フラグメンツ -4-







その日は、朝から天候が優れなかった。
秋から冬にかけて、どんよりと厚く垂れ込める曇り空は、この地方の風物詩であるが、いつにもまして、空が暗い。一所に留まることを知らぬ雲の流れは速く、まだらに陽光を遮った。
嵐が来る、と誰に教えられなくとも、皆が理解していた。

「……ああ、これはお小言は免れない、かな、はぁ…」

クラスメイトとのカードゲームに夢中になっていて、気付いたら『お茶会』の開始時刻を過ぎていた。
独り言をもらしつつ、ピノクルは急いで、校舎の外れの談話室へと走った。静謐なる学び舎の廊下を駆け抜けるなど、教師に見つかれば、それこそ叱責は免れ得ない行為であるが、いたしかたあるまい。幸い、道中を誰かに身咎められることはなかった。

「ごめん、お待たせ、っと」

勢いそのままに、扉を押し開ける。いくつかの視線が、揃ってこちらを向くのを感じた。

「遅いですわよ、もう」

集まったメンバーは、どうやら、自分が最後らしかった。ごめんごめん、と頭を下げながら、室内に足を踏み入れる。
ソファに身を投げ出すと、ピノクルは乱れた息を整えた。世話役の青年の姿が見えないが、茶菓子の準備でもしているのだろうか。欲を言えば、今はグラス一杯の水が欲しいところなのであるが、などと思いを馳せていたところで、

「……フリーセルはどうした」

寡黙な同胞に問われ、はっと辺りを見回す。当然のように、集合時間前に来ているものとばかり思っていた、その友人の姿がない。
俺が最後じゃなかったのか、とピノクルは軽く驚きを覚えた。
その間にも、ダウトの険しい視線は、質問に対する答えを要求していたから、ピノクルは正直に応えることにした。

「や、先に来てるのかなって…思ったんだけど……」

しどろもどろの言い訳の語尾は消えかかって、なんとも頼りない。周囲からの冷たい視線が突き刺さる。
この状況はよくない。孤立無援である。

「ちゃんと連れて来なさいよ」
「まったく、使えませんわねぇ」

あきれたような声と、すっかり馬鹿にしきった声による叱責が、仲良く揃って浴びせかけられる。
何でフリーセルがいないのを俺のせいにされなきゃいけないんだ、とピノクルは胸の内で思ったが、表立ってそれを主張することはしなかった。
どちらかといえば、そんな風に自分たちが一組のセットと見做されているらしいという新事実に、心が躍る。そう思えば、フリーセルのために頭を下げ、罵倒されるのも、それはそれで、悪いものではないような気がした。

「なにニヤニヤしてるの。気味が悪いわ」

容赦のないミゼルカの台詞で、ピノクルは己の内心が表情に出てしまっていたらしいことを知った。
急いで表情を引き締めるが、既に遅かったようで、周囲からはすっかり軽蔑の眼差しを向けられている。居心地の悪いことこの上ない。
こんなとき、フリーセルさえいてくれれば、まだ心を強く持てるのだが──たとえ、その彼からも、同じ冷ややかな視線を浴びせられていたとしてもだ──しかし、今は叶わぬ夢である。
窓の外に垂れ込める暗雲とあいまって、室内は何ともいえぬ重苦しさに満たされる。そんな閉塞的状況を破ったのは、小さな電子音だった。

「ホイからですわ」

はしゃいだ声を上げると、少女はもたれていたソファから身を起こして、端末を覗き込んだ。
軽く画面に目を走らせて、まあ、と口に手を当ててみせる。いかにも驚いた、といった仕草であるが、どこか表情には愉悦の色が浮かんでいる。

「あらあら、大変。土砂崩れで立ち往生ですって。彼が来られないのなら、今日のお茶会は、お開きですわね」

皆さまごきげんよう、と言い捨てて、少女はさっさと席を立っている。お茶もお菓子も提供されないのならば、ここにいる意味などはないとでも言わんばかりの振る舞いである。
リーダー格の彼女の決定に、それじゃ私も、とミゼルカが続く。彼女に言わせれば、メランコリィがいないのならば、ここにいる意味などはない、ということになるのだろうな、とピノクルはその後姿を眺めつつ思った。

