優雅に叱責する聖職者
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十代も後半になると、これまでは処罰を恐れ、厳格な規則に大人しく従っていた生徒たちも、密かにそれを破って行動するようになりました。いやしくも「天才」育成機関であるクロスフィールド学院に籍を置く彼らですから、策を巡らせて監視の目をかいくぐるのに、そう苦労は要しませんでした。
彼らが街に繰り出しては、不品行な行為に手を出していることは、もちろん教師陣も把握していましたが、どうすることも出来ませんでした。教師や聖職者の威厳に生徒が自発的に従うことを期待するのは、この現代にあって、あまりに時代錯誤的であると言わざるを得ません。
そんな生徒たちの中にあって、少しも外出しようとせずに、いかがわしい遊びに付き合わない少年は、あれこれと詮索をされてからかわれたものでした。彼らは、他所で覚えてきた下卑た言葉で少年を嘲弄しました。
ある放課後のことです。そんな澄ました顔で、どんな風に自涜をしているのか、見せてみろといって、彼らは少年を取り囲みました。清掃の時間が終わるまで、教師は戻りません。特別に体格に恵まれたわけでもない少年に、逃げ道はありませんでした。
教卓に押し倒され、制服に乱暴に手を掛けられながら、少年は懸命に抵抗しました。自分に嵌められた枷を他人に見られることは、何としても避けなくてはなりませんでした。その抵抗は、逆に加害者たちの好奇心を煽るばかりでした。何か見せられないものでもあるのかと、彼らは少年の四肢を押さえ込み、無理やり衣服を剥ぎ取ろうとしました。腕を捩り上げられて苦鳴をこぼす少年に、あからさまな情欲の眼を向けてくる者もありました。
シャツをはだけて、あらわになった胸元を、彼らは淫猥にまさぐりました。堪らず、少年は顔を背けます。司教との度重なる「儀式」によって、日夜愛撫を受けた身体は、与えられる刺激に抗うことが出来ませんでした。敏感な箇所を弄ばれて、びくりと身体を跳ねる少年を、彼らは見下ろして哂いました。
「見ろよ、胸揉まれて興奮してるぜ。女みてえ」
「誰に仕込まれたんだろうなあ。司教様か?」
穢れた男色家には掃除が必要だな、と言って、彼らは手にしたモップのぐっしょりと汚水に濡れたヘッドを少年になすりつけました。濡れそぼったものが腹から胸を這うおぞましい感触と、耐え難い臭気が、哀れな少年を襲います。声にならない声を上げて、彼は身を捩りましたが、押さえ込まれた四肢はびくとも動きませんでした。
そうこうしているうちに、こっちも見てみようぜ、とベルトに狼藉者の手が伸びます。
「どうする、濡れちゃってたら」
「やめろよ、気色悪い」
軽口を叩くクラスメイトらの手によって、今まさに、少年の秘密が暴かれようとしたときでした。
「──おいお前たち、何騒いでる! 掃除は終わったのか!」
野太い大音声に、生徒たちはびくりと身を竦めました。振り向いた教室の出入り口には、がっしりとした鋏を手にした大男が立ち、こちらを睥睨していました。彼は、学院に住み込みの庭師でした。その隣には、音楽教師の尼僧がこちらを案じるように顔を覗かせています。彼女は教室内での事態を知り、これを止めるべく、すぐ近くで仕事中だった庭師を急いで呼びに行ったのでしょう。
「ほら、散った散った」
大鋏片手の屈強な男にそう言われては、生徒たちも従わざるを得ません。追い立てられるまま、彼らは逃げるようにして教室を後にしました。残されたのは、教壇の上の哀れな少年だけです。尼僧は彼のもとに駆け寄り、なんてこと、ひどいわ、と声を詰まらせながら、ひとまず少年の汚れたシャツを脱がせました。それから、備品のスポーツタオルで丁寧に彼の上半身を拭き清めたのでした。
もし彼女の手でなければ、それは少年にとって、押し倒され服を暴かれるのと同じくらいの恥辱だったことでしょう。しかし、尼僧を姉のように慕っていた少年は、そうして世話をして貰うことに恥じらいを覚えることはありませんでした。
身を起こそうともせずに、何ら反応を返さない少年を、余程怖い思いをしたのだろうと解釈して、彼女は哀れみましたが、それは少しばかり違いました。少年はショックで茫然としていたというよりは、安堵のあまり、何も言葉を発することが出来なかったのです。
