Species-フラグメンツ- / Sugito Tatsuki
語られぬ話、
封じられた記憶、
記録されなかった言葉、
表層に浮かんでは深遠へ融ける、
その螺旋に刻み込まれた歴史だけが証で、
拾い集めた断片が形成して
枝葉を伸ばすフラクタルの、
これはささやかな末端だ。
fragment-10
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in S.D. 280.
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そこへ放り込まれたのは二回目であったが、今回は全く様相が異なった。初めて足を踏み入れた時には赤色光のみ灯った底深い闇に呑まれていたために、不気味に口を開いた得体の知れぬ巨大な空間の歪みにも感じられたその収容檻は、今は無機質な青白い光が高い天井から注ぎ、被収容者たちのうちひしがれた表情を無慈悲に照らす。うつむき、膝を抱えて座り込む、同じ粗雑な衣服を纏う者たち――新たに引き連れられてきては空間を埋めていく、多数の仲間の存在を目の当たりにして、まず、その事実に驚いた。自分と同じ異端者が、数え上げるのも無意味なまでに、同じ場所に、すぐ近くに存在しながらも、孤独と絶望のうちに何とか生を繋いでいた――同胞を得た喜びを、しかし、感じて心躍らせるほどには、状況は穏やかなものではなかった。
わけもわからぬ状況で、それでも、自然、辺りに目を走らせた。一様に無力感もあらわにうちひしがれる面々の内に、見知ったあの、"彼"の姿を探した。
探すまでもなかった。
一度でも目にすれば忘れようがない強烈な印象をもたらす、色素の欠落しきった姿は、いかに遠く離れていようとも、視界の隅に捉えただけで、圧倒的な力でもって注意を引きつける。彼は、そこにいた。うつむく者たちの中で、唯一、顔を上げて、周囲を見据えていた。あまりにこの場にそぐわないその気高い在りように、あたかも自分の願望が見せた幻か何かではないかと思わせるほどに、彼は際立っていた。単純には信じられない思いで、視点を外さずに幾度か瞬きをしても、彼はそこに存在した。
――実在したのだ!
心が跳ねて、とめどない思いが湧き起こり、死んだような身が忘れかけた熱を取り戻す。
あれは夢ではなかった。彼は、確かにかつて、自分と接触し、生きるべき(という言葉を残していったのだ、こうして再び出逢うために!
今すぐ、衝動のままに駆け寄って、喜びを伝えようとした。
あなたのおかげで、どんなに自分が救われたか。あなたがどれだけ、今日までの延々と繰り返される日々の支えとなったか。どれだけ、あなたに焦がれ、愛し、求めたか。
あなたが選んでくれたこと、あなたが、この多くの中から自分だけを選んで(その声をくれたということが、自分が特別であるという証が、言葉を失うほどに嬉しくて、
ただあなたに再び逢いたくて、
再び触れ合いたくて、
より多く、分かち合いたいと、
声が嗄れて尽くす言葉もなくなってしまうほどに語りたくて、
切なく思い焦がれたのだと、その手をとって、伝えようとした。
今にも立ち上がりかけたところで、そのはやる思いを止めたのは、彼が、誰かその傍らの者と親しく言葉を交わしていたからだ。内容までは分からない、しかし一言二言ではなく、継続して会話が成立している。何故だか、それを見て、心が乱れた。歓喜に溢れた浮き立つ心が、違うものへと変容していく。
近づくことはやめて、遠い場に留まって、彼を見つめる。彼は膝を抱える者に歩み寄ると腰を下ろし、何か囁く。うつむく者は恐る恐るといった様子で目を上げると、おどおどと戸惑いつつも彼に応じる。彼はゆっくりと頷く。彼はそうして、周囲の者たちに語りかけて、時には力づけるようにそのか細い手を重ねるのだった。――あの時、自分に対して、そうしたように。
うちひしがれる者に、意志の強い瞳を向けて励まし、時に表情を和らげ、嘲弄と侮蔑しか存在しない日々においては失われて久しい、無垢なる笑顔すら見せる。
彼の様子を詳細に見つめるにつれ、自分の内奥で、暗い感情が首をもたげる。
どうして、こちらに注意を向けてくれないのだ。
すぐに自分を見つけて、そちらから駆け寄って、来てくれないのだ。
自分は、彼にとって、特別の筈だ。
長く言葉を交わしたし、介抱してやったし、接触して、その細い身体の儚い重さも、
滑らかな肌の手触りも、痛々しい傷も、こんなにも知っている。
それなのに何故、こちらに気付きもしないで、そんな者などと話しているのだ。
放っておけば良いではないか。
自分は誰よりあなたを強く愛し、必要として、求めているのだ。
そんな者にかける言葉があるくらいなら、早くこちらへ向けてくれ。
あなただけを、ずっと思い続けてきた、それに報いてくれ!
認めたくなかったのだ。彼は、その意志でもって自分を選んだわけではない。誰も皆、彼の前には等しく重要であり、等しく無価値なのだ。自分にとって彼はただ一人でも、彼にとって自分は多くの内の一人に過ぎない。その言葉は彼が個人的に自分に授けたものではない。彼は自分だけのものではない。誰しもの心を占めながら、彼は決して何者にも独占して所有されない。
誰も、彼には触れられない(。
思い知らされて、自分が勝手に作り上げた彼の偶像と現実との無情なまでの差異に苛まれる。
あたかも自分の内の彼こそが真実で、それが奪われていくような感覚に陥る。描いていた夢想が、崩れていく、裏切られさえしたかの感覚。
どうして選んでくれない。
自分だけ見てくれ、励ましてくれ、それも特別な、
自分だけが与えられることを許された言葉でもって!
