優雅に叱責する聖職者







あらゆる「組織」には、参入のための「儀礼」がつきものである。
共同体の「子ども」に過酷な試練を課し、それを乗り越えることで「成人」の仲間入りを許されるという伝統的な通過儀礼ばかりを指すのではない。かような異文化を己とは無関係のように感じている「都会人」たちにしても、入学式、成人式、結婚式と、社会的所属を変える度に、特別な儀式の場を設けることに変わりはない。
逆に言えば、そうした異質な体験を経ないことには、人間は簡単に己の立ち位置を変えることがかなわないのだ。
特に、組織が閉鎖的な秘密結社の色合いを強めるごとに、それは重要なイベントとして執り行われることになる。閉ざされた世界への参入は、すなわち、これまでの現世に別れを告げ、新たな生をスタートすることにほかならない。そこでは、象徴的な儀式によって「死と再生」がなぞられる。

死と再生──古より、世界中の神話、伝承にみられる類型である。
冥界に下った者が、試練に打ち克ち、再び現世へと戻って来る。怪物の腹に呑み込まれた者が、知恵を働かせて見事に脱出する。暗闇の洞窟に這入り込んだ勇者が、敵を打ち倒して凱旋する。いずれも、一度かりそめの「死」を迎えることによって、新たな「生」を獲得するという思想である。
こうした死と再生のパターンが、文化圏を問わず各地で見出すことが出来るのは、これが雄大な自然の観察を通して育まれた知見であるからかも知れない。
自然は、死と再生を繰り返す。植物が枯れ、地が凍りつき、生命がひっそりと眠る、暗く厳しい冬の後には、草花が芽吹き、雪が解け、大地に生命の溢れる春が訪れるように。太陽の支配する光の時間と、月の支配する闇の時間が、繰り返し交互に現れるように。
そして、自然の一部であるヒトもまた、これを繰り返すのである。

つまり、自分はここで一度、死ぬということか──薄暗い小部屋で机に向かった若者は、冷静に現状を分析していた。彼は、これより組織の参入儀礼を受ける者であった。その準備段階として、こうして小部屋に隔離されている。
蝋燭の炎が揺らめき、椅子に腰掛けた彼の姿を照らし出す。時代錯誤的な長いローブに全身を包み、簡素な机に向かう鳶色の髪の若者の在りようは、深い知性を醸し出すその物静かな瞳とあいまって、中世の修道僧を彷彿とさせた。少年の域をようやく脱したばかりといった、年若い身にありながら、彼の態度は落ち着き払っていた。

秘密結社の儀礼に関する詳細は、一般には非公開のものとされる。外から推測出来るのは、何らかの方法によって「死と再生」の疑似体験を創り出すということ、組織の由来や思想を演劇的手法で再現するということくらいである。
それ以上は、実際に儀礼を体験した「メンバー」でなければ、知り得ない。選ばれし者たちは、同じ体験を共有し、秘密主義を強め、組織の結束を固くするのである。
ゆえに、秘密結社に参入儀礼は欠かせぬ要素となる。参入を希望する者はもちろんのこと、無関係の一般人の好奇心をもそそり、神秘的な色彩を強めていくのである。

かような参入儀礼を間近に控えながら、どうして平常心を保っていられようか。成人であろうとも、これから起こる未知の体験を前に、期待と不安で心を乱して当然である。しかし、白のローブに身を包んだ若者は冷静であった。
彼は、この先に自分を待ち受けるものについて、あれこれと無益な想像を巡らせることはしなかった。むしろ、己の置かれた状況と、それが儀式の中でいかなる意味を持ち得るものであるのか、観察し分析する方に、彼は思考の大半を割いていた。
思想的背景を同じくする学院に籍を置いていた若者は、荘厳な儀式を用いた人心掌握の手法については、多少の心得があった。
圧倒的な高さ、大きさ、美しさ、恐ろしさ──ヒトが思わず心奪われてしまう、そうしたものによって正常な判断能力を奪ってしまえば、心の隙間につけ入るのは容易い。
否、そもそも移ろいやすい曖昧な存在である人間に、「正常な判断能力」などという高級なものが備わっているという考え自体、傲慢にもほどがあるのかも知れなかった。

