優雅に叱責する聖職者






それから、少年がいかなる思考の過程を辿り、結論を見出したのか、それは分かりません。当人にも、それはとても説明出来るようなものではなかったでしょう。
分かっているのは、ある晩、学院の礼拝堂から火が出て、職員たちが気付いたときには、大火に包まれた建屋には手の施しようがなかったということ。せめて学び舎や寮への延焼を防ぎ、人員を避難させるだけが精一杯であったということ。その騒ぎのさなか、一人の少年が行方をくらませたということです。
生徒らの信仰を朝夕に集めた荘厳な礼拝堂は焼け落ち、最早、見る影もありませんでした。残骸の中からは、真っ二つに割れた信仰のシンボルが見つかったそうです。出火場所は、隣接の用具室だったとか。照明に用いる蝋燭の火の不始末が原因だったとみるのが妥当でしょうね。
この事件以降、クロスフィールド学院は変革を余儀なくされました。学院の管理運営にあたっていた団体では、前々から、その教育機関としての役割を疑問視されており、閉校さえも視野に入れて議論されていたようです。
火災からそう経たぬうちに、生徒たちの監視役であった司教の不祥事が発覚し、それが最後のきっかけとなったのでしょう。クロスフィールド学院は、教育と信仰を明確に線引きし、体制を刷新したといいます。火事の跡地には、かたちばかりの新たな礼拝堂が建てられましたが、生徒らが祈りを捧げるのは週に一度のみ、それも自由参加です。他のパブリックスクールと同様に、女子にも門戸を開くようになりました。
今では、世界中から頭脳明晰な子どもたちを集め、英才教育を施す名門校として、すっかりクリーンなイメージを取り戻していますね。果たして、それが実態であるかどうかは、定かではありませんが。

さて、その火事の夜から、少年はどこへ行ってしまったのでしょうか。天の父の国へと行くことが出来たのでしょうか。もちろん、彼が向かったのはそんな場所ではありませんでした。
騒ぎに乗じて学院を逃げ出したものの、少年には、帰る家もなければ、頼れる相手もありません。南仏には農園を経営する親戚筋があり、逃げ込むことも不可能ではありませんでしたが、そこには母親が身を寄せている筈です。彼女の前に姿を現すわけにはいきませんでした。なにしろ、少年の成長した姿を受け容れられないがために、彼女は何もかもを捨てたのですから。少年は、母親を悲しませることだけは、したくありませんでした。
残された選択肢は、何があるでしょう。実は、少年ははじめから、ひとつだけ当てにしていた相手がありました。
彼が駆け込んだのは、学院を運営する上位組織──頭脳集団POG、その本部でした。彼は己の経歴を語り、身柄の保護を求めました。考えてみれば、なんとも危うい賭けです。聞く耳を持たず追い返されるか、学院に強制送還されるというなら、まだ良い方です。おそらくは、普通の生徒が逃げ出してきたというならば、本部はそのような処置を取ったことでしょう。
しかし、少年は重要な情報を握っていました──すなわち、司教の不道徳な行為について、身をもって知っていました。圧倒的な伝統と格式を誇る崇高なる組織の下位教育機関に、かような醜聞があるなどと、本部としては決して世間に知られてはならないことでしょう。その証人である少年は、口封じに存在を抹殺されてもおかしくなかった筈です。

しかし幸いなことには、本部としても、かの司教の行動には、目に余るところがあるとして注意を払っていたのです。それは、彼が職務上管理していた、礼拝堂をはじめとする学内設備群の維持修繕費に関して、私腹を肥やしていただのなんだのといった、ありふれたストーリーでした。どうやら火災後の残骸調査の結果、内部構造に不審な点が見つかったようですね。荘厳に見えた礼拝堂でしたが、外から見えない部分では相当な手抜き工事が行なわれていたのではないでしょうか。
いずれにしても、その不正行為は、少年にとってはどうでも良いことでした。大切なのは、本部が司教を切り捨てるために、その不道徳な行為の証人としての少年を、手厚く保護してくれたということでした。本部は彼を、哀れな被害者、勇気ある少年として丁重に扱ってくれました。少年はただ、自分の上に為されたことを客観的に記述するだけで、身の安全を保障されました。

司教の「儀式」は、無理強いではなくて、自分が望んだことでもあったのだと、あえて少年は語りました。それによってのみ、自分は清められ、赦されると信じていたのだと、正直に言いました。
そんな彼の言葉に、周囲はますます、少年に対して同情的になりました。無垢な少年に誤った価値観を植え付け、いいように弄んだとして、司教に対する非難は高まる一方でした。はたして、そこまでの効果を少年が計算していたのかどうか、それは分かりません。そんなことは、どちらでも良いと思いませんか。

