Species-フラグメンツ- / Sugito Tatsuki
語られぬ話、
封じられた記憶、
記録されなかった言葉、
表層に浮かんでは深遠へ融ける、
その螺旋に刻み込まれた歴史だけが証で、
拾い集めた断片が形成して
枝葉を伸ばすフラクタルの、
これはささやかな末端だ。
fragment-11
----
声が、聞こえる。
ブルーは無造作に補聴器を外して、寝台の脇に放った。そのまま寝台に上がると、うずくまり、固く目を閉じる。
声が、聞こえる。
ブルーの指がぎこちなく上がって、その象徴たる衣装にかかると、もどかしげに留金を外す。優美なマントも、長手袋も、純白の上衣も外し、身体に密着する黒の上下だけを纏った自分自身を、ブルーは確かめるように肩を掴んで抱いた。
声が、聞こえる。
頑なに頭を振ってシーツに擦りつけるたび、色素の欠落した髪が乱れて、面に落ちかかる。
それでも、声は已まない。
ブルーは統制を試みた。己の内よりとめどなく湧き起こり、連鎖的に蘇る過去の残骸に僅かにも囚われたならば、ともすれば強烈なフラッシュバックに呑まれ、自己抑制は容易く瓦解するだろう。それだけは回避しなければならない。この身から解放してはならない、抑制しなければ――
思ったそばから、何の前触れなく身体の中心より這い上がるおぞましい感触に、ブルーはびくりと肩を震わせて息を止めた。感覚の記憶が、刻み込まれたままに薄れることなく、内に置き去られている。無遠慮に侵入し、うごめいてかき回し、焦らした上で弄んで、突き上げて刻みつける、徹底的に略奪し、汚して貶める意図を持ったその情動の残滓が、ゆっくりと動き出す。
「……っう、……あ、あ――」
か細い両手で覆った口元から、小さな苦鳴がもれる。わななく唇から一つ息を吐くと、ブルーは異常な動悸の鎮静を試みて片手を心臓の上に押し当てた。同時に呼吸を整えようと努めるが、明らかに乱れた呼吸音が耳について、ブルーは苛立った。
気付けば微かに指先が震えだしている。つられるように、じわりと冷汗が滲み、悪寒が走って、ブルーは身を竦めると己をかき抱いた。
――誰か――
咄嗟に思念を飛ばしかけて、ブルーはそれを中断した。代わりに、室内に巡らせた防壁を一層に強化し、万が一にも遮蔽の解けることないよう念入りに強度を確かめる。その作業をしておいてから、ブルーはうつ伏せると、堪えきれずに切迫した息を継いだ。息喘ぎつつ、ブルーは這って寝台の片端に寄ると、腕をのばす。焦燥のままにのばされた手はサイドテーブルの上を辺り構わず乱雑に探る。顔はシーツに埋めたままの手探り状態であったから、振った手にひっかけて、乳白色の小瓶が倒れた。緊急場面で容易に口が開くことを第一の目的として設計されたその容器は、衝撃にロックを外して中身をばらまける。そこらじゅうに散らばったのは、一般に用いられるカプセルではなく――色とりどりの小さな立方体であった。
"キューブ"と呼ばれ子どもたちに親しまれているそれは一種のゼリー菓子であって、照明を受けてきらきらと輝くさまが可愛らしい。口当たりとしては球状の方が良いだろうものを何故"キューブ"が立方体なのかといえば、それは我らが指導者のゆえである。すなわち、彼が転がして落としてしまわぬよう、こういった場面での服用を念頭に置いて特別に成型されたもので、本来は勿論球体だ。ただブルーはそれを何気なくキューブと表現するから、知らず人々の間にもその名称が浸透している。
ブルーは手近なキューブの一つを無造作に掴み取ると、痙攣する指先で口に押し込む。舌の上に転がして溶かせば、求めて已まない糖の味が広がっていく。その穏やかに浸透する甘さは、焦燥に支配される精神に働きかけて少しばかりの安堵をもたらしたが、しかし悪寒は既に全身を支配し、末端の痙攣は已まない。
――待つんだ。