──さて。
口の中だけで呟くと、若者は机上に手を伸ばした。
揺らめく蝋燭の灯りに照らされたそこには、無地の紙片と筆記具がひっそりと置かれていた。彼は、これを書かねばならない。それこそが、彼がこの小部屋に隔離されている理由であった。
──現世への、離別の詞。
すなわち、「遺書」の筆記。これより死と再生を体験する己の意志のほどを、文章にしてしたためることによって、より確固たるものとする。それが、参入儀礼の第一段階であった。
少し考えてから、若者は羽ペンを手に取った。上品な所作でもってインクを含ませると、厚手の便箋に、さらさらと優雅な筆跡を綴っていく。
よどみのない筆記は、彼の中で、書くべきことが結末まで完璧に構成されていることをうかがわせるものである。静寂の室内に、細く整えられたペン先が紙面を引っ掻く微かな音は、最後まで途切れることなく続いた。

「遺書」を書き上げ、立会人に渡すと、彼は首に縄をかけられた。先端を輪にして括られた、太く丈夫なそれは、紛れもなく絞首の刑具である。
小部屋の扉が開き、彼はひとりで進むことを指示された。両肩に荒縄の重みを感じながら、若者は細く暗い道を進んだ。

現存する最大規模のピラミッド建築──砂漠にその威容を誇る墳墓が、POGのルーツともいえる頭脳集団の手になる巨大なパズルであることは、周知の事実である。
黄金比を為すその美しい古代遺跡の内部構造には、死と再生と思しき思想が見て取れる。冥界往還、と表現するのがより適切であろうか。
巨大なピラミッド内部に足を踏み入れた者は、まず、中央へと通じる細い通路を緩やかに下っていくことになる。地下は死者の国である。外界から隔絶され、光を遮られ、彼は静まり返った小部屋に行き着く。
そこで何らかの儀式を執り行った後、今度は上りの通路を進む。途中には罠が仕掛けられ、誤った道を進んだ者は、儀礼の最終段階に至ることはかなわない。
見事に正解のルートを進んだ者は、やがてピラミッドの中央部に設けられた空間へと辿りつく。そこは、これまで進んで来た狭い通路とは異なり、広々と開け、高い天井を有する部屋である。
なにより特筆すべきことに、そこには光が射しているのだ。高い位置に据えられた小窓が外界へと通じ、光と新鮮な空気を取り入れている。闇に射す一条の光は、漆黒の空間に慣れた瞳を鮮烈に射抜き、そのあまりの神々しさに、人は皆ひれ伏すであろう。

地上から、天へ。闇から、光へ。
それは、あまりに劇的な転換だ。
死と再生──ここに、儀礼は完成する。

驚くべきことに、この現代にあって、頭脳集団POGはピラミッド内部で行なわれていたと思しき儀礼を、忠実に再現して守り続けているのだった。
その用途のためだけの建造物を地下空間に設える程度のこと、数知れぬ大規模なパズル制作をこなしてきた組織にとっては容易いことである。あたかも実際に古代遺跡の中を歩んでいるかのような、ひんやりとした石造りの通路を進みながら、よくここまでやるものだ、と若者は小さな感心を覚えていた。
人ひとりがやっと通れるかといった狭苦しい通路を延々と進まされて、ようやく辿りついた先には、重厚な扉が待ち構えていた。そして、同じようなローブを纏った「メンバー」が、門番として控えている。