「……無駄な時間を過ごしたな」

苦々しげに呟いて、最後にダウトが扉を出ていった。全員を見送って、談話室にはピノクルひとりが取り残される格好となる。
もしかしたら、フリーセルが遅れてやって来るかも知れないと思って、ピノクルは暫し、その場に留まった。
フリーセルとしても、別にすっぽかそうと思ったわけではなくて、突然に教師に用事を言いつけられでもして、遅れているだけなのかも知れない。そうだとしたら、たとえ自分一人でもいいから、友人を出迎えてやらなくてはいけない、とピノクルは思った。
ソファに背中を預け、ぼんやりと窓の外を眺める。しんと静まりかえった室内に、いつもは気にも留めない、柱時計の時を刻む音だけが、明瞭に聞こえた。
窓の外の雲は、夕刻が迫るにつれ、ますます広がっていく。
やがて、ぽつ、ぽつと地面を叩く雨音が耳に入るにいたって、ピノクルはソファから身を起こした。どうやら、フリーセルは完全に約束をすっぽかすつもりらしい。
とりあえず、今日の会合は中止になったということ、特に伝達事項はなかったということだけ、知らせておいてやろうと、ピノクルはその足でフリーセルの部屋へ向かった。友人が身を置いていそうな場所として、まず考えられる場所が、寮の自室である。
はたして、うっかり忘れてしまっていたのか、あるいは、仮眠のつもりで寝過ごしでもしてしまったのか。
そんなことを思いながら、いつも通りにノックをして、いつも通りに返事が無く、いつも通りに勝手に扉を開ける。

「……あれ?」

その先には、しかし、いつも通りの彼の姿はなかった。
遊戯室、食堂、クラスメイトたちの部屋。思い当たる場所を、次々にあたってみて、ピノクルはひとつの結論に至った。
──寮のどこにも、フリーセルの姿がない。
ためしに学友らに、彼の行方を問うても、「部屋にいるんじゃないの」と、そっけない返事が返って来るばかりである。
誰も、フリーセルの動向になど、気を配ってはいない。降り出した雨で、グラウンドでの活動が邪魔された生徒たちは皆、寮に引っ込んでいて、いつもの放課後より廊下も賑わっているというのに、誰もフリーセルの行方を知らないのだ。
遠くに雷鳴が聞こえた。雨足も、次第に強まっている。こんな中で、いったい、フリーセルはどこへ行ったのか。せめて自分だけは、彼を探してやらないといけない、とピノクルは思った。
二本の傘を引っ掴んで、雨の打ちつける屋外へと飛び出す。軒下で立ち往生しているのかも知れないと、まずは建屋の周囲を探す。それから、校舎の方へと向かうが、どこにも人の気配はなかった。
あるいは、もっと遠くの施設に取り残されているのだろうか? 学内の地図を頭に思い浮かべたところで、ピノクルの耳を、ふと捉える音があった。

