英国追憶 -3-




友人の細い身体を支えて、寝台に座り直させる。隣に寄り添ってやりながらも、暫くは、互いに視線を合わせることも、言葉を交わすことも、出来なかった。しんと静まった部屋の中で、自分の鼓動だけ、明瞭に聞こえるようだった。
友人に対して、何を訊こうとも思わなかった。話してみろよなんて、促せるわけがなかった。そんなことを、こんな自分が軽々しく請け負ってはならないと、痛いほどによく分かっていた。
そういう、こちらの胸の内を悟ってのことだろうか。ぽつり、ぽつりと独り言めいた声を紡ぎ始めたのは、ルークの方だった。視線は外したままで、誰にともなく、訥々と語る。
「僕は変わってないって言った、あれは、嘘だよ。変わっちゃったんだ。変えられちゃった……もう、戻れない。あの頃の、白かった僕は、もう、失くしてしまった」
俯いて、軽くシーツを握る。それが、指先の震えを隠すための動作なのだと、分かってしまう自分が嫌だった。
「我慢したよ、たくさん、たくさん。良い子にしてたら、ご褒美が貰えるんだって。我慢していれば、カイトに逢いに行けるんだって。明日は、きっと、良いことがある。明日になれば、ぜんぶ、大丈夫。そう思って、……怖いのも、痛いのも、恥ずかしいのも。いいんだ、何をされたって、僕はいい。カイトが、いるから。大好きなカイトが、いるから。何だって、我慢出来る」
その告白は、あまりに純粋で、穢れなくまっすぐで、それゆえに、胸が痛んだ。
そんな思いで──ルークは。有刺鉄線の向こうで、ずっと。あの頃のまま──囚われた、ままで。
元気にしてたか、なんて、何も考えずに当たり前のようにして訊いてしまった、自分はなんて──馬鹿だっただろう。
パズルの気持ちが分かる、なんて言いながら──親友の気持ちも、分からずにいた。
彼をきつく縛りつけるものから、解放して、自由にしてやることが──出来なかった。
解いて──やれなかった。
9年間、のうのうと生きてきた自分が、まるで断罪されているかのように感じた。けれど、耳を塞ぎたくはなかった。大切な友人の告白を、受け止めなくてはいけないと思った。自罰でもなく、贖罪でもない。友人だから──当たり前のように、そうしたかった。
「離れ離れになって、辛かったけど。それで、良かったんだよね。一緒にいたら、カイトまで同じ目に遭っていたかもしれない。良かったよ、カイトだけでも、綺麗なままでいてくれて」
別れている間に、彼に何があったのか、それは訊かないことにした。本人も話したくないだろうし、こちらとしても、もう十分だ。自分で満足に衣服を脱ぐことも出来ないくせに、こんなことだけは上手く出来る──身をもって知った、その事実だけで十分だ。
何故、ルークがこんなにも、壊れてしまいそうなまでに白く、綺麗なのか──こんなにも、大切なものが欠けてしまったのか。その経緯を探って暴くなんていうことは、したくなかった。そんな風にして、友人を貶めたくはなかった。
あの頃は、楽しかったね、とルークは懐かしむような目をして言った。
「あの頃、カイトが僕を連れ出してくれたよね。ひとりきりの冷たい世界から、助け出してくれた。楽しいこと、きれいなもの、ぜんぶカイトが教えてくれた。……カイトは、いつだって僕を助けてくれる。僕がいるのは、カイトのおかげ。カイトは、僕の、ぜんぶ」
歌うように優しく囁いて、ルークは目を閉じた。安心しきった無垢な表情で、こちらの肩に頭を預ける。
助けてなんて──いないと、叫び出そうになって、辛うじて抑え込んだ。自分はルークに、何もしてやっていない。幼い頃だって、そんな風に思ったことはないし、ましてその後は、遠く離れた土地で、平凡な日常を過ごしていただけだ。
彼がこちらを想っていたほどに、こちらが彼を想っていたかと問われれば、とうてい足りないだろう。まったく、釣り合いがとれていない。こんな想いを向けられるほどの──価値もない。
それでも、両腕は勝手に動いて、ぎこちなく、友人の細い肩を抱いていた。ゆっくりと、その背中を撫でてやるのを、止めることは出来なかった。
「……温かい」
穏やかに紡いで、ルークは確かめるように、小さくこちらの服を握った。
「カイトのことを思い出すと、いつも、嬉しくなる。指の先まで、温かくなる。こんな風になるのは、カイトを想うときだけ……どきどきして、少し、苦しいくらい。だから、寂しくても、寒くても、平気。冷たい人形みたいに扱われても、悲しくない。そうじゃないって、僕が知っているから。……カイトは、太陽。僕はね、たぶん、カイトに光を与えて貰って、動いているんだ」
──そんなんじゃない。
ルークを救ったのは、他の誰でもない、彼自身の力だ。その強い意志だ。
──はたして、これが「救われた」結果といっていいのかどうかは、分からないけれど。ひたすらに堪えるのが上手くなっていくことが、望ましいことなのかどうかは、分からないけれど。
だから、少なくとも、ルークがこちらに恩義を感じるのは、間違っている。正しくない。
ただ──何を言っても、きっと、彼はそれを訂正しようとは、しないのだろう。
そんなことを言っても、本当に「カイト」に助けられたのだと、頑固に言い張るのだろう。
──現実ではない、彼の心の中の「カイト」に。
「カイト……カイト、ありがとう」
「……うん」
「いつも、歌って、お祈りしてたんだ。カイトが、元気でいてくれますようにって。それだけで、僕は満たされる。何もいらない、カイトがいるから、僕は……幸せ」
胸元に手を置いて、本当に嬉しそうに目を閉じて微笑むルークは、泣きたくなるくらいに綺麗だった。