「ひとつ、心臓を食してはならない。ひとつ、パンを裂いてはならない。ひとつ、未熟な葡萄酒を神に捧げてはならない。ひとつ、白の雄鶏を犠牲にしてはならない──」

「新入り」の心臓の上に短剣を擬して、先達は重々しく、二千年来の格式を誇る組織の掟を伝え述べた。
そのうちのいくつかは、賢人ピタゴラスの興した教団に伝わる教義と酷似しており、現代の常識から考えると、いまひとつ理解に苦しむものであった。
字義通りに受け取っては、いったい何を言いたいのかと首を捻ってしまうだろう。様々な解釈がつけられてはいるが、それがはたして本当に賢人の教えたかったことであるのか、それを確かめる術はない。
つまりは、ただ形式を継承しているだけで、中身などないと分かっていたから、若者は神妙な面持ちを作りつつも、仰々しい儀式をどこか冷めた心地で見つめていた。

扉が、開く。
重苦しい音を立てて、大きく開けた視界の先には、予想通り、一条の光が射していた。否応なしに、その指し示すものに注意を惹きつけられる。
高い天井から注ぐ、白く清廉な光が円く照らし出すのは、部屋の中央。その場に据えられた、ひとつの水槽である。
素材は乳白色の石材とみえる。サイズは、成人が脚を伸ばして十分に余裕のある浴槽、あるいは棺を思わせた。中はたっぷりの水で満たされ、降り注ぐ外光をその水面に映している。
いかにも意味深げなその装置を確認した後、若者は翠瞳を軽く細めて、室内の様子を観察した。
スペースこそ十分に確保されているものの、装飾もなくむき出しの石材に囲まれた空間は、いっそ簡素とさえ言って良かった。
美しいステンドグラスもなければ、黄金の杯が捧げられているわけでも、技巧の粋を凝らした彫刻が立ち並ぶわけでもない。それは若者にとって、逆に新鮮なことであり、素朴な畏敬めいた感情を抱いた。
壁際には、両サイドに十名ほどの人影が見て取れる。同じ制服を身に纏った先達と思われるが、各人の表情まで見分けるのは難しかった。
また、部屋の奥、幾段か高くなった場所に据えられているのは、儀式を見届けるための玉座であろうか。天上から幕が下り、こちらからはその奥の様子を窺うことは出来ない。
だが、若者は肌で感じていた。その先にいる者は、こちらの微かな指先の震えさえも、逃すことなく見つめている。
すべてを見通す、全能の眼。意識した瞬間、幕の向こうの存在が、笑みを浮かべたような気がした。知らず、鼓動が鳴った。

指示された通りに、若者は着衣のまま、水槽に足を踏み入れた。周囲に居並ぶ「メンバー」が、身じろぎひとつせずにその様子を見守る中、水音が、静謐の室内に反響した。
目を閉じたところで、若者は己の両肩に手が掛かるのを感じた。促されるままに、身体を後ろに倒して、ふっと支えを失ったと思った次の瞬間には、大きな水音を立てて、背中から水中に没している。
ごぼ、とくぐもった音が聴こえた。それが、自分の吐き出した呼気だと認識したときには、口から、鼻から、容赦なく水が流れ込んで、若者は激しくむせ返った。
そう深くない浴槽である、底に手をついて、早く水面へ顔を出そうとするが、長い衣装がまとわりついて、うまく姿勢を動かせない。水槽の底や周囲の壁面は、どこもなめらかで、手足をつこうとするそばから、つるりと滑ってしまう。
焦るほどに、手は無意味に水中をかいて、息苦しさに視界が歪んでいく。周囲の水は冷ややかなのに、頸は燃えそうに熱い。

それは、強烈な恐怖だった。
あの光る水面はすぐそこなのに、そこまで上がっていくことが出来ない。暗い水底へと、引き摺りこまれていく。
嫌だ、と声にならない声で叫んだ。
微かな光へと、必死に手を伸ばした。
意識が闇に閉ざされる直前、沈みゆく己の腕が、しっかと掴まれて、力強く引き上げられるのを感じた。
ああ、天の父が、沈む肉体から魂を救い上げてくださったのだろうかと、ぼんやりと認識したところで、安堵とともに意識はぶつりと途切れた。



