Species-フラグメンツ- / Sugito Tatsuki
語られぬ話、
封じられた記憶、
記録されなかった言葉、
表層に浮かんでは深遠へ融ける、
その螺旋に刻み込まれた歴史だけが証で、
拾い集めた断片が形成して
枝葉を伸ばすフラクタルの、
これはささやかな末端だ。
fragment-03
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唇に小さな、しかし鋭い痛みを覚えたハーレイは、周囲から懐古趣味と揶揄されるそのささやかな楽しみであるところの読書中であったが、没頭していた書物の世界から途端に現実へと引き戻された。舌を遣れば感じる違和感に、しみ入る鈍い痛みと鉄錆の味が広がって、傷の浅くないことを知らせる。室内は乾燥していたが、その裂傷を生じさせる程ではなく、ハーレイは、塞がりかけの人為的な傷が開いてしまったのだとすぐに原因に思い至った。
ハーレイの唇を噛み切ったのはブルーだ。
先の行為の最中、その息喘ぐ様があまりに煽情的であったから、ハーレイは思わず、勢い任せで唇を重ねてしまった。その間にもブルーに刺激を与え苛み続けていたために、探る指に無防備な点を突かれて仰け反ったブルーの、声を上げまいと加減なく噛み合わせた歯の犠牲となったのだ。舌を挿し入れていなくて本当に良かったとハーレイは回想する。鋭い歯と咬筋によって生じる負荷は肉を易々と喰い千切るだろう。
ブルーを抱くと、大抵の場合ハーレイは無傷ではいられない。
いつもブルーはハーレイの身に、癖のように爪や歯を立てるからだ。
だからハーレイはあちこちに生傷が絶えないけれど、別段に気に病むことはない。むしろそんなに力を込めては、ブルーの薄く柔らかな爪が裂けたり、捲れて剥がれ落ちてしまいはしないか、そのか細い指が折れたり、腱を痛めてしまいはしないか、それだけが心配でいる。
そうして、ブルーが出来る限り傷を負わぬよう留意するハーレイを、ブルーは不服に感じているらしい。煽るように、自ら為した傷口に舌を這わせ、滲む血液を舐めとり、軽く歯を立て、吸い上げる。その時、痛みは最早、恍惚を生む甘美な刺激に他ならない。
ブルーは、こういう風に(、傷を自分にも与えて欲しいと望んでいるのだ。
けれどハーレイにそれは出来ない。
情動を経由して痛みを感じさせてやるまでなら、懇願されれば果たすだろう。しかし、その身体に傷を刻みつけていくことは、ハーレイにはどうあっても出来ない。
ブルーの皮膚はどこにも傷一つなく、均一に滑らかで美しい。つくりものめいているとさえ言っていい。しかしハーレイは、その純潔を奪って価値を損ねることを嫌って、ブルーに傷跡を残したくないというわけではない。その思考は、疑いなく彼を崇めてつき従う者たちのためのものだ。
ハーレイは知っている。あの忌まわしいラボラトリで、ブルーは、日夜繰り返された非道な行為のゆえに、拘束され幾度となく針を突き立てられた腕も、切り拓かれた胸部も、床面に打ちつけた背も、――今にして思えば、陵辱を受けていたのだろう――虐待の痕跡を残した脚も、いつも傷だらけだった。色素の欠落した皮膚との対比も強烈な、ひきつれ爛れた、目を背けたくなるグロテスクな傷跡と、消える間もなく日々新たに刻まれていく細かな裂傷、創傷、鬱血痕――幼い身体は、既に内部の隅々まで征服し尽くされ、略奪の限りを受けた。
崩壊する星を逃れて後、ブルーは、傷の一つ一つを消していった。
それは本来のありようへと自然治癒していくというよりも、全てを塗り潰してきれいに覆い隠すような意図に基づいた作業であるように、ハーレイには見て取れた。
何も語らないブルーの目的は、ハーレイの想像に過ぎないが、恐らくは彼が"ソルジャー"たり得ることの、それが必要条件だったのだ。
ソルジャー・ブルーは人々の結束の象徴だ。色素欠乏という、一見にしてその重篤な欠落を抱えることの知れる彼の姿は、それぞれに癒えぬ傷を抱く人々が己を重ねて自然と惹かれる効果を十分に発揮する。
ソルジャーにこれ以上の傷は不要だ。それは人々の共感を得るよりむしろ、崇高なる指導者をヒトとしての存在に貶める。ソルジャーは人々と固く結びついていながら、決してその中に交わってはならない。指導者は同時に、偶像でなければならない。
望ましい偶像としての姿に、必要なのは超越者たる力を感じさせ心を奪う非現実的なまでの美しさ、それを備えた彼に、醜悪な傷痕は、――あってはならなかったのだ。
ハーレイにとって、ブルーはそんな偶像などではない。何にも傷を負わされることない神聖にして不可侵の存在などと、夢見がちな憧れを無邪気に抱ける筈もない。
だから、ハーレイがブルーに傷をつけたくないのは、それが――踏み越えてはならない境界と感じるからだ。その先へは、決して、行ってはならない。
ひとたび踏み越えれば、あとは止める術なく、崩壊へひた走るだけだ。
すなわち、最後まで――ブルーの渇望の、その最上位へ。