あの時、離れ離れにならず、手を離さずに、ずっと一緒にいたら──こんなことには、ならなかったのだろうか。そんな「もしも」に思いを馳せたところで、今更、何かが変わるわけでもない。
出来るのは、ただ、受け容れるだけだ。
いま現在のルークを、欠落も何も全て併せて、受け容れる。
それが──親友として、してやれる精一杯だと思った。
ただ、気になったのは、彼が現在形で話をしていることだった。まるで、これからも、何か辛いことに堪えなくてはいけないと、分かっているような口振りに、どこか不安をかき立てられる。
「……もう、我慢しなくていいんだよな」
それだけ、一つだけ、確かめておきたかった。もう大丈夫なのだと、彼自身の口から、言って欲しかった。
親友が、これ以上、何かを堪えたり、辛い思いをしなくてはいけないなんて──思いたくない。
縋るような、確認の問い掛けに、ルークは答えなかった。代わりに、その淡青色の瞳で、こちらをじっと見つめてくる。それは、今この時をしっかりと焼き付けて留めようとするような、この先どうしようもなく失うことを知っているような、そんな眼差しだった。
それでも、ルークは健気に微笑んでみせた。嬉しいことなんて何もないくせに、楽しいことなんて何も知らないくせに、それは、こちらを心配させまいとするためだけの、空しい笑顔だった。
「神さまが、憐れみをくださったんだよね。また、カイトに逢わせてくれた。こんな弱くて愚かな僕のお祈りを、聞き届けて貰えた。それだけで、満足しないと──感謝します」
「なあ、ルーク」
「カイト、お願い」
なおも言い募ろうとするこちらを制して、ルークは言った。その真摯な眼差しに、こちらもひとまず、口をつぐまざるを得ない。
少し眩しそうにこちらを見つめて、きゅ、とルークは小さく手を握る。
「忘れられたくない……覚えていて。好きになってくれなくてもいい、大嫌いでもいいから、忘れないで」
どこか切迫した様子で、友人は懇願して言った。それは、気軽な「お願い」とは確実に異なって、その裏で確かに何かを恐れていることが、こちらにも伝わる口調だった。
教室で再会したとき、彼は何と言っていたか──「僕のことは、忘れちゃったかな」と、言っていたのではなかったか。整った顔立ちに、少しばかり寂しげな色を過ぎらせて、しかし、それでも仕方がないと諦めたように力なく微笑んで、そう呟いたのではなかったか。
ルークにとって、それは──覚えていて貰うことは、思い出して貰うことは──何よりも優先して、大切なことなのだ。そんなささやかなことが、彼の望みで、心安らぎ満たされる、唯一なのだ。
その気持ちに、はたして自分は、応えられるだろうか。忘れはしないと、記憶から、決して消えはしないと、言ってやれるだろうか。共に過ごした、かけがえのない時間を、ずっと抱いて守っていけると、誓うことが──出来るだろうか。
もちろん──考えるまでもない。
9年間、忘れたことはなかった。初めて出逢った瞬間の、身体を包む穏やかな木漏れ日。惹かれるように、そっと近付いていったときの、胸の鼓動。彼の描くパズルの美しさに、思わずこぼれた溜息。夢中になって、地面に数字を描いたときの、握った木の枝の感触、湿った土の匂い。見守るようにこちらに向けられた、無邪気な笑顔。素敵だと、言ってくれた優しい声。暗闇の地下迷路で、離れないよう、しっかりと繋いだ小さな手の温もり。一緒に眺めた、壮大な夕焼けのパノラマ。固く交わした、あの日の約束。
覚えている──決して、消えはしない。
これなら、こんな自分でも、堂々と約束出来る。ずっと、忘れたりなんてしないと、誓って言える。
「ああ──約束だ」
約束、という言葉を聞いて、ルークは今度こそ、安堵したように微笑んだ。それにつられて、こちらも表情を緩める。子どもにするように、頭を軽く撫でてやった。白金の髪は、あの頃と同じで、柔らかく心地良い。
「忘れるわけないだろ。嫌いにも、ならないよ」
「……どうかな。僕は、嘘つきだからね」
ふと苦笑して、そんなことを呟くものだから、何言ってるんだ、お前は嘘なんてつけないだろ、と笑い飛ばしてやった。この親友は、いつだって素直で、正直で、思ったことしか言えないのだ。子どもの頃から、全然変わっていない。そういうところは、見ていて心配になるほど、不器用で──とても嘘のつける人間ではない。
そうかな、とまだ首を傾げているから、そうなんだよと勝手に決めつけてやって、互いに顔を見合わせて笑った。
「……ね、カイトからも、ない? なにか、お願い」
ひとしきり笑い合った後、真摯な表情で、ルークはこちらに身を寄せて問うてきた。どうやら、先程のような行為は行き過ぎとしても、単純に、何かを与えたいという気持ちには変わりが無いらしい。そんなの、いいよと手を振って見せたところで、それではおさまらないといったように、ますますせがんでくる。
「カイトは、僕にたくさん、与えてくれたのに。僕はカイトに、何もしてあげられない。そんなの、いやだよ……何か、させて欲しい。何も出来ないし、何も持っていないけれど」
そこまで言われて、なおも固辞することは、出来なかった。この友人は昔から、ふわふわしているようでいてその実、相当に頑固なところがあって、己の意思を決して曲げようとしない。そういうところも、全然変わっていないのだと、分かってなんだか嬉しくなってしまう。
「……そうだな。じゃあ、ひとつ頼んでいいか」
呟くと、ルークは目に見えて安堵したように肩の力を抜いた。それは何か、と問い掛けてくる、まっすぐな視線に、ふと笑って応えてやる。
「何も出来ないなんて、言うなよ。見たこともないくらい綺麗なパズルが作れる、ルークは最高じゃないか」
くしゃくしゃと頭を撫でると、ルークはくすぐったそうに首を竦めた。

