさが、彼女のそれを追い越した頃から、とうとう母親は面会に来てくれることがなくなりました。いずれこういう日が来るだろうことを、少年は何とはなしに分かっていました。約束を守れなかったから、自分は捨てられたのだと、分かっていました。約束──「ずっとこのままでいること」。母親が愛していたのは、まだ穢れを知る前の、幼く白い子どもであって、今のこんな自分ではないのです。
小柄な彼女の腕の中に抱き締めることの出来た華奢な身体も、清らかに澄んだ愛らしい声も、この世の辛いことも悲しいことも何も知らない無垢な笑顔も。ずっとそのままで在り続けるようにと、母親と交わした約束を、少年は守ることが出来ませんでした。彼女が価値を見出して愛してくれた、それらはすべて失われて、もう取り戻すことは出来ないのでした。寂しいけれど、どうしようもないことでした。
自分から大切な母親を奪うこの身体が、少年は嫌で、嫌で、声を殺して何度も泣きました。こんなにも嫌いで、憎くてたまらないのに、骨が外れかけるまで強く握り締めた腕は、確かに自分の一部なのだと主張するように、ぎりぎりと痛みを伝達します。どくどくと脈打つ鼓動は止まず、時間が経てば、燃料が足りないといって空腹を訴えます。この身体という枷から、逃れることは出来ないのだと、少年はその度に思い知らされるのでした。

少年は母親を失い、母親は少年を失いました。彼女はそれから親戚筋を頼って、南仏の農園で静養に入りました。残してきた少年について、何も口にすることはないそうです。息子の存在など、とうに忘れてしまったのでしょう。
ユリのメダイをいつも身に着けていた彼女のもとには、今も毎年決まった日に、白百合の花束が贈られてくるということです。差出人は不明だそうですが。

母親を失った少年は、あんなに好きだった歌も、もう、歌うことはありませんでした。こんな自分の声は、とうてい、天の父への捧げものにはならないのだと思いました。少年の口数は減り、必要最低限の会話さえも、かき消えそうに控えめに発するものですから、学友たちの間でも孤立を深める一方でした。
ところで、自分の声を聞くことこそ堪え難く感じていた少年ですが、音楽それ自体は、変わらずに好んでいました。歌うのを止めてからも、代わりに楽器を奏でることで、少年は美しい旋律に触れることが出来ました。
音楽の指導を担当するひとりの尼僧が、彼にピアノの手ほどきをしてくれました。彼女は、塞ぎこみがちな少年をあれこれ気遣い、姉のように親しく接してくれました。いつかプレゼントしたコンフィチュールのお礼といって、特別に焼き菓子を作ってくれたとき、その素朴で温かな味わいに、少年は涙がこぼれそうでした。二人は度々、チェスに興じました。尼僧はあまり強くはありませんでしたが、少年はピアノを教えてもらう代わりに、彼女にチェスを教えてあげることをひとつの楽しみにしていました。



パズルに関する教育は、クロスフィールド学院ならではのカリキュラムとして、かの学院を大きく特徴づけるものであったといえるでしょう。とはいえ、ソルヴァー、あるいはギヴァーといった、パズルそれ自体のスペシャリストの育成が最終目標というわけではありませんでした。大半の生徒にとって、どちらかといえば、パズルは脳を活性化させるための手段の一つであって、子どもたちはそれによって各方面での能力を伸長することが期待されていました。
そんな中、将来はPOGの優秀なギヴァーとして生きたいなどと夢を語れば、きっと周囲の生徒たちからは嘲笑されたことでしょう。彼らは、そのように自らの手を煩わせる仕事を、一段低いものとして見ていました。名門校出身の肩書によって、将来にわたる優位な地位の保証、そしてクラブを通じての有力な人脈の確保にのみ関心を払う彼らは、それぞれに野心を抱いていました。確かに、学院の卒業生には英国をはじめ、各国の政治経済を牽引する重鎮が数多く名を連ねていましたし、過去に輩出した高名な学者、文学者、軍人、音楽家となれば、数え上げていてはきりがないほどです。そうした先達に続かんと、壮大な夢を抱く者たちにとって、パズルは最終目標などではなく、経歴に箔をつけるためのただの手段でしかありませんでした。

パズルに魅せられ、他の学業を投げ打ってでも、ひたすらこれに熱中する者たちは、「根暗」「負け犬」「偏執狂」などといって蔑まれました。蔑む側と蔑まれる側、少年はどちらの集団にも属してはいませんでしたが、どちらかといえば後者の方に近い存在でした。教室の隅に寄り集まって身を縮めているような、冴えない彼らは、一方的に少年を自分たちの仲間のようにみなしていました。
なにも、「はみだし者」としての同族意識だけが理由ではありません。少年は学友たちの間にあって、パズルにひときわ優れた能力を発揮したのです。彼にチェスやトランプゲームで勝てる者はありませんでした。羨望と冗談半分に、「パズルの守護聖人」などというあだ名までつけられたほどです。

