人類の星の時間 -2-
鏡屋敷──その名の通り、内部の壁から床、天井にいたるまで、すべてが鏡で埋め尽くされた迷宮である。本来は、もっとしゃれた名前がつけられている筈であるが、サーガランド学園の生徒たちの間では、専ら、この愛称で知られている。
上下左右、360度をゆっくりと見回して、フリーセルは感嘆した。
「へえ……なかなか、面白い趣向だね」
「こう、全方位から視線浴びると、興奮しちゃうなぁ」
「ちゃんとついてきなよ、ピノクル。はぐれたら、置いていくから」
「はいはーい」
二人は、迷宮の奥へ向けて、ゆっくりと足を進めた。
靴音を響かせながら、フリーセルは油断なく視線を走らせ、進むべき道筋を見出していく。自分と虚像、また、虚像同士の位置関係から、空間を立体的に把握する。そうして、真面目に思案している自分の顔が、見渡す限り無数に目に入ってくるというのは、おかしな感覚である。目を逸らしたくとも、逸らすことを許されない。強制的に、見つめさせられる。
いったい、どれが本当の自分なのかも、分からなくなりそうだ。今、歩いている、この自分は、本当の自分だろうか? あの横顔は、あの後姿は、本物ではないのだろうか? どこかにいる、本物の自分につられて、自分は動いているだけの、虚像に過ぎないのではないだろうか?
──ばかばかしい。
苦笑して、フリーセルは混乱に陥りかけた思考を断ち切った。この自分だけが、本物だ──左手首に嵌めたものの感触を、そっと握って、確かめる。袖の下の硬い感触は、触れているだけで、不思議と心が落ち着くようだった。
ふう、と息を吐いて、顔を上げる。そこで、フリーセルは、鏡の中に異変を見出した。何かが映っていたのではない。何かが、映っていなかったのだ。
「──ピノクル?」
足を止めて、フリーセルは背後に呼び掛けた。返事はない。見れば、周囲を取り囲む鏡のどこにも、同伴者の姿は、映っていなかった。
「ちゃんとついてこいって、言ったのに……」
溜息を吐くと、フリーセルはそれきり、何事もなかったかのように、予定通りの進路を取った。来た道を戻って、探してやるという選択肢は、もとより存在しない。はぐれたら置いていく、というのは、当初の約束通りである。約束は、守られなくてはならない。それが、フリーセルの中では、決して揺らぐことのないルールであった。
後ろを振り返ることなく、何の未練も感じさせない足取りで、角を曲がる。そのときだった。
「──随分と、余裕じゃないか。お友達が、いなくなっちまったのに」
どこからか響く声に、フリーセルは立ち止まって顔を上げた。いったい、いつからそこに立っていたのだろうか。目の前の鏡には、一つの人影が映っていた。奇妙なのは、その出で立ちである。サーガランド学園の制服姿ではない。全身を覆い隠す、漆黒のマントに、悪魔的な笑みを刻んだ白の仮面。異様ではあるが、この謎めいたパズルには、不思議と調和していた。
不気味な人物の登場に、フリーセルは、さして驚いた様子を見せなかった。むしろ、ああ、と納得がいったように頷く。
「君かな? さっきから、僕たちをつけていたのは」
「ああ。俺も、ちょっと遊んで貰おうかと思ってな。クロスフィールド学院の、天才様に」
俺はサイファーだ、と仮面の男は名乗った。フリーセルにとっては、聞き覚えのない名だった。尾行されるいわれも、こうして馴れ馴れしく話し掛けられる理由にも、思い当たる節がない。相手の意図は全くの不明であるが、まずは出方を窺うことにして、フリーセルは余計な口を利くのを避けた。
「そう。しかし、見ての通り、視察中でね。後にしてくれるかな」
そっけない態度で、それだけ言うと、フリーセルは再び歩き出した。勿論、これで相手が引き下がるものとは、思ってはいない。予想通り、仮面の男は音もなく、ぴたりと後についてくる。否、後についてきているように見えるだけであって、実際の居場所は、数多の虚像に紛れて、掴めない。視界の隅にちらつく黒い影を、フリーセルは煩わしげに見遣った。白い仮面の笑みが、薄闇の中、くっきりと浮かび上がる。