「……鐘の音」

降りしきる激しい雨音と雷鳴に紛れながらも、それは聞き逃しようもなく耳に響いた。
どこか心を落ち着かなくさせる、重く、不安定な音色。礼拝の時間を知らせる荘厳な鐘の音とは、明らかに異なる。
そもそも、今は神の家に集う定時ですらない。だが、方角としては同じく、森の向こうから聞こえてくるようだった。鬱蒼として、不気味にざわめく、暗い森の彼方。
そちらへと足を向ける気になったのは、礼拝堂、という可能性が頭に浮かんだからだ。
礼拝堂裏の丘に設けられた墓地に、フリーセルは、よく足を運んでいた。そこには、彼の母親が眠っている。
ときに何時間も、彼はその冷たい石の前に座り込んで、何事かを思案しているのだった。沈んだ表情で膝を抱えるフリーセルの姿を、ピノクルは声を掛けることも出来ずに、しばしば遠くから見つめたものだ。
もしかしたら、今日もそうだったのかも知れない。いつものように、眠る母親のもとにささやかな白薔薇を捧げ、思い耽っているうちに、お茶会の約束を失念してしまったのかも知れない。
そして、突然の雨に、礼拝堂に逃げ込んで、そのまま出られなくなっている。可能性としては、十分にあり得るシチュエーションだった。
思うと、ピノクルは駆け足で、森の中の道を抜けていった。
天を衝くばかりの尖塔は、森の中の礼拝堂に隣り合って聳え立ち、学院内のどこからでも目に入った。それを目印にしていれば、学院の所有する広大な森の中でも、迷うことがない。その意味で、塔は学院の象徴であり、頼りになるありがたい存在であった。
ただ、それも今ばかりは、曇天に殆ど同化して、時折雷に照らし出される威容は、頭上より襲い来る巨大な怪物を思わせる。
近付くにつれ、足が竦みかける己を叱咤して、ピノクルは塔を目指した。ようやく、赤屋根の礼拝堂が見えてきたところで、ほっと安堵の息を吐く。
大丈夫、礼拝堂の中は守られている、安全だ──そんな風に自分に言い聞かせて、ピノクルは神の家へと足を踏み出した。
まずは扉の前で、軽く水分を払い落とす。ここまで来る間、横殴りの雨を前にして、傘はろくに用を為さず、ピノクルの全身はすっかりずぶ濡れになっていた。
濡れそぼる髪が肌に貼りつく感触を嫌って、ピノクルは眼鏡を髪留め代わりにして前髪を上げた。ぽたぽたと泥混じりの水滴を落とす、かような姿で神聖なる礼拝堂を訪れるのは、普段であれば、まず許されぬであろう冒涜的行為にほかならないが、今ばかりは大目に見て貰っても良いような気がした。
いよいよ、重厚なレリーフの施された、両開きの正面扉を開ける。収容人数五百名を誇る礼拝堂が、目の前に姿を現す。
司祭も、祈りを捧げる信徒もいない、がらんどうの空間。優美なアーチを描く高い天井に等間隔で吊られた照明は、今は灯されておらず、わだかまる闇がどこか不安を誘う。
内陣へとまっすぐに延びる身廊は、真紅の絨毯が敷かれている筈だが、灯りのない中では、その美しさを愛でることも出来ない。外光を透過し、きらめいてこそ麗しいステンドグラスにしても、薄闇に同化して輪郭をぼやけさせている。
聖誕祭の夜のように、ひとつひとつの席に蝋燭を灯せば、それは幻想的な光景になるのであるが──こうも暗くては、どこに誰が姿を隠していても分からない。
フリーセル、と試しに小さく呼び掛けようかと思ったところで、ピノクルは口をつぐんだ。
身廊の延びる先、信仰を象徴する立像と壮麗なるステンドグラスを擁する祭壇の前に──細い影が佇んでいる。
いったい、いつからそこに存在したものだろうか? ひっそりと闇から生まれ出たかのような、漆黒のシルエットに、ピノクルは目を凝らした。そのときだった。

「────!」

瞬間、鋭い白銀の光が、瞳を射し貫いた。遅れて、烈しい雷鳴が耳を劈く。落雷の衝撃が、窓ガラスといい床といい、小刻みに震わせる中、ピノクルは、一瞬にして網膜に焼き付けられた光景に、心を奪われていた。
続けざまの落雷が、闇に抱かれた空間に、ステンドグラスを浮かび上がらせる。
神々しい光に照らし出されたのは、鮮やかなる、聖典の一場面。慎ましく咲く白百合の中、慈愛の笑みを浮かべ、寛大なる両腕を優しく広げた、青いヴェールの聖母。
──私の魂は、いと高きところにおわす神を崇めます(マニフィカト・アニマ・メア・ドミヌム)
奇跡に身を委ね、神の子を授かった、選ばれし乙女による讃歌──歓喜と栄光に満ちた、その一節が、脳裏を過ぎった。
そして、眩いばかりの七色の光の洪水を背負って、佇む影は──

「……福音の鐘だってさ。ありがたいことだね」

張り上げているわけでもなかろうに、その声は、礼拝堂内に明瞭に響いて聞こえた。皮肉げに唇を歪めた、その不敵な表情が、この距離でも、はっきりと分かる気がした。

「ママはね。礼拝堂には、一度も来なかった。……僕のことは、『神の子』だって、言っていたのにね」

どこか愉悦を含んで、声は続ける。

「それが、今は冷たい土の下……あんなところに、埋められたくなんて、なかった筈だよ。可哀想」
「……フリーセル」

友人の名を呼ぶピノクルの声は、細く掠れた。
応じるように、フリーセルは深紅の絨毯へ一歩、足を踏み出した。濃紺のテイルコートの裾が、優雅に翻る。
激しく屋根に打ち付ける雨音に反して、その衣装には一つの染みもない。緩く巻いた髪もいつものように、足を運ぶ度に、軽やかに揺れた。墓参りをしていて、雨に遭ったというようには、とても見えなかった。
今まで、いったいどこに──そんなピノクルの内心の疑問を読んだかのように、フリーセルは、ふっと微笑む。