必要なものは、紙とペン。直截にそれを使うわけではないが、道具作りには欠かせない。俺は携えてきた荷物を漁って、スケッチブックとペンケースを取り出した。その様子を、ルークは寝台の上から、不思議そうに眺める。
ベッドの上に座って、俺はスケッチブックを開いた。二人の間に広げた真っ白なページに、フェルトペンで格子を描いていく。
「……ああ、」
8×8マスの正方形──その意図を、すぐに理解して、ルークは自分もペンを手にすると、端から交互に塗りつぶしていった。白と黒の市松模様が紙面に現れてくるのを見ながら、こちらは小さく切った紙片にアルファベットを書き込んでいく。K、Qが一つずつ、R、B、Nが二つずつ、Pが八つ。こちらも、白と黒が分かるように印をつける。
できた、と呟いたのは二人同時だった。思わず、顔を見合わせて笑う。
「嬉しいな。いつ以来だろう……強くなったかな、カイト」
「あんまり期待すんなよ。こっちの腕は、別に磨いちゃいないからな」
英国にいた頃は毎日のように指していたチェスも、日本へ戻ってからは、相手がいないということもあって、何となく距離を置いていた。あの駒を見ると、別れてしまった親友のことを思い出して、悲しくなるから──そういう理由も、あったのだろう。
まともなチェスボードもピースもなしに、紙片を動かして対戦しようなどと、人に聞かれたらきっと、あきれられてしまうことだろう。構うものか、ちゃんとゲームが出来れば、道具は何だっていい。こんなものでも、チェスは出来るのだ。
本当は、道具さえも要らないかも知れない。自分と友人と、二人向き合って、頭の中にチェス盤を思い浮かべ、己の指す手を諳んじるだけでゲームが成立することは、子どもの頃に実証済みだ。とはいえ、チェスに天才的な能力を発揮するルークはともかく、こちらとしては、目に見える形で盤があってくれた方がありがたい。
あの頃、穏やかな陽光の下で、芝生に寝転がっていたときと同じように、今はベッドの上で寝そべって、盤上の世界で絡み合う。互いに深く、どこまでも深く、意思を、思考を、感情を、通い合わせていた。