仄かな甘い芳香が、鼻腔をくすぐった。天然の爽やかな香りは、朝露に濡れた草花から醸し出される清廉な空気を彷彿とさせる。ゆっくりと息を吸って、若者は小さく呻いた。
薄く瞼を持ち上げて、最初に目に入ったのは、視界を覆い尽くす真っ白な布だった。
それが、幾重もの薄布の掛かった豪奢な天蓋であることを、何度か瞬きをしてようやく認識する。上品な光沢を纏う純白の布は、柔らかな陰影を抱いて、精緻なアラベスク模様の装飾が施された黄金の支柱に絡んでいた。
自分が身を沈ませているのが、これまで一度も味わったことのないほど柔らかく、なめらかな寝台の中であると認めて、彼は軽い混乱状態に陥った。
ここは、いったい──自分はどうして、こんなところに──そう、確か「洗礼」を受けたところまでは覚えている。その後、何が起こったのだったか──
急に不安に襲われた彼の耳に届いたのは、どこからともなく聴こえる電子音であった。
長音と短音を組み合わせたそれは、はじめのうちこそ機械設備の立てる音に過ぎないかのように思われたが、暫く聴いていると特定のパターンの繰り返しであることが分かった。それを理解した瞬間、脳は勝手に暗号を解読している。

「扉を……出て、右へ…進め……?」

緩慢に身を起こして、彼は沈み込むほど柔らかな寝台から床へと降り立った。脇に置かれていた、灰色のローブを身に纏う。静かに扉を開けて、彼は寝室と思しき場所を後にした。
古びた石造りの儀式の場や、優美に装飾された寝室とは異なり、扉を出た通路は、いたって近代的なつくりであった。人工灯に照らされた無機質な通路はひっそりと静まり返り、人影もない。
どこからともなく、また新たな電子音が聴こえる。耳を澄ませてそれを解読すると、若者は慎重に歩を進めた。
指示に従って辿りついた先は、広大な謁見の間であった。果てしなく続くかと思われる大階段、その頂点に座するは、崇高なる白装束の老賢者である。

「──よくぞ参った」

深遠なる知性を感じさせる重々しい声は、大きく張り上げて発せられたわけでもないのに、階段最下部まで明瞭に響き渡った。独特のパターンで湾曲した壁面の音響効果のゆえであろうか。威厳に満ちたその声を受けて、青年は思わずひくりと身を竦めた。
老人が何者であるか、言われるまでもなく直感的に理解していた。よく似た姿を、聖画の中で繰り返し、見たことがある。
それは、天上に座する偉大なる父であり、奇跡を起こして人民を導いた聖人であり、宇宙と魂の調和を説いた賢者であった。そこへ列せられるに相応しい、いまひとりの人物の名を、彼は知っていた。
頭脳集団POG総帥──ピタゴラス伯爵。
はるか高みから注がれる視線は、あのとき、「洗礼」の場で幕の向こうから感じたものと同一だった。跪くことも忘れて、若者は半ば茫然と、はるか高みの玉座を仰いだ。
非礼を叱責することもなく、伯爵は底知れぬ瞳でもって、新たに組織の位階を上った若者を睥睨する。

「ふむ──洗礼は効いたとみえる。なによりである」

呟いて、老人は満足げに頷く。どういう意味だろうかと戸惑う若者の心を読んだかのように、崇高なる総帥はゆっくりと首を振った。

「通常は、あのような手荒い歓迎は行なわぬ──が、いたしかたあるまい」

言って、重々しく片手を掲げる。そこに握られているのは、若者にも見覚えのある封筒であった。参入儀礼の第一段階として、現在の己に別れを告げるべく、羽ペンでしたためた「遺書」である。

「よく出来た遺書であったが、虚構に満ちた嘘偽りばかりで表を飾り、中身といえば一欠片の本心もない。そのようなことでは、参入は認められぬゆえ」

それゆえに、洗礼の儀によってドラスティックな「死と再生」を体験するはめになったということを、若者は理解した。本来ならば段階的に穏やかに行なわれるべきそれが、このような危ういものになってしまったのは、つまり自分の態度が不誠実であったからだ。認めて、若者は反省した。
正直なところ、表面上の儀式だけ適当に済ませれば良いという意識がなかったといえば嘘になる。少なからず、儀式と人間心理に関する知識があるがための驕りだった。
かような考えは、老賢者の眼には、すべて見通されていたのだ。自分はなんと矮小なことだろうかと、思うと若者は恥じ入って顔を伏せた。それでも、高みから投げ掛けられる視線を断ち切ることはかなわない。
若者は、その場に音もなく跪いた。