「愚者の塔」

耳慣れない単語を口にして、彼は説明責任を果たしたつもりらしかった。
まさか、こんなパズルが隠されていたとはね、と詠嘆し、緩く頭を振る。
聞いている側にとっては、何のことであるのか、さっぱり分からない。もとより理解させるつもりもないらしく、フリーセルはそれ以上の説明を紡ごうとはしなかった。
塔──礼拝堂の背後に聳える、あの封鎖された塔のことだろうか。それ以外に、近場で思い当たるものはない。確かに、天を衝く、その頂点には、鐘が据えられているというが──決して、鳴らされることのない鐘が。
寮を出たとき、雨の中で聞いた、あの不気味な鐘の音を思い起こして、ピノクルは無意識に唾を呑み下した。ぎこちなくも、唇を動かして問う。

「あれは、……君が、」
「今日なら、嵐に紛れて、聞こえないだろうと思ったけど。来ちゃったね」

ふふ、と肩を竦めて笑う友人を、ピノクルはどこか茫然とした心地で見つめた。
礼拝堂の背後に聳える鐘楼は、厳重に封鎖され、誰も足を踏み入れることは許されない。それでなくとも、神の家に付属するには不釣り合いなまでの禍々しい威容を前にして、好んで近寄ろうとする者はいない。
まるで、そんなものは存在しないかのように振舞い、見て見ぬ振りをして通り過ぎる、それがこの学院の生徒としての標準的な作法だ。
ピノクルにしても、フリーセルにしても、幼い頃からその一員として、近くを通らねばならないときには、いつも俯いて、足早に通過したものだ。
鋭敏な感受性を備え、まだ恐怖への耐性の薄い幼少期ならではの一過性の怯えといって済ませるのは簡単だが、それとは少し異なる。
十代半ばになっても、やはり、そこへ近づきたくない気持ちは変わらなかったし、その頃には、この感情が恐怖というよりは、畏怖に近いものであると理解るようになっていた。
迂闊に近づいてはならない、手の届かない、自分とは違う世界のもの。
そういう風に、理解していた。
その塔に、フリーセルは、一人で登って来たという。それが、パズルであったとも──果たして、それがどういう意味であるのか、ピノクルには分からない。彼の言うことが、否、フリーセルのことが──分からない。
一歩一歩、揺るぎない足取りでこちらへと近づく友人を前に、ピノクルは立ち尽くしていた。彼の無事が分かって、喜ぶべきところの筈なのに、何故か、そんな気持ちは少しも浮かばなかった。
もしも身体が動かせたならば、反射的に後ずさっていたことだろう。だが、幸か不幸か、金縛りに遭いでもしたように、ピノクルは一歩もその場から動くことが出来なかった。
とうとう、目の前でフリーセルの脚が止まる。
惨めに濡れそぼったピノクルの手に、彼は片手を伸ばした。握手でもしようというのだろうか? しかし、次の瞬間には、フリーセルは優雅な所作で、ピノクルの手の中から傘を抜き取っている。