ところで、少年の肉体に嵌められていた忌まわしい枷は、当然、鍵を壊して取り外されました。それもまた、司教の非道を糾弾する材料の一つとなったのですが、それよりも少年にとっては、この忌まわしい肉体をこれからどうするのかといったことの方が、よほど重大な問題でした。
司教の手によって為されたことは、己の罪を清めるどころか、さらに罪を重ねることでしかなかったのだと理解した今、少年が自傷行為に走らなかったのは奇跡といっても過言ではありませんでした。己の眼を潰そうとしたときと同じ衝動でもって、その愚かしく醜い器官を切り落とそうとする可能性は十分にありました。そうしなかったのは、単純に、手厚い保護と監視の下にあったがために、それを許される環境になかったからであるにほかなりません。
彼は代わりの手段でもって、己の内の欲望から眼を背けることにしました。組織内のカウンセリング担当者に、その自罰意識のほどを、涙ながらに訴えたのです。こんな情欲に囚われた自分の身体を認めることは出来ない、いっそ捨て去ってしまいたい、あの忌まわしい日々を思い起こしてしまうから──と、それらしいストーリーを作って泣きついたところ、これはカウンセラーの同情を誘い、強い使命感を喚起したようでした。

何度も意思を確認した上で、彼は少年に、「薬」を打ってくれました。少年の言う、汚らわしい欲望が起こらないよう、その器官の働きを抑制する「薬」です。それのおかげで、少年はこれ以上、罪を犯す心配がなくなりました。
もちろん、本来の在りように背いて打つ「薬」ですから、目的とする以外にも、その効果は広く心身に影響を及ぼしました。それでも、少年は構いませんでした。もう、あんな浅ましい行為に従事しなくて済むのだと思うと、ずっと胸に重く圧し掛かっていたものから解き放たれたような心地がしました。まるで自分が、穢れを知らない清廉な存在に生まれ変わったかのような錯覚を味わうことが出来ました。
もっと早くこうしていれば良かった、そうすれば、あれほど悩み苦しむこともなかったし、母親に見放されることもなかったかも知れない。しかし、いくら悔やんだところで、それは今更、どうしようもないことです。何もかもが遅すぎたのだと、少年は認め、失ったものは戻らないのだと、深く胸に刻みました。



学院の一件に決着がつき、司教の処遇が決まったことで、少年の役目は終わりました。今後の進路について問われた彼は、そのままPOGに身を置くことを望み、これを受理されました。選ばれし者のみが籍を置くことを許される頭脳集団に、いくら学業優秀のお墨付きこそあれ、突出した能力を有するわけでもない凡庸な少年が、なぜこうもあっさりと入り込むことが出来たのか。それは皮肉にも、彼が学院で一心に取り組んでいた、ある習慣が功を奏したのでした。
覚えているでしょうか、少年は空き時間には、いつも聖典を読んで過ごしていました。普通ではない様々な読み方を試して、そこに隠されたメッセージを探したのです。当時の彼にとって、それは、謎を解き明かし、隠された答えを突きとめる作業にほかなりませんでした。
しかし、後になって思い返せば、謎も答えも、そんなものは、他愛のない少年の妄想に過ぎませんでした。はじめからありもしない答えを探して、少年はあれこれと文字列を操作しては、強引なこじつけでもって、そこに意味を見出していたのです。見つけたと思っていたメッセージは、父からの言葉などではなく、すべて、少年が聖典を元手にして勝手に作り上げたものにすぎませんでした。

何かに似ていると思いませんか。そう──少年のしていたこと、それは、パズル制作にほかなりません。解答を設定し、そこへ至る道筋を逆算して編み出し、巧妙に隠し、さあ解いてみろといって提示する。毎日毎日、彼は、自分のためだけのパズルを作っていたのです。
その能力を活かし、ギヴァーとしての道を打診されたとき、彼に断る理由はありませんでした。彼はパズルを制作する度に、かつての自分を思い起こして、確認するのです。
あの頃の自分がしていたのは、パズルだったのだと。
父からのメッセージなどというものを探していたのではない、そんなものは存在しない、あれは、ただのパズルであり、遊びに過ぎなかったのだと。
昔の自分が一番大切にしていたものを、何度も何度も否定して、胸の内で破り捨てるのでした。かつての自分自身を、そうして貶めることによってのみ、彼は現状を肯定することが出来ました。

彼は祈りも、歌も捨てました。
あれだけ、祈っていながらも。あれだけ、歌っていながらも。
本当は神に祈りを捧げたことなど、一度もなかったのだと気付いたからです。
それらは、どこまでも自分のためでした。
神に向けられたものでは、ありませんでした。
神を讃えたことは、一度もありませんでした。
その事実を、少年は淡々と受け容れました。