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壊れているのは、インプットかアウトプットか、
感覚を受容出来ていないのか、
あるいは認知の障害か、
それとも反応の問題か。
ブルーは逃避不可能な場面で苦痛を受け続け、身体の感受性がすっかり鈍化してしまった。
最早彼は、滅多なことでは感覚を生じ得なくなっている。
その身が感覚を得るのはただ、鋭敏な精神によって受け取る他者の情動を経由した場合のみに限られる。
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己の手のひらに意識を集中する。その身体の全てを探り、解き明かして知り得たいと、情欲を呼び起こされ、今にも性急に動き出そうとする衝動を押し留め、ハーレイは、高揚し暴れる情動を手に込めるイメージを想起した。
既にこれから訪れる感覚を予期してか、不安と僅かな期待のないまぜとなったブルーの揺れる瞳を見つめ、いよいよ意志を固くする。寝台に横たわり衣服をはだけ、さらけ出されたブルーの薄い身体の、脇腹に――ハーレイの手のひらが押しあてられる。瞬間、びくりとその身体が跳ねる。ブルーは苦鳴をもらし、固く目を閉じる。細い指先はシーツを掴んで強く握りしめている。
ブルーは、感覚を与えてくれと願った。彼は最早、殆どの感覚が失われ、それがなお一層に、その苦悩を深める。
今のブルーは、極めて痛みに近い感覚しか得ることが出来ない。
苛烈な情動を込めた肌の接触は、皮膚感覚ではなく、彼の開かれたその内へと注ぎ込まれる情動の熱でもって、その身に灼けつく痛みをもたらすだろう。
心苦しさを覚えながら、ハーレイは、反射的に逃れようとするブルーの身体を押さえつける。接触したままに撫で下ろされたハーレイの手が、ブルーの腰を捉えると、指先で骨を探り、圧迫する。
身体の内奥で伝い広がる刺激に、ブルーは喉をさらして唇をわななかせる。
その露わになった首筋をハーレイがもう片手で押さえ込むと、ブルーに戦慄が走った。
気道を圧迫しないようにと、優しく上下して喉を撫でる手に、ブルーは僅かに息を呑んだ。
ブルーの手が上がって、ハーレイの腕に縋るようにする。
その意図するところは、ハーレイにはよく分かっていたから、躊躇いは振り払い、手の中の首筋に強く爪を食い込ませた。
小さく呻くブルーはいつしか呼吸を乱していて、肌は紅潮していた。
足りない、足りないと、ブルーは、もっと苛烈にと、求めてやまないのだった。
少しばかり手荒く扱えば、たちまち使い物にならなくなってしまいそうに頼りない身体のくせに、彼は己を苛むことをやめない。
優しく撫でる指では足りない、もっと手酷く、して良いと、乱れた息の下から、情動のにじむ声で際限なく命じる。
苦鳴をあげ、
涙を落とし、
身を強張らせる。
罰するように貶めて、
律するように打ち砕き、
達するようにかき乱し、
愛するように汚して欲しい。
それがブルーの望みだ。
泣き叫ばせてくれと、
痛いと、苦しいと、やめてくれと、言わせる程に、執拗に探って暴き、虐げ、貶めてくれと、
それほどの圧倒的な痛み、
これまで幾度も受け続けてすっかり慣れきってしまったあの痛みではない、
未だ感じたことのない苦痛を、もっと、もっと与えてくれと。
どうしてこんなことになった。
ハーレイはやり場のない思考の循環に囚われる。
何をおいても、そのためならば自分は全て差し出して良いと思い、望むところを叶えてやりたい、そしてそれ程に思っている愛しさを伝えたいと思うほどに、
ブルーを傷つけなくてはならない。
感覚を欠損したその身に快楽を与えるために、ひどい苦痛をもってするしかない。
見るに堪えない、痛々しい姿、しかしそれをブルーに為しているのは、他ならぬ己なのだ。
こんなことに、ならざるを得なかった、選ばれなかった他の選択肢は初めから存在しなかった、非情な現実を、世界を、ハーレイは幾度も恨み、嘆き悔んだ。けれど今はもう、嘆きも祈りも同等に無価値だと分かったから、それらに形骸化したただのルーチンワーク以上の意味はない。
自分は彼を苦しめるしかない。
彼が彼を繋ぎとめられるように。
――いや、自分が彼を繋ぎとめていたいために。
取り返しのきくようなレベルでは、もうブルーは、最後に残された痛みすら感じ得ないのだ。
ブルーがあと感じるのは、きっと、最期の瞬間だけだ。
そして、それを為すのは誰であれ、自分でないことだけは、ハーレイははっきりと知れる。
ブルーに最後に感じさせる、未だ見ぬ者が憎くて、妬ましくて仕方がない。
自制を緩めて溢れる情動に任せれば、どうして自分ではないのかと叫ぶ不合理な訴えが身の底から湧き起こって渦巻き、同時に、そのようなことを思う愚かで矮小な自分自身への嫌悪に苛まれて已まない。
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