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Species-フラグメンツ- / Sugito Tatsuki






語られぬ話、
封じられた記憶、
記録されなかった言葉、
表層に浮かんでは深遠へ融ける、
その螺旋に刻み込まれた歴史だけが証で、
拾い集めた断片(フラグメンツ)が形成して
枝葉を伸ばすフラクタルの、
これはささやかな末端だ。



fragment-04



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覚えている。
そうだ、確かに記憶している。
あれが最初だった。
『彼』を知った、最初だった。

その時、彼と接触したのが自分であったという事実が、ことさらに重要で、意味あることのように感じられる。彼以外、個として識別されていなかった我々の中から、自分は実験者によって全くランダムに抽出された筈だ。自分だったのは、偶然か、それとも、本質は逆で――その接触があったからこそ、今の自分がこうしてあるということなのかも知れない。

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身を縮めてやっと横になれるだけの最小限のスペースのみを有する"ホームケージ"から引き出されて、移されたのは、予想に反して常の"実験箱(ボックス)"ではなく、あたかも罪人を捕え置くための設備に似た、――堅牢な鉄格子によって仕切られた巨大な地下空間だった。ラボラトリ上層に繋がる通路をかろうじて赤色光がぼんやりと照らすのみで、その全容は判然としない。得体の知れぬ闇に覆われた、旧時代的な牢獄ともいえよう不気味な様相に、知らず恐怖が生起する。
これも新たな「実験」のために組まれた装置なのか――ぞんざいに入れられた、一人のためには広すぎる空間の内で、出来るだけ光量の多い場にあろうと、通路に面した鉄格子に沿って移動する。行き当たった片隅の冷たい壁に背を預けて座りこめば、気休め程度の安心感は得られる。周囲を見回せば、牢の奥はなお、どこまで続くとも知れぬ闇に呑まれているが、次第に目が順応するにつれ、どうやら相当人数を収容出来るだけの設備であるらしいことが見てとれた。また、観察してみれば、空間を仕切るだけのものと思われた鉄格子はいくつもの障壁の一部に過ぎず、この上には何段階にも及ぶ頑強な防壁が幾重にも用意されているらしいことが知れる。要するに、"ホームケージ"と同様の機能を有し、規模を増した収容施設であろうと推測された。
「実験者」たちは立ち去り、何らかの試行が開始された様子もない。見慣れた仰々しい機器もなく――正に、ただ囚われているのみに他ならない。

このような場所へ移されて、これからどうなるのか、疑問はしかし、思考を巡らせる前に破棄された。思考ほど、ここ(..)において無価値なものはない。ラボラトリに囚われて最初の数日で、既にそれは絶対の真理でもって思い知らされていた。
考えたところで解は得られず、たとえ解ったところで何も生まれはしない。状況は、この身を置く世界は、厳然として存在し、それが何かを変えようなどという意志ごときでどうにかなる筈もない。
考えてはいけない。
想起してはいけない。
次に何が起こるか、自分がどうなるか、予測してはいけない。
当たっていようと外れていようと、それは同等に、底知れぬ苦痛でしかないのだから。 予期することで恐れて、怯えて、余計に自らを苦しみに陥れるならば、いっそ放棄してしまえばいい。 何も知らず、何も知ろうとせず、何もせず、何もしようとせず、考えることも感じることも行うこともなく、抵抗もなく、反逆もなく、ただ受容する。 現状を脱すべく、希望の道を探るなど――愚の極みだ。叶わぬと分かり切っていることを追い求めるのに何ら意味はない。そこまでして、――生きようとは望まない。
死にたくない、それは螺旋に刻まれた絶対命令として確かに存在する行動原理だけれど、だからといって、そのまま生への意志には直結しないのだ。
簡単な計算だ。
僅かの確率に期待して、命を賭して状況を変えようと試みるくらいなら、いつ殺されるとも知れない状況のままでいいから、生を引き延ばす方が良いというだけだ。
すっかり、作り変えられてしまったのだ。無力な己を、この身に根深く、教え込まされて、だからもう、何もかもが当たり前(....)なのだ。 全てが当たり前で、自明で、自然だから、――何の疑問もなく、嘆きもない。意志も、そんなもの、何も――持ち得ない。



不安を紛らわせるように、膝を抱えて、ただ無為に時間の過ぎるのを数えていた。その時、だった。なんの前触れなく、反射的に背が跳ねると、出来ればあまり見ないようにしていた暗闇を振り返った。静寂の中、微かにだが、耳が異質な音を捉えたのだ。
心拍が上昇し、急激な緊張状態に陥る。「実験」への予期不安による身体反応の表出を抑える術はない。息を呑んで、次の変化を待つ。何が起こるかなど、一方的に状況を操作される対象たるこちらからは分かりようもないのだから、考えても仕方がないのだと知りつつ、あれこれの可能性に思いを巡らせてしまうのは、きっと、この闇のせいだ。何かが、闇の奥に、何かが――いる(..)