自分の秘密が暴かれずに済んで良かったと、彼は心から感謝の祈りを捧げました。これも、自分が天の父に守られているからなのだと確信しました。父は少年に厳しい試練を課しますが、危ういところで、必ず助けてくださるのだと思いました。全能の父から注がれる愛とは、そういうものです。
それが堪らなく嬉しくて、少年は涙を落としました。傍から見れば、それは屈辱に打ち震える涙と何も変わりませんでしたから、尼僧は彼を慰めるように、そっと頬を拭い、頭を撫でてくれました。
「大丈夫、大丈夫よ。あなたを、守ってあげますからね
少年の肩を抱きながら、どこか硬い声で、彼女は呟きました。
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少年をからかった学友たちが、不品行や成績不順を理由に退学処分となったのは、それからほどなくしてのことでした。とはいえ、学院は他の名門パブリックスクールと深い繋がりを有していましたから、彼らはそちらへ移籍するという穏便なかたちでの対処となりました。この学院の名にこだわらず、ただ己の経歴を飾る星が欲しいだけの彼らと彼らの保護者らにとっては、そう悪い取引ではなかった筈です。
彼らは去り際、「綺麗な顔で甘えりゃ我儘が通るようじゃ、この学院も末期だな」と少年を嘲りました。少年は押し黙って答えませんでした。尼僧の手によるであろうこの対処に、少なからず納得のいかないものを感じていたからです。なにも少年は、彼らの捨て台詞のように、権力者に泣きついて訴え出たわけではありません。このような展開を望んでいたわけではないのです。
彼らの暴虐を受けたときにも、あわやというところで、天の父は彼を救ってくださいました。少年は、父の加護を信じていましたから、彼らごときに自分がどうされるという恐れも抱いてはいませんでした。傲慢であり、自惚れであると言われようとも、少年は奥底で、父から特別に愛された自分を信じていました。それはちょうど、これから訪れる試練に耐えて、信仰を証明していこうと決心した矢先に、それがふいにされてしまったような、なんとも物足りない心地を生みました。
教師らの取り計らいによって、少年の平穏な日々は約束されました。とはいえ、それは表面上だけのことでした。「あいつに手を出すと、面倒なことになる」──そんな共通認識が、生徒の間に広がったというだけのことでした。
以前にもまして、彼に関わろうとする生徒はいなくなりました。彼をパズルの守護聖人といって崇めていた学友たちも、ぱたりと声を掛けてこなくなりました。そんな彼らの中に親しく交じりたいという思いは、もとより少年の内にありませんでしたから、特に孤独や寂しさを感じることはありませんでしたが、チェスの相手がいなくなってしまったのは残念でした。仕方がなく、彼は自分の頭の中で、あるいは、居場所のない教室を出て向かう音楽室で、盤上のゲームに興じるのでした。
音楽室の尼僧は、変わらぬ笑顔で彼を迎え入れてくれました。何事もなかったかのようなその態度に自分も合わせて、少年はあの一件について、何も問うことはありませんでした。
秘密の共有という甘酸っぱいものでは、それはなくて、ただ単に、明らかな形で知るのが嫌だったのです。天の父ではなく、ヒトの思惑によって自分が救われたと考えることは、少年には受け容れ難いことでした。それに、特定の生徒の利益を守り、他を害するような不公平を、聖職者であり教師である彼女が為しているという事実を認めたくはありませんでした。
すべて分かっていながら、何も知らないような振りをして、少年は日々をやり過ごしていくのでした。
いつものように音楽室を訪れ、ピアノの個人指導を受けていたときでした。教師である尼僧の様子が、今日はどこか、いつもと違うことを、少年は敏感に感じ取っていました。思いつめた様子で、彼女は鍵盤を叩く少年の手つきではなく横顔に、妙に熱のこもった視線を注ぐのです。どうしたことだろうかと、気になる気持ちは演奏にも表れて、少年は鍵盤の上で指をもつれさせました。こんなところで失敗する筈はなかったのにと、彼は少し恥ずかしい気持ちになりました。その後に起こったことで、そんな健気な心情など、すべて吹き飛んでしまったのですが。