「さあ。帰るよ」

言って、フリーセルは、未だ茫然と立ち尽くすピノクルの脇を抜けようとした。ちょうどすれ違おうかというとき、その身体が、ぐらり、と揺れる。

「──フリーセル!」

叫ぶのと、金縛りが解けるのは、同時だった。考えるより前に、ピノクルは腕を伸ばしていた。
もう僅かでも反応が遅れれば、友人の身は重力に従って、床に倒れ伏したことだろう。危ういところで、ピノクルの腕はフリーセルを捉えた。
しかし、糸が切れたように自立を放棄した人体は、とても片手で支えられるものではない。そのまま、友人の身体に引き摺られる格好でもって、ピノクルは絨毯に膝をついた。したたかに打ち付けた膝の骨が痺れて、小さく苦鳴がもれた。
だが、そんなことには構っていられない。何より優先すべきは、腕の中に抱えた友人のこと、それだけだ。
どうやら、頭は打たずに済んだようだが、細い首も腕も力なく垂れ、ぐったりとピノクルの腕に身を任せて、起き上がろうともしない。
どうしてしまったのかと、ピノクルは焦燥交じりに友人の名前を呼びながら、その身を抱き起こした。急いで覗き込んだ、腕の中のフリーセルは──目を閉じて、静かに寝息を立てていた。
一瞬、ピノクルはあっけにとられたが、苦痛を訴えるでもなく安らかに瞼を閉じたフリーセルの表情を前に、ひとまずほっと息を吐く。
いったい、鐘楼で何をしていたのかは知らないが、きっと疲れが溜まっていたのだろう。
外は激しい嵐の中、こんな場所にぽつりと一人でいて、不安や緊張に苛まれていたのかも知れない。迎えに来た学友の姿を見て、張りつめていたものが、ふと緩んだとしても当たり前だ。
少しでも寝心地が良くなればと、ピノクルは静かに姿勢を動かして、己の大腿を枕代わりに、フリーセルの頭を乗せさせた。
ステンドグラス越しの僅かな外光が、友人の白い顔に落ちかかる。色ガラスの影響か、少し青褪めて見える、その頬にかかる柔らかな髪を、ピノクルは何とはなしに、指先で弄った。
色素の薄い金髪を指に絡めつつ、思いを馳せる。
──何故、フリーセルは、「お茶会」に姿を現わさなかったのだろう。
いつも必ず、集合時間前に席に着いている筈の彼が、連絡もなしに勝手に会議を欠席するとは、どうしても信じられない。
やむをえない事情ならばまだしも、実際は、こんなところで一人、パズルをしていたという。そんなかたちで、「約束」を破るというのは、彼がなにより嫌っていたことではないか。
約束──しかし、そこで、ピノクルは気がついた。
結果的にいえば、フリーセルは、約束を破ってはいないのだ。お茶会は、実際には、開催されなかったのだから。その場にいなかったとしても、約束を破ったということにはならない。
すると──だとすると、どういうことになる。
──一つだけ、可能性がある、とピノクルは思った。
今日の会合が中止になることを、フリーセルは、予測していたのではないだろうか。そして、それを信じた。
約束が果たされないことを、はじめから知っていたから、姿を現わさなかった。ダウトに言わせれば、「まるで無駄の無い選択」ということになろう。
普通であれば、中止の可能性をなんとなく頭の片隅に置きつつも、一応は集合場所に顔を出す。
未来のことは誰にも分からない。たとえ交通網がストップしたとしても、回線越しにミーティングをすることになるのかも知れないし、そうなれば、約束をすっぽかした咎を被るのは自分だ。
そんなリスクを冒すくらいならば、少しばかり無駄足を踏むくらいのことを、人は気に留めないものだ。
しかし、フリーセルは──誰よりも、約束というものにこだわる、その彼は、姿を現わさなかった。それだけ、自分の予測に信頼を置いていたのだろうか。
どうして、そこまで、未来を信じることが──出来たのか。
未来を──視たのか。
ぽたり、と一粒の滴が、フリーセルの頬に落ちる。それが、自分の濡れそぼった髪から滴るものだと気付いて、ピノクルは殆ど覆いかぶさるようにしていた姿勢を、少し起こした。
濡らしてしまった頬に、そっと触れる。伝い落ちる水滴を、指先で丁寧に掬い取った。薄い皮膚の、なめらかな感触は、いつまでも指先を触れさせていたかった。

豪雨が過ぎ去り、穏やかな静寂が戻るのを待って、ピノクルはフリーセルを担いで礼拝堂を出た。
さすがに、消灯時間に寮にいないというのはまずい。友人の温度と重さを背中に感じながら、ぬかるんだ道程を、ゆっくりと歩んだ。

「……ぅ、ん」

寮からこぼれる橙色の灯りも間近に至ったところで、そんな小さな呻きが耳元を掠めた。同時に、身じろぐ気配が背中越しに伝わってくる。
子どもっぽい無防備な声に、ピノクルは微笑ましいものを感じて、からかうように背後へ呼び掛けた。

「お目覚め?」
「……あれ…なんで、」

暫し、フリーセルは状況を把握出来ずに戸惑っていたようであるが、自分がすっかり学友の背中に身を預けてしまっていることに気付いたのだろう、驚いたように、もたれていた身体を起こす。
おっと、とピノクルはバランスを崩しかけたところを何とか踏みとどまった。ここで足を滑らせでもして、二人して泥道に倒れ込んでは、元も子もない。
そんなピノクルの涙ぐましい努力を知ってか知らずか、フリーセルは背中の上で居心地悪げに身じろぐ。