少年は入学するまで、誰からパズルを教わったということもありませんでした。ただ、少年の家には、何年も前に主人を失った書斎があり、そこにあらゆる種類のパズルの資料が収められていました。かつてのこの部屋の主が、妻子と共に置き去りにしていったものです。
少年は時間を忘れてその部屋に入り浸っては、刺激的なパズルを眺めて日々を過ごしていました。彼の母親は、少年が書斎に入るのを、あまり歓迎していませんでした。けれど、だからといって雑誌を持ち出し、彼女の目の前でパズルに取り組んでいると、母親はとても悲しい顔をするのです。少年は母親を悲しませたくありませんでした。だから、彼女の這入ってこない書斎で、少年はひとり、パズルに打ち込みました。
そうした経験があったためでしょう。少年は、パズルの扱いに長けていました。手遊びに創ったパズルを学友たちに渡したところ、授業そっちのけで皆が夢中になってしまったこともありました。とはいえ、少年にとっても、パズルは娯楽、あるいは、純然たる手段であるに過ぎませんでした。
天の父からの、隠されたメッセージを受け取るための媒介。少年にとって、それがパズルでした。

一日の勉学と身体トレーニングを終えた自由な時間には、少年は聖典を繰って過ごしました。その書物には、天の大いなる存在から直截にもたらされた言葉の数々が記録されていましたから、少年にとっては、偉大な父と自分との何より大切な絆でした。
彼が聖典を広げるとき、傍らにはいつも、ペンシルとノートを用意していました。ペンシルは、伝統的な職人技による手作業の製品づくりに定評のあるヤード・オ・レッドのディプロマットシリーズがお気に入りの一本でした。授業では専ら万年筆を使用しながらも、少年にとっては、重厚なスターリングシルバーのペンシルの書き心地が、最も手に馴染むのでした。
それでいったい、何をノートに書き出していたのか──メッセージです。少年はただ聖典を読み、これを解釈するのみならず、そこに密かに隠された意味を読み取ろうと試みていました。これは、父から自分に宛てられた大切な文書です。きっと、他の人には分からないように、自分のためだけに隠されたメッセージが込められているに違いありません。それを知りたくて、少年はあらゆる方法で聖典を読みました。

単語の頭文字だけを抜き出してみたり、特定の文字を消去して読んでみたり、規則性を持った数列にあてはめて文字を拾ったり。チェスボードの8×8のマスにあてはめて、駒の動きの通りに拾い読みをする、などという方法まで、真剣に取り組んでいました。
入れ替え、置き換え、回し、ずらし、透かし、切り、貼り──隠された意味を見つけるために、少年は飽きず、新たな方法を試し続けました。古典語を学び、教養を深めるにつれて、複雑な手順を要する「解読」を試みることも出来るようになっていました。ただただ、父の言葉を聞きたい一心でした。きっと、どうすれば父のもとへと行けるのか、そこには書き記されているに違いないのです。そして、父が確かに自分を愛してくださっているという証が、少年にだけ分かる方法で、この聖典に閉じ込められているのです。なぜなら、少年は──彼の子どもなのだから。少なくとも、少年はそう信じていました。

少年は、いくつもの隠されたメッセージを見つけ出しました。既に、偉大な先人たちが気付いていたものもあれば、自分で新たに見出したものもありました。けれど、それはどれも、本当に少年を満足させてくれるものではありませんでした。まだまだ自分の努力が足りないのだと、少年は反省し、よりいっそうに勉学に勤しむのでした。自分の努力は、きっと天の父もご覧になっていて、いつか報われる日が来る筈だと思いました。はたから見ればそれは、授業で学んだ内容を熱心に復習し己のものとする、優等生の振る舞いそのものでした。
本当は、そのようなものではないというのに。学業での優秀な成績を讃えられ、栄誉ある給費生(スカラー)に選ばれたとき、少年はそれを皮肉なものにしか感じられませんでした。自分の内と外との著しいギャップというものを、この頃になると彼は既に十分に承知して、半ば諦念に似た感情すら抱いていました。

英国でも有数の格式を誇るクロスフィールド学院のクラシカルな制服に身を包み、粛々と授業を受けながらも、少年はともすれば、己の内側へと意識が向いてしまうのでした。皆と同じ衣装を纏い、何食わぬ顔をして席に着いていながら、その下に隠されているものを思うと、なんとも情けなく、罪深い心地になりました。
特に、司教によって念入りに身体を検められた翌朝は、肌から微熱が抜けずに、ふとしたきっかけで、昨夜の行為で得た感覚が蘇ります。司教の施す指遣いを、少年の身体は克明に記憶していました。聖画の登場人物の乳白色の肌、天を指す指、恍惚の表情は、いともたやすく少年の心をかき乱しました。微かな布擦れさえも、そうなると身体の芯の小さな残り火を煽り立てるばかりで、あまりのもどかしさにどうにかなってしまいそうなのを、少年は必死に押し隠すのでした。
日課としていた、学院の敷地内のランニングとマシントレーニングに専念することで、いくらか気を紛らわすことは出来ましたが、根本的な解決にはなりませんでした。勝手に疼く身体に、ほどなくして堪え難くなり、少年は司教のもとを訪れることを繰り返しました。
彼の手によって管理されることで、汚らわしい欲望は鎮まる筈だったのに、一向にその気配はありませんでした。きっと、自分の努力が足りないせいなのだと、少年は至らぬ己を恥じ、募る自己嫌悪に責め苛まれるのでした。



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