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Species-フラグメンツ- / Sugito Tatsuki






語られぬ話、
封じられた記憶、
記録されなかった言葉、
表層に浮かんでは深遠へ融ける、
その螺旋に刻み込まれた歴史だけが証で、
拾い集めた断片(フラグメンツ)が形成して
枝葉を伸ばすフラクタルの、
これはささやかな末端だ。



fragment-05



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通路に面した鉄格子の合間から差し込む光の方へと、歩を進める。次第に曖昧だった物の輪郭が掴めるようになり、腕の中の彼の様子も明らかになっていく。俯いたまま、一言も発さずに身を預け、その表情は読めない。ほのかな赤色光の下では色彩ははっきりと捉えられないが、己の腕や、粗雑な衣服と対比して見るに、少なくとも彼は大分色素の薄いと分類されることは確かであるように思えた。髪も肌も同程度の明度に見てとれる。ふと、細い身体には大きすぎる衣服からのぞく肘の内側をそれとなく見やれば、いくつかの痛々しい傷跡が目に入り、己の為されたものと位置を同じくするそれに、思い起こされる「実験」の記憶もあいまって息苦しくなる。

最初に自分が座り込んでいた位置まで戻ると、抱きかかえた身体をそっと降ろす。ここへ至っても何の言葉もなく、壁へ背をもたれさせる腕にも身を任せきる、その様子はもしかすると何か不意に意識を失いでもしたのかと不安にさせられる。 焦燥が募り、何かしらの反応を呼び起こそうとその肩に手をかけようとして――しかし、思い留まらざるを得なかった。 改めて見てみれば、その身は頼りない子どものそれで、細い首筋から連なる鎖骨も衣服によって隠されずに明らかに見てとれ、むきだしの白い腕は簡単に折れてしまいそうだ。その身体はどう見ても、丁重な扱いを要し、庇護されるべきと感じさせる。 こんな彼にまで、あのような非道な「実験」を為したというのか、腕を、脚を拘束し、この華奢な身体に抵抗を許さず、苛んで、蹂躙して、泣き叫ばせたというのか――沸き起こる憤りは、これまでに感じ得なかった情動だ。先程から、彼と接触してから、自分の内に変化の起こっていることを知る。おかしい――けれど、それは決して、望ましくないことではない。

俯いた彼の頬に、おそるおそる、手をのばす。
指先が触れて、――思わず震えてしまったのが伝わらなかっただろうか。それから、手のひらを沿わせる。もう片手では、表情を隠して落ちかかる髪を払い、そうしてゆっくりと、顔を上げさせる。



陰から、光の下に少しずつ、明かされて、そうして知った、彼は――
軽く目を閉じ、唇を薄く開いた、夢の中にあるような、その表情は――
この場にあって、一点の穢れなく、――思わず息を呑んだ。
誰からも愛情を注がれ、大切に大切に、護られ、讃えられるべきで、
それこそ――人間離れした(......)、とでも言おうか――
醜く汚れた思惑に満ちた地上には存在し得ない、清らかで、
情緒的(ロマンチック)な表現を許されるならば、
手折らんと群がる愚者の欲望を逃れて、風に揺れる一輪の花のような、
また、現実にはあり得ない、概念たるようで、

――美しい、と思った。



その肌に触れることすら、すさまじい罪悪であるかのようで、一瞬、己の軽率な行いを恥じた。けれど、触れた指を、離すことは出来ずにいる。あまりに間近でじっと見つめることは躊躇われて、せめて無理やり視線を外せば、目に入ったのは、白い首筋と――疎らに散る、皮膚を侵蝕するかの、酷い鬱血痕だった。途端に、惚けていた己の心臓に氷塊が押しつけられたかの感覚を得る。幾度となく繰り返し供せられた非情な試行と虐待の紛れもない証として、腕にも、衣服からのぞく肩にも、どこにも存在する変色した傷痕が、赤色光の下、認めたくないと拒む間もなく、否でもあからさまな現実として目に飛びこんで、――その無垢な表情とのそぐわぬ取り合わせに、一層に堪らなくなる。自らを醜悪であると評したのは、姿をさらすことを拒んだのは、その身に明瞭に刻まれた傷のゆえだったのだろうか。自尊や羞恥からではなく、他者の内に恐怖心を引き起こすのを危惧してこそ――警告を発した、彼の内なる葛藤はいかばかりであっただろう。干渉を遮断する術を知る心を推し量ることは叶わない。

無意識に、指が、その生気のない頬の輪郭を辿っていた。躊躇いがちに、ぎこちなく、滑らかな肌をゆっくりと撫でる。触れるか触れないかで、呼吸をしているのかさえ疑わしい、唇を過ぎたとき、吐息が指先をかすめて、捉えた熱に、思わず喉が鳴った。

――長い睫が震える。
それに縁取られた瞳が、ゆっくりと、僅かずつ、あらわになっていく。
初めてこの世界に目覚めたように、その瞳はどことも知れぬ宙を見つめて揺れる。瞬きをするごとに焦点が合い、その大きな瞳と、正面から対峙した。色彩は判断出来ない、しかし目を逸らし難い、抗い難く引きつける、その瞳に――心を奪われた。この一瞬に、囚われてしまった。

互いに目を逸らさずに、何も言葉を交わすこともなく、そうして、時間経過すら忘れた――ふと持ち上がった、彼の手が、ずっと離れ難くその頤にかけたままだった己の手に、重ねられるまで。