下位構成員として組織に身を置いて暫く経った頃、少年は、自分の父親が現在、POG本部に直属の研究所に勤めていることを知らされました。少年はそれまで、父親の行方や素性に興味などはありませんでしたが、考えてみればなるほど、書斎にあれだけのパズル関連資料が詰まっていたのですから、彼が「メンバー」である可能性は十分にあったのです。
名家の御曹司でもない少年が、由緒正しきクロスフィールド学院に入学出来たのも、母の家系のためだけではなくて、父がPOG所属であるということが有利に働いたのかも知れません。入学の手続きはすべて、彼の母が行なったことですから、そこにいかなる取引があったのか、少年は知りませんでしたし、今更、知りたいとも思いませんでした。
自分とよく似た髪色の男との対面は、さして感動的なものではありませんでした。少年にとっては、その男に関する記憶も、特別な思い入れも、何ひとつなかったからです。幼い頃から、自分の父は、天の父以外にないと信じていた少年です。今になって、そんな男が現れたところで、何ら感慨を覚えることはありませんでした。

「学院では、給費生(スカラー)の栄誉に与ったと聞いている。優秀な人材が組織に加わり、私も嬉しく思う」

白衣の男は、そんな風に歓迎の意を述べました。礼法に則って交わした握手は申し分なくスマートでありながら、僅かにも気持ちのこもったものではありませんでした。彼の物言いから、息子に対する特別な感傷を読み取ることは出来ませんでしたが、クロスフィールド学院に対する敬愛の念は感じられました。
話の中で、彼はさりげなく、自分が学院の出身であり、選ばれしスカラーであったことを明かしました。そこで少年はようやく、納得がいきました。何故、自分のような者が、伝統と格式を誇るクロスフィールド学院に入学出来たのか。そもそも学院は、広く生徒を募集することはなく、入学希望者に一律の試験を課して合否を判定することもありません。誰の紹介状があるのか、特殊な才能はあるのか、親類にOBがあるのか、家柄は、血統は──それらの要素を総合して、入学の可否が判断されるという、極めて不透明な世界なのです。
全生徒の3分の1ほどが、OBの父親を持っていたのは、そういうわけでした。そんな由緒正しい家名を背負った彼らと自分とを別世界のものとみなしていた少年ですが、実際は彼もまた、「そちら側」の人間だったのです。父親が学院の卒業生であり、現POGのメンバーであること──知らぬ間に、少年は強力なカードを手にしていました。そして、父親の経歴をそのままなぞっていました。まるで、はじめから用意された一本道を、自分で切り拓いたものと思って進んできたようだと、思うと少年はむなしい心地になりました。

「そのペンシル」

彼の父は、少年が手にしたスターリングシルバーのペンシルを指して言いました。

「私が昔、使っていたものだ。とっくに売り飛ばされていると思ったがね」

英国上流階級ならではの曖昧なポーカーフェイスには、昔を懐かしむような色は毛ほどにも滲んでいませんでした。
この人は、解きかけのパズル雑誌から、ペンの一本に至るまで、最後まで書斎が手つかずのまま保存されていたことを知らないのだ、と少年は思いました。だからといって、何を感じることもありませんでした。ただ、今は僕のものです、とだけ呟いて、彼の視線から隠すように、ペンシルを握り直しました。
結局、父親がかつての妻について述べたのは、「お前の物憂い目つきは、母親そっくりだ」という一言だけでした。

父親の仕事の詳細は、下位構成員に過ぎない身分の少年には伏せられていたので、具体的なところは分かりませんでした。断片的に窺い知れるところによると、彼はどうやら「子どもの扱い」について、職務上の関心を抱いていたようで、少年に対して時折、質問を投げ掛けました。
どういうことを、嬉しく思うか。悲しく思うか。どういうときに、怒りを覚えるか。自分を罰したくなるか。それは何故か。どうすれば、そうならずに済んだと思うか。
少年はそれに律儀に答えを返しました。二人の間にあった遣り取りは、それだけでした。
少年は、なにも父親の仕事の手助けをしたいと思ったわけではありませんでした。誰に請われようと、彼は同じことをしたでしょう。仮にも組織の一員として、命じられた役割に応えるのは当然のことです。それ以外に、彼にはすることがありませんでした。

組織内での少年の評判は上々でした。生来の気質に加え、学院での厳格な躾の成果もあって、少年は極めて優雅で品格高い振る舞いを身につけていました。精確な発音で上品に紡がれる英語は、気だるげなまでに落ち着き払っており、声を荒げることも、慌てて失態を見せることもありません。他の構成員たちの間にあっても物怖じせず、控えめながら的を射た発言をする彼は、周囲からそれなりの評価を受ける存在になっていました。
数年を経た後、少年は「参入儀礼」を受け、組織の位階を上ることを許されました。