ブルーは、身体症状からの影響で、ともすれば加速的に精神の安定を失いかける己に言い聞かせた。血中の糖分濃度が正常範囲に回復して全身に循環すれば、こんなものは治まる、何ということもない、それだけのことだ、少しの時間、耐えれば良いだけだ――耐えろ、大丈夫だ――
掛け布を引き寄せ、身体に巻きつけて掴み、少しでも気を紛らわせようと努める。
浅い息を継ぎながら、声を殺していたブルーはふと、自分自身を抱く腕の力を僅かに緩めた。
「どうしてか……分かってしまうんだな、僕が呼んでいるのか……」
一つ息を吐いて呟く。
「完全に、遮蔽している筈なのに――」
独りごちると、ブルーは再び息を詰まらせ、渇望に従って新たなキューブへと手をのばした。震える指先は、摘み上げようとするそばからかえってキューブを落として床に転がしてしまう。ブルーは舌打ちをすると、寝台の端まで、力を込めた腕で身体を重く引き摺ってにじり、拾い上げようと床面に手をのばす。特別な意匠の凝らされた重厚な寝台のフレームの幅と高さが、その動きを阻害して、しなやかに反った指は目標に届くことなく空しく中をきる。小さく苦鳴をもらしつつ、ブルーは更に身を乗り出すと思いきり手をのばして――
無理な姿勢をした上体がバランスを崩し、か細い身が柔らかな寝台から冷えきった硬質の床面へ、頭から落ちて打ちつけられる、その危ういところで、ブルーは差し出された腕に抱きとめられた。
「あなたは、どうしてそう――少しばかり待って頂ければ良いものを」
呼ばれた(ことを言語化されないイメージで、しかし明瞭に捉えて、何をも置いて急いで来てみれば、寝台から危うく身を乗り出して今にも落ちそうなブルーを目にして、慌てて駆け寄り引き戻した、ハーレイの一連の涙ぐましい行動を、ブルーは労うでもなく、むしろ何でもないことのように当然にその腕に身を預けながら、なお視線は床のキューブに執着して注がれていた。
「お前が来るのは分かっていた。無為に待っているのが気に入らなかっただけだ」
小さくこぼすと、ブルーはハーレイに、床に散らばるキューブを拾うように言った。
「すぐに新しいものを届けさせましょう」
ブルーを寝かせて、床のキューブを拾い集めつつハーレイは部下に命を出そうとしたが、ブルーは、いやいい、と口を挟んだ。向き直って意を問うハーレイに対し、ブルーは片手を持ち上げると、ハーレイの集めたキューブを指す。
「それが良い」
「――しかし」
「今、欲しいんだ」
地位ある者たる彼に、一度落としたものを口にさせるというのは、衛生上特に問題ないとしても、感覚的に――受け容れ難い。ハーレイは躊躇わざるを得なかったが、ブルーが小さく呻くや身を縮め、強くシーツを握りしめて、震える息を吐きながら、早く、と上ずった声を上げるのを見て、迷いを振り捨てた。
今のブルーには、――必要なのだ。その、子どもの口寂しさを紛らわす程度の、糖分補給という以外に何ら特殊な効能を持たぬ、ただのキューブが、何よりも――彼の乱れた精神を鎮静する。
願いが聞き届けられると確信して、ブルーは手を差し出す。その白い手のひらにキューブを乗せてやる、あるいは直接に口に入れてやる代わりに、しかしハーレイは、キューブを己の口に含んだ。ブルーは僅かに目を見開く。それから意図を察し、差し出していた手を下ろすと、溜息を吐いて、諦めたように目を閉じる。
その様子を確認しながら、ハーレイはキューブを舌の上に転がした。表面を舐めとり、表層を溶かしていけば、甘ったるい風味が口腔内に広がる。暫し間を置いて、十分な頃合いとなったところで、ハーレイは横たわるブルーに身を寄せた。その華奢な身体を抱き起こす――ブルーは意識障害を起こしでもしたのかと思わせるまでに力なく、されるがままに身を任せる。喉に落とし込んでしまわぬよう、ハーレイのもう片手がブルーの頼りない頸部を支えて角度を固定する。薄く開かれて、割り入るものを受け容れようと待つ可憐な唇に、ハーレイは静かに唇を重ねた。舌先で押し開いてやれば、僅かな抵抗の後、歯列が割れる。注意を払いつつ、その口腔にキューブを移してやる。受け取るブルーの舌先が掠めて、そして、小さく音を立てて離れた。口の中に残った甘い香りが薄れていくのを感じながらハーレイはブルーを見遣った。今しがた触れた唇も冷えきっていた、ブルーは変わらず目を閉じて、肌はいつにもまして血の気がない。