「まあ、待てよ。本気でやり合おうっていうんじゃない。こっちとしても、予行演習みたいなもんだ」
少しも慌てたところのない様子で、仮面の男は声を掛けてきた。フリーセルは立ち止まらない。少年の背中を追い掛けつつ、サイファーは、なおも言葉を紡ぐ。
「なあ、お前、これから日本に行くって? 大門カイトと、パズルするんだろ?」
「……どうして、それを」
大門カイト、という名前が出た瞬間、フリーセルの瞳に、鋭い光が過ぎる。少年の変化を察知したのか、サイファーは、おどけたように肩を竦めてみせた。
「おいおい、この学園は、今やオルペウス・オーダーの支配下にあるんだぜ。組織内における情報共有は、当然のことだろう?」
「君は、ここの生徒には見えないが」
「まあ、そうだ。関係者、ってところだな」
この仮面の男が、自分と同じオルペウス・オーダーの一員だと分かったところで、フリーセルの内に安堵が芽生えることはなかった。むしろ、いっそうに警戒心を強めるばかりである。いかなる理由によって、組織の人間に付き纏われなければならないのか? 特命を帯びたフリーセルたちを援助するというのならばまだしも、これでは、妨害しているようなものである。
無視するべきであったのかも知れない。何を言われようと、揺さぶりをかけられようと、相手にすることなく、さっさと迷路を解いて、脱出すべきであったのかも知れない。しかし、分かっていながら、フリーセルは既に、この相手を無視出来なくなっていた。相手に踊らされていることを自覚しながら、努めて平静を装って問う。
「それで──カイトが、何か?」
フリーセルが、予想通りの反応を示したことが、よほど嬉しいのだろう。くく、と仮面の男は笑声をもらした。
「お前、パズルをすれば、カイトが自分のこと、思い出してくれるって思ってるんだろ? また、一緒に楽しく遊べるって、期待してるんだろ? それが、可笑しくてな」
言って、また笑う。フリーセルは答えない。僅かに眉を寄せて、相手の言葉を訝しむ。いったい、この不気味な男は、何を言いたいのか──内心の疑問に応えるように、サイファーは、さらりと言葉を続ける。
「大門カイトは、お前を思い出さないぜ」
あたかも、明日は日曜日だぜ、とでも言うのと同じように、ごく当たり前のことを、ごく当たり前に言っただけであるというように、紡がれた言葉だった。
「……」
フリーセルは、応えない。否定の言葉を、紡がない。そんな筈はない、お前に何が分かる、おかしなことを言うな──そんな言葉を、フリーセルは、一つも口にしなかった。ただ、唇を引き結んで、押し黙る。小さく拳を握ったのは、いったい、いかなる感情の表れであろうか。
その耳元に、声は、愉悦交じりに囁きかける。
「お前も、本当は、それを分かっているんじゃないのか?」
ひくり、と少年は肩を震わせた。それを合図に、周囲の鏡が、漆黒のマントの像に覆い尽くされる。歪な嘲笑を浮かべる仮面の、顔、顔、顔──それらは一斉に、フリーセルに言葉を叩きつける。
「約束も、カイトも、死んだ母親も! お前は、何一つ、取り戻せない。なぜなら──」
ばさり、とマントが大きく翻る。俯いて立ち尽くすフリーセルの心臓を指して、サイファーは、決定的な言葉を放った。
「あいつは、本物。そして、お前は──偽物だからだ!」
「……は、」
少年の薄く開いた唇から、微かな息がこぼれる。あまりのショックに、言葉も紡げず、震えているのだろうか? 否、それは、絶望の吐息ではなかった。嗚咽でもなかった。
「は、……はは、っ……」
押し殺しきれない声が、唇の端からもれ聞こえる。フリーセルは、とうとう堪えきれないといったように、大きく肩を震わせた。
「──あっははははははははははははははははははははは!」
それは──笑声だった。俯いていた顔を跳ね上げて、フリーセルは、笑った。可笑しくて仕方がない、といったように、腹を抱えて笑った。息を切らし、身体を折って、笑った。けたたましい笑い声が、反響し、増幅し、鏡屋敷を覆い尽くす。