あなたを思って生き抜いたのだ。
あなたが生きろと言ったから、
あなたのために、耐えたのだ。
あなたが存在するのだから、それならば、働きかけてくれ、証をくれ!
その時は、己の内を支配する感情が一体何であるのかも分からなかった。それは、全く身勝手で不合理な、子どもじみた独占欲であったのに、未熟な自分はそれと知ることが出来なかった。ただ沸き起こる思いが、自分にとっては何かとても、恐ろしく重要なことのような気がしていたのだ。嫉妬に胸の内の荒れ狂う苦しみも、あたかも彼の過失のようにさえみなしていた。
ふと顔を上げて空間の全体を見渡した、彼の視線が、淡い期待を抱く自分の上に、僅かにも留まることなく素通りしていく。言うまでもなく、そんな程度のことで彼を責めるのは筋違いというものだ。けれど、自分はまだ、彼の欠損して殆ど有用性のない視覚認知の特異性について知る筈もなかったから、それだけのことに、ひどくショックを受けた。
これ以上彼を見ているのが辛く、あえて視線を逸らすと顔を伏せ、建築資材剥き出しの床面に走る細い亀裂をなぞった。こんな彼など要らないと思った。欲しいのは自分だけを見てくれる彼だ。多くの中の一人としかみなされないならば、こちらから彼を拒みたい。
――何と愚かだったろう。
思い通りにならないといって反抗を試みて、しかしその実、そうして沈んだ振りをしていたら彼の気を引けるのではないかと浅ましい思惑を抱く。
ブルー、と、あの時自分の内に残されたその名を、胸中でそっと呟く。
一度それを己に許してしまったら、焦がれる思いは募るばかりで、とめどなく、溢れる情動のままに、その名を呼んで彼を求めた。
気付いてくれ、
見出してくれ、
もう一度、その手を差し伸べてくれ!
彼のように、己の思うところと等しい意思を直接に伝達し相手の内に生起せしめる術を、自分は知らない。少なくとも、動揺のゆえか、あるいはこの檻が異端たる能力を厳重に封じ込めているのか、今の自分は他者の思考を明確に読むことも叶わず、ただ場の不安に満ちた息苦しい空気を肌で感じるのみというお粗末な状態だ。だから、彼がこの"声"を聞いてくれているのか、届いて、伝えられているのか、確信はない。
聞き届けられるかも分からない、それは全く無意味かも知れないのに、縋るように、何度も繰り返した。
彼は人々に声をかけつつ、とうとう、こちらまで至った。
「――君は、」
あの声が耳を打って、思わず身体の奥が震えた。
「覚えていてくれたんだな、僕を――ありがとう」
目を上げれば、あの時と同じ、幼いながら確固たる意志を宿した、鮮烈な赤の瞳に一瞬にして囚われる。ああ、今、この瞳を独占している――荒れ狂っていた心が穏やかに満ち足りていく。
胸の内を読み取ったのだろうか、彼の細い手が重なる。触れられた指先が跳ねるのを懸命に抑えたのが伝わってしまったかも知れない。冷たい手だ。しかし、そのしなやかな感触が、確かな温もりをもたらす。知っている、彼の温もりだ。
『――僕たちには力がある、ということだ』
覚えのある感覚が生じて、反射的に彼を見た。彼はその反応に僅かに頷くと、何事もなかったかのように続けた。
「あの時は面倒をかけてすまなかったね。しかし僕も君が急に倒れてしまった(のには驚いたよ。その後、大事無かったかい? 心配で仕方なかった」
何ということもない雑談といった様子でにこやかに語る一方、その真の意図は声ならぬ"声"で強く、明瞭に伝達される。
『生きるための力だ。僕たちは無力ではないし、当然に虐げられるべきものなどでもない。僕たちは、』
――生きるべきだ(、と告げるとき、その手に力が込められたのが分かった。
「不安なことだろうと思う。だが望みを捨ててはいけない。共にここを出るんだ」
それとは知れないが、確実に今現在も厳重な態勢が敷かれているだろう監視の目と耳を意識した上でとったフェイクの会話を自然に打ち切ると、彼は、もう用は済んだとでもいうようにあっけなく、重ねた手を離して、既に視線の先は他の者へと向けられている。
彼は、――他の者にも、同じ事を言うのだろうか。
これが自分だけへ向けられた言葉だと、信じさせてはくれないのだろうか。
立ち上がりかけた彼の細い手首を、咄嗟に掴んでいた。動きを阻害された彼は、僅かに目を瞠ると、困ったように首を傾げる。彼を引き留めてもう一度こちらへ向き直らせることに成功しておきながら、自分は一体何をしたかったのか、告げる言葉のひとつも出てこない。それでも、不安に押し潰されそうな中でようやく掴んだ唯一縋れる存在を、惜しまずに解放してやることは出来ずに、焦燥のままに捉えた手を握り直す。
――このまま、放したくない。誰にも渡したくない。ずっと捉えて、自分だけのものにしてしまいたい。
しかし、無情にも手は外れた。彼のもう片手が外した。彼の指がかかって、それで、強く掴んだ筈の自分の手はあっさりと抵抗なく彼を放してしまった。
「――大丈夫だ」
宥めるように肩に手を置いて告げると、彼は離れていった。
その後姿を見送るでもなく、自分は、呆然として、強張った己の手を信じ難く見下ろしていた。
彼の指先の触れた瞬間に流し込まれた、徹底的なまでの明らかな拒絶の意志(と、心臓に凍てついた白刃を押しつけるかの鋭い痺れが神経から抜けない、その手は、指一本たりとも思い通りに動かせないまま、小刻みな痙攣を続けていた。
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