どれほどそうしていただろう。身を固くして防御の構えをとり――しかし、相変わらず闇は闇の、静寂は静寂のままだった。激しく高鳴っていた鼓動も既に治まりかけている。――幻聴だっただろうか。闇への怯えから過敏になった神経が、ありもしない音を捉えたのか。結論づけて、ずっと詰めていた息を、吐こうと――

「――誰か、そこにいるのか」

明瞭に響いた声は、今度こそ幻ではなかった。安堵しかけたところで再び混乱に陥った頭では、その発せられた音の連鎖の意味を正しく理解するのにたっぷり数秒を要したのも仕方なかろう。

問いに対して、返答するのが当然であるという定理は、ここ(..)においては成立しない。ここには、返事を期待した問いなど、一つも存在しないからだ。
何事かを探るとき、人間相手ならば直接に、問いに対しての答えを――それが偽りない本心であるかどうかは別としても――期待できる。動物相手だとそうはいかないから、実験者は問いに代わる状況を設定してやり、観察を繰り返すことで答えを得るのみだ。
ラボラトリに収容された日から、言葉で問われる経験とは断絶して久しい。だから、突然に投げかけられた言葉に、何も返す術がなかった。会話そのものを忘れかけていたのだ。それに――うかつに行動すべきではない、何かをする(.....)よりは何もしない(.....)方が安全であるという、ここで身につけた自衛手段の基本事項が自動的に働いて、ただ、息を潜めた。場が沈黙に呑まれる。 返事のないことをどう捉えたか、闇の中のそれは、ふと息を吐いたようだった。

「すまない、驚かせてしまった――とりあえず心配はなさそうだな」

安堵の滲んだ声は、どうやら幼い子どものそれで、どこか深淵を感じさせる落ち着いた口調とはまるで不釣り合いであった。しかし何より重要なのは、その声から辿る先に、こちらに向けての敵意や、嫌悪、ネガティブな類の情動が、全く感じられないことだった。ラボラトリの人員からは例外なく読み取れるそれらの要素を、欠片も持ち合わせていない。それなりに信頼の置ける己の感覚と、状況を総合して鑑みるに、これは――初めて自分と同じ立場の者と接触している場面らしいという結論が導出された。

思いもよらぬことに、自然と心が高鳴る。己の内に、これまでにない変化の生じるのを捉える。
知りたい。
闇の、その向こうに、いるのだろうか。
ならば――知りたい。
自分と同じものを――知りたい。
すっかり行動への意欲を失った筈の自分の内に、こうして何かを追い求めようという強い渇望が残っていたことは純然たる驚きであった。恐るべき闇が、さあ、拓いてみろと招き語りかける。 その奥を見つめて、――口を開いた。

「こっちへ、姿を、見せてくれ」

久しく意味ある言葉を紡ぐことを離れていた喉だから、多少ぎこちなくはあったが、遮蔽物のない空間において捉えるのに苦労のないだろう程度の音声は発することが出来た。
――働きかけてしまった、禁を破ってしまったと思うと、沸き起こる不安が拭えず、唾を飲み下す。 答えの返ってくるのはやや遅れた。

「……動けないんだ」

短い返答に、まず思い浮かんだのは拘束を受けているという意味、次にどこか負傷しているという可能性だった。いずれにせよ、この距離を縮めるために最も都合の良いだろう方法のひとつは却下された。そして、それでは満足出来ずにいる自分を認める。もう既に、抗い難く、接触を欲していた。
そこにあるのなら――触れたい。声だけでは足りない、届かない、遠すぎる。抑えきれず、光の下から、闇の奥へと――向かう思いに囚われる。
一つの決意をもって、立ち上がろうと姿勢を動かした、その僅かな空気の変化を感じたのだろうか、やや弱くなった声は続けた。

「いけない、来ては――だめだ。僕は、醜悪な姿をしているから」

そしてまた溜息を吐く。先程は分からなかったけれど、ここで初めて、それが苦鳴を押し殺すためであることに気づいた。拒絶の言葉は引っ掛かったが、その息は紛れもなく苦痛を滲ませていたから、――放ってはいられなかった。
最早躊躇いはなく、立ち上がると、闇へ、声の方へと、踏み出す。微かな呼吸の気配を頼りに。制止の声は、かからなかった。
深い闇の中、慎重に歩を進める。大分順応した筈の目でも、己の身すらはっきりとかたちを捉えるまでには至らない。均一な床面を丁寧に見つめ、そうして初めに目に入ったのは、何か細い棒のような――投げ出された、腕だった。それを目で辿ると、うつ伏せてうずくまる、小柄な影が捉えられた。近づくことによって、その呼吸が切迫していること、肩を大きく上下して息を継いでいることが確かに認められた。