「……投了(リザイン)。あーあ、やっぱ強いな」
大きく息を吐いて、俺はずっと同じ姿勢で固まっていた首と肩を軽く回した。いくら考えても、ここから勢力を巻き返そうな手が思い浮かばない。なにしろ、こちらが考えに考え抜いた一手を打つやいなや、まるで全てを見通していたかのように、ルークは駒を進め、気付いた時には、幾重にも巧みに張り巡らされた彼の術中に、面白いようにはまり込んでしまうのだ。懸命に駒を動かすごとに、ますます自分の首を絞めているような気がしてならない。悔しいが、ここまでくれば、どうあがいても完敗である。
やれやれ、子どもの頃は、「次は勝つからね」なんて毎回宣言していたものだが、いったいいつになれば、この友人に追いつくことが出来るのやら──そんなことを思いながら、頭をかく。
その彼は、すっかり勝負を投げたこちらに対して、少し首を傾げて問うてくる。
「いいの? 今の、上手くすればステイルメイトに出来たのに」
「お前がそれ分かってたら絶対出来ねえだろ」
いったいお前は、何手先の話をしているのだ──そう言って拗ねてみせると、こちらの様子が可笑しかったらしく、ルークはくすくすと笑った。その無邪気な表情に、ようやく彼の憂いを紛らわせてやることが出来たようで、少し安堵する。
こちらの勘が鈍っていたことを差し引いても、9年振りに対戦した友人の腕前は、以前にも増して精密に、かつ大胆に、見事な進化を遂げていた。これ以上強くなってどうするのかと、いっそあきれるばかりであって、そういう相手と対戦出来たことは、たとえいいように翻弄されてぼろぼろになって無残に負けたところで、悔しさよりも清々しさを覚えるものである。良いゲームだった、と自然に思うことが出来た。向こうにしても、格下の相手とはいえそれなりに楽しめたらしいことが、穏やかな笑顔からうかがい知れる。
ひとしきり笑った後、ルークは満足げに一つ息を吐いた。
「強いね、カイトは」
「皮肉かよ。らしくないぜ」
そうじゃなくて、とルークは緩く首を振った。
「カイトは、逃げないよね。そういうカイトが、大好き。……だから、僕も、逃げない」
目を伏せて、詠嘆するように言った、それがチェスのことだけ指しているのか、それとも他の意味があるのか、それは分からなかった。分からなかったけれど、なにか今、親友の中で大切なことが決まったのだということは、自然と伝い感じられた。逃げない、と言い聞かせるように呟いて、ルークは胸元でしっかりと手を握った。