キューブを味わっていたのだろうか、沈黙を守っていたブルーの軽く閉じられた瞼が、おもむろに震えると、赤の瞳があらわになる。ゆっくりと吐き出される息は、大分症状の落ち着いたことを示す。何も言わないままに、ブルーの腕が上がって、案じて身を屈めていたハーレイの頬に触れる。冷たい指先が、熱を求めて彷徨うのを、ハーレイは明確に捉えた。
「……寒い、」
触れる指先と、紡がれる小さな囁き声が、ハーレイの奥底の渦巻く情動を呼び起こした。
――いい加減にしてくれ(。
ハーレイは苛立ちを隠しもせずに直接に思念に乗せた。その苛烈さに、ブルーは一瞬、身を強張らせ、しかし不可解そうにハーレイを見上げる。あたかも自分は何も非がないといった無自覚なその様子が更に情動を刺激し、ハーレイは衝動の抑制を放棄した。
常と異なるらしい状況を察知して咄嗟に身を引こうとするブルーのか細い手首を力任せに掴むと、逃れることを許さず寝台に押さえつける。苦鳴をもらすブルーに構わず、ハーレイは憤りのままに言葉をぶつけた。
「どうしてだ、どうしてあなたはそうなんだ(! こんなもの(であなたの精神が左右されるものか、いい加減にしろ、ふざけるな!」
「……何を、言っている」
虚を突かれたらしいブルーは、やっとそれだけ口にして、非礼を咎めるのも忘れたか、拘束を振り解こうともせずに呆然とした様子で瞳を揺らす。
その間に一つ深い呼吸をして、当初の激しい衝動を吐き出したことでやや気を落ちつけたハーレイは、低く、あなたのためを思っているのだ、と続けた。
嘘だ。
違う、そうではないと自分で分かっている。
抵抗も出来ずにいるブルーの手首を捉えた己の手を移動して、ハーレイはブルーと手のひらを合わせて強引に指を絡めた。ようやく意図を悟って我に返ったか、ブルーは身をよじるが、重ねた手は外れぬよう固定され、振り解くことは叶わない。ブルーがその強大な思念波を用いて逃れるという最終手段に訴える前に、為さなくてはならない――焦燥をぶつけるように、一層にブルーの手を強く押さえ込むと、ハーレイはブルーに迫った。
「開示、して下さい――あなたの内を全て、明かして下さい! そうしたら、どうにかなる、解る筈だ、どうしてあなたがそうなったのか、何があなたを苛むのか!」
それは、決して選んではならない手段だった。
最上位の禁止事項だった。
とうとう己が、耐えきれなくなって破ってしまうまで、絶対の禁忌であった。
ハーレイは自覚していた。
そうだ、ブルーのためなどではない、彼をどうにか出来るなんて思い上がりだ、ただの言い訳で、本当はそんなことのためではない。自分の愚かな欲求のためなのだ。
記憶の欠落という事実、そのものが測り知れぬ重苦しい煩悶を生み、喪失感にこの身を苛む。
取り戻すのだ、何としても!
そのためにはどうしても必要なのだ、自分にはそうする権利がある、たとえブルーが拒もうとも!
「――やめろ、やめるんだ! 見るな、嫌だ、触れるな!」
兇刃にも似たその圧倒的な攻撃能力を同胞へと突きつけることを決して許さない、ブルーはこんな卑劣な行為に及ぶ愚者すら撥ね退けることが出来ず、空しくもがいて叫ぶだけだ。抵抗に跳ねる華奢な手はいよいよ折られてしまいそうなまでに強く握り締められる。
「だめだ、やめてくれ、嫌、嫌だ……!」
懇願する悲痛な声に構わず、ハーレイはその乱れた心理防壁の隙から、ブルーの精神を押し拓いて、食らい尽くさんと暴れる己の意識を突き入れた。
何を知っている、
何を見ている、
自分の知らない、一体何を!
見せろ、
明け渡せ、答えを!
全て!
全てを寄越せ!
「くっ、あ、アア――!」
ブルーの身体が強張り、喉をさらして苦鳴を上げる――
---+