「……畏れながら。一つだけ、伺ってもよろしいでしょうか」

紡ぎ出した声は、緊張のゆえか、微かに震えた。申せ、と伯爵は重々しく命じた。
持てる限りの勇気を振り絞って、若者は静かに面を上げた。畏れ多くも、偉大なる指導者に向けて問う。

「……あなた様が、私を救い上げてくださったのですか」
「然り」

老人は肯定した。おそらく、それは嘘であると若者は知っていた。
危うく溺死しかけた自分を、慌てて水中から引き上げたのは、傍に控えていた者たちの誰かであろう。こちらの記憶が曖昧なのを良いことに、救い主を装っていることは明らかだった。
しかし、事実がどうであれ、ここではさして問題にはならない。問い掛けに老人が重々しく頷いて、こちらの求めているものに応えてくれたということ、それだけで彼には十分だった。
闇から再び、光へ。
死から再び、生へ。
彼を引き上げたのは、紛れもなく、目の前の老賢者だった。深い皺を刻んだその腕が、自分を力強く救い上げたときの感覚さえ、若者は鮮明に蘇らせることが出来た。
若者の物憂げな瞳に、小さな光が灯る。その様子を、無言で観察していた伯爵は、機を逃さずに口を開いた。

「お前は、一度死して、再び蘇ったのだ。新たな生に相応しい、新たな名を授けよう」

希望があれば述べよ、と威厳に満ちた声が階下に降る。促され、青年は翠瞳を伏せた。逡巡の後、その唇が薄く開く。

「……それでは。ビショップ、と」

老人は怪訝そうに目を眇めた。POG構成員のギヴァー・ネームは、基本的に神話や伝承、歴史上の偉人から借り受ける者が多い。伝説の登場人物にあやかることで、彼らは神懸かり的な力を発揮することを期待し、己を鼓舞する。単なる偽名というよりも、そこには呪術的な意図が少なからず絡んでいるのだ。
名前は存在を規定する。その名を呼ばれることで、ヒトは「それらしく」なるよう、外側から形作られていく。生まれた子どもに、希望と願いを込めて名前をつける行為と、何も変わらない。ただ、名付け親も、新たに生まれた子どもも自分自身であるという、それだけのことだ。
今度こそは、自分で望んで新生し、自分で望んで命名する。己のすべてに、他の誰でもない、自分自身が責任を負うことを誓うのだ。自然、気張った名前を選ぶことになるのが、人の性というものだろう。
それを、一介の聖職者の階級名で通すなど、異例のことである。場に流れる沈黙は、青年がその希望の根拠を述べ、納得のゆく説明を為すことを期待するものであっただろうか。
しかし、彼は口を閉ざし、それ以上何も紡ごうとはしなかった。その決意のほどを悟ったのか、老人は深く追求はせずに、「まあよい」と頷いた。
ビショップ、と伯爵は与えたばかりの新たな名でもって、若者に呼び掛けた。何もかもを見通す深遠なる眼差しを向け、重々しく問う。

「すべてを、捧げることが出来るか」
「はい」
「魂も、肉体も、投げ打てるか」
「はい。……私はずっと、それを捧げる対象を探し続けてきました。捨てることも出来ずに、かといって受け取ってくれる相手もない、無用な重荷です。手放すのに、何も惜しいことはありません」

翡瞳を伏せて、紡ぎ出したのは、偽りないビショップの本心であった。上辺だけ取り繕い、胸の内を明かすことなく済ませようなどという考えは、遺書の件を最後に、もう起こらなかった。
若者の従順な態度に、伯爵は満足げに目を細める。