「……怯えないのか」

返答を促す意図はさして強くはない、ただ思うところを口にしただけといった、ごく小さな囁き程度の声だった。前後の文脈を補完するにはその言葉はあまりに短かったが、きっと傷痕のことを指しているのだろうと思って、否、と首を振って見せた。その受け容れることを強要された苦痛のほどは想像するだけで身が竦むけれど、だからといって、犠牲者たる彼に対して、気味が悪いなどと思うものか、恐れなど抱くものか――強く思った。一方、彼はまだ腑に落ちない点のあるとでもいうかの表情で僅かに首を傾げ、何か言いたそうに口を開きかけた。ふと、その視線が光源の方へと上向けられる。

「ああ、そうか――赤色光、だから」

発せられた言葉にはまるで脈絡が感じられなかったが、僅かに目を眇めて、通路の天井に設置された照明を見遣った彼は、どこか納得のいったように独りごちた。
そして、こちらへ向き直ると、改めて手をとり、強い意志を宿した瞳で、告げる。

「時間は、もう、あまりない。
覚えていてくれ、
僕の話、
僕の姿、
――その日のために。
きっと、
共に、

――生きるために!」

強く、手を握られたと思った、その瞬間、彼の身体が――蒼い輝きに包まれて見えた。
視界が、非現実的な白い光に覆われる中で、捉えた、
彼の姿が――
初めて知った、その、真の色が――

限りなく白い肌、
色素の存在しない髪、
そして、
そこにあってはならない(...........)色、
透明な瞳によって遮られることのないその奥底、
見る者の自由を強制的に剥奪し、
射竦めて原初的恐怖に陥れる、
生々しい血液そのものの、
鮮やかなる、
赤が、

――強烈なまでの衝撃で、直接、脳裏に焼き付けられた。同時に、理解する――ああ、そうだった(.....)のだ、彼は、最初からこのこと(....)を――傷痕ではない、そんなものなどではなく、何よりも、根深く、決定的な、欠落を抱いた、その姿こそを――



そこで、世界は暗転する。
重力を失ったかの奇妙な浮遊感に囚われ、力の入らぬ身体が揺らいで、痛ましげにこちらを見つめる彼の像が揺らいで、その傍らに倒れこむのをやけに緩慢に自覚しながら、打ち放しの床面の硬度と冷たさを知るより前に、意識は途切れた。 ――声が、『ブルー』という、声が、最後、聞こえた気がした。


---+



勿体をつけるように通路に足音を響かせて、鉄格子の前に至ったラボラトリ構成員の一員たる男は、二体のMを放り込んである筈のその内部を覗き込むと、いかにも興味深いといった様子の声をあげた。

「何だ、そろそろどうなったかと思って来てみたら――随分と楽しそうなことになってるじゃないか。 早速迫られたのか? ああ違うな、待ちきれなくて誘ったのか、さすがだな!」

「………………」

無言で睨みつける赤い瞳の威嚇を全く気にも留めず、男は慣れた手つきで厳重なロックを外すと、サイオン抑制磁界定義システムの正常に機能していることを確認し、檻の内部へと足を踏み入れた。壁際に折り重なる二人分の影に、躊躇わず近づく。

「……こいつ、気を失ってるな、お前の仕業か? 残念だ、折角ウサギさんとの楽しいお茶会(ティーパーティー)の仲間に入れてやろうと思ったのに!」

「………………」

古典的要素を含む言葉遊びを言い得て妙とでも思ったのか、男は自分自身の発言を心底可笑しそうに嗤った。ひとしきりそうしてから、打って変わって今度は蔑みきった表情で、床に倒れ伏した身体を見下ろす。

「全く面倒をかけさせる、図体のでかいばかりで使えないダメネズミ、さっさと処分したらすっきりするだろうに――」

「その子に手を出すな!」

意識のない身体を足蹴にして転がしたところで、それまでの頑なな沈黙を破って初めて発せられた鋭い声に、男は「おや、まだまだ元気そうなご様子で」と呟くと、その自由にならぬ筈の無力な身で健気にも抵抗の意志を燃やす瞳に向き合った。

「同胞意識の獲得――と、まあ面白いことは分かったわけだ。何でも試してみる価値はあると、知の探究者は貪欲にも思うのでした……はは、これで"遊び"の決着もつきそうだ。楽しみに待ってろよ、『ブルー』?」

「………………」

子どもに教え諭すように、座り込んで間近に視線を合わせた上、頭を撫でてくる男の手から、ブルーは嫌悪感もあらわに首を振って顔を背けた。執拗な手を振り払い逃れようと上がった腕は、しかし、易々と掴み上げられて、その目的は達せられなかった。骨の軋む痛みに、堪えきれなかった苦鳴が僅かにこぼれる。

「さて、残念ながらこっちは待ってられない、ってことで、さっきの続きをさせて貰おうか。 一回やってはい終わり、なんてわけがないって、いい加減覚えただろ? 特別にインターバルも挟んでやったんだ、また啼いてみろよ」

男は、捉えた折れそうに細い手首を加減のない力で拘束すると、無造作にブルーの髪を掴んで、建築資材剥き出しの床面に引きずり倒した。

「…………っ、あ……、」

「聞かせてやるといい、夢の中まで、な」


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