演奏を再開しようとした矢先、鍵盤の上に置いた手に、隣からそっと手が重ねられて、少年は身を硬くしました。それを、緊張のゆえと思ったのでしょう、尼僧は愛おしむように、少年の骨ばった手の甲から指先を撫でさすります。軟体動物を思わせる動きで、白い指が絡みついてくるのを、少年は信じられない思いで見つめました。抵抗がないのを良いことに、女の指は緩急をつけて少年のなめらかな肌を探ります。硬直した身体に、ぞくり、と怖気が走りました。
柔らかな腕が、とうとう少年をかき抱こうとしたとき、彼はようやく動いた両腕でもって、躊躇いなく尼僧を突き飛ばしました。小さな悲鳴が上がり、鍵盤に手をついた拍子に、けたたましい不協和音が鳴り響きます。少年は構わず、椅子を蹴って駆け出し、決して後ろを振り返ることはありませんでした。
自室に戻り、倒れ込むようにして寝台に身を伏せ、少年は嘆きました。
温かく大切だったものを、失ってしまったのだと分かって、泣きました。
少年は、彼女のことが好きでした。姉のように、そして母のように、慕っていました。
彼女とピアノやチェスに興じている最中の自分は、あたかも美しく透き通ったものだけで構成されているようでした。束の間だけ、自分の汚らわしい肉体を忘れることが出来ました。
それを台無しにしてしまったのは、自分のせいだと思いました。
自分が、こんな呪わしい肉体を与えられてしまったから。
彼女を、罪の道に引き摺りこんでしまった。
自分のせいで。
この、身体のせいで。
ひとしきり涙を落とした後、嗚咽を堪えて、少年はゆっくりと身を起こしました。独りきりでは、とても堪えられませんでした。誰かに縋りついて、赦しを乞いたい思いでした。
欲望に突き動かされた彼女に触れられたことで、自分が汚されてしまったような気がしました。少年は執拗に手を洗いましたが、いくら皮膚を擦ったところで、洗い流せるものとは思えませんでした。絡みつくような感触が、女の香りが、蘇っては、吐き気を催しました。
誰かに、清めて貰わなくてはならない。ぼんやりとした思考で、少年はそれだけをはっきりと思いました。
ふらつく足取りで、向かった先は、しかし、礼拝堂ではありませんでした。
泣き腫らした目で自室を訪れた少年に、司教は驚いたような表情を見せつつも、温かく迎え入れてくれました。
「どうしたのだね、そんな顔をして。……言ってみなさい、誰が君を傷つけたのか」
優しく頭を撫でつつ、優しく促してみせる司教に対して、己の胸の内を吐露せずにいることは、少年には不可能でした。
周囲の生徒たちに、心ない言葉でからかわれ、暴行を受けた、その結末。今日、起こった忌まわしい出来事。それに対する、自らの苦悩。それらを、少年はありのまま、司教に打ち明けました。話していくごとに、ずっと胸の内に抱え込んでいたものが、少しずつ軽くなっていくのを感じました。少年の拙い説明に、司教は深く頷きながら、根気強く耳を傾けてくれました。
溜め込んでいたものを全て吐き出すと、少年は縋るように司教を見上げました。すべては、罪深いこの自分が招いた事態です。いったい、どんな裁きが下されるのでしょう。恐れながら、しかし、どこかそれを欲するような、相反する気持ちを抱えて、少年は己に下されるものを待ちました。暫し、彼は思案するように目を閉じていましたが、ゆっくりと瞼を上げると、微笑んで言いました。
「彼らは、君を試したのだ。安心なさい、君は試練に打ち克ったのだよ。……そのような者どもに、心を乱されることはない。大丈夫、心配は要らんよ」
そして、少年を安心させるように、頭を、背中を、撫でさすってくれました。その夜は、ご褒美といって特別に優しくして貰えたので、少年は蕩けるような夢心地の中に身を任せました。自分は罰されなければならない筈なのに、ご褒美を貰えるのは不思議なことでした。ただ、疑問を差し挟む間もなく、少年は与えられる甘美な刺激に酔いしれました。辛かったことも、哀しかったことも、何もかも、身体から追い出されていくような気がしました。
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尼僧は「諸般の事情」により、学院を辞めました。その裏に、司教の意図を感じずにいられるほど、少年は愚かでも純真でもありませんでした。それは、彼に手出しをした生徒たちが学び舎を追われたのと、まったく同じパターンだったからです。
少年の心は晴れたでしょうか。いいえ、彼はむしろ、不安になりました。司教の行ないが、まるで少年を独占的に支配しようとし、誰にも奪われまいとする、貪欲さの表れであるように感じられたからです。言うまでもなく、そのように欲深く己の財に執着することは、罪業のひとつに数えられています。どういうことなのだろうかと、このとき少年の内に、初めてはっきりとした疑念が芽生えました。
司教の部屋を訪れたのは、これまでのように、彼に一心に縋りつくためではありませんでした。今日こそ、問おうと思ったのです。これまで、気付かぬ振りを装って、目を背けてきたものに、少年はとうとう、向き合わざるを得ませんでした。
とはいえ少年は、今まで信じてきたものを捨て去ろうなどという悲壮な決意を固めていたわけではありません。それほどの勇気が少年にあったならば、ここまで事態が悪化することもなかったでしょう。往生際の悪い話ですが、これは単なる一時の気の迷いなのであると、少年は自分自身を解釈していました。出来ることならば、誰かの力強い言葉でもって、自分の中に生まれたこの迷いを断ち切って貰いたい。疑いを打ち消して貰いたい。そして、これまで通りに救済を信じていたいと、小さく願っていました。
寝台にいざなわれ、促されるままに身を横たえながら、少年は躊躇いがちに唇を開きました。
「本当に、僕は……天の国へ、行けるのでしょうか」
少年のいつになく気弱な言葉に、司教は心外であるというように手を広げてみせました。
「邪魔な者どもは遠ざけてやったではないか。何を気に病むというのだ」
やはり、彼が手を回していたのか──司教の言葉は、少年を安心させるどころか、よりいっそうに沈み込ませました。誰に触れられることも、汚されることも、傷つけられることもないよう、囲って守る。まるで自分が、この豪奢な寝室に飾られた美しい絵画や壺と同じものになったような気分でした。
ただ、それだけであれば、少年はなんとか自分の中で理由付けをして、解釈をねじ曲げて、やり過ごすことが出来たでしょう。天の父に仕える司教が、間違いを犯す筈はないのです。浅薄な自分には理解出来ないだけで、きっとこれは、父の意思に適ったことなのです。なぜなら、自分は父に愛されているのだから。ひどいことを、する筈がない──そうして、現実に目を背け、空想の世界に生きるのは、彼の特技でもありました。そうすれば、あのようなことにはならなかった筈です──あのようなことには。
しかし、司教の次の言葉は、決定的でした。彼は、愉快げに唇をゆがめると、こう言ったのです。
「まあ、しかし、君があの女を相手に励む姿を鑑賞するというのも、なかなかに捨て難いプランではあったがね」
彼にとっては、ほんの軽口だったのでしょう。これまで、少年との間に交わしてきた不道徳な行為を思えば、そんな台詞はむしろ上品な方とさえいえます。事実、彼は何事もなかったかのように、いつもの行為の続きをしようと、少年の上に覆いかぶさりました。
それでも──彼は、そんな台詞を口にすべきではありませんでした。救済を信じて、彼の手に身を委ねた少年にとって、その言葉がどれだけ致命的なものとなるか、そのことを、僅かでも考慮すべきでした。
少年は、司教の言葉を最初、理解出来ませんでした。目の前の男から、その言葉が発せられたという事実を、受け容れることが出来ませんでした。何かの間違いだ、彼の真意は他にあるのだと、なんとかして否定しようとしました。しかし、いくら探しても、彼の言葉から、何らかの深遠な意味を見出すことは出来ませんでした。思考はぐしゃぐしゃにかき乱され、脈打つ烈しい動悸に呑まれます。
どうして、と少年は思いました。
この人は──自分の悩みを、苦しみを、分かってくれていたのではなかったか。
なにより自分の肉体が忌まわしく、同時にそれを意識せざるを得なくさせる異性の肉体もおぞましく感じていることに、理解を示してくれていたのではなかったか。
その苦悩から救い出すために、夜ごと儀式を執り行っていたのではなかったか。
より、清らかな身体と、魂を手に入れるために。
呪わしい肉から、遠ざかるために。
導いてくれていたのでは──なかったのか。
目の前にいる男が、途端にとても卑しく、薄汚いものに変わりました。全身に怖気が走り、強烈な眩暈に襲われます。こんなものに、触れられていたのかと。こんなものによって、清められると信じていたのかと。
こんな──醜い、ものに。
そこで、少年の信じていた──必死に信じて、守ろうとしていた世界は、がらがらと崩れ去ったのでした。