「降りる……」
「はいはい」

姿勢を低くしてやると、フリーセルは待ちかねていたように、ピノクルの背中から地面に降り立った。
歩き出したその足もとが、少しふらつく。すぐさま、ピノクルは手を貸してやろうとしたが、にべもなく断られてしまった。
よそよそしく離れて歩く、その背中には、あからさまに接触を拒む意思が宿っている。たぶん、友人の目の前で倒れてしまったうえ、背負って運ばれるなど、ひどい失態だったと思って己を恥じているのだろう。
気にすることないのにな、とピノクルは思ったが、無理に話し掛けても嫌がられるだろうことは目に見えていたので、何も言わなかった。
寮の玄関前で、フリーセルは初めて、後ろを振り返った。何かを言い淀むような、躊躇いがちの態度からは、先ほど礼拝堂で悠然と微笑を浮かべていたときの底知れぬ様子は、微塵も窺えない。
目の前にいるのは、いつもの、控えめで大人しいクラスメイト以外の何者でもなかった。
その友人は、いよいよ適当な言葉を見つけたのか、遠慮がちに唇を動かす。

「……面倒、かけたね」
「いいって」

面倒をかけられたという意識は、ピノクルの方にはなかった。雨に打たれて全身ずぶ濡れになったうえ、多少の運動を強いられたくらいのことだ。大したことではない。
これくらい、何ということもない、当たり前のことだと思ったし、フリーセルにもそう思って欲しかった。
弱みを見せたって、縋ったって、良いに決まっているのだ。そうやって、友人の抱え込んだものを知りたいと、ピノクルはそう思う。
ゆっくり休みなよ、と気楽な調子で声を掛けて、ピノクルは励ますようにフリーセルの肩を叩いた。友人が素直に頷くのを確かめてから、自室へと戻った。



「──で、俺は見事、塔に閉じ込められたお姫様を、救い出したってわけ。めでたしめでたし」
「またホラ話かよ、ピノクル。てか、お姫様ってなんだよ」

新鮮なミルクを注いだシリアルに続いて、スクランブルエッグを片付け、ティーカップを一口呷ったところで、学友のひとりはあきれたように応じた。
いつも調子の良いことばかり囀る、眼鏡のクラスメイトを、そもそも、と指を立てて諌める。

「昨日お前、ずぶ濡れになって、とぼとぼ帰ってきたじゃねぇか。当のフリーセルは、きれいなもんでさ」

別に、探しに行く必要なんてなかったんだよ、と少年は嘆かわしげに肩をすくめてみせた。
それを言われては、ピノクルには返す言葉がない。確かに、自分が手出しをしなくとも、フリーセルは、ちゃんと寮に戻って来ただろう。余計な世話であっただろうことは否めない。

「でもねえ、俺が行かなきゃって思ったんだ。なんか、そういう気持ちってのは、止められないよね」

行儀悪く、フォークの先端でベーコンの切れ端を転がしつつ、ピノクルは溜息を吐いた。
これはいつもの軽口とは違うと読み取ってか、学友はそれ以上の言及を避けた。皿の隅に転がるベイクド・ビーンズを掬い上げて、口へ運ぶ。

「……ま、これでお前が熱出してぶっ倒れでもしてくれたら、傑作だったけどよ」
「すみませんね、退屈な展開で。なにぶん、脚本家が未熟なものでして」

クラスメイトと軽口を叩きながら、爽やかな朝陽の射し込む食堂で摂る温かな食事は、新しい一日の始まりに相応しく、思考を覚醒させていく。昨日の嵐が過ぎ去り、空は嘘のように、真っ青に晴れ渡っていた。
いつもと同じ、平穏な朝──否、一点だけ、違うところがあった。

「……で、そのフリーセルは?」

学友の指摘通り、寮生の一堂に会する朝食の席に、フリーセルの姿はなかった。周囲の生徒たちに聞いてみても、今日は誰も見掛けていないという。
毎日きっちりと同じ時間に同じスケジュールをこなす、やや度が過ぎるほどに几帳面なフリーセルにしては、珍しいことである。
とはいえ、こういうことは、初めてではない。これまでの経験から、こういうときにフリーセルがどういうことになっているのか、ピノクルも察しがついている。

「俺、後で様子見てくるわ」

まあ、昨日のあれこれで疲れてしまったんだろうなと軽く考えつつ、ピノクルは朝食を口に運ぶ作業を再開した。




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学院ピノフリ・センチメンタル過去話本『フラグメンツ』は10/7 COMICCITY SPARK発行予定です。(→offline

2012.09.30

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