「……」
狂ったように笑い続けるフリーセルを前に、サイファーは、僅かに後ずさった。不気味な印象をもたらす筈の、白い笑顔の仮面は、今や、いかにも安っぽく、滑稽なものでしかなかった。見る者の恐怖や不安を煽り立てる、という意味では、むしろ、目の端に涙さえ浮かべて笑い続けている少年の方が、よほど相応しかった。
「なんだ……何が、可笑しい」
声に焦燥を滲ませて、サイファーは問うた。それでようやく、相手の存在を思い出したのか、フリーセルは耳障りな笑声を止めた。あるいは単純に、これ以上、息が続かなかったのかも知れない。乱れた呼吸を継ぎながら、少年は、頬に落ちかかる白金の髪を軽く払った。
「はは、っは、……は。随分と、言ってくれるじゃないか、臆病者」
「なに……?」
フリーセルの挑発的な物言いに、サイファーは怒りというよりも、戸惑いの声をもらした。それもそうだろう、いったい、これまでの会話の中で、サイファーが臆病者と詰られるべき要素が、どこに存在しただろうか。優位に立ち、相手を追い詰めつつあったのは、サイファーの側である。フリーセルの言葉は、悔し紛れにしても、的外れであると言わざるを得ない。
しかし、彼自身は、己の発言を撤回するつもりはないようであった。悠然たる微笑を浮かべて、白い仮面を見据える。
「そんな仮面とマントで、姿を隠して、臆病者だと言ったんだ。なにか、姿を見せられない理由でもあるのかな?」
「……」
サイファーは答えない。答えないことが、既に、ひとつの回答となっている。そこから何を悟ったか、フリーセルは愉快げに、ふぅん、と唇を歪めた。
「ああ、訊いちゃいけないことを訊いてしまったみたいだね。ときに、君のお喋りを聞いていて、僕はふと、どこかで君と会ったような気がしてきたんだけれど」
「馬鹿を言え。俺とお前とは、これが初対面だ」
くだらないことを言うな、とでも言わんばかりに、サイファーは即座に否定する。おや、というように、フリーセルは芝居がかった仕草で首を傾げた。
「そうかな? 君のその声、僕は聞いたことがあるよ。語頭で少し、癖のある発音をするよね、君……隠し通せるものじゃない」
「……黙れよ」
声に苦々しいものを滲ませて、サイファーは呟く。今や、形勢は完全に逆転していた。幾重もの虚像の世界の支配者は、フリーセルであった。相手の反応を完全に無視して、少年は僅かにも慌てることなく、言葉を紡ぐ。
「声は、発声器官の構造や大きさによって、物理的に規定されている。肉体が同じである限り、そこから発せられるものは同じ……たとえ、口調を変え、仮面をつけ、別の人間を演じようとも──『裏返し』ても、駒は、その駒でしかないさ」
「……!」
仮面の下で、相手は唇を噛み締めたようだった。ふふ、とフリーセルは笑みをこぼす。
「ねえ、教えてよ。あのとき、どうしてわざわざ、不良たちの脇を抜けるリスクを冒してまで、向こうの扉から逃げようとしたんだい? おかげで、リーダーに見咎められて、釘を刺されてしまったじゃないか。彼らが注意を向けていなかった、前の扉から出れば良かったんだよ。僕たちが隠れていたほうの扉から、ね。それとも……僕たちに、近づきたくなかったのかな? 君、こっちに気付いていたよね? 気付いていない振りをしていたよね? 何を、そんなに、恐れたのかな? ねえ?」
問いを重ねながら、フリーセルは、一歩ずつ相手との距離を詰めていく。教えてよ、と囁いて、彼は優雅でさえある仕草でもって、片手を伸ばした。その手は、鏡に当たって跳ね返される──筈だった。決して、何も、捉えられない筈だった。
「お、お前──」
ごくり、と喉を鳴らしたのは、サイファーである。フリーセルの目の前に佇む、彼は──虚像では、なかった。その漆黒のマントを、フリーセルの片手が、確かに摘んでいる。捕まえた、とフリーセルは無邪気に微笑んだ。
「くっ……」