──解けないパズルを、解いてみせる、だとか。
俺は逃げない、だとか。
目の前に立ちはだかるパズルに対して、確かに俺は逃げないことを誓い、繰り返し己を奮い立たせるように言い聞かせてきた。パズルから、逃げないこと──それは、かつてこの地で共に過ごした、彼らとの約束だった。決して破ることなく、手放すことなく、ずっと守っていくと決めた、約束だ。
たとえそれが、どんな痛みを伴おうとも。かつての約束を──それを真剣に交わした相手を、幼い頃の親友を、そして、ほかならぬ自分自身を、裏切って逃げてしまいたくはない。
──俺は、パズルから逃げない。
手を伸ばし、最初に触れた瞬間から、それは、パズルとひとつになるということだ。運命を同一にし、解放へと、己の全てを捧ぐということだ。結果として、解けようと──解けなかろうと。最後までを、見届ける。
逃げる逃げない以前に、そこには他の選択肢などはない。運命共同体であるパズルから逃げることは、自分から逃げることだ。そうやって生き延びて、いったい、この身に何が残るだろうか。いやなのだ、もう二度と、大切なものは──手放さない。
それが、俺にとっての、「逃げない」ということだ。ルークはそれを、「強い」と表現したけれど、決して格好良いものではないと、自分でも思っている。ただ不器用で、がむしゃらなだけだ。
それに対して、それでは、ルークの言う「逃げない」とは、何なのだろうか。友人は、いかなる決意で、その言葉を口にしたのだろう。その意味するところが、こちらと同じものであるとは、思わない。こちらがそうであるように、彼には彼としての、譲れない核心がある筈なのだ。それは、幼いころの体験に由来するのかも知れないし、あるいは、この9年間のうちに、彼の中で形作られたものかも知れない。
「逃げない」と誓うのは、今まさに、何か逃げ出したいものに直面しているからだ。俺の中で、パズルがただの娯楽ではなく、ときに忌まわしく、複雑な心境でもって捉える対象であるのと、同じように。
いったい、ルークは今、何から逃げたがっているのだろう──先ほど、彼が「助けて」と口にしたことを思い起こす。まるで、幼い頃にそうしたのと同じように、独りきりの世界から、手を引いて連れ出してくれと、願うように。覆い尽くして、縛りつけて、這入り込んで、責め立ててくるものから、護ってくれと、求めるように。それが──ルークの、「逃げたいもの」なのだろうか。
いずれにしても、既にルークは、逃げない意思を固めた。立ち向かうのか、あるいは、受け容れるのか。進む道を、明瞭にした。辛い思いをするだろう──痛い思いをするだろう。それでも、俺は友人がそう言って、明確な意思を表してくれたことが、嬉しかった。きっとそれが、彼にとっても、良いことなのだと思った。その決意に、僅かなりとも、自分のスタンスが影響しているのだとしたら、少しでも彼を後押しすることが出来たのならば、友人としてこれほど誇らしいことはない。

別れ際、扉の向こうで、ルークは一瞬、何か言いたげな表情をして、しかし結局その唇は何も紡ぐことはなく、穏やかな微笑へとかたちを変えた。少し目を細めて、こちらをじっと見つめる。
「……さようなら。逢えて、良かった」
妙な別れの挨拶だと思った。明日も、それに明後日も、ずっと一緒にいるというのに──まるで、これからまた、決定的に離れ離れになってしまうとでもいうような──どうして、そんなことを言うのだろう。
少しだけ引っ掛かったけれど、逢えて良かったというのは正直な感想であるし、別れ際にさようならというのは正しい用法なのだから、咎めだてすべきところでもない。もしかしたら、暫く使わないうちに、日本語が少し怪しくなっているのかもしれないな、と思いながら、おやすみ、と応えた。

さて、こちらも寝る支度をするとしよう。寝台の上のチェスボードもどきを片付け、ペンケースを荷物の上に放り投げる。それから、ふと思い起こして、床に身を屈めた。
薄闇の中、手を伸ばして拾い上げたのは、上品な光沢も美しいベルベットのリボンタイだ。寝台に腰を下ろしつつ、親友の落としていったそれを、確かめるように目の前に掲げる。
──まるで、首輪だ、と思った。
彼の細い首を、これは、拘束する鎖だ。
ルークが逃げたがって、助けてくれと懇願したのは、これだったのだろうか。
こんな風に、規定され、束縛されることから、自由にしてくれと──解放してくれと、そう言っていたのだろうか。
──そうだとすれば。
これを解いてくれと、言った彼の願いを、はたして自分は、叶えてやることが出来ていたのだろうか。
一つ息を吐いて、俺は思考の螺旋をそこで切った。大丈夫だ──きっと、ルークはもう、大丈夫だ。埋めきれない空白は、これから共に過ごす日々の中で、少しずつ確かめていけばいい。
何とはなしに、リボンタイを指先で弄う。明日にでも返さなくちゃな、と思いつつ、手の中に握って寝転がった。

明日は、二人一緒に、あの場所へと帰ろう。
共に過ごした場所を、時間を、思い出を、ひとつずつ辿って確かめよう。
そして、パズルを。
ルークが作って、俺が解いて、何度だって、繰り返そう。
そうやって、少しでも、大切な友人の抱えるものに、寄り添うことが出来れば良いと思う。
分かち合うことが、出来れば良いと思う。

温かく、鈍く、身体が沈んでいくのを感じながら、目を閉じた。




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#12が萌えすぎたので思わずヤン・デ・ルーク。ラスト加筆して本にしました→offline

2011.12.23

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