「ならば──これへ」

招き寄せられるままに、ビショップは高みの玉座へと通じる階段を、一段一段踏み締めて上った。後ろを振り返ることはなく、ただ、己を待つ白装束の老賢者だけを見つめた。
拝謁の光栄に浴するのみならず、神聖なる領域へ足を踏み入れることを許されるなど、下位構成員にはあまりに畏れ多いことである。しかし、不思議と、ビショップの脚が竦むことはなかった。
歩調を乱すことなく、階段を上り続けながら、彼はもう後戻りの出来ないことを知った。否、もとよりそのつもりもない。
たった今、述べたばかりではないか。たとえこの先に何が待っていようとも、ビショップには何ら、惜しむべきものはなかった。怖気づき、逃げ出す理由となり得る持ち物は、彼の中にはひとつもなかった。

階段を上りきり、最上部へと到達したビショップを迎えたのは、常人であれば畏怖のあまり視線を合わせることすらかなわぬであろう、老賢者の鋭い眼差しであった。圧倒的な威厳に裏打ちされたそれは、有無を言わせずに相手を屈服させ、従属させる。
いったい、どれほどの歳月をかけて、どのようなものを目の当たりにすれば、人間がこのような眼をするようになるのだろうか。あたかも、古代よりその英知を引き継ぎ、生き続けてきた存在であるかのような──人智を超えた凄みを、見る者の肌に感じさせるのだった。
張り詰めた空気の中、ビショップは控えめな、しかし揺るぎのない眼差しで伯爵に相対した。物静かな翠瞳に、怯えの色はない。何を突きつけられようとも、それは、抵抗することなく受け容れることを誓った者の瞳であった。
服を脱ぐようにと、短く命じられて、躊躇いなく衣を落とす。重々しく差し伸べられた老賢者の手にいざなわれるままに、ビショップはその腕の中に身を任せた。

魂の移植。
伯爵は、己の目指すところを、簡潔にそう言って表現した。

「──黄金比の脳を納める器には、完璧に〈調和〉した肉体こそが相応しい」

青年の引き締まった身体を、自らの手で確かめながら、老人は淡々と告げた。その骨ばった指は、胸、腹を伝い下りて、あらわとなった下腹部へと至る。伯爵は興味深げに、幾度かそこを扱き上げて呟く。

「ここが機能せぬのは惜しいが──まあ良い、大したことではないわ」

己の欠落を晒して、恥じらうように睫を伏せるビショップの、白い頬に落ちかかる髪を梳いてやりながら、伯爵は続けた。

「案ずることはない。なにも、殺して肉体を奪おうというのではないのだ──そのような野蛮な手段には訴えぬ。これは、融合であると考えよ。お前の魂は、宇宙の〈調和〉の内に組み込まれ、永遠の安寧を得るであろう」

老人の指先が、若者の喉元を愛でるようにくすぐる。陶然と目を閉じて、ビショップは施される愛撫に意識を委ねた。
古代の賢人が書き残した、神の書と呼ばれる真理の記録。それを手にした者は、宇宙のあらゆる謎の答えを知ることになる。その力を用いて、世界を意のままに操ることも、死を克服することさえ出来るといわれている。
かの「知を愛する人(フィロソファー)」は、幾世代もの己の前世の記憶を有し、輪廻転生を説いた。滅ぶ運命にある肉体に対し、魂は不滅であると。
魂がすなわち記憶であり、脳に刻まれた情報であるとするならば、それを新たな肉体に読み込ませることによって、彼は永遠の時を生きる者となるだろう。有限の時間に怯えることも、脳の劣化を嘆くことも、智慧の忘却を恐れることもない。
人間としての生の限界を超え、神の地平に立つとは、そういうことだ。神の書には、完全なる魂の移植の秘術が記されている──少なくとも、伯爵はそれを確信していた。