サイファーは咄嗟に後ずさろうとするも、背後の鏡に妨げられて、僅かの距離も稼げない。そうしているうちに、相手は更に一歩を踏み出した。今にも触れそうなまでに顔を近寄せて、フリーセルは歌うように紡ぐ。
「それにね、君は勘違いをしているよ。カイトが、僕を思い出さないなんて──はは、傑作だ! 思い出さない? 何を言っているんだろうね。彼は、必ず思い出すよ。思い出さない、わけがない。僕が、思い出させるんだ。この僕が、彼に、直截に! 思い出すまで──思い出させてあげるんだから。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も──思い出すまで、何度でも、ね」
言って、フリーセルは唇を歪めた。楽しくて仕方がないというように、髪をかき乱して哄笑する、その片目は、鮮やかな紅に染まっていた。既に、マントを掴む指は外されているというのに、サイファーは、その場を一歩も動くことが出来なかった。
「さて──ゲームはそろそろ、おしまいかな」
呟くと、フリーセルは禍々しいほどの輝きを放つ瞳で、サイファーを一瞥した。それきり、関心を失ったように、彼はパズルに戻った。すなわち、振り返ることなく、鏡の通路を、駆け出した。
「っ……待ちやがれ!」
金縛りにでも遭ったように、その場に立ち尽くしていたサイファーは、はっと我に返ってその後を追った。
虚像だらけの迷路を、フリーセルは迷うことなく、鮮やかに、軽やかに、駆け抜ける。いちいち周りを見て、計算を巡らせているようには、とても見えない。はじめから、正解のルートしか視えていないというように、少年は加速を続ける。止められない──追いつけない。マントを翻して、その背中を追いつつ、サイファーは呻く。
「くっ……調子に乗るなよ、偽物が、」
「本物さ。君なんかより、よっぽどね」
力強く床を蹴って、フリーセルは、大きく跳躍した。そのまま、正面の鏡に衝突する──そう思われたとき、少年は、勢いよく片手を突き出した。その手が触れるや、鏡は、抵抗なく押し開かれた。眩いばかりの陽光が、少年を祝福するように包み込む。
──ああ、そうだ。これが、僕の道だ。僕の進む道は、光に包まれている。その先には、必ず、望むものが、待っている。
だから、待っていて、カイト──振り返ることなく、フリーセルは、鏡屋敷から脱出した。
背後で、扉が閉まる音を聞いてから、少年はゆっくりと振り返った。既に、その瞳に浮かんだ禍々しい色は消え、澄んだ青空の様相を取り戻している。
「サイファー、か……まあ、どうでもいいか。僕には、関係ないよね」
立ち去ろうとしかけたところで、そういえば、同行者を置き去りにしてきてしまったということに、フリーセルはふと思い至った。きっと、まだ迷路に閉じ込められたまま、彷徨っているに違いない。ついてこられなかったら置いていく、とは言ったが、助けに行ってやるべきか、と思案しかけたときだった。がさり、と背後で音がする。
「お疲れちゃーん」
軽薄な台詞と共に、現れたのは、誰あろう、その同行者であった。おや、というように、フリーセルは空色の瞳を僅かに瞠る。
「……ピノクル。君は、僕の後ろにいたんじゃなかったっけ」
「うん、そうだったんだけど、途中ではぐれちゃって。で、気付いたら、外に出てて」
「へえ……」
どうやら、あの迷路を、自分より先に攻略したらしいと聞いて、フリーセルは素直に感心した。確かに、自分は途中で妙な足止めをされたものの、終盤の追い上げからいって、そう時間を浪費したわけではない。まさか、先を越されているとは、考えもしなかった。ひとりでは何も出来ない奴だと思っていたが、なかなかにやるものだ。フリーセルは、この同胞に対する評価を、やや改めた方が良さそうだと思った。その内心を知ってか知らずか、ピノクルはなおも、ぺらぺらとお喋りを続けている。
「でもねぇ、よく見たら出口じゃなくて、入口だったんだ。いつの間にか、来た道を、逆に辿ってたんだねぇ。そりゃ、出られるわけだ。解いてないじゃん、っていう。はは、笑える」
「…………」