――どうしたらいいだろう。

その傍らに立ち尽くす。距離が縮まったのは良い、しかし、目的を達した、この次に自分は何をすればいい。何をしたくて、恐怖心を振り払ってここまで闇を進んできたのか。 声の主が、拘束されているのならそれを解くか、楽になるよう介抱してやるにも、こう視覚が利かなくては要領を得ない。光の下へ連れ出せれば――しかし先の言葉からするに、姿を見られることを望んでいないのか――聞きたいこと、知りたいことがありすぎて、端から溢れてはこぼれていく。思考の処理に手間取って、動くことが出来ない。そうしているうちに、相手の方が先に動いた。

「もし、……嫌悪感がなければ、」

苦痛を隠した息を継ぐ間に、囁く。

「手、を」

ぎこちなく、その腕が床面から持ち上がって示される。ぼんやりとそれを見ていた自分は、不意に我に返って、膝をつくと、躊躇いなくその手をとった。
触れた――瞬間、その冷え切った感触に思わず身を固くする。骨の硬度の直に伝わる指、か細い手首、滑らかな手のひらは薄く、本当に――自分より幼い、小さな手だった。 どうしようというのかと、次の言葉を待っていると、重ねた手を強く、握り返された。自然とそれに応えて、冷たい手を包み込む。
経験したことのない、不思議な感覚に囚われる。他者との接触自体、長らく断絶していたためだろうか、触れ合ったために、表層の熱の移動だけでなく、あたかもその内奥までもが、混じりあい、流れ込むように感じる。冷たい手なのに、むしろ温もりが伝わって、放してしまいたくない、――触れていたいという思いが起こる。

『ありがとう。おかげで大分楽になった』

声は、今度は空気振動によらず、直接に己の内に響いた。奇妙な感覚に戸惑い、ああ、そうかと思い至る。異端たる能力として、他者の思考の読めることは自覚していた。同様の能力を有するのならば、一方的に読むばかりでなく、発することで、伝達手段として相互的に用いることが出来るということだろう。初めての体験は、抵抗なく受け容れることが出来た。先に音声と、身体的接触を――長く欠乏していた、接触を、得たためだろう、純粋に、もっと欲しい、と思った。それを知ってか、声は続けた。

『こうして話す(..)のが最も効率的だから、――慣れていないのなら聞き流してくれればいい』

切迫していた呼吸音は今は落ち着いていて、確かに重ねた手の接触が何らかの効果をもたらしたことを伝える。

『ここには僕たちの他にも、数多くの仲間が囚われている。数は日々増大しているらしい。僕の探った限りでは、最早この規模の施設では収容不能なまでに。恐らく近々、個別の収容は取り止め、このような大部屋に移される。そして、それから――』

流れるような語りを一度切って、彼は言った。

『虐殺が始まる』

「……それは、」

『ひとつの予測としてだ。処理が追いつかずに手に負えなくなる前に、まとめて排除されるだろう。例えばこの空間に詰め込み、閉鎖して一気に』

これまで、先のことなど考えたことがなかった。いや、考えないようにしていた。ただ、今日をやり過ごすことだけが、目的の全てだった。だから、たとえ予測といえ、間近に迫り得る脅威を突きつけられて、――死の実感を捉えて、心が、もう諦めきった筈の心が、乱れた。

『だから、我々は――何としても生き抜かなくてはいけない。生きてここを出なければいけない。僕たちは、皆、生きるべき(.....)なのだから。――その時までに、皆に話さなければ――君のように素直な子ばかりだと話が早いのだけれど』

どう考えても自分より幼い相手にまるで逆に子ども扱いされたのには違和感が拭えなかったが、何故かその言葉には心地良さをおぼえた――直に伝わる彼の思いの、その温もりのゆえかも知れない。

『暗いのは苦手かい?』

唐突に投げかけられた問いは、これまでとは趣を変えていて、気を楽にしてする雑談とでもいうようだった。

「ああ……、こんなに、自分の手足もよく見えないのは、今までなかったから、少し」

繋いだ手は、闇によって生起する本能的恐怖を和らげて安心感をもたらすけれど、その相手の姿を、自分はまだ知らないのだ。不安は否定しきれない。 正直な告白に、彼は、ここはそんなに暗いのか(...........)と、新たな発見をしたように呟いた。その表現は多少気になったが、恐らくは視覚に何らかの欠損があるのだろうと思い至って、問い返すことはしなかった。

『では、向こうの――明りの方へ行こうか』

言うと、うずくまっていた影が動いて、身を起こそうとする。先程まで苦しく息喘いでいた身だ、その動作はうまくいかず、バランスを崩して再び倒れこみそうになるのを、横から慌てて支える。差し出された腕にすがって立ち上がろうとする気配が間近に感じられたが、脚に力が入らないらしい。一つ息をこぼすと、こちらへ身を預けてくる。その意を得て、小さな身体に腕を回した。その身は矢張り驚くほど細く、抱き上げるのに苦労は要さなかった。

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