財も名誉も手に入れた権力者が最後に求めるものは、不老不死と相場が決まっている──などというつまらぬ結論を導くつもりは、ビショップには最初からなかった。
伯爵は、ひとしきり青年の身体を検めると、自らその荘厳な白装束の袖を捲り上げてみせた。重ねた歳月をその皮膚に刻み、朽ちゆく大樹を思わせる老人の腕には、鈍い黄金の輝きが嵌っていた。
闇夜を支配する森の賢者、古来よりの智慧の象徴たる猛禽の頭部を象った腕輪──それは、神に選ばれし者の契約の証であった。
伯爵に促されるままに、その上腕へ、そろそろと手を伸ばす。崇高なる輝きに、指先を触れかけて、しかし、ビショップはそれを躊躇った。
自分ごとき一介の凡人風情が、かような財に触れて穢すことは、赦され得ぬ罪業であるように感じた。その心境を承知してのことだろうか、青年の躊躇いを拭い去るように、伯爵は力強く頷いてみせた。

「──信じよ」

託宣にも似た老賢者の一言は、深くビショップを打ち、その胸を震わせた。もはや、迷うことはなかった。
長く整った指を揃えると、ビショップは恭しく、それを黄金の円環に触れさせた。指先から伝達する感覚に身を任せて、若者は自然と目を閉じ、緩やかに仰け反った。
薄く開いた唇が、音のない息をそっとこぼす。その表情は、何かを堪えるように切なく苦しげでありながら、どこか甘美な陶酔の感をはらんでいた。
引き寄せられるように顔を寄せ、腕輪に接吻を施す、ビショップの敬虔な態度を、伯爵は白髪の奥に眼を光らせて観察していた。

真の賢者の証として、古より伝わるオルペウスの腕輪と契約を交わした、黄金比の脳の所有者。
彼にこの身体を捧げることで、自分は位階を駆け上がることが出来るだろう。そして、その先には、求め続けていた救済が待っている。それは、肉体という束縛からの、永遠の解放だ。
崇高なる伯爵の腕に頬を擦り寄せつつ、ビショップは己の内に歓喜が溢れ出すのを感じた。
この身体を捨て去りたいと、ずっと願っていた。
罪の、赦されることを。
魂の、救済されることを。願わぬ日はなかった。
彼はそれを──叶えてくれるだろう。
救いを、信じさせてくれるだろう。
実際のところ、信仰心がすべてを占めていたといえば、それは嘘になる。学院でのあのような体験を経てなお、一心に天の父を仰ぐ、そんな無邪気な考えでいられる筈もない。
伯爵の提案に乗ったのは、端的にいってしまえば、それが「面白そう」だったからだ。
魂の移植──別段にオカルティズムにはまり込んだ人間でなくとも、心を惹かれる響きではなかろうか。とはいえ、たいていの場合、自分が生贄として巻き込まれると知れば、恐れをなして逃げ出すものがほとんどだろう。誰でも、我が身はかわいいものだ。

だから、ビショップがそれに適任の人材であったのは、彼には自分の心身を守っていこうとする志向が、まったく欠落していたからだといえよう。
納得のいく理由があれば、ビショップはいつでも、自分の脳だろうが身体だろうが、差し出して構わないと思っていた。こんなつまらぬものに執着して、必死に守っていこうとするのは、彼にとっては余計な面倒事にしか思えなかった。
どうせ、いずれは朽ち果てるものだ。有効活用してくれるというならば、任せる方が良いではないか。
そして、これは──チャンスかも知れなかった。
平穏な暮らしを守り、凡人としての一生を過ごす限り、決して救済は訪れない。しかし、説明不可能な強大な力の下に身を投げ出し、生贄として捧げられたならば──あるいは、この穢れた自分にも、一条の光が射すかも知れない。
不浄なる肉体の頸木から解放され、魂の神性を取り戻し、楽園へと回帰することが出来るかも知れない。

それでは──その時までは、まだ、続けるとしよう。
錆びつかぬよう手入れし、穢れを遠ざけ、価値を守ろう。
いつ献上しても、恥じることのないように。
それが、ビショップの抱いた唯一の意思だった。





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