やはり、評価を改めるのは、先延ばしにしよう、とフリーセルは結論づけた。ひとりで笑っているピノクルをよそに、鏡屋敷の威容を仰ぐ。
「このパズルは……面白いよ」
それが、迷路を攻略したフリーセルの、純粋なる感想であった。作ってみたいな、と小さく呟く。ただの迷路では、上級者には刺激が足りないから、多少のアレンジを加える必要がありそうだ。もっと、じっくりと、鏡に映ったいくつもの虚像を観察し、考察しなければならないような、そんな緊張感溢れるゲームが良い。
頭の中で、早速アイデアを練りつつ、フリーセルは大きく両手を広げた。
「これで、カイトと遊ぶんだ。きっと、楽しいよ」
「……カイトと、」
一瞬、ピノクルの表情に、僅かな陰が過ぎる。しかし、それもすぐに、人を食ったような軽薄な態度にかき消された。
「んじゃ、お土産買って、さっさと帰りましょ」
「そうしよう。こんなところ、長居は無用だからね」
「あ、でも、俺としては、もう少しばかり、レスティ先生と親交を深めて……」
「勝手にしなよ。置いていくから」
冗談だよ、冗談、とピノクルは学友の後姿を追い掛けた。
◆
「発音の癖、か……まさか、気付かれるとはな。迂闊だった」
鏡屋敷の内部、幾重にも周りを囲む、自分自身の像の中心で、サイファーはぽつりと独りごちた。
「……次こそは、『あいつ』にだけは、見破られないよう……もう腕輪の力に頼れないとはいえ、注意するに越したことはない……なにせ、『あいつ』は……」
──本物だったのだから。
それだけ呟くと、現れたときと同じく、闇に溶けるようにして、仮面の男は姿を消した。
◆
土産物は、結局、購買で見つけたブルーベリージャムに決定した。「やっぱり、ブルーベリーは北欧でしょ。なんといっても、濃厚度が違うよね。目は大切にしないと」などという、ピノクルの適当な進言が通って、そういうことになった。フリーセルとしては、特に欲しいものもなかったので、意を唱える必要もなかった。倉庫にある限りのブルーベリージャムを『星』で買い占め、組織の一拠点への配送を手配し、それでも余った『星』は、当初の予定通り、屋上からばら撒いた。
中庭を行き交う生徒たちは、最初、それが何なのか、分からないようだった。頭や身体にこつんと当たる小さな感触を、雹か霰とでも思ったに違いない。彼らは、空を仰ぎ、雲ひとつない晴天であることを確認してから、地面に落ちた小さな粒を、まじまじと見つめた。それは、黄金色に輝く『星』である。なぜ、こんなところに──目を瞬いている間に、また、ぱらぱらと『星』が降ってくる。
そこからは、なかなかに愉快な見世物であった。悲鳴めいた歓声を上げて、生徒たちは、地面に這いつくばった。我先にと、地面に落ちた『星』をかき集める。ただならぬ様子は、校舎内の生徒にもすぐに伝わって、あっという間に、中庭は蠢く生徒たちの姿で一杯になった。ちっぽけな『星』一粒の所有権を巡って、あちらこちらで小競り合いが発生し、怒号が飛び交う。熱狂を煽り立てるように、ピノクルは気まぐれに、『星』をばら撒いてやった。
「あっはは。見てよ、フリーセル。楽しいねぇ」
「適当なところでやめなよ、ピノクル。この学園の貨幣経済を、僕たちがぶち壊しにしたなんて、余計なお咎めを受けたくはないからね」
はしゃぐ同胞をたしなめながらも、フリーセルは積極的にそれを止めさせようとはしなかった。時折、ぱっと空中に放られる黄金のきらめきを、手摺にもたれて、ぼんやりと眺める。
「……終末の日。“太陽は暗くなり、月は光を失い、星は天から墜ちる”──か」
「ん? なに?」
「いや。何でもない」
そろそろ、行こうか、とフリーセルは手摺から身を起こした。最後の一掴みを景気良く放って、ピノクルもそれに続いた。中庭では、異変を察知した教師陣が、なんとかして事態の収拾を図ろうとしているらしかった。その喧騒を城塞の内に残して、彼らは帰路へ就いた。
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