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Species-フラグメンツ- / Sugito Tatsuki






語られぬ話、
封じられた記憶、
記録されなかった言葉、
表層に浮かんでは深遠へ融ける、
その螺旋に刻み込まれた歴史だけが証で、
拾い集めた断片(フラグメンツ)が形成して
枝葉を伸ばすフラクタルの、
これはささやかな末端だ。



fragment-07



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医療セクションの提案で、ソルジャー・ブルーの毎日決まりきった投薬のうちに、一時的にいくらかの変更が加えられていて、効果のほどを調べている最中なのだとは知っていた。勿論、何らかの副作用による危険な事態など万が一にも起こらぬよう、事前に綿密な計算とシミュレーションによる微調整が重ねられた上で、目覚ましくはなくとも多少の効率改善を目的とした試行である。欠損だらけのブルーの身体機能は、そうして細心の注意のもと、その働きに支障のないよう保たれなくてはならない。

――その、筈なのだ。
では、これは――どうしたことだろう。 正直なところ、ハーレイは困惑していた。

投薬を受けて、安静に寝台に横たわっているだろうブルーの様子が、どうにも気になって落ち着かず、――それは決して、医療セクションを信用していないとか、そういったレベルの話ではないのだが、何とはなしに、その寝室を訪れたのがいけなかった。 せめて事前に、このような事態の可能性を知らされていたのなら、まだ対処のしようもあっただろう。――いや、ソルジャーの健康状態のいちいちを詳細に船長(キャプテン)に報告しなければいけない道理などはないのだが――

静謐な蒼い薄闇に抱かれた自室で、ブルーは大人しく寝台に横になっていた。その傍らに立ったハーレイは、特にこれといって変わった様子の見受けられないその穏やかな寝姿に、抱いていた僅かな不安を払拭して安堵した。昔から些事に思い悩みがちで慎重なまでに慎重すぎるきらいのある性質が、根底において変わっていないのだと自分自身に苦笑し、ハーレイは掛け布を直そうと手を伸ばした。その気配を感じ取ったのか、ブルーは僅かに身じろぐと、小さく呻いて、瞼を上げた。焦点の合っていない瞳を揺らし、眩しそうに細めると、不明瞭な声で、ハーレイ? と呟く。

「すみません、起こしてしまいましたか――どうかお気になさらず、お休みください」

告げられた謝罪の言葉には反応せずに、ブルーはそのまま数秒、意識レベルの上昇を待ってか、ぼんやりとハーレイを見上げ――そして唐突に上体を起こした。殆ど、飛び起きた、と言っていい動きだった。 何しろそんなブルーを見たのは初めてだったから、ハーレイは一瞬何事かと呆気にとられたが、

――いけない――! 

咄嗟にその身を支えるための腕を差し出す。 案の定、ブルーの上体はぐらり(...)と揺らいで、崩れ落ちるように、ハーレイの腕に抱きとめられた。ぐったりともたれかかったまま、俯いたブルーの表情は読めないが、苦しげな息ははっきりと聞こえる――当然だろう。 ブルーは、肉体を急激に動かしてはならない。彼の運動する時は、その有する強力な特殊能力の補助を常に必要とする。 どれほど肺から酸素を取り込もうと、それが効率よく全身へと運搬されなければ意味はない。薬物治療では限界のある、ブルーの循環系に抱える欠落は、慢性的に彼の細胞を酸素欠乏に至らしめる。ブルーはその身体を動かそうとするときはいつも、特殊能力を用いるか、若しくは出来る限りの穏やかさでもって為すことを心掛けている。直情的で自ら先頭に立って行動することを重視するブルーにとってはもどかしいことだろう。ただ、無理をおしてサイオンに頼り、身体を急激に動かしてしまって、その後呼吸困難に陥って危険な目を見ることが何度かあってから、彼にしては珍しく慎重になっている。胸を押さえて息を乱す、ブルーの姿は見る者にまで同様の息苦しさを与える。 ブルーは身体機能の欠陥を補うためにサイオンを身に纏うことを常としているから、周囲の者はともすれば失念してしまいがちになるが、彼自身はその身体能力の限界をよく心得ている筈だ。

だから、どうやら今のブルーは、非常に珍しいことに、"寝惚けて"いるということらしい。そうでなければ、いくら直情的な性質であるといえ、こんな軽率な行いをするわけがない。まして頭部を急激に起こすなど――あまりに考えなしであると言わざるを得ないではないか! 何より危険なのは、呼吸困難ではなくて、一瞬の脳循環不全――いわゆる脳貧血による眩暈なのだ。例えば座り込んでいたのを急に立ち上がって、瞬間、脳から血量が下がって、ふと意識が遠のき、身体を支えていられず、重力に従って倒れこんだ先が、もしも、長い下り階段だとしたら――
底深い水路だとしたら――
あるいは、硬質な床面で頭部を強打したとしたら――
考えるだに恐ろしい。

一体どうしたというのか――ハーレイは、腕の中で息苦しく呼吸を継ぐブルーを見下ろして思う。ドクターを呼ぶべきであるという選択肢も保留しつつ、ブルーの呼吸がやや落ち着いたところで声をかける。

「どうされたのです、あなたらしくもない――何か伝達事項なら、思念波を用いてくだされば――」

その身を気遣う発言を遮ったのは、顔を上げるなり待ちきれないというように発せられた、ブルーの切迫した声であった。

「ああ、ハーレイ! 頼むよ、大変なんだ! それなのにどうして僕は寝てなんていたんだろう? お前は知っているか?」

――あからさまに高揚を表す浮ついた声、早口で、こちらに口を挟む余地も与えず、一方的に捲し立てる――ハーレイは言葉を失った。それでも不都合はないようで、ブルーは相槌も待たずに何やら話し続けている。 確かに、種としての共通特性に漏れず、直情的で気分屋で、やや情緒不安定のきらいがある性質だけれど、ブルーは決して多弁な方ではない。彼は多様な言葉を尽くすよりも、一言の重みを重視するからだ。譬えるならば、青い焔のような、静かな熱、それが彼だ。 それなのに、どうしたというのだ。 これではまるで躁状態だ――そこまで思って、ふと、ハーレイの頭を不吉な予感が過ぎる。
――決して他者の情動に感化されて引き摺られ同調してしまうことのないよう、堅牢な遮蔽を巡らせた、ブルーの精神にこんな効果を与えられるのは――
考えるほどに確信に変わる。 投薬の作用に、違いない。 薬効に見落としのあろう筈もない、優秀な医療セクションにおいてミスなど――だからきっと、これは、想定内の反応なのだろう、とハーレイは推察した。 別にブルーが一時的に躁状態といって、深刻な問題の生じるわけでもないからと、主効果の方をとったということだ。ブルーは今現在、本来なら――ハーレイが訪れていなければ――独り、自室で、妨げられることない深い眠りに就かされたままでいただろう筈で、そうした事情からも、医療セクションは"問題なし"の判断を下したのだろう。 ――軽率なことをしてしまった。今更ながらハーレイは後悔していた。彼らの組んだ計画を狂わせることにならなければ良いのだが――それはドクターたちの労力を無に帰しては申し訳ないという思いは勿論、再試行ということになれば、あまり投薬を受けるが好きではないブルーに、また新たな負担をかけてしまうかも知れないということを思っての心苦しさにも起因していた。

「青いのは良いな。白も良い。ただ、赤は駄目だ。あれは良くない。赤い光はいけない、……」

ブルーは、心ここにあらずといったハーレイの様子に構うこともなく、まるでそこに誰がいようと人形があろうと同じことであるかのように、独りで喋り続ける。話題は脈絡なくあちらこちらへと飛び、思い浮かんだことをそのままに口にしているとしか思えない。筋道の通らない、それでも尽きぬ話を、何かに急かされるように紡ぐ。その光景は実に奇妙であった。 適当に相槌を打ちながら、ハーレイは、どうしたら彼に再び静かに寝て貰えるかと思案していた。 いくら精神が高揚していようとも、身体の方がじきに、追いつかなくなるだろう――それを待とうか。 消極的すぎる手段だが、今のブルーに何を言っても聞かないだろうし、まして思念を送り込んで沈静させるなど、出来よう筈もない。ブルーの心は、こんな状態でも固く閉ざされ、徹底して他者の侵入を許さない。――その憂いの晴れた表情はいつになく活き活きと輝いて、忙しく身振り手振りを交える姿はいっそ子どものように可愛らしくさえあるのに――

「……それで、どうしようかと困っていたところなんだ。つまり、僕の指が、それは左手のことなんだが、これは一体、どうしたのだろう?」

「――――え?」

唐突な――そして奇妙な言葉を向けられて、ハーレイは思考を中断した。問いかけられたのだと分かって、ハーレイは暫し戸惑い、ただ、目の前に差し出されたブルーの左手を見つめた。ブルーは何か返事を待っている――

「ハーレイ! 聞いているのか?」

待ち切れなかったらしい。
しかし、そう言われても――ハーレイは困惑する他ない。 ブルーの、左手は――何の異常もない(.......)。 開いて、のばされた指は、いずれもまっすぐで、細く、しなやかに優美な線を描いている。ブルーが、何を言っているのか――分からない。

焦れたようなブルーの声に、その茫洋とした態度を責める色が加わる。

「僕の指だ、知っているだろう、あの時だって見ていたじゃないか! 僕の薬指の折れるのを(..........)!」

今度こそ、ハーレイの思考回路はひどい混乱に陥った。ブルーの薬指が――折れた? 
知らない。そんなことは、知らない。

「……ソルジャー、失礼ですが、何か思い違いを」

「思い違い? ああ、そうか、忘れてしまったんだな。だったらいい、安心した。忘れたのなら、それはとても良いことだ。覚えていても何の得にもならないし、何も意味がないからな」

ブルーは自分ひとりで勝手に納得の様子を見せると、それでも一層に身を乗り出して、ハーレイの腕を掴んで訴える。

「見てくれ、お願いだから! 指が、僕の――僕の薬指は、どうしてなくなってしまったんだろう(.................)?」

――その、皮膚の色素欠乏以外には、特筆すべき欠損のない、左手をかざしながら。

「……ブルー、」

「分からないんだ、僕に聞かれても、全く見当がつかない! だからこれは、他人の方が分かるかと思って、聞いている、ハーレイ!」

――溢れる言葉は、どれも悪趣味な冗談のようだ。冗談だったら良かったのに、とハーレイは叶わぬ願望を抱いた。けれどブルーは実際、精神が高揚して、そのために多弁で散漫になっているだけであって、他はいたって正常(..)なのだ。

他にどうしようもなく、ハーレイは、示されたブルーの左手をとった。勿論、薬指は、あるべき位置に存在している。 神妙な面持ちで、息を呑んで行く末を見守るブルーに見えるように、指差して示す――反応はない。そこで、薄い爪に触れて、軽く押すと、びくりと指先が強張る。そのまま、繊細な関節を辿り、根元まで指を這わせ、また爪までをなぞる。手のひらを返させて、指の腹から、また同様に、丁寧にかたちを辿っていく。続けて、指の両側から挟みこんで、冷えた末端の血行を促すように摺り上げる。戸惑うようなブルーの表情を確認し、筋を痛めないように気遣いながら、慎重に関節を曲げさせ、また伸ばしてやる。最後に、唇で触れて――

何かを発見したような、あ、という小さな声が、ブルーの唇からこぼれた。その反応に、ハーレイはもう十分かとも思ったが、美しい指を慈しむにはまだ行為は中途半端で、微かに情動の熱を抱き始めたところの自分が物足りず、気付かぬ振りをして細い指に口づけると、愛撫を続けた。「ないもの」に触れているのだから拒絶されるいわれもないだろうと、許可も得ずに、その指先を口に含む。口腔内の温度に対して、冷たいその感触が心地良い。溶かしてやるように舌を絡ませ、滑らかな皮膚を傷つけないように、そっと甘噛みして、神経の集中する部位に刺激を与える。付け根から側面を舌でなぞり上げてやると、今度は明らかに上ずった声が上がった。感覚を得たと知れるその反応に、惜しみつつも指を解放する。

「――これがあなたの左手の薬指だ」

分かりますか、とハーレイが問えば、ブルーは驚きに満ちた様子で、強く頷いた。

「何だ、知っていたのなら最初から教えてくれればよかったのに――勿体をつけて! ああ、矢張りお前に頼んで良かった、お前でないと駄目だ!」

喜びを素直に表出して屈託なく笑う、ブルーの様子は、その異様な状況も忘れ去らせるほどに微笑ましく、ハーレイは自分まで温かい心持ちになるのを感じた――だが、それも儚く一瞬で消え失せることになる。
心から満足げに目を伏せ、愛おしそうに自らの薬指を唇に寄せていたブルーは、何事かを思いついたように顔を上げると、期待に満ちた瞳を輝かせて、じゃあ、と続けたのだ。

「その調子で、他も(..)見つけてくれないか。僕の腕も、脚も、とにかく皆、なくなってしまったんだ」


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