POGを統べるあの御方に、畏れ多くも謁見する機会に恵まれたとき、少年は──いえ、もう「少年」と呼ぶほどの年頃ではありませんでしたね。そのとき、「彼」は、幼い頃に天上の大いなる父へ抱いていた憧憬も、あの忌まわしい日々に聖職者へと向けていた浅はかな期待も、残らず捨て去りました。
今や、自分を庇護してくれる存在は、この御方のほかにないのだと。自分は、ここで、あの御方の統べるこの世界で、一つの駒として働くのだと。真の光へと至る、長い階段を、一歩ずつ上っていくことを、決意しました。

……さあ、少年の話はこれでおしまいです。紅茶はいかがですか。すっかり冷めて、飲みごろですよ。



長い話を終えたところで、目の前の白い少年から何らかの反応が返されることを、ビショップは期待してはいなかった。これは、ただの時間潰しの戯言に過ぎないのだ。紅茶を勧めたときには、既に何事もなかったかのように、主人と忠実なるその側近としての在りようを取り戻している。
しかし、普段ならば言われるままにカップを手に取るルークが、今はなぜか、俯いたまま動こうとしなかった。代わりに、その小さな唇が開いて音を紡ぐ。

「伯爵は」

ぽつりと呟いた少年の声は、少し掠れていた。一旦、言葉を切ったのは、彼の中で適切な表現を探していたのだろうか。その淡青色の瞳を上げて、ルークは問う。

「……彼を、救ってくれた?」

まっすぐに見上げてくる瞳はガラス玉めいて、すっかり透き通ってしまうようだ。その静かな艶めきを追いながら、ビショップは緩く首を振ってみせた。

「いいえ──いいえ。救いなど、彼はもう、要らないのです」

意を問うように目を眇めたルークに、小さく微笑みかけると、青年は穏やかに言葉を続けた。

「自分が救われたいがために歌うのも、祈るのも、とうにやめてしまいました。何かを与えられたくて堪らなかったのは昔の話で、今は、求めるのではなく、ただ与えたいと──すべてを捧げ、与えることの歓びを、知ってしまいましたから」

言って、忠実なる側近は玉座の傍らに跪いた。己の年若い主人の片手をそっと取り、白くほっそりとした指先に唇を寄せる。なめらかな感触を愛でるように、手の甲、手首へと、ビショップは静かに口づけた。抵抗することなく、ルークは無言で、側近の行為に身を任せた。

「……私を、使ってください」

少年のか細い手に頬を擦り寄せて、青年は吐息混じりに紡いだ。

「あなたのために、私を使ってください。
私を役立ててください。
私を利用してください。
私を頼りにしてください。
私を使い捨ててください。
私を踏み台にしてください。
私を犠牲にしてください。
私を剣にしてください。
私を盾にしてください。
私を翼にしてください。
私を駒にしてください。
……私は、あなたのものです」

告げた言葉を、そっと沈み込ませるように、ビショップは瞼を閉じた。息を潜めた静寂が、無機質な室内に折り重なる。捧げ持った細い手が、引き戻される気配はなかった。
余韻も微かに消えかけた頃、青年は静かに面を上げた。先程と寸分変わらぬ瞳で、ルークは忠実なる側近を見つめていた。それを認めて、ビショップは小さく微笑む。
跪いた体勢から身を起こして、彼は机上に積まれた書籍の山を見遣った。

「どうして、本を?」

忠実なる側近は、今一度問うた。ルークは白金の睫を伏せ、吐息混じりに答える。

「……言葉が、欲しかった」

それだけ言って、白い少年は微かに首を振った。淡青色の瞳を上げて、少し眩しげにビショップを見つめる。

「でも、もう要らない」

それきり興味を失ったように、ルークは開いていた本を押しやった。何も言わずに、ビショップは恭しく一礼を施すと、書籍を資料庫へ戻すべく、再び重ね始めた。画集も、楽譜も、それらはもう、少年には不要のものだった。ビショップの注ぎ込んでやった言葉が、ルークの中で、それらの代わりを果たしていた。
側近に机上を片付けさせながら、ルークは気だるげに椅子から背を起こした。音もなく、細い手が伸び、紅茶のカップを取り上げる。すっかり冷めたそれに、ルークは唇を寄せ、二口ほど呑んでソーサーに戻した。どこを見つめているとも判然としない、茫とした様子で再び椅子に背をもたれるルークの白い横顔に、ビショップは密かに語りかける。

──物語が必要であれば、私が語ろう。
本のない部屋で過ごすあなたに、何の不足もないように。
あなたのためだけの物語を。
あなたが眠りに落ちるまで。
語り続けよう。




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