Species-フラグメンツ- / Sugito Tatsuki
語られぬ話、
封じられた記憶、
記録されなかった言葉、
表層に浮かんでは深遠へ融ける、
その螺旋に刻み込まれた歴史だけが証で、
拾い集めた断片が形成して
枝葉を伸ばすフラクタルの、
これはささやかな末端だ。
fragment-08
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これが、あなたの腕だ。
これが、あなたの脚だ。
これが、あなたの指、あなたの爪、一つ一つを確かめるように、触れて、かたちをなぞっていく。
あなたの瞳、あなたの唇、あなたの舌、一つだって、こぼさないように。
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あらわにした耳元に口づけると、ブルーの震える吐息を捉えて、ハーレイは少しずつ位置を変えて愛しくそこをなぞった。柔らかなる皮下組織と確かな感触をもたらす軟骨の相反しつつも絶妙な協調を思わせる、適度な弾力ある薄い皮膚は、内包する熱を表出して既に紅潮している。その温度と、部位ごとの精密にして特異なる感触を舌先で味わいながら、ハーレイは問うた。
「あとは――もうこれで全てだと思いますが」
軟骨に軽く歯を立てられて、びくりと強張らせた身体から力を抜きつつ陶然とした息をこぼしたブルーは、精神状態の変化のゆえか、先の高揚した歯切れ良い声とは違ってぎこちなく、独り言のような気だるげな調子で一言、呟いた。
――首を。
その一箇所だけ意図的に触れるのを避けていたことを見通されていたと示すブルーの非情な言葉に、ハーレイは一瞬、思念を乱して動きを止めた。見ればブルーは、何か問題があるのかとでもいうように、僅かに揺れる瞳をまっすぐに向ける。だから、ハーレイはもう、誤魔化して逃れることが叶わないのだと認めた。
無意味にもせめて時間を稼ぐように、動揺を隠して緩慢な動作でのばされたハーレイの腕が、ブルーの首に触れて、指を沿わせた。そのまま加減なく力を込めて細い首をぎりぎりと圧迫する恐ろしく鮮明なイメージの勝手に想起するのを振り払い、両手を回して包み込む。あとは同じだ。これまでそうして各々の部位を示してやったのと同じように、繰り返す。項から頤まで、指先で、緩急をつけて滑らかな肌をなぞり、そっと顔を上げさせると、さらされた白い喉に口づける。ブルーが小さく息を呑むのも、声帯を震わせて吐息をこぼすのも、ハーレイははっきりと捉えることが出来た。
目を閉じて、熱を逃がすように溜息を吐いたブルーは、掠れた声で、分かった、もういい、と告げた。か細い腕が上がって、覆い被さる身体を離させるように軽く押しやる。それからブルーは、ゆっくりと目を開けると、最後に、もう一つ、と言ってハーレイの瞳を見据えた。
「僕は、どこにあるんだ(?」
それは、あまりに残酷で、あまりに無垢なる問だった。ハーレイは、己の依って立つ基盤が、揺らいで、剥がれ落ちていくのを明瞭に認めた。とめどない、崩壊を最早、直視せざるを得なかった。それは世界か、あるいは、一個の精神だったか――すなわち、いずれも同等なる、世界の揺らぎであった。
ブルーは言葉もないハーレイには構わずに続ける。
僕の腕も、脚も、首も分かった。けれど、どんなに僕の断片を集めたところで、それは僕に等しくはならない。フラクタルは、繰り返しではなくて――やり直しなのではないか。僕の腕を、脚を教え示したように、今度は僕を、僕というものを、確かに、規定してみせてくれ――
懇願するブルーの表情は真剣で、次第に焦燥と不安に駆られて切迫する様が自明に見てとれた。
早く、さあ、早く!
触れて、掴んで、なぞって、
これがそうだ、
これが確かに、そうなのだと、
捉えさせてくれ!
腕にすがりついて訴える――それが今の彼にとって唯一の拠り所なのだ――ブルーを、ハーレイはただ、茫洋として現実感なく見つめる他かった。
どれほど切実に訴えられても、どれほど考えを巡らせて応えようとしても、言葉を尽くしても、愛しく触れても、その望みは叶えられない。ブルーに与えてやれる、答えを、ハーレイは持っていない。ハーレイにブルーを捉えることは出来ない、だから彼に示してやれる筈もない。
これまでと違って反応を返さないことを不思議に思ってか、ブルーは顔を寄せてハーレイを見上げてくる。どうしたんだ、と頬に触れる。その、指の感触――
どうしてだ。
ハーレイは今にも叫び出したい衝動を堪えて歯を噛み締めた。
どうしてこんなことになった。
どうして、一番伝えなくてはならないことだけ、叶わない。
他などどうだっていい、ただ一つだけ、与えてやれればそれでいい。
それなのに、どうして自分は、そんなささやかな望みすら、叶える術を持っていない。
どうして、示してやることが、
「あなたはここにいる」と、強く、言い切ってやることが――出来ない。
ここに、こんなにも近く、
目の前で、
触れているのに、
腕を伸ばせば簡単に、
その身を強く、
離さないで、
繋ぎとめて、
抱くことが――出来るのに!
それでも、そうしても、ただ思い知らされるばかりだ――決して何に依っても覆されない、何者に依っても破られない、その存在と同時に定められた第一前提たる、絶対の理を。すなわち、
誰も、ブルーには触れられない(。
唐突に抱きすくめられたブルーは、居心地悪げに身じろぐと、沈黙を守るハーレイに説く。
「違うだろう、それは僕の頭だし、それは僕の背だ。そうではなくて、僕が聞いているのは、」
そこで何か気付いたように不意に言葉を切ると、僅かに首を傾げて、ブルーは呟いた。
「――どうしてお前が泣いているんだ?」
より一層に身体に回った腕に力がこめられて、ブルーはそれ以上何も言わずに黙りこんだ。
固く回された腕が解かれたのは、大人しくしていたブルーが力なくうなだれて溜息をこぼしたからだった。
「……眠いな。寝なくても平気と思うのだけど、これはどうにも、――寝ろと、いうことか」
精神の高揚に引きずられて余程消耗したのか、ハーレイが身を離すと、既にブルーの目は閉じかかっていた。
こんな状態のブルーを受け容れて相手をするのはもう堪え難かったから、ハーレイはその様子に正直、安堵した。薬効が切れて、次に目が覚めたら、きっと、いつも通りのブルーの筈だ――
そこまで思って、ふとハーレイは、己の思考に疑問を挟んだ。
――それでいいのだろうか。常のブルー、それが本当の彼である(と、それが望ましい在りようであると、言っていいのだろうか。不条理な訴えを、あれほど切迫した様子でぶつけてくる、そんなブルーはただの一時の気の迷いのせいで、本当(ではないのだろうか。
――仮に、ブルーが先のような自己存在への疑念を、常に抱き続けているのだとしたら――ただ表出することなく上手く覆い隠しているだけのことなのだとしたら、もしも、そういうことだとしたら――それは、危険だ。
あまりに――危険だ。
――否、とハーレイはどこまでも悪い方向へ突き進みがちな己の悲観思考を中断した。問題ない、ただの杞憂だ、彼は大丈夫だ(。これまでも、これからも、ブルーはそんな程度のことでどうにかなるほどか弱くはない。その強靭な精神に、過去どれだけ驚嘆したことか。もしも問題があると仮定して、それならば自ら我々に対して、それと告げる筈だ。そうするべきだ。我々は、信頼すべき、同胞なのだから。
そしてハーレイは思考を結論づけて打ち切った。
無意識に、受け容れ難い現実から目を背ける手段を選択した。
その時、ブルーは確かに、助けを求めていたのに、見て見ぬ振りをして、背を向けた。
こちらへ向けてのばされていた、ブルーの腕を、気付かぬ振りを装って、振り払い、撥ね退けて拒絶し、そうして後にどれだけ悔いてやり直しを望んでも、二度と再び手をとってやることは出来なかった。
たった今、己が取り返しのつかない過ちを犯したことも知らず、ハーレイは、むしろ全く逆の思考を巡らせていた。
寝台に横たえたブルーの衣服を整えて、掛け布を広げつつ、ハーレイは、これはまたとないチャンスではないかと思った。今なら、精神の安定を欠いている、今なら、ブルーを、――利用出来るのではないか。
彼の口から、明かして貰うことが、出来るのではないか。ずっと知りたいと求めてやまない、そのことについて――過去に、欠落した記憶に、こうも苛まれる、その理由について。自分はその時、一体何をしたというのか、――知りたい。
生きる限り封印しようとした、ブルーの意志に反しようと、そんなことはどうでもいい。答えを得られず思い悩むのは何より堪え難い。
疲れきって今にも眠りに落ちようとする、寝台に沈んだブルーのおさまりの悪い髪を撫でる。その動きで、ブルーは意識を少しばかり引き戻されたようだった。目は閉じられたままだが、小さく呻くのを確認して、ハーレイは問いかけた。
「……一つ、お聞きしたい。ラボラトリで、私が、あなたの――首に、手をかけたという」
ブルーはこともなげに、ああ、と呟いた。今一度ハーレイは迷いを振り払って続けた。
「私は何故あなたに、そんなことをしたのか」
「……"何故"……?」
繰り返すと、ブルーはゆっくりと瞼を上げた。その瞳には、常の強固な意志を宿した輝きはない。その内奥の判然としない、翳った瞳が、どことも知れぬ中空へ向けられる。
「首を絞めるのに、理由なんて明らかじゃないか――そんなことも分からないのか」
それだけ言い残すと、ブルーの意識は急速に沈んでいって、もう追うことは